仏教についてのひとりごと 39

どうもあなたは論理的な思考ができないようですね。
大乗仏典の歴史上の事実を指摘されると、逆切れしてしまうのです。
あなたは、自分の心を直視した方がいい。
何か言われて言葉遣いが乱暴になるのは、とらわれが強いからです。
あなたは、自分の心を釈迦の心と同じと言いましたね。全くそうは思えませんが(笑)

《第二次結集や第三次結集があったかというと出家僧の中にも私が仏陀からこのように聞いたという事で追加された教えもたくさんあるでしょう》

第二次結集がいつ行われたか知っていますか?
仏陀が亡くなって100年経っているのです。
その時には、仏陀から直接聞いた人はいないでしょうね。
第二次結集は、戒律について異議が生じたので、第一次結集の確認のためです。
第一次結集は、仏陀から法を直接聞いた弟子たち500人が集まって行なったので
仏陀から直接聞いたことを確認しあったのは第一次結集だけです。
第二次結集以降は、大きな異議が出た時に第一次結集の確認をすることが主な目的です。
第二次以降は、もう誰も仏陀の顔さえ知らない人たちですから。

私は、古層の仏典のほうが仏陀の肉声に近い、ということを言っているのです。
これはもう仏教学の常識の範疇なので、これさえ否定するのであれば
あなたには客観的に仏教を探求する資格はないです。
自分の信じるドグマを自分のスレで滔滔と述べればいいだけです。

質問① 古層の仏典のほうが仏陀の肉声に近い、というのを否定されますか?


《出家僧の弟子だけに法を説いたのではないという事をあなたは理解してくださいね。
葬儀に関しては在家の人たちが中心でやられたようです》

当然、そうです。
最古層のスッタニパータにも、在家に対しての言葉も多くあります。だれも否定してないですよ。
葬儀に関しては、仏陀は、出家は葬儀に関わらず修行に勤めなさいと言ったので
在家の人たちが中心となりました。
これも歴史上の事実です。否定などしてませんよ。

 

~~~~~

 

それより、私の前の質問に全く答えてもらっていません。

質問② 大乗仏典が歴史上の事実を伝えようとした経典でないことは、少し読めばわかりますね?
大地が割れて無数の菩薩たちが地中から湧き出たりします。まさか、それを歴史上の事実と思う人はいないですね?

別に、私は大乗仏典が歴史上の仏陀の言った言葉でないから価値がないと言っているのではありませんよ。
譬えたように、歴史上の本当の映像で構成されたドキュメンタリー映画も映画ですし
ロード・オブ・ザ・リング』といったファンタジー映画も映画なのです。
ファンタジー映画で名作も数多いです。
ファンタジー映画だから駄目とか言っているわけではないのです。
歴史の事実を知りたいのに、ファンタジー映画を参考にはしないのですよ。
実際の映像を参考にするでしょう。そういうことです。

 

~~~~~

 

「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らなくても、清らかになることができる」とも私は説かない。

この教義が、バラモン教の教義とすると
『「バラモン教の教義がなくても清らかになることができる」とは私は説かない。』となりますね。

あなたは、通じているのであれば
質問③【バラモン教の教義がなくても清らかになることができる、と説かない。】というのはどういう意味か答えてください。

 

~~~~~

 

質問④
中村元は、こう書いています。
【最初期の仏教は信仰なるものを説かなかった。
何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。
「スッタニパータ」の中でも、遅い層になって、
 仏の説いた理法に対する信仰を説くようになった。】

この、中村元博士の言葉をあなたは間違いだと言うのでしょうか?

 

~~~~~

 

この藤本晃(慈照)と言う人は、日本テーラワーダ仏教協会の人で
確か、浄土真宗のお寺の住職だったと思います。
仏教学者でないので、すべての言説が学説に基づいているわけではなく
日本テーラワーダ仏教協会の立場、つまり上座部の立場に
偏っているところもあるかもしれませんね。
『このように、原語を捨てて翻訳したものも含めて、釈尊聖典を僅かでも変えた部派は、全て滅んでしまいました。第一結集で確定した聖典を、その後もずっと保持し続け、僅かでも変えた証拠が全く見当たらない上座部だけが、スリランカや東南アジアを始め、世界中で今も脈々と生き続けているのです。というわけで、唯一完全な形で残っている上座部のパーリ聖典が、実は最初からの、言葉も内容も釈尊が説き残した教えそのものだと分かるのです。』
というところなどは(笑)

今の日本の仏教学で最も信頼が置けるのは
仏教学の権威中の権威である中村元博士だと思いますよ。

 

~~~~~

 

スッタニパータ第4章に

『「わたくしはこのことを説く」ということがわたくしにはない。
諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における過誤を見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。』
と言っています。

そのすぐ後に
『「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らなくても、清らかになることができる」とも私は説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。』
と言っています。


「わたくしはこのことを説く」ということがわたくしにはない、とはっきり言っているわけです。
そして、その次の言葉からも、仏陀は、教義によって悟ったり執着がなくなったりするとは思っていなかったのです。

「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。
この言葉の『教義』とは『バラモン教の教義』のことだという人がいますが
そうであれば、次の、
「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らなくても、清らかになることができる」とも私は説かない。
の意味が通じません。

「わたくしはこのことを説く」ということがわたくしにはない、と仏陀がはっきりと言ってるのですから、
仏陀は生前、教義と言うものを説かず、教義で人が清らかになったり悟ったりできるとは考えていなかったことは明白です。

故に、中村元は、こう書いています。
【最初期の仏教は信仰なるものを説かなかった。
 何となれば、信ずべき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。】

 

~~~~~

 

うーん、ちょっと言ってることがセンスなさすぎですね(笑)
あなたは親鸞の信奉者ですよね?
親鸞の信奉者なのに、出家しろとか戒律を守れとか財産を捨てろとか欲を捨てろとか・・・
あなたは全く親鸞の本質にかすりもしてないですね。
本当に親鸞をほんの少しでも知っているのですか?

親鸞は、末法衆生は戒律など守れない機根の者ばかりで
僧も形だけの戒律で出家とは言えず、自らも出家ではなく愚禿に過ぎないと言いました。
末法の者は欲にまみれた煩悩熾盛のものばかりで、自分も地獄が一定すみかと定めたのですよ。
罪悪深重の凡夫でありどうしたところで地獄がすみかの自分、というように自分の心の醜さにとことん向き合って、自らを極限までゼロに近づけたのです。
絶対他力とは、阿弥陀仏が100%ということ、自分が0ということなのですよ。

あなたの信奉している親鸞が、出家ではないと言っていて、戒律も守らず、煩悩熾盛のものたちのために道を開いたのに、出家しろとか戒律を守れとか財産を捨てろとか欲を捨てろとか、親鸞信者としてはあまりにも的外れです。

あなたは何の物事に対してもその本質を理解できないのではないですか?
親鸞を信仰しているのであれば、もう少し親鸞を知った方がいいですよ。

私は親鸞には興味ないですが、あなたの言うことがあまりにも支離滅裂なので
少し突っ込みたくなりました。

 

~~~~~