仏教についてのひとりごと 38

もうすでに答えていますが?
『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。
このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。』

この文言はその通りで、それに何か問題でもあるのですか?

自我を構成する見解には数多くのものがありますが、その中で最も強固なものはドグマですね。
ひとつの宗派のドグマに固執したら束縛でがんじがらめになります。

『想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。』
『聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。』

自我に固執する見解をうち破るには、ドグマを排し、自由な精神でなければいけません。

 

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<<あなたが無我の境地になり目には見えなく形もない法身の仏と一体になり仏の法身の目からみれば、われわれはどこに存在するのでもなく至るところに存在する>>

口で言うのは簡単ですが、あなたは無我の境地になっているのですか?
自分の信じるドグマと違うことを言われたら怒り出すあなたの精神が無我の境地なのでしょうか?
あなたは、法身の仏と一体になり仏の法身の目から見ているのですか?
お答えください。

 

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前の質問
『「とてもじゃないが、十如是は、仏でなければ理解できない教えです」とあなたは書いていますがとすれば、あなたは仏なのですか?
仏でなかったら理解してないことになりますし、理解できてると思うならあなたは仏なのですか?』
にあなたはこう答えましたね。
『仏法修行者だけれど、これくらいの理法は納得してそして実践しています。 法華経の初めです。 法華経は奥はさらに深い』
これははぐらかしです。
私が聞いているのは、仏法修行者かどうか、ではなくて仏かどうか、です。
「とてもじゃないが、十如是は、仏でなければ理解できない教えです」と言っているのですから
あなたは仏なのですか?YESかNOでお答えください。


今回の質問も答えをはぐらかしています。
『あなたが無我の境地になり目には見えなく形もない法身の仏と一体になり仏の法身の目からみれば、われわれはどこに存在するのでもなく至るところに存在する』と言っている限りは
あなたはすでに無我の境地であり、法身の仏と一体になってるということですね?
YESかNOでお答えください。


はっきり言って、あなたは自分がとらわれていることに気がつかないだけです。
自分のドグマを否定されたら急に言葉遣いが乱暴になりますね?
その自分の精神の限定、束縛も観ることができずに
『別に怒りは感じないよ。 かわいそうに思うだけ。  他の悲しみは自分の悲しみ、他の喜びは自分の喜びとし自他に差別をつけなかったお釈迦様の心をわが心として』と言う。
本当にかわいそうに思うのであれば、言葉遣いが乱暴になることはないですね。
口では何とでも言えるのです。
あなたはただ、自分のドグマに従い、自分がすでに仏であって
仏でなければ理解できない教えとあなたが言ってる十如是を、あなたは、「これくらいの理法は納得してそして実践しています」と考えているだけ、
そして「自他に差別をつけなかったお釈迦様の心をわが心」と思い込んでいるだけです。
自分の信じるドグマに反対されると心が乱れるのに
それに気がついていないのは、束縛でがんじがらめになっている証拠です。

 

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時間の無駄なのでこれで終わりにしますが、結局答えていません。
あなたは、『とてもじゃないが、十如是は、仏でなければ理解できない教えです』といって
『これくらいの理法は納得してそして実践しています』と言っています。
あなたは、『とてもじゃないが、十如是は、仏でなければ理解できない教えです』と断言しているのですから、仏であるか、十如是が理解できないか、の2つのケースしかないのですよ。
ですから、あなたは2つのうちどちらですか?と聞きました。
それに対し、仏道修行者だとか、以信代慧ということを答えました。
それであれば、『とてもじゃないが、十如是は、仏でなければ理解できない教えです』などと言ってはいけないのです。
『仏でなくても、仏道修行者なら十如是くらいは理解できる』、『仏でなくても以信代慧で十如是くらいは理解できる』と最初から言うべきなのです。
それがあなたの信じているところであれば。

あなたの言いたいことは結局、『最高であり唯一正しい日蓮の仏法を信じ実践しているから、釈迦が言ったことはすべてわかる。法華経が最高最上の経典だから他の経典もすべてわかる』ということではないのですか?

それはそれでいいことです。私は反対も干渉もしません。
他人が何を信じていようと何の興味もないです。

 

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ただ、私が立ち上げたこのスレッドは、歴史上の仏陀は本当は何を説きたかったのか、を自由な立場から探求しているのです。

何回も言ってるように、歴史上の仏陀が言ったことを探るには、最古層で最も仏陀の肉声に近い文を研究するしかないのです。

大乗仏典は哲学的に優れた経典も多くありますが、歴史上の仏陀の言説ではなく、仏陀の死後数百年経ってから誰ともわからない多くの人たちによってあちこちで創作されていって膨大な量になったものです。

譬えるならば、本当の歴史を探求したい人が、その当時のドキュメンタリー映画を調べているときに、『ロード・オブ・ザ・リング』や『ハリー・ポッター』の熱烈な愛好者が押しかけてきて、『映画では、「ロード・オブ・ザ・リング」が最高だよ。』『「ロード・オブ・ザ・リング」が歴史上の事実でないなんて断言できないでしょ。』『「ロード・オブ・ザ・リング」さえ見れば映画はすべて分かるよ。』と言っているようなものです。

ロード・オブ・ザ・リング』で感動した人を私は否定しないし
ロード・オブ・ザ・リング』を見て人生が変わった人がいれば
それは素晴らしいことだと思います。

ただここは、歴史上の仏陀は本当は何を説きたかったのか、を自由な立場から探求したいだけです。