仏教についてのひとりごと 35

『わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
ところがこの世の人々は、執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人びとには、この縁起という道理は見がたい。
またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、ニルヴァーナというこの道理もまた見がたい。
だから、わたくしが理法を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしのいうことを理解してくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。
わたくしには憂慮があるだけだ。』

それでは、仏陀が言った『縁起という道理』とは何でしょうか。
これも、後世の仏教教学が作り上げた、相依性⇒無自性⇒無我 というものでは全くありません。
仏陀が言う『縁起』とは、『苦の縁って起こる原因』のことです。
少し経って、十二個からなる十二縁起として確立しましたが、その中の6つや8つでの連鎖も出てきます。


前にも書きましたが、私は『仏教は執着を捨てる教えだ』というような単純な立場は取りません。
『仏教は執着を捨てる教えだ』と言っている人に、
それでは、具体的に執着とは何なのか、どこからが執着でどこまでが執着でないのか、
仏陀が悟りを求めるのも執着ではないのか、執着なくして1日でも日常生活ができるのか、
というような質問をしたことがあります。

仏陀の教えを『執着は苦だ。執着を捨てれば苦もなくなる。』というような単純で実現不可能なたわごとだとは思っていません。

上の仏陀の言葉は、『執着に歓喜している人たちばかりなのに、縁起の法を説いても理解できないだろう』と言っているだけです。

 

~~~~~

 

私は、死後の世界はあると思っていますよ。
しかし、しょせん、死後の世界も現象にしか過ぎません。

仏陀がスッタニパータで言っているように
『修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る』

仏陀は、アートマンは存在するか、死後も霊魂は存続するか、の問いに対しては
いつも『無記』でした。
なぜなら、そのような問いは、厭離に赴かずニルヴァーナに赴かないからです。

 

~~~~~

 

私は最近特に確信に近くなっていますが
仏陀の教えは(あえて仏教といわない)、霊魂と肉体、本質と虚像などに観念的に分けて考えてはいけないのではないかと思うのです。

仏典最古層のスッタニパータの中でもさらに最古層の章があり、それは第4章と第5章なのですが
そこを熟読していると、仏陀の肉声が聞こえてくるような気がします。

それによると、仏陀
『すべての生き物は終局的には違逆に遭うこと』そのことに大きな苦痛を感じていたことがわかります。
私が考えるには、このことが仏陀を解き明かす鍵です。
このことはまた考えがまとまってきた時にします。

『色即是空 空即是色』は、大乗仏典の般若心経ですね。
大乗仏典は、彼岸の世界を描いています。
此岸を滅することだけに邁進した上座部仏教のアンチテーゼとして生まれました。
しかし、大乗仏典には彼岸の様子は描かれていますが、彼岸に渡る筏はありません。

禅の中にこういう言葉があります。
『お経は悟る前には読んではいけない。悟った後ならいくらでもお経を読んでいい。』
禅ですからお経とは、般若心経や金剛般若経法華経華厳経などの大乗仏典ですね。
この言葉は非常に示唆に富んでいます。

 

~~~~~

 

原始仏典ばかりだったので、大乗仏典のほうを少し考察しますと
法華経の十如是が実際はどういう意味があるのか、ですね。

まず十如是の部分、法華経サンスクリット原典の訳では・・・

如来こそ如来の教えを教示しよう。
 如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。
 すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。
 それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ。
 如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ。』

面白いことに、法華経の原典には十如是はありません。
また、鳩摩羅什以外の漢訳では十如是は出てきません。鳩摩羅什の訳だけにあります。
ですから、十如是は鳩摩羅什の独創ですね。

十如是で最も重要なのは、如是本末究竟等ですが、原典にない以上、原典から意味を推し量ることができません。
『如是本末究竟等』は、『相から報まで全て一貫しており平等なものである』という意味であるというのが圧倒的に多い解釈です。
十界と関連づけて、例えば餓鬼界であれば、相から報まですべて餓鬼界で一貫している、という解釈もされていますね。
しかし、学生の時に十如是を読んだとき、私はどうしてもそういう意味だとは思えず、
あるとき、こうひらめきました。
『如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報』の九如是が諸法。
『如是本末究竟等』が実相。
十如是は略法華と言われているのですから、十如是だけで法華経の真理を現わすはずです。

 

~~~~~~

 

まず、大乗仏典はすべて、後世の、仏陀を見たことも会ったこともない者たちが
想像を羽ばたかせて創作したものだという事実は把握してないといけませんね。

<<学者はサンスクリット語法華経を頼りになんでも解説をしようとするのに問題もありますね>>
法華経にはサンスクリット原典があり、その原典を中国語に訳した(漢訳)のが、鳩摩羅什などの訳者です。漢訳の法華経は数種類あります。
日本に伝わっているのは漢訳で、その本来の意味は原典にあることは当然ですね。
訳はあくまでも訳ですから、誤訳もあります。
鳩摩羅什が勝手に新しい経典を創作したのであれば別ですが、原典を正確に訳そうとして苦心したのですから、その本来の意味は原典を見ないとわかりませんね。
ただ、十如是だけは原典になく、大智度論を援用したと言われています。


<<大智度論には「如是本末究竟等」に当たる部分はない>>
大智度論の『如是開通方便』をそういう文字にしたのではないかと学者の間では言われています。

<<與大比丘衆萬二千人倶。  サンスクリット梵本では「萬二千人倶」とあるが、これでは1万2000人になってしまう>>
サンスクリット原典だけでなく、鳩摩羅什妙法蓮華経もそうなっていますが。
そんなことを言えば、大乗仏典はもともと想像上の書物ですから
すべてはワンダーワールドで、実際に現実に起こったものではありません。
無数の菩薩が地から涌いたりしますし、妙音菩薩は人間よりはるかに大きな身体を持ったところから娑婆世界を訪ねてきますね。
とにかく、すべてが現実離れしたファンタジーですから、
1万2千人などということで驚いていたら、とんでもないですね。
序品でも、菩薩が8万人、あと、2万、1万、3万、1万、またそれ以上の眷属がとんでもない数います。記載だけでも17万人をはるかに超えます。


山の中で生まれ山の中で育った、海を見たこともない人が
大海を知るためにはどうしたらいいか、です。
仏陀は大海に行くために筏を作った。
しかし、それを人類は捨ててしまった。
大乗仏典は、大海を描いているのですが、海を見たこともない人がどのように大海の描写を学んでも大海に行き着くことはないですね。
大乗仏典は、仏陀以降のはるか後世に大海を見た人が大海の様子を描いたものだと思いますが
それを読んでも大海に行き着くことはできないです。

 

~~~~~

 

<<十如是は、餓鬼界であれば、相から報まですて餓鬼界で一貫している、というような解釈ではありませんよ。>>

私の解釈では当然ありません。
そういう解釈をする人もいます、という例を挙げています。
もともと、原典には十如是はなく、鳩摩羅什が創作したものですから
原典から解釈することができないのです。
ですから、古来、解釈は多くあり、原典にない以上、どれが正しい、どれが間違いと断定することはできないでしょうね。
原典にないものが天台宗で一念三千の基になって非常に重要視されるようになったということです。

 

~~~~~

 

仏陀の死後何百年か後にインドで法華経サンスクリット原典は生まれました
②そのサンスクリット原典を鳩摩羅什が中国語に訳しました(漢訳・妙法蓮華経
③その漢訳を基に、天台智顗が天台教学を作り上げました
④その漢訳と天台智顗の教学を基に、日蓮が独自の教学を作り上げました

そして、あなたは、その日蓮の教学を信じているということです。
それはそれでいいことだと思います。
私は他人が何を信じていようがどうでもいいのです。
ここにもよく来るアラシも涅槃経や浄土教を信じているようですが
それはそれで自由ですし、その人が何を信じようと何の興味もなく干渉する気はありません。

ただ、ここは私が立ち上げたスレッドですから、自分の考えのままに書いています。
大乗仏教を信じるのはいいことですが、また、法華経や涅槃経や日蓮親鸞を信じるのは全く自由ですが、私は歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったか、を探究しているので
大乗仏教の一つのドグマを信じて固定化されている人が、客観的な仏教史も知らないで
自分の信じるドグマだけが真実で、『ああだこうだと仏陀の十二縁起の教えぐらいでは、諸法実相というありのままに縁起の現象を観るなんて事はできないと思いますね』というのは、
あまりにも馬鹿馬鹿しいことです。

『諸法実相というありのままに縁起の現象を観る究極の教です』と思うのはなぜですか?
理由は、日蓮の教学がそうであるからですね。

『とてもじゃないが、十如是は、仏でなければ理解できない教えです』
とすれば、あなたは仏なのですか?
仏でなかったら理解してないことになりますし、理解できてると思うならあなたは仏なのですか?

 

~~~~~

 

この質問に答えてもらえますか?
『とてもじゃないが、十如是は、仏でなければ理解できない教えです』とあなたは書いていますが
とすれば、あなたは仏なのですか?
仏でなかったら理解してないことになりますし、理解できてると思うならあなたは仏なのですか?


日蓮の教学の基は天台の五時教判です。
①華厳時 釈迦が悟った直後に説いたのが華厳経。しかし、あまりにも高邁すぎて誰も理解できなかった
阿含時 そこで、最初は道徳的でレベルの低い阿含経を説いた
③方等時 弟子たちの理解力が少し上がったところで大乗の初歩段階を説いた
④般若時 さらに進んで、大乗の中心である空を明かす般若経を説いた
⑤法華涅槃時 最後の8年間において、出世の本懐である法華経を説き、入滅する1日のうちに涅槃経を説いた

物語のようによくできたこの説は大流行し、近代文献学が現れるまでは、ほとんどの仏教者はこの説を歴史上の事実と考えていました。
しかし、文献学が進むにつれ、この説は全く歴史上の事実ではなくファンタジーだと明らかになりました。
今では、最古層の仏典はスッタニパータであり、それが最も仏陀の肉声に近いとわかっています。

私は歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったかを自由な立場で探求しているので、
それに対し、全くのファンタジーである五時教判を基にした教学を声高に主張されても
興味なく『ああ、そうですか。』としか言えません。

 

~~~~~

 

あなたは、自分が投稿した文章を全部読み返してみなさい。
浅薄で断片的な知識で罵詈雑言しているだけです。
日本語にもなっていない。
読む価値もない。
誰にも相手にされていない。
そんなくだらないレスを人生の時間を使って延々としていること、
それによってあなたの人生がどんどん悪化していくことは気がついた方がいいですよ。

あなたは、涅槃経や浄土教を信じているようですが
あなたが信じる、その仏教があなたの精神をどのように変えましたか?
ますます卑小な精神になっているだけではないですか。
自らの精神の卑小性にいい加減気づきなさい。

あなたがいくら涅槃経だ、浄土だといっても
涅槃経や浄土教を信じる結果、あなたのそのような精神になるのであれば
その仏教は間違いですね。

 

~~~~~

 

確かにそうですね。
法華経方便品には『童子の戯れに、砂を集めて仏塔を作らば、皆なすでに仏道を成じたり』とあります。
子供が遊びで砂場で仏塔を作ってもみんな仏道を成就できる、ということです。

また
『人は散乱の心にて塔廟の中に入って、一たび南無仏と称せば、皆なすでに仏道を成じたり』とあります。
どんなに散乱した心であっても、塔廟の中に入って1回、南無仏と唱えるだけで仏道を成就できる、ということです。


これだけでなく、大乗仏典は悟りや仏道成就の大安売りがあまりにも多いですね。
しかし、実際には、砂場で塔を作ったからといって人生の何も変わらないことはわかりきったことです。

 

~~~~~

 

法華経には
童子の戯れに砂で仏塔を作る』『散乱した心で一たび南無仏と唱える』
これだけで、既に仏道は成就されたのだ、と書かれています。
『戯れに砂で仏塔を作っても』『散乱した心であっても』なのですよ。
この文章からすると、心のあり方よりも、仏塔を作ることの功徳が書かれています。

これで本当に仏道を成就できるなら、こんなに簡単なことはないですね。
『散乱した心で一たび南無仏と唱える』ことで仏道が成就されるのであれば
日蓮はなぜ『南無妙法蓮華経』を唱えろと主張したのですか?
法華経に、1回南無仏と唱えれば仏道を成就すると書いてあるではありませんか。
法華経には、『南無妙法蓮華経と唱えろ』とは書いておらず
『南無仏』と書かれています。

仏陀の死後、インド、中国、日本、特に東南アジアの国々では
仏塔が数多く建てられました。
ストゥーパ(仏塔・舎利塔)を建てなさいというのは
大パリニッバーナ経において仏陀が言い残していますから
盛んに建てられたのでしょう。

しかし、私が大乗仏典を見て思うのは
童子の戯れに砂で仏塔を作る』『散乱した心で一たび南無仏と唱える』だけで仏道成就というあまりにも手軽で安易な言葉が多いということです。
実際に、どんなに仏を敬っても散乱した心で1回南無仏と唱えても仏道成就になんかならないでしょう。あなたは1回の南無仏仏道成就できると本気で考えているのですか?

過去仏に関してはどうとも思いません。
仏陀はしばしば、過去の覚者たちが見つけた道を自分は見つけただけだと言っていますし
世界に覚者は数多く出現したと思っていますよ。

 

~~~~~

 

<<仏陀を敬う菩薩達が瞑想聴聞釈尊から聞いた>>
つまり、仏陀の死後、数百年も経ってから
仏陀の本体から聞いたのが法華経ということですね。

それなら完全に、幸福の科学大川隆法と同じですね。
誰でも勝手に『天上にいる仏陀の本体から聞いた』といって経典を作ればいいのですから。

 

~~~~~