人類が仏陀の真意を理解できなかったのは
人類の誰も『生まれ変わりたくない』と思ってないからです。
インドから中国に仏教が伝播されたときに、中国人が惹かれたのは
輪廻転生の思想だったというのを読んだことがあります。
この人生が終わってもまた生まれ変われるということに歓喜したということです。
何回も何十回も生まれ変わって快楽を貪りたいということですね。
仏陀が悟った時に思ったように
『人は執着を喜び執着を楽しみ執着に歓喜している』ので
人々にとっては、むしろ、輪廻転生は大いに望ましいものでした。
『わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
ところがこの世の人々は、執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。さて執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人びとには、この縁起という道理は見がたい。
またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、ニルヴァーナというこの道理もまた見がたい。
だから、わたくしが理法を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしのいうことを理解してくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。
わたくしには憂慮があるだけだ。』
この仏陀の考えは正しかったと思います。
ここまで、仏陀の真意とかけ離れた『仏教』というわけわからないものになったのですから。
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この例を挙げたのは、スマナサーラが言ったという、
『楽は、新しい感覚により、他のかつてあった古い苦がなくなったからその分を楽に思うだけで、その感覚がずーっと続くと苦そのものの感覚でしかなくなる、つまり、感覚はすべて苦なんだ』と言う言葉が、本当だろうか?を検証するためです。
どの人にも、心地よい感覚、苦痛な感覚、心地よくも苦痛でもない感覚、の3種類があります。
スマナサーラが言うように、快適に思うのは古い苦がなくなったから、ということかどうか、です。
花の香りが好きな人が、花の香りをかいだときに快適に感じるのは
古い苦がなくなったから、というのは現実からすると全く当てはまらない、と言うためです。
初めて体験した瞬間から、その感覚が快適か苦痛かを判断しますが
それは古い苦がその新しい感覚でなくなったからではありませんね。
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アートマンやブラフマンのように形而上的なもの、哲学の観念上のものを想定しているわけではありません。
仏陀は、そのような形而上的なものを想定しませんでした。
仏陀はそのようなものに対しては『無記』と言ったので
その存在を否定したわけではありません。
しかし、仏教は『ミリンダ王の問い』以降、『無我』つまりアートマンの否定に傾いていきました。
自己という主体の喪失です。
自我がない、自己がないとすれば、『自分をコントロールできるのは自分だけだよ』の『自分』の正体は何ですか?
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仏典最古層のスッタニパータには、仏陀の言葉として
バラモン教やジャイナ教の用語が頻繁に出ます。
仏陀は明らかに、古代インド思想の基盤にいます。
しかし、仏典も後世に作られたものになるほど
バラモン教やジャイナ教の用語はなくなっていきます。
むしろ、バラモン教やジャイナ教を外道として排除する立場を鮮明にさせていきます。
anattaも、非我、つまり形成されたものが我ではなく我のものでもないと言う意味から無我、つまりアートマンはない、という意味に変じていきます。
仏教という一つの枠組みが成立し、仏陀は仏教の教祖に祭り上げられた瞬間から、仏陀の真意は埋もれてしまったと考えています。
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pipitさん
おはようございます。
pipitさんのそのような姿勢はとても素晴らしいと思いますよ。
どの宗派にも縛られない、仏教にさえ縛られない自由な精神でないと、仏陀の真意は永久に理解できないと思います。
私は、今の上座部仏教(小乗仏教)にも大乗仏教にも仏陀の真意は伝わっていないと思っていて
歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのか、が研究主題ですから
今までの仏教の既成観念を全否定していっていますが
仏陀の真意が明らかになれば、仏陀の真意から原始仏教も大乗仏教ももう一度見直す形になると思います。
仏教の全否定から仏教の全肯定へと進むということです。
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そうですね。
人間が日常受ける感覚(受)には、苦受(苦痛である感覚)、楽受(快適である感覚)、非楽非苦受(快適でも苦痛でもない感覚)がありますが、
苦受は、そのまま苦ですから、苦苦。
楽受は、その快楽の対象となる楽境が壊れる時大きな苦しみとなりますから、壊苦。
非楽非苦受は、時の経過とともに衰え苦受に変化しますから、行苦。
>>「人は生きながらにしてニルヴァーナを得ることができる」とした、ということですよね?>>
そうです。
仏陀は、『まのあたり体得されるこの安らぎ』『まのあたり体得されるこの理法』『まのあたり即時に実現される、時を要しない法』と言っています。
即時ですね。
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苦苦、壊苦、行苦の三苦は、相応部経典にあります。
スッタニパータやダンマパダ、そして相応部経典のいくつかは
仏典でも古層に属するとされていますので
歴史上の仏陀の肉声に近いものです。
巷に溢れている、仏教概説書ではなくて
直接、古層の原典を読むことをお薦めします。
これまで、仏教と思っていたことと、仏陀が本当に言っていることが
あまりにも違うことに驚くと思います。
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仏教は、無我という方向に脱線してしまったために、上座部仏教にしても、大乗仏教にしても霊魂がないというところが多いですね。
びっくりするのは、浄土を説く浄土真宗の坊さんなんかは平気で『霊魂はない』『葬式は死んだ人のためでなく残された人のため』『死んだら、生きている人の心の中にだけ記憶や思い出として存在する』などと言いますね。
<<認めない者は、葬儀や法事をする意味がない。>>
その通りですね。
葬式が生きている人のためであれば、わざわざ坊さんを呼ぶ必要もないですし、お経も上げてもらう必要もないですし、何十万もの戒名も全く必要ないですね。
ある識者が、霊魂や死後の世界がないと思っている坊さんが、あたかも浄土があると見せかけてそう指揮して高いお金を取るのは詐欺ではないかと書いたことがあります。
唯識は優れた理論だと思います。
特に、天台宗や日蓮宗で説かれている九識論はいいですね。
阿頼耶識(八識)の上に阿摩羅識(九識)を立てます。
あの考えは好きでした。