仏教についてのひとりごと 29

『その無常であり人にとって苦であるものは、無我である』とはどういうことでしょうか。

その前の、『無常であるものは、人にとって苦』は本当にそうですか?
例えば、あなたをひどくいじめている人がいたとします。
常に嫌がらせをして、あなたはとても苦痛を感じています。
さて、その人が交通事故で亡くなって、そのいじめがなくなった場合
あなたにとっては『楽』ですよね。正確に言うなら『苦の消滅』ですね。
ということは、この場合、『無常』は『楽』ではないのですか?

次の、『その無常であり人にとって苦であるものは、無我である』というのは本当にそうですか?

すべての存在にアートマンがない、というのが真理であるなら
苦であっても楽であっても、黒でも白でも青でも赤でも、無我なのではないですか?

 

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『ブラザーサン・シスタームーン』は、私の好きな映画のベスト5に入ると思いますが
聖フランチェスコは、『父から受けたものは全部返す』と言って
服をすべて脱ぎ全裸になって出て行きましたね。

もし、そのようにすべてを捨てることが救われる道であれば
日本のすべての坊さんは救われていませんね。
彼らは何も捨てておらず、多くを所有しています。

『思い通りにならないのが苦』であれば
思い通りになったときは楽ですよね。
ということは、仏陀の言う『一切皆苦』は嘘ということになりますね。
どうでしょうか。

 

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現実問題を直視すると、
例えば、何も落ち度がなくただ美人というだけでその人をストーカーする人がいたとします。
そういうことはよくある話ですね。
そのストーカーにさんざん怖い目に遭わされる事例もたくさんありますね。

無常であり変化してやまず、なくなるから苦である、ということが本当にそうだろうかということで例えに使っているわけですが
対象によっては、このストーカーのように、無常でありなくなったほうがいいという事例など世の中に山ほどありますね。

『その人が変わらないとまた別の人にいじめられるかもしれない』とあなたは言いますが
将来的にどうなるかを言っているわけではなく
無常が苦ではなく、対象によってはなくなることが楽であることも数多くあると言うことです。

また、ストーカーがいなくなって、その後ずっと幸せな人生を送った人も数多いでしょう。

つまり、なくなったから全部が苦に感じるということはないということです。

 

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『明日、あなたは死ぬとします…可能性はあろう そしたら、あなたの金と物はいったい誰の物?あなたの身体ですら、あなたの物では無くなる』

あなたは、実際に、明日死ぬという境地で生きていますか?
今すぐに、あなたのお金や所有物をすべて捨てられるのですか?

そういうことは、自分が本当にそういう境地になってから言わないと
悟りを頭でかじっただけの、この世でも十分に生きられず、悟りともほど遠い
本当に中途半端な存在になるだけです。

 

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仏陀の言葉をそのまま、時には原語のパーリ語から深く考察していかなければ
歴史上の仏陀の言った言葉、言おうとした意味はわからないと思っています。

もし仏陀が『無常は苦である』といったならば、それについて今までの解釈に捉われず
本当の意味を理解しなければならないと思っていますよ。
無常⇒苦⇒無我  を仏陀は繰り返し言っています。
それであれば、その本当の意味、真意は何なのかを理解しなければいけないのです。

私ははっきり言って、人類が仏陀の真意を理解したとは思っていません。
ただ、仏教なるものを作り上げただけです。
仏陀は仏教などと言うものの宗祖になろうとは思っていませんでした。
『私はただ、過去の覚者たちが見つけた古城に向かう古道を見つけただけだ』と言っています。

よく仏教は執着を捨てることを説いた、という人がいます。
もし、本当にそうであれば、まず『執着』とは何なのかを追求しなければ
それをなくすことはできません。
Aを捨てなさい、と言われた場合、Aが何であるかがわからなければAを捨てられるわけがありませんね。

無常⇒苦⇒無我 を仏陀が繰り返し説いている以上、この方程式を解き明かさなければいけないのです。
無常であるから苦、苦であるから無我、という言葉の解釈も驚くことに誰もしてきていませんし
もししていたとしても論理的に全くおかしな解釈になっているのです。

十二縁起も誰も解き明かした人はいませんし
八正道がなぜあの順番なのか、ということにも言及する人はあまりいなかったでしょう。

私が仏陀の真意を解明したいというのは、今までの解釈では全く納得できない、論理的におかしいからです。もし、誰か、納得できる解釈をしているのであれば、自分が解明する必要もないのです。

 

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『起きたことがなんでもかんでも良くないこととは言い切れない。』
『無常というのは何も「なくなる」ことだけを意味しているのではないでしょう。
「固定ではない」ということが無常の意味ではないのですか?』
 
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そうであれば尚更、『無常であれば苦である』とは言えないですよね。
無常が変化するという意味であれば、変化には、よく変化することも、悪く変化することもあるのですから。
隣が騒音おばさんだったとして、その騒音に悩まされて苦を感じていたとします。
その騒音おばさんが引っ越していって静かな暮らしが戻ったら、安らぎを感じますね。
この場合、無常=変化は苦ではなく、安らぎではないですか?

 

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仏陀が言った言葉
『無常であるから苦である』を考察しています。

あなたがいうように、無常とは常ではなく変化すること、という意味ならば
変化していって楽しいこともたくさんありますね。
季節の変化を楽しむ人もいっぱいいますね。
さっき言った、苦の状態が楽に変化することもたくさんありますね。
病気が全快することも、苦から楽への変化です。
むしろ、『無常』でなく『常』だったら、苦であることも多いでしょう。
病気がずっと『常』ならば、苦そのものですね。

そうであれば、すべてにおいて『無常であるから苦である』とは言えないのではないですか?ということを指摘しています。

 

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『現実の中では、「楽」に当たる変化というのもあるでしょう。
しかし、あくまで「苦」に対しての「楽」です。
苦がなければ楽はなく、楽がなければ苦もありません。』

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苦もあれば楽もあるということですね。
というより、苦と楽は表裏一体ということですね。
それでは『一切皆苦』の言葉は現実と違うということにはなりませんか。
あるいは『一切皆楽』といっても同じとなりますね。

 

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人生に苦もあれば楽もあるのに
苦だけにスポットライトを当てて『一切皆苦』というのは論理的におかしいとは感じないのですか。

例えば、赤いボールと白いボールが10個ずつあったとして
『全部赤いボールだけだ』と言ったら、それは間違いですよね。
白いボールは無視して、赤いボールにだけスポットライトを当てて
『赤いボールしかない』と言っているのと同じです。

 

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仏陀の死後、仏教は多くの優秀な人によって解釈されてきました。
その解釈によって世の中の人々は仏教を理解してきました。
それで納得できれば、それはそれでいいのではないでしょうか。

私は、今までの仏教の解釈は仏陀の真意とはかけ離れていると思っているので
仏陀の真意を探求しているだけです。
考えがまとまったら自費出版をして、希望者に無料で配るつもりです。
すでに死ぬまで豊かに生活できるお金はありますので
いつでも事業をやめて仏教研究に没頭することも可能です。

このスレッドは私が立ち上げた「ひとりごと」のスレッドなので
全世界のすべての人と考えが違っても、勝手にひとりごとします。
今までの仏教の解釈がなぜおかしいと思うのかを書いているだけです。

もちろん、すべての人は今までの仏教解釈を納得しているのでしょうから
全否定されると不快にはなるでしょう。
ただ、ここは私のスレッドですから、勝手に自分の考えを独りよがりに書くだけです。

ここのスレッドを立ち上げたのは、今までの仏教解釈に拘泥することなく
歴史上の仏陀の真意をパーリ語原典から探求している人がいれば、と思ったのですが
そういう人がそうそういるわけもないですね。

さて、これから出ますので、夜か明日にでも投稿します。

 

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