仏教についてのひとりごと 28

人間は、執着を喜び、執着を楽しみ、執着に歓喜しています。
そして、様々な執着の対象の中で、思い通りにならなかったりなくしてしまったりしたときに
初めて強い苦痛を感じるのです。
そして、その苦痛を取り除こうとして、その執着をなくそうとします。

しかしながら、思い通りになっている執着に関しては、苦とも思わずむしろ
執着を喜び、執着を楽しみ、執着に歓喜しているのです。

また、執着は人間の行動の原動力にもなっています。

ですから、『執着は苦だ』という人も、対象が思い通りにならずに強い苦痛を感じる執着を苦と言ってるだけではないでしょうか。
つまり、執着を苦と見極めたのではなく、思い通りにならないことが苦痛なだけではないでしょうか。

 

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よく人は、仏教の『中道』とは、快楽主義と苦行の中間地点だと思っていますが
仏陀ははっきりと
『中道とは八正道のことだ』と言っています。

 

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八正道の『正しい』とは、倫理道徳でいう『正しい』ではありません。

仏陀の境地からすると、我々の見方は、顛倒夢想しているのです。
顛倒している、つまり逆さまです。
逆さまを180度戻した見解、これが正見です。

 

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はじめまして。
私の最大の関心事は、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのか?ということです。
それには、まず、今までの仏教に対する固定観念を全部壊して、白紙の状態で
最古層の仏典を研究するしかありません。

あなたは、
諸行無常一切皆苦、諸法非我を知り涅槃寂静、輪廻解脱を目指します』と書いておられますね。
そして仏陀は相応部経典において繰り返し
『すべては無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我である。』と言っています。
これは仏教の根幹でしょう。
ところで、この根幹たる言葉も、解釈できた人は今までいませんでした。

すべては無常である・・・これは誰にでもわかります。すべては変化してやまないですね。
            桜も満開だと思ったら散っていきます。変化ですね。

無常であるものは苦である・・・これはどうでしょうか。常でなく、無常である、
               つまり変化してやまないのはわかりますが、
               変化にはいい変化と悪い変化があります。
               悪く変化すれば苦ですが、

               よく変化すれば楽ではないですか。
               桜も満開が全部散って寂しいですが、
               また春になれば咲きますね。
               苦ではなく楽しいですね。

苦であるものは無我(非我)である・・これもおかしいですね。
             我を形成するものには苦であるものも苦でないものもあり
             苦であれば非我という方程式は成り立ちませんね。

さて、仏陀の言った、この言葉をどう解釈しますか?

 

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ケロッグさん
こんにちは。

仏陀は悟る前、アーラーラ・カーラーマ仙人のところで修行して無所有処の瞑想に達します。
次に、ウッダカ・ラーマプッタ仙人のところで修行して非想非非想処の境地に達します。
しかし、どちらも『解脱には達しないものだ』と知り、離れます。
どちらも無思考型の瞑想です。
思考を無くす瞑想は、瞑想中はいい気分ですが、日常生活に戻ると当然思考は必要ですから
とたんに元に戻ります。

『この教えは厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、英智に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。』のです。

最近はヴィパッサナー瞑想、マインドフルネスが大流行ですが
これも無思考型です。
例えば、日常生活で商談したり、交渉しているときに、ラベリングやサティはできません。
日常生活では、思考が道具として重要であり、またなくすことはできないのです。

仏陀の取った瞑想法は、徹底思考型の瞑想です。
四諦十二縁起を徹底して思考するのです。そして、厭離、離欲、止滅、平安、英智、正覚、安らぎに赴くのです。
これはマハーヴァッカに記述されています。

もし、ヴィパッサナー瞑想仏陀の教えに最も近いものなのであれば、最古層の仏典スッタニパータに繰り返しヴィパッサナー瞑想が書かれているはずですが、全く出てきません。

日本テーラワーダ協会は、sati(念)=気づき  と解釈していますが
sati(念)は記憶のことです。
なぜなら、satimant という言葉は、記憶力をもてる、思いを具えている、という意味だからです。

スマナサーラの本も何冊も読みましたが、すべて内容が浅いように思います。
dukkhaも、苦という意味でなく、虚しい、無価値という意味、というようなことも書いていますが、全然違います。
dukkhaは苦以外の何物でもありません。虚しいという意味であれば四苦八苦の意味が通じません。

このように、私は、あまり評価していません。

 

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私は、『仏教は執着をなくすことを説いている』という定型的な考えに疑問を持っています。
執着とは何なのか、どこからが執着なのか、執着は生きるために必要なことも多くなくすことなど出来るのか、を問いかけているのです。

まず、執着とは何なのか?ですが
①好きな食べ物を選択するのは執着なのか
②部屋を自分の好きな家具で揃えるのは執着なのか
③親が子供に大学に進学してほしいと願うのは執着なのか
プロ野球選手になろうとして練習に励むのは執着なのか

まあ、どういう事例でもいいですが、どこまでが執着でなくてどこからが執着と考えるか、ですね。

 

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瞑想の初歩段階では、雑念をなくすことに主眼を置きますね。

例えば、禅宗の座禅で最初に教わるのは数息観です。
吸う息吐く息を数えてそれに集中して、他の雑念を取り除く方法です。

人間はとりとめのない想念、つまり雑念に振り回されていますから
とにかく初歩において雑念を取り除くことは重要です。

数息観にしても、ヴィパッサナー瞑想にしても、効果は抜群でしょう。
雑念が少なくなり、集中力が生まれ、確実に良くなると思いますよ。

しかし、仏陀がいうように、それは初歩段階のもので究極の解脱には行きつかない、
『厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、英智に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない』のです。

無所有処や非想非非想処の瞑想も、無色界の瞑想としては最高段階の瞑想と仏陀は認めています。
しかしながら、無色界も三界です。つまり迷いの世界です。

 

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『すべては無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我である。』
一般的には非我とはいわず無我ですから
『すべては無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは無我である。』
となります。
この言葉は古層の相応部経典にも繰り返し出てきます。

どの仏教者も『苦であるものは無我である。』のところをまともに訳していません。
きちんと向かい合えば、これは大変おかしな論理だからです。

バラモン教アートマン(我)を否定することで仏教は成立したと言われてきました。
いわゆる 無我 です。
さて、それでは、苦なるものは無我である、と言う言葉はどういう意味でしょうか。
無我が真理であれば、苦であろうが楽であろうが、無我であるはずです。
苦から無我を導き出すのは、あまりにも無茶です。
そうは思いませんか?

しかし、仏陀
無常⇒苦⇒無我
という方程式を立てます。

もし、仏教を研究している人が居ましたら
『苦であるものは無我である』という言葉を解釈してみてください。

十二縁起もそうですが、仏教の最も基本的なことでさえ、今まで人類は解釈できていませんでした。
そんなことはないという人がいれば、十二縁起や『苦であるものは無我である』の解釈をしてください。