仏教についてのひとりごと 24

仏陀について、一つだけ確かなことは、非常に感受性が鋭い人だったということです。
それは常人を遙かに超えていたと思います。

仏典最古層のスッタニパータの中でも、さらに最古層の部分があり、それにはこうあります。
『水の少ないところにいる魚のように、人々が相互に抗争しているのを見て、わたしに恐怖が起った。』
『生きとし生けるものは、終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。』

また、説話では『宴の夜、目を覚ましてみると、歌姫や踊り子たちが互いに互いを枕にして、服をはだけ、よだれを垂らして眠っている。釈尊には、娘たちが屍のように見え、自分の宮殿も墳墓に映り、父の住む宮殿もまた墳墓のように見えて、出家への思いが強まった』

幻想が剥がれて幻滅になったわけです。
これが20代のことですからね。

私は岸田秀の『性的唯幻論』を読んではじめて、仏陀の言う意味をおぼろげながら感じることができましたが、仏陀はその感性によって20代で強く感じていたのでしょう。

仏陀の言うことが人類には非常にわかりにくい、あるいは、人類はただ道徳的な、表面的な解釈しか出来なかったのは、人類に強固な幻想が被さっていて、それが剥がれないからだと思われます。

 

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これまで十二縁起を解き明かせた仏教者も仏教学者もいないと断言できます。
少なくとも、私は今まで、十二縁起を解き明かせた本を知りません。

十二縁起の十一番目の『生』、そして四苦生老病死の『生』は
生きることや人生という意味ではありません。
ここで既に間違っている解釈だらけです。

『生』は『生まれること』です。
例えば、四苦の生苦とは、ぬめぬめとした狭い産道を通って圧迫されながら生まれる苦しみです。

十二縁起が非常に難解、または解釈不能なのは
例えば、十一番目に『生』、生まれることがありますが
すでに4番目に『名色』つまり五蘊の集まりである個体が生じていることです。
もっと言えば、それ以前の3番目に『識』があり、これは眼耳鼻舌身意の識とされてますから
個体が生じる前に眼耳鼻舌身意の六根があることになります。

十二縁起の順観は、無明が生じるから行が生じる、行が生じるから識が生じる、識が生じる名色が生じる・・・・・・・・というように行って、有が生じるから生が生じる、生が生じるから老死が生じる。となります。
十二縁起の逆観は、無明が滅するから行が滅する・・・・・生が滅するから老死が滅する。となります。

とすれば、例えば『愛』つまり『愛憎の心から起こる強い取捨選択の心』が滅すれば
最終的に『老死』が滅することになります。

これは全くおかしな話です。
『愛憎の心から起こる強い取捨選択の心』がなくなったからといって
老いること、死ぬこと、から免れるでしょうか。

あり得ない話です。

ですから、私は、これまで、十二縁起を解き明かせた人はいない、と断言します。

 

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十二縁起について、最も詳細に述べているのは
相応部経典の『分別』です。

そこに、無明、行、識についてはこうあります。

『 比丘たちよ、識とは何であろうか?
  比丘たちよ、これら六つの識の集まり(六識身)がある。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、である。比丘たちよ、これを識と言うのである。
比丘たちよ、行とは何であろうか?
  比丘たちよ、これら三つの行(行為)がある。身行・語行・意行、である。比丘たちよ、これらを行と言うのである。
比丘たちよ、無明とは何であろうか?
  比丘たちよ、苦についての無智、苦の集起についての無智、苦の滅尽についての無智、苦の滅尽に趣く道についての無智である。比丘たちよ、これを無明と言うのである。』

問題は、相応部経典『分別』に基づくか、その経典を無視して勝手に解釈するか、です。
そこが自分の中でクリアできてないのです。

とりあえず、相応部経典『分別』は横に置いておいて
あなたの解釈について考えますと、
2番目の《行》を行為ととらえ、両親の夫婦の性行為と解するのですね。
また、3番目の《識》を『生物の特性を備えたもの』と解するのですね。

それでは、1番目の無明は誰の無明でしょうか。
自分の無明なのか、人類全体の無明なのでしょうか。
あるいは、両親の無明なのでしょうか。

もし、人類全体または両親の無明ととらえるのであれば
私の力では滅することができません。
自分の無明ととらえるのであれば
自分の無明⇒両親の性行為
となって、縁起の法則に反します。

そこはどう思われますか。

 

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無明⇒行⇒識⇒名色⇒六入・・・・

縁起の法は、A⇒B となるためには
①Aが生じたからBが生じる。
②Aが滅すればBが滅する。
この①②の方程式が成り立たなくてはなりません。

ですから、両親の行為が縁起の連鎖の中に入ることはありません。
誰かの無明が滅したとしても、そのために他の誰かの行為が滅するというのは無理があります。

『行』は自分の『行』でなければなりません。
しかし、『行』を行為と解釈した場合
名色という個体が生じる前に、行為が存在することになってしまいます。

 

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私が関心があるのは、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか、あるいは何を言いたかったのか、であって、後世、様々に捻じ曲げられ仏陀の真意とかけ離れて形成されたドグマには何の関心もありません。

>>縁起の教えは、そんな単純なものではないでしょ。 多くの因縁が複雑に絡み合っている。
例えば、縁があったから、あなたは両親を選んで生じてきた。>>

仏陀の言う縁起の法とは
①Aが生じたからBが生じる。
②Aが滅すればBが滅する。
であって
この2つにより、はじめて A⇒B となるのです。
これが崩れれば縁起の法ではありません。
そして、仏陀は縁起の法によって苦の原因の考察をしたのです。
それ以外で縁起の法を説くことはありませんでした。

仏教の用語は、後世、様々に意味を付加され、捻じ曲げられてきました。
したい放題です。
仏典まで様々に創作されてきました。
仏陀の真意など、様々な解釈によって埋もれに埋もれてきました。

『縁起』という言葉も、見るも無残なものになっていきました。
『縁起がよい』『縁起が悪い』『ご縁を結ぶ』『何かのご縁ですね』『ご縁を大切に』
これらの言葉はいかに本来の『縁起』とはかけ離れているか、です。

後世付加された意味合いや解釈を取り除き取り除きしたあと、何が現れるか、です。
本当の姿が現れてくれるかどうかはわかりませんが、今は不純物をこつこつ取り除いていくしかないと思っています。

 

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歴史上の仏陀が言いたかったことを理解するには
最古層の仏典を調べるしかありません。
大乗仏典は仏陀の死後数百年して創作されたものです。

また、鳩摩羅什の訳した法華経サンスクリット原典の法華経は違います。
十如是は、鳩摩羅什の創作で、サンスクリット原典では違います。
そして、サンスクリット原典も鳩摩羅什訳も、どちらも大乗仏典ですから
仏陀の肉声とは程遠いのです。
天台の言った五時教判も、史実からは全くのファンタジーです。

因縁などという言葉が後世になって頻繁に出てきます。
因は直接の原因で、縁は間接的な条件、などと解釈されていますが
こんなものは後世作られたものです。
縁は間接的な条件などではありません。
縁起というのは『縁りて起こる』ということです。
BはAに縁りて起こるのです。
それが仏陀の言った縁起の法です。
最古層の仏典にはその原型が記されており
必ずしも十二個ではありません。
徐々に十二個に整えられたのですが
いずれにせよ、苦の原因の考察です。

はっきりといいますが、仏教は、上座部仏教小乗仏教)も大乗仏教
仏陀の真意を伝えたものではなく、あまりにもかけ離れたものになっています。

大乗仏教を信じる人は、それはそれで私は否定しません。
力があり功徳があります。
しかし、何度も言っていますように
歴史上の仏陀が言いたかったことを理解するには
後世付け加えられたものを除去していかないといけないのです。

仏陀が言ってもいないことを基にして仏陀の真意は測れないでしょう。