仏教についてのひとりごと 11

私の考えでは
『苦』は、個体を持ったからです。
なぜ個体を持ったか、それはタンハー(渇愛)があるからです。

ほとんどの仏教書では、四諦を次のように説明しています。

①苦諦  人生は苦である
②集諦  苦は執着があるから起きる
③滅諦  執着を滅すれば苦はなくなる
④道諦  そのために8つの実践項目を行うべきだ

このようなものを四諦と呼んでいますが
上の解釈全部間違いだと私は思っています。
このような解釈のものを仏陀ニルヴァーナに至る筏だというわけないです。

欲望をなくすことはできません。
すべての行為の原動力は欲望です。
こうやって文章を書いているのも欲望ですね。
欲望がなければ生きていくことはできません。
執着が悪いと言っても、執着がなければ人類は発展することができませんでした。
オリンピック選手が金メダルに執着しなければ、過酷な練習に耐えられないでしょう。
どうしてもこの患者を助けたいと執着を起こさなければ医師は長時間の重労働に耐えられないでしょう。
欲望をなくせ、執着をなくせ、というような言葉を考えもなしに使う人は私は信用しません。
それは人生を深く考えたことがない人です。

このスレッドを立ててからほとんど時間は経過していないですが
自費出版で書きたいことがだんだんまとまってきたような気がします。

 

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仏陀が洞察した「苦」は実はものすごく深いのではないかと思っています。

海の上のピアニスト』という映画をご存知でしょうか。
主人公は船の中で生まれて船の中で育ちました。
船しか知らず、彼の全世界は船でした。
船の中だけの人生は、楽しいことも苦しいこともあったでしょう。
陸地に降ろそうとしても嫌がって結局船に帰っていきます。
そして船の中で死にます。

もし、この主人公が、最初は嫌でも大地に降り、快適な都市で生活して十年くらい経ったとします。
その視点で、船の中だけの生活を観たらどうでしょうか。
そこは制限に満ち、束縛に満ちて、自由でなく、苦なるものと感じるでしょう。
例えば、私たちが、これから死ぬまで、船の中だけで生活しろと言われれば
絶対に嫌がるはずです。
しかし、船の中で生まれ育ち船しか知らなければそこの生活を苦とは感じないでしょう。

仏陀は大地に降りたった視点で説いたので、
船の中しか知らない私たちには理解が非常に難しいのだと思っています。

 

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私が考えているだけですが
仏陀が言おうとしたことを人類が全く理解できなかったのは
私たちが実は苦の中にいて束縛されている存在だと気づいていないからです。

束縛されていることがわかるには、束縛されていない状況のことを知らなければわかりませんし
その束縛が苦だということもわからないのです。

もちろん、私たちにも、病気の苦だとか、怪我の苦だとか、経済苦だとかはわかります。
しかし、存在そのものの苦、ということには気づいていないのです。

人間は自分がある程度は自由だと思っています。
コンビニで好きなものを買って食べることもできるし
行きたいところに行くこともできます。

しかし、仏陀から見たら、すべての人間が束縛され苦の中にいるのだと思います。

『苦』を知ることは仏教の最初で最後の一歩ではないでしょうか。