仏教についてのひとりごと 9

阿含経をはじめとした原始仏典に頻繁に出てくるのが次の公式です。

すべては無常である。
無常であるから苦である。
苦であるから無我である。

つまり、無常⇒苦⇒無我  という公式です。

最も頻繁に出てくるということは、これこそ仏陀の核心の公式だろうと思いますが
これさえ解き明かした人はいません。

「すべては無常である」
これはだれが見てもそうですね。
すべての物や物事は変化してやみません。例外なく移り変わるものです。
4月に満開だった桜は今はもちろん全部散っています。
今まで咲いていたつつじも散っていっています。

さて、それでは次の
「無常であるから苦である」という公式はどうでしょうか。
一見すると当たり前のように思えますが、そうでしょうか。
すべての物事は移り変わっていきます。
桜も散り、つつじも散ります。
桜に愛着のある人は淋しさを感じます。「苦」ですね。
しかし、枯れ木のようだった桜も、移り変わってまた春になれば満開になります。
桜に愛着のある人は嬉しいですね。「苦」ではなく「楽」です。

健康な人が病気になるのも「移り変わり」「無常」ですね。「苦」です。
しかし、その病気が全快するのも「移り変わり」「無常」です。これは「苦」ではなく「楽」ではないでしょうか。

つまり、「無常であるから必ず苦である」という公式は成り立たないことになります。

最も根本的な公式の《無常⇒苦⇒無我》でさえ、人類は解き明かせなかったと考えています。

 

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前に書いたように、中村元は、パーリ語の翻訳家としては最も素晴らしいと考えています。
この人は現地の地理や気候や習俗や植物なども詳しく調べて最も適切であろう訳をします。
例えば、sagara を誰もが大海と訳しますが、中部インドの人は海を見たことがなく、これは洪水のときの海のように水浸しになったときのありさまだと書いています。
輪廻の大海というとき、この説明はぴったりしますね。
ただ、中村元の訳でも、padaを究極の境地と訳していますがこれは私は四諦と訳すべきだと思っていますし、brahmam viharamを崇高な境地とさらっと訳していますが、brahmamという語を使っていることの意味をもっと掘り下げるべきだと思っています。
このように中村元の訳にも納得していない箇所はごまんとありますが、彼の『無我ではなく非我』という指摘は画期的で、このことは仏教を根本から変えることになるのではないでしょうか。

ただ、仏教学者としてはどうでしょう。今までのどの仏教学者もそうですが、十二縁起を完全に解き明かした人はいないですよ。また『無常⇒苦⇒無我』の公式を解き明かした説明も見たことがありません。
もし、中村元に限らずどの仏教学者、仏教者、あるいは一般人でも、十二縁起の解説であなたが納得できるものがあるならそれを示してくださいと前に書いたはずです。
私は今まで納得できる解説を見たことがないです。

著作権法違反とは(笑)
恥ずかしいから生半可な知識で法律を振りかざさない方がいいですよ。
引用は学問の世界でも日常の生活でも当たり前の行為です。引用がなければ学生が書く論文でさえ成り立たないですよ。そんなことは日常の常識の範疇ですが、こだわるのなら32条やその判例を読んでくださいね。

あなたは仏教を研究しているみたいですが、仏陀の言葉を読んでいながら何故そのように粗雑、乱暴な言葉を使うのでしょうか。なぜ幼稚な攻撃性を現わすのでしょうか。
仏教の本を何千冊読んだとしても、あるいはキリスト教ヒンズー教の本を読んだとしても、あるいはあなたが何らかの理論を持っていたとしても、あなたの精神が幼稚な攻撃性を持ったまま変わらず、あなたの人生がよい方に劇的に変わりもせず、卑小な中心性を持ったままであれば、仏教も何も害になっているだけです。

 

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もし、法律の議論をしたいのであれば
保護対象である著作物を示してください。

それさえ具体的に示すことができないのであれば
何の意味もありませんよ。

 

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私は胎内記憶というのはないですが
最近、四苦八苦の四苦『生老病死』のうち、『生苦』は分かりはじめてきました。
生苦は、『生きる苦しみ』ではなく『生まれる苦しみ』です。
細くて、身体を圧迫される産道を通ってこの世に生まれ出ます。
この一連の大変さ、苦しさ、が実感としてわかるような気がしてきました。

老病死は分かりやすいですが、生も分かる気がしています。

 

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いや、その通りだと思います。
『空』を実体的に解釈しなければ、『色即是空』は分かっても『空即是色』が解釈できません。
『空』は原初から今まで無限に広がる空間、貴方の言われるように主人公なのかもしれませんね。

 

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