仏教についてのひとりごと 8

 

禅で言う『至道無難唯嫌揀択』の『揀択』ですね。
確かにそれには気づいています。
人間は、心地悪いものには嫌悪の壁を立てて、心地よいものには愛着を増大させようとします。
生きていれば生きているほど、嫌悪の壁はますます高く数多くなるものですね。

そのような好悪のフィルターを次々と作っていって苦の集積になる過程が
十二縁起だと自分勝手に解釈しています。
そしてそのフィルターの生成過程に気づくことが大変重要だとも思っています。

 

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私は、仏陀は仏教というようなものの開祖になる気はなかったと思っています。
最古層の仏典スッタニパータでは、仏陀のことを「バラモン」とか「ヴェーダの達人」などと呼んでいます。
仏陀はあくまで今まで世界に現れた覚者が見つけた「古城に至る古道」を再び見つけただけと言っています。仏陀が現れても現れなくても、古城も古道も厳然として存在するとも言っています。
しかし、仏陀の弟子たちは、仏陀の独自性、他の教えに対する優越性ばかり強調するようになり、教えもねじ曲がっていきました。
例えば「無我」
バラモン教では、最高神ブラフマンと同一の主体を人間は持っていてそれをアートマンと呼びましたが、上座部仏教では、アートマンは存在しないと、それまでの教えを否定するようになりました。
中村元が書いているように、最古層の仏典では、「無我」ではなく「非我」です。
ごく初期段階から仏陀の直説は曲げられてしまったと考えます。

 

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sabbe dhamma anatta
一切の事物は我ではない

中村元も書いているように、これが仏陀が言おうとした『諸法非我』ですが
もう初期の段階から「一切の事物は恒存する実体を持たない」=諸法無我と捉えるようになりました。
つまりバラモン教の「我」=アートマンの否定です。

教団ができると必ずあることですが、自分の師の教えは、他とは全く違う優れた教えということを強調していきます。
他の教えの全否定をしてしまいます。
これが仏教のごく初期段階にも起こったわけです。

私は、大乗仏教が現れたのは歴史の必然だったと考えています。
上座部仏教はどんどん灰身滅智に傾いていきました。

その反動、アンチテーゼとして法身という主体を掲げる大乗仏教が現れたと考えます。
般若心経に関しても、般若心経の「空」は「無」と捉えるべきではなく
むしろ実体的に捉えるべきと考えます。

でないと、「色即是空」は説明できても「空即是色」が説明できません。

ただ、大乗仏教四諦の法を小乗だとして捨ててしまいました。
上座部仏教原始仏教小乗仏教)も大乗仏教
結局、仏陀が繰り返し「最も重要な法」と言っている四諦の法を捨ててしまい
世界中で、四諦の法や十二縁起の法を実践している人はいません。

 

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