仏教についてのひとりごと 7

これが相応部経典の解釈ですが
これであれば、
身口意の行為によりて識があるということがどうしても不可解になります。

また、四諦への無知があってもなくても、行為はあるのではないでしょうか。

ですから、相応部経典のこの解釈は完全ではないということでしょう。

 

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最古層のスッタニパータに出ているのが四諦十二縁起の原型で
相応部経典になると相当時間が経っていて、教義が整備されたのでしょう。
後から付け加えた解釈のように思えます。

無明⇒行⇒識 のところと
有⇒生 のところは、やはり相応部経典(分別)の解釈では読み解けないと思います。

 

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もちろん、ずっと探求してきました。
十二縁起に関しても、仏陀の真意はこれだろうという解釈はできあがりつつあります。
八正道に関しても、今までとは全く違う独自の解釈を考えています。
仏陀に関して自費出版するのが私のライフワークと思っているので
仏教に専念すべくこのスレッドを立てました。
事業や株や映画といった現世で興味のあることばかり考えていたら
いつまでたってもライフワークの自費出版ができないので
そろそろライフワークに専念するために立てたのです。

しかし、このような哲学思想のカテゴリーには、なんとも変な人が住み着いていますね。
いきなり荒らされまくってます。

 

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中村元は翻訳家としては参考にしていますが
どの仏教学者でも、十二縁起でも四諦八正道でも納得できる解釈をした人を知りません。
しょせん学者で瞑想もしたことがないと思いますね。
ですから、仏陀の真意から遠く離れていると思っています。
ただ、パーリ語の翻訳は非常に参考にしています。

私は大乗仏教だけでなく、バラモン教ヒンズー教)の聖者たちも好きですよ。
キリスト教の映画もよく見ます。
仏陀も無数の聖者の中の一人です。
歴史上最大の人類の教師の一人だと思いますが
仏陀は別に仏教というようなものを開こうと思ってはなかったと思います。
仏陀が言う『古城に至る古道を発見しただけだ』ということでしょう。

むしろ、私は仏陀を仏教から解放してあげたい、とまで思っています。
この意味が分かる人が出てくればうれしいですが。

 

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言葉というのは、ひとりひとり全く違う意味で捉えています。
ですから、対話が成り立つためには、具体的にどのような意味かを示さないと意思の疎通はできないでしょうね。
『偏見』を価値判断のフィルターという意味で使っているなら
生まれてからこの方、どんどんフィルターを付け加えているでしょう。
それははっきりとわかります。
人間はそのようなフィルターを溜め込んでいる存在ですね。

同じ『偏見』という言葉も、千人いれば千人とも意味が違います。
ですから、何を指して『偏見』というのかを具体的に示さないと
対話は成り立たないように思います。

『偏見』の一般的な意味は『ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしにいだかれる非好意的な先入観や判断』です。
しかし、人によっては、『客観的な根拠があっても』先入観すべてに対して使うこともあるでしょうし、『非好意的』でなくても使うこともあるでしょう。
ですから、あなたが考える『偏見』の具体例を一つでも二つでも挙げられないと
どのような意味で使っているのかがわかりません。
好意的な判断も『偏見』と言われるのか、根拠がある判断も『偏見』と言われるのか、ですね。