仏教についてのひとりごと 5

>>人はそれぞれの善意で自分の理解できるように理解するので始祖がいなくなれば宗教は大衆化するのは避けがたく、 初期の教えを理解する法脈はひっそりと残ってゆくものかと存じます。>>

おっしゃる通りですね。
急速に中身が薄まっていくのは避けがたいのでしょうね。
そもそも仏陀は、『再び生存を受けることがない』を理想としていたのですから
生まれて人生をエンジョイしたい人ばかりのこの世でまともに受け入れられるわけないですね。
相当、教えを水で薄めるか、全く正反対の理論にもっていくか、です。
そうやってかなり初期から捻じ曲げられているような気がします。

 

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最古層の仏典スッタニパータや古層のダンマパダ、サンユッタ・ニカーヤなどは仏陀の声を伝えていると思います。
というか、後世の我々には、スッタニパータなどの古層の仏典しか、仏陀の本当の声を聞く術はないですから。
私が、仏陀の真意を伝えていないというのは、上座部仏教に代表される長老を中心とした宗派のことです。
上座部仏教が主張していることや大乗仏教が主張していることをまずは白紙にして、古層の仏典から仏陀が本当は何を言いたかったのかを探るしかないと思っているということです。

 

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私が今までの仏教学者たちによる解釈、仏教者による解釈に疑問を感じるのは
例えば、仏教の根本である十二縁起に関してさえそれを解き明かしてないからです。
仏陀は成道の時に十二縁起を順逆観じられた、とあります。
そこまで重要な十二縁起を、どの仏教学者もまともに解明していませんし
十二縁起を瞑想する人もこの世にいません。

もし、十二縁起を完全に解明した著作があるなら教えてください。

 

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梵天勧請の解釈については
宮元啓一氏も『ブッダが考えたこと』の中で
『ゴータマ・ブッダは、それまで輪廻的な生存の最終原因であるとされていた欲望(貪と瞋)のさらに奥に、自覚しがたくコントロールしがたい根本的な生存欲(無明、癡、渇愛)を発見し、それを智慧によって滅ぼし、そして苦である輪廻的な生存を終結させ、目覚めた人、ブッダとなった。根本的な生存欲を滅ぼしたということは、輪廻的な生存の直接の原動力である善悪の業をも滅ぼしたということである。ふつうの人間が、この世で生きることに意味を見出せるのは、善悪の価値を判断することに、何の疑いもなく意義を憶えるからにほかならない。・・・。ところが、ゴータマ・ブッダのように最終的な心の平安(涅槃、寂静)にいたった人は、当然のことながら善悪を超越し滅ぼしているのであるから、価値判断に何の意義も見出すこともなく、したがってまた、この世に生きることに何の意味も見出すことがない。あとでも触れることになるが、ゴータマ・ブッダは、この世のものはすべて虚妄であるとか、空であるとか、幻であるとかいっている。これは、そうしたことからの自然の帰結である。ただ、シャンカラが唱えたような幻影論を唱えているわけではない。ゴータマ・ブッダは、ここで「本質論的に世界は虚妄である」といっているのではなく、「目覚めた人、ブッダとなったみずからの実存にとって世界は虚妄である』といっているのである。根本的な生存欲を滅ぼした人にとって、世界のいかなるものも意味をなさないというのが、ゴータマ・ブッダが成道で到達した境地である。このように、生の根源を断ち切ったゴータマ・ブッダには、まことに微妙な問題がつきまとう。そもそも、根本的な生存欲がなくなるということは、とりもなおさず、生きようとは思わなくなるということである。したがって、そのような状態にいたった人が、そのまま朽ちてあとは死を待つばかりという心境になっても不思議はない。たとえば、仏教と同じ地域に同じ時代に興ったジャイナ教では、サッレーカナーというが、涅槃にいたった人はただちに完全な断食に入り、そのまま死ぬのである。』

という解釈をされています。
相応部経典には『黙止に傾いた』とあるだけですが
悟った人、根本的な生存欲を消滅させた人がもし『人々に悟った方を説かない』と決意したら
生きる原動力がなくなるという解釈です。