仏教についてのひとりごと 4

もちろんです。
最古層の仏典スッタニパータを基に考察していますよ。
スッタニパータは、『仏陀を歴史的人物として把握するとき、その生き生きとしたすがたに最も近く迫りうる書』(中村元)ですから。
仏陀の直の声を聴こうとすればスッタニパータに依るしかないでしょうね。
補足として、ダンマパダや古層とされているサンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)を参考とします。

 

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法華経は読誦経典としては最高です。
経力があり現世を変える力があります。
華厳経は広大で光り輝いており、読むだけで気持ちいいですね。
大乗仏教の国日本に生まれて、我流で大乗仏教に慣れ親しんでいます。

しかし、どのような立場もいったん置いておいて
仏陀が本当に言おうとしたことは何か、を考察したいということです。
幸い私はどの宗派や団体にも属しませんので、いいものはいい、好きなものは好き
違うと思うものは違うと言えるので、いったん今までの仏教を全否定することも厭いません。
というか、今までのどの仏教も仏陀の真意とはかけ離れていると思っています。
個々の好き嫌いはまた別として。

 

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確かにそれは言えますね。
日本に渡った大乗仏教は、原始仏教を否定することから発生しました。
声聞縁覚という二乗をとことん馬鹿にする経典も多いです。

ただ、私は、大乗仏教もそうですが、上座部仏教も、仏陀の真意は伝えていないと思っています。
仏陀の言いたかったことは相当初期段階から曲がっていったような気がします。

 

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どなたかのある文章を引用しますと
『「わたしの悟り得たこの法は深遠で、理解しがたく、さとりがたい。
静寂であり、卓越していて思考の領域を越える。
微妙であって、ただ賢者のみよくそれを知ることができる。
ところが、世の人々は五つの感覚器官の対象を楽しみとし、
それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている。
それらを楽しみとし、それらを悦び、それらに気持ちを高ぶらせている人々にとって、
実にこの道理、即ちこれを条件としてかれがあるという縁起の道理は理解しがたい。
また、すべての存在の静まること、すべての執着を捨てること、渇欲をなくすこと、
欲情を離れること、煩悩の消滅すること、それが即ち涅槃であるというこの道理も理解しがたい。
もしわたしが法を説いたとしても、
他の人々がわたしを理解してくれなかったらそれはわたしにとって疲労であるだけだ。
それはわたしにとって苦悩であるだけだ、と。・・・
わたしが苦労して悟り得たものを、いま人に説いて何の得るところがあろうか。
貪欲と憎悪とにうち負かされた人々にとって、この法をさとるのは容易ではない。
常識の流れに逆らい、精妙で、深遠で、理解しがたい。
微妙なこの法を、貪欲に汚され、幾重にも無知の闇におおわれている人々はみることがない。」
ブッダはこのように考え、人々に説法はしないでそのまま涅槃に入る(死ぬ)か、
このまま静観しようとした。
その時宇宙の最高神である梵天ブラフマー神)が現れ
ブッダにあなたがこのまま説法をしないでいると世界は闇になる。
世の中には優れた能力を持った人もいるからどうか説法を開始して下さいと懇願する。
ブッダはこの梵天の熱心な懇願を三度も受けて説法を開始する気になった。』

このように解釈している人もいますが
確かに、相応部経典6.1では、『世尊の心は黙止に傾き』とあるだけですね。