仏教についてのひとりごと 3

『苦』は、パーリ語でdukkhaですね。
dukkhaは、パーリ語辞典によれば、形容詞としては『苦なる 痛苦ある 悲惨な』ですし
名詞としては『苦』としか出ていません。

日本テーラワーダ仏教協会スマナサーラは、著作の中で
『dukkhaは、苦ということではなく虚しいということ』と言っています。
その本を引用しますと『 「苦」dukkhaというのは、ほんとうは「苦しい」という意味ではなく、「虚しい」という意味です。しかし私たちは人生を「虚しい」とは思っていません。その反対で、人生は楽しくて有意義なものだと考えているのです。でも人生を鋭く観察するなら、「何をやっているのでしょうか」と聞きたくもなります。結局は虚しいのです。』

スマナサーラは、上座部仏教原始仏教)で、本も夥しい数出していますし、上座部仏教の人としては日本で最も有名な人でしょう。
しかし、その人にしてから、仏陀の最も根本たる四諦の法のそのまた根本の『dukkha』をそのようにしか解釈できていないのですから、やはり仏陀の真意はこの世界に伝わらなかったと思うしかないです。

スマナサーラが言うようにdukkhaが『虚しい』という意味なら
四苦八苦は説明できません。

私はやはりdukkhaは『苦』以外の何物でもないと解釈してます。

 

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確かに、おっしゃるように、仏典は膨大ですが
そのほとんどは後世に付け加えられたものですね。

最古層のスッタニパータを基にするしかないと思いますが
そのスッタニパータの中でも付け加えられた箇所はあるでしょうね。

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リッチポンタさん
私の解釈によると、仏教はごくごく初期のころから仏陀の真意とは全く別なものに捻じ曲げられたと思っています。それが私の独断であったとしてもそれを自費出版で残しておきたいと思いますし、誰も読まない本を1冊だけ残したとしても私はそれで満足です。

さて、私はdukkhaは『苦』であると解釈しています。
最古層のスッタニパータにも、メインテーマとして『苦』の原因についての考察が詳しくなされています。
四諦や十二縁起の原型ともいうべきものです。
『苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また、苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、ー かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。』とあります。
四諦そのものですね。

『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起こるのである。』
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起こるのである。』
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起こるのである。』
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起こるのである。』
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて愛執に縁って起こるのである。』
『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執着に縁って起こるのである。』
以下、延々と続きますが、テーマは、『苦しみ』はどうして生じるのか、ですね。
十二縁起の原型となるものだろうと思います。

これをみても、最初期の仏教では、『苦』そして『苦』からの脱却がメインテーマだったことは間違いないようです。

しかし、残念ながら、人類は『苦』の真理を理解できなかったと考えます。
何せ、一切皆苦などということはあり得ないですから。
この世に楽しいことはいっぱいあるからです。
人生が全部苦であるわけはなく、苦もあれば楽もあります。
人によっては楽しいことだらけという人生もあるでしょう。
どう考えても一切皆苦などというのは間違っていると思うでしょうし
実際、人類は早々と四諦の法も十二縁起も捨て去りました。

長くなりますから、また書きます。