中部経典『無碍経』

中部経典の第60は、『無碍経』です。

 

釈尊は、サーラーという村のバラモン資産家たちに、

『あなたたちが、好ましい師を得ていないのであれば、この無碍の法を受け取り行なうべきです。』

 

こう言ってから、様々な見解に対して、賢明な人はその見解を持つことによる結果を熟慮します。

 

まず、

『布施されるものはない。供養されるものはない。善行・悪行の業の果報はない。この世はない。あの世はない。正しく実践している沙門・バラモンはいない。』

という虚無論です。

唯物論といっても断滅論と言ってもいいですが、こういう見解は現代では主流です。

仏教が、こういう断見だと考えている人は驚くほど多いのが現状です。

ヤフー掲示板で、よく『死んだら仕舞い。何もないのが仏教だ』と言っている人がいました。

特に『無我』と言う言葉を、死んだら何もない、と解釈している人だらけでした。

 

これについて、釈尊はこう言います。

『確かに、あの世はあるから、〈あの世はない〉と言ったら邪見になります。』

 

この邪見によると、人は善法を避け、不善法を行ないます。

こういう結果を熟慮して、『あの世はある』ということを正法とします。

 

ここではっきりと、釈尊は死後の世界の存在を断言しています。

釈尊がここまではっきりと断言しているのに、仏教者の多くが死後の世界や輪廻転生を否定しています。

釈尊の言ったことを否定するのであれば、仏教などやめればいいのにと思います。

 

次に、こういう邪見を挙げます。

『殺生しても、邪淫しても、嘘をついても、罪悪はない。布施をしても功徳はない。』

 

このように善悪の行為の報いはなく、作用はない、と説くのは邪見だと言っています。

 

この邪見によると、人は善法を避け、不善法を行ないます。

 

行為には作用があり、果報があるのです。

これが、釈尊の理法です。

 

次に、こういう邪見を挙げます。

『人は力がなく、人は因となれない。人には、汚れの因もなく、清浄の因もない。人には自在力がなく、ただ運命により、楽と苦を経験する。』

 

このような運命論者もこの世にはびこっています。『人間には自由意思がない』という人たちです。すべては因縁のまま、運命のまま、と考え、自分が因となることなどできないという考えです。

 

この邪見によると、人は善法を避け、不善法を行ないます。

 

 

次に、『無色界はすべてない』という見解を挙げます。

『無色界はすべてない』ということが真実ならば、もろもろの天は色(形)があるということになります。

『無色界はすべてある』と言う言葉を真実ならば、天は色(形)がなく、色によって、棒や刀を執ること、不和、口論が見られることがない。

こう熟慮して、実践する。

 

その次に『生存の滅尽はすべてない』という見解を挙げます。

『生存の滅尽はすべてない』という見解の場合、貪欲に近いもの、束縛に近いもの、歓喜に近いもの、愛着に近いもの、取著に近いものである。

『生存の滅尽はすべてある』という見解の場合、無貪欲に近いもの、無束縛に近いもの、無歓喜に近いもの無無愛着に近いもの、無取著に近いものである。

このように熟慮し、もろもろの生存のみの厭離にため、離貪のため、滅尽のために実践しているのです。

 

 

以下、『カンダラカ経』と同じ記述となります。

 

釈尊は、四種の人間のことを語ります。

 

1、自らを苦しめる者

2、他を苦しめる者

3、自らを苦しめ、他を苦しめる者

4、自らを苦しめず、他を苦しめない者

 

1の自らを苦しめる者は、苦行を行なう者。

2の他を苦しめる者は、猟師や漁師、牛殺しなど。

3の自らを苦しめ、他を苦しめる者は、横暴で残虐な王族などの支配者。

そして、4の自らを苦しめず、他を苦しめない者とは、この世に如来が現われていることを知り、出家し、不善の法を離れて修行し、五蓋を捨断し、四禅定に住みます。三明を獲得します。そして解脱します。

 

ここでも、

不善の法を捨離⇒五蓋の捨断⇒四禅定⇒三明⇒解脱

が出てきます。

 

 

具体的には、

殺生・盗み・邪淫・妄言・両舌・悪口・綺語・などの不善の法を捨離する

眼耳鼻舌身意の感官から悪しき不善の法が流れ込まないように防護する

食べるにも飲むにも大小便をするにも正知をもって行動する

五蓋を捨断する

これが、不善の法の捨離となります。

 

その後、

第一の禅⇒第二の禅⇒第三の禅⇒第四の禅⇒宿住智⇒天眼智⇒漏尽智(煩悩を滅する智=四諦)⇒煩悩からの解脱

 

となります。

 

 

 

 

 

 

十二縁起の『行』『識』『有』

 ひだ (114.172.204.146)  
ありがとうございます。
ここ最近自分なりに十二縁起について考えてきたことが、この記事で裏打ちされたような気がして嬉しくなりました。
各支の中で、「行」「識」「有」が個人的には難しいと感じているのですが、「識」「有」についてもいつかお書きいただけると有り難いと思います。

 

 

ひださん、こんにちは。

 

そうですね。

私も、十二縁起のうち、『行』『識』『有』が難題中の難題でした。

 

この3つが解明できれば、十二縁起がついに解明されます。

 

『行』と『識』に関しては、相応部経典『分別』の記述が、私には大きな壁となって立ち塞がりました。

 

相応部経典『分別』では、

『行』とは、身行・口行・心行の三行だとあります。つまり、身口意の行為です。

『識』とは、眼耳鼻舌身意の六識だとあります。

しかし、

無明⇒行⇒識⇒名色

とありますように、名色=五蘊の集まり=肉体と精神=個体 が形成される前に

行と識はあります。

肉体が形成される前に、身口意の行為や眼耳鼻舌身意の六識があるのは理が通りません。

このことにより、十二縁起の有力な説では、無明⇒行 は、前世での無明と行為と解釈しています。

 

しかし、私は、無明⇒行 を安易に前世とすべきではないと考えていました。

前世での無明や行為であれば、今世で滅することができないからです。

無明も行も滅するためには、今あるものでなければならないはずです。

少なくとも、いまたちどころに滅することができなければ苦の全体を滅して涅槃に達することなどできません。

 

『識』も同じように、肉体ができる前に六識などあるはずがなく、本当に難題でした。

 

しかし、『識』に関しては、相応部経典や中部経典により、

識⇒名色 の間にだけ、相依性があるとわかりました。

 

つまり、識があるから名色があり、名色があるから識があるのです。

これが、相依性です。

 

『識』は結生識(patisandhi viññâna)です。

結生識がなければ、名色は形成されません。

また、名色が生まれ育つことがありません。

と同時に、名色が生まれ育つことにより、識ははっきりと六識となります。

ゆえに、識があるから名色があり、名色があるから識があるのです。

結生識は受精したときの識であり、まだ六識とは言えません。

 

 

相応部経典と中部経典によって、識⇒名色 の 相依性の本当の意味がわかりました。

 

 

 

 ひだ (114.172.204.146)  
 
>『識』は結生識(patisandhi viññâna)です。
 
やはりその理解でよかったのですね!
 
>結生識がなければ、名色は形成されません。また、名色が生まれ育つことがありません。と同時に、名色が生まれ育つことにより、識ははっきりと六識となります。
 
大変わかりやすく勉強になります。
ショーシャンクさんのお話の中で、とりわけ「無我ではなく非我」というところがとても示唆に富んでいて、いつも頭において考えています。
記事、ありがとうございます。
 
 
 
ひださん、私は『『識』に関しては、相応部経典や中部経典により、識⇒名色 の間にだけ、相依性があるとわかりました。』と書きましたが、中部経典ではなくて長部経典でした。
相応部経典には、識と名色の間に相依性があるとだけ書かれていますが、その意味は、長部経典『大因縁経』によってはじめて知ることができました。
 
仏陀ははっきりと言っています。
 
『識が母胎に入らなかったとすれば、はたして名色は、母胎の中で育つでしょうか。』
『識が母胎に入ったあと、外れたとするならば、はたして名色は、この状態(このような充分な五蘊の状態)に生まれかわることになるでしょうか。』
『識が、また若い少年、あるいは少女のうちに断たれたとするならば、はたして名色は、生長し、成熟し、老大となるでしょうか。』
『それゆえに、この識こそが名色の因であり、因縁であり、生起であり、縁なのです。』
『識が名色において根拠を得ることができなかったとするならば、はたして未来に生・老・死という苦の集まりの派生は知られるでしょうか。』
『それゆえに、この名色こそが識の因であり、因縁であり、生起であり、縁なのです。』
 
 
 
前に、私は、
〈行〉=sankhara  には、次のような意味があると書きました。
 

1、条件付けられ形成されたもの=現象

2、潜在的形成力

3、意志作用

4、身・口・意の行為(業=kammaと同義)

 

そして、十二縁起の〈行〉は、この2と3と4を包含するような意味であると書きました。

 

これを一言で言えば、業力という言葉に似たようなものになるかもしれません。

 

『業力』というのは、身口意の行為特に想いが現象化していく潜在的な形成力であり現象世界(外部)の方向に働きかける意志作用というものだからです。

 
 

輪廻がないという仏教者は

現代の仏教では、仏教学者の中でも、輪廻転生がないという人は非常に多いです。

特に今の日本においては、輪廻がないという仏教者の方が圧倒的でしょう。

なぜかといえば、科学的に証明されてないからです。

死後の世界もそうです。

 

しかし、ここにきてはっきりとわかったことがあります。

歴史上の仏陀の真意がわかってくれば、『輪廻転生は絶対にある』と言い切れます。

 

十二縁起は、無明⇒行⇒識 から始まりますが、

この〈行〉=Saṅkhāra が意味するものがわかってくると、仏陀の真意が見えてきます。

 

この〈行〉には次の意味があります。

 

1、条件付けられ形成されたもの=現象

2、潜在的形成力

3、意志作用

4、身・口・意の行為(業=kammaと同義)

 

このうち、2と3と4は、全く違う意味のように見えますが、十二縁起の〈行〉は、この2と3と4を包含するような言葉です。

 

2も3も4も、方向付けられた想いです。

現象させるべく方向付けされています。

無明からこの〈行〉が働き出します。

 

この 行=Saṅkhāra によって、身体や環境のすべてが形成され、行=Saṅkhāraのままに展開していくのです。

いまも瞬瞬刻刻、〈行〉=Saṅkhāraに従って、現象が形作られつつあります。

そして、無明⇒行 が滅しない限り、〈私という中心〉は、個体(身体)を作り続けます。

五蘊を集め、個体を形成し、その個体は変滅していきますが、〈行〉=Saṅkhāraの潜在的形成力は休むことなく五蘊を集め個体を形成していき、〈行〉=Saṅkhāraのままに環境が展開していきます。

 

仏陀はそれを四禅の後の宿住智、天眼智によってありありと観たのです。

 

仏陀の真意の核心はここにあります。

 

故に、

不善の法の捨断⇒五蓋の捨離⇒喜と軽安⇒四禅定⇒三明⇒解脱

これが繰り返し繰り返し経典に出てくるのです。

 

 

いまの日本の仏教学者たちのほとんどが、仏教を唯物論的に解釈しています。

輪廻転生を否定する人が圧倒的です。

縁起も物理現象の因果関係としています。

どのような存在も物理的に様々な原因によって生じているもの、生かされているものだから、自分という確固たる実体はない、我はない、無我である、というわけです。

 

私たちが生かされているのは、他のすべての存在による、たとえば、農家の人がお米を作り、運送会社の人が運搬し、お店の人が売り、自分の口に届いている、そのお米も空気や水や土という存在があってできたもので、このように自分たちが生きていることは無数の存在によってあることで、それを縁起という・・・

 

このような俗説を日本の仏教では『縁起の法』と解説しています。

 

全く違います。

 

歴史上の仏陀が、このような縁起の説き方をしたことなど一度もありません。

 

日本の仏教学者や仏教者たちは、輪廻転生は、釈尊が道徳を説くための方便として説いたファンタジーと考えています。

 

しかし、断じてそうではありません。

 

〈行〉=Saṅkhāraが、すべてを、身体や環境のすべてを作り上げていっているという仏陀の真意がわかってくれば、輪廻転生はおとぎ話ではないことが見えてくるはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中部経典『多受経』

中部経典の第59は、『多受経』です。

 

この経典は、仏陀の教説について弟子たちの間で口論になったときの法話です。

 

弟子のウダーイー尊者は

『世尊は、楽受と苦受と非苦非楽受の三受を説かれた』と主張します。

大工の棟梁のパンチャカンガは

『世尊は、楽受と苦受の二受を説かれています。非苦非楽受は、寂静の勝れた楽の中で説かれています。』と主張します。

 

 

アーナンダが、この口論を釈尊に報告します。

 

釈尊は、

『私は根拠をもって二受を説いています。

 私は根拠をもって三受を説いています。

 私は根拠をもって五受を説いています。

 私は根拠をもって六受を説いています。

 私は根拠をもって十八受を説いています。

 私は根拠をもって三十六受を説いています。

 私は根拠をもって百六受を説いています。』

として、アーナンダに説いて聞かせます。

 

アーナンダよ、次のような五種の妙欲があります。

眼によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの色です。

耳によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの声です。

鼻によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの香です。

舌によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの味です。

身によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった魅力的な、もろもろの触れられるものです。

これが五種の妙欲です。

この五種の妙欲によって生じる楽と喜は欲楽と言われます。

 

しかし、この楽が最上であるとは認めません。

なぜならさらに優れた楽があるからです。

 

 

もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

これがさらに優れた楽です。

しかし、この楽が最上であるとは認めません。

なぜならさらに優れた楽があるからです。

 

大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。

これがさらに優れた楽です。

しかし、この楽が最上であるとは認めません。

なぜならさらに優れた楽があるからです。

 

喜びを離れていることから、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、聖者たちが『平静をそなえ、念をそなえ、楽に住む』と語る、第三の禅に達して住みます。

これがさらに優れた楽です。

しかし、この楽が最上であるとは認めません。

なぜならさらに優れた楽があるからです。

 

楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。

これがさらに優れた楽です。

しかし、この楽が最上であるとは認めません。

なぜならさらに優れた楽があるからです。

 

比丘は、完全に色の想を超え、感覚的反応の想が消え、種々の想を思惟しないことから、『虚空は無限である』として、空無辺処に達して住みます。

これがさらに優れた楽です。

しかし、この楽が最上であるとは認めません。

なぜならさらに優れた楽があるからです。

 

比丘は、完全に空無辺処を超え、『識は無限である』として、識無辺処に達して住みます。

これがさらに優れた楽です。

しかし、この楽が最上であるとは認めません。

なぜならさらに優れた楽があるからです。

 

比丘は、完全に識無辺処を超え、『何ものも存在しない』として、無所有処に達して住みます。

これがさらに優れた楽です。

しかし、この楽が最上であるとは認めません。

なぜならさらに優れた楽があるからです。

 

比丘は、すべてにわたり、無所有処を超え、非想非非想処に達して住みます。

これがさらに優れた楽です。

しかし、この楽が最上であるとは認めません。

なぜならさらに優れた楽があるからです。

 

比丘は、すべてにわたり、非想非非想処を超え、想受滅に達して住みます。

 

アーナンダよ、『ゴータマは想受滅を楽であると説いているのは何故か?』と問うものがあればこう答えなさい。

『世尊は、楽を楽受のみについて説いているのではない。世尊はそれぞれのところで得られるそれぞれの楽を楽として説いているのである』と。

 

 

つまり、この経典の言いたいことは、釈尊はすべての無苦を楽として説いているということです。

 

 

 

長者窮子

『では大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。宮元啓一氏が「大乗仏教の徒で、自他ともに仏となった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史のなかではたして登場したであろうか。答えは、まったく否なのである」と喝破している通りなのです。』(佐々木閑・宮崎哲弥  『ごまかさない仏教』より)

 

 

この言葉について、もう少し深く考察してみます。

 

仏陀の時代、つまり仏陀在世のときは、悟った人、解脱した人、涅槃に至った人が続出しています。

 

上記の宮崎哲弥氏や宮元啓一氏の言葉のように、大乗仏教で悟った人が一人もいないとまでは私は考えていません。臨済や白隠など、高い悟りに達した人は少数ではありますが、いたと思います。

 

しかし、原始仏典を見てみると、確かに、涅槃に達した人が続出しているのです。

 

この差は何なのか?

これは私の中で大きなテーマではありました。

 

それについて、考察したいと思います。

 

法華経の信解品に長者窮子の譬えがあります。

 

長者の息子で、幼い時に家出し、他国に住して五十歳になった人の物語です。

その息子は長い間、貧窮のどん底にあって、自らが大長者の息子であることをすっかり忘れています。

諸国を放浪していたその人は、たまたま父の邸宅に至ります。

しかし、それが自分の父親の家であるとは思いもしません。

それが宮殿のような大邸宅なので、国王か国王と等しい人の御殿だと思い込みます。

 

大長者である父親は、邸宅の中からその放浪者を見て、自分の息子であるとわかります。

そこで、使者をつかわし、息子を呼びに行かせます。

息子である窮子は、御殿から出てきた使いのものを見て、国王が自分を逮捕しようとしていると思い込み、恐れおののき気絶します。

 

長者は、自分の息子が自身を元から貧窮の放浪者だと思い込んでおりことを知り、今度は貧相な使いの者をして『賃金を相場の倍やるから糞を掃う仕事をしないか』と言わせます。

 

そして、除糞の仕事から徐々に御殿生活に慣れさせていきます。

除糞の仕事を20年させて慣れてきたところで、倉庫や金庫を管理させる仕事まで引き立てます。

そして死に際して、この窮子と自分の親族たちに、『この子は私の本当の息子だ。私の無量の財物はすべてこの子のものだ。』と打ち明けます。

 

 

この譬えは、人間存在をよく表しています。

 

そして、ここに先の謎を解明するヒントがあります。

 

長者窮子は、最初から、自分は長者の息子だと悟ればいいだけです。

何も20年も除糞の仕事をする必要はありません。

これが大乗仏教の主流の考えになっていきました。

人間はもともと仏なのだ、もともと悟っているのだ、だからそれに気づけばいいだけ。

 

例えば道元の只管打坐などは、坐禅の修行をして悟るのではありません。

仏として坐るのです。

先の譬えでは、長者として坐るのです。

 

 

ところが問題は、その人の心の奥深くまで、自分は貧窮の放浪者だと固く思い込んでいることにあります。

 

この長年の思い込みを除去するのは並大抵ではありません。

長者として坐っていると思っていても、心の奥深い窮子の思い込みは何一つ変わらないのです。

 

仏陀の理法は、自分がいかにして貧窮の放浪者となったかを洞察するものです。

十二縁起はそういう理法です。

そこがわかってはじめて、自分は無量の長者であったことが明らかになるのだと考えます。

 

しかし、残念ながら、今の仏教は、無量へと至る筏を捨ててしまったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中部経典【アバヤ王子経】

中部経典の第58は、【アバヤ王子経】です。

 

この経典でも、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ)が出てきます。この経典でも、人に、釈尊を論破させようとします。

 

マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ)は、アバヤ王子にこう言います。

『ゴータマのところに行って、ゴータマを論破するのです。そうすればあなたに素晴らしい名声が起こるはずです。』と。

 

この言葉からも、インドでは、議論し論破すれば、大いなる誇り、称賛を得ることができるのだとわかります。

 

 

マハーヴィーラの策はこうです。

 

釈尊に対し

『如来は他の者たちに好ましくない、不快な言葉を語ることがあり得ましょうか。』と質問して、

『あります』と答えたら、『それなら凡夫と変わらない』と糾弾します。

『ない』と答えたら

『あなたはデーヴァダッタのことを〈デーヴァダッタは悪処者である。地獄者である。劫住者である。不治者である。〉と授記されましたが、その言葉によってデーヴァダッタはあなたに怒り不快になったのではないですか?』

と言えば、論破することができる、ということです。

 

 

そして、アバヤ王子はその通りに、釈尊に質問しました。

『如来は他の者たちに好ましくない、不快な言葉を語ることがあり得ましょうか。』

 

釈尊は、

『この場合、一方的ではありません。』

 

これを聞いて、アバヤ王子は

『ニガンタ(ジャイナ教徒)たちは、破られました。』と言い、

マハーヴィーラから授けられた策を打ち明けました。

 

そこで釈尊は言います。

『幼子がそなたか乳母の不注意によって棒きれか小石を口の中に入れたらどう処置しますか?』

『私ならば取り出します。左手で頭をつかみ、右手で指を曲げ、血が出ようとも取り出します。幼子に対する憐れみがあるからです。』

『如来も、その言葉が真実でなく利益を伴わないものと知り、他のものに不快なものである場合、その言葉を語ることはありません。

その言葉が真実であり利益を伴わないものと知り、他のものに不快なものである場合もその言葉を語ることはありません。

しかし、その言葉が真実であり利益を伴うものと知り、他のものに不快なものである場合、その言葉を説き明かす時を知ります。

その言葉が真実でなく利益を伴わないものと知り、他のものに快いものである場合、その言葉を語ることはありません。

その言葉が真実であり利益を伴わないものと知り、他のものに快いものである場合も、その言葉を語ることはありません。

しかし、その言葉が真実であり利益を伴うものと知り、他のものに快いものである場合、その言葉を説き明かす時を知ります。

それはなぜか、王子よ、如来には生けるものたちに対する憐れみがあるからです。』

 

 

アバヤ王子はまた聞きます。

『世尊の心には、あらかじめ『このような問いがあればこのように回答しよう』という考えが生じているのでしょうか。それとも、直ちにそのことが現われるのでしょうか。』

 

釈尊は答えます。

『王子は、車の大小の部分について巧みですね。もし、誰かが王子に近づいて車の大小の部分について質問した場合、あらかじめこういう問いにはこう答えようと決めていますか、それとも直ちに現われるのでしょうか。』

『直ちにです。』

『まさにそのように、如来には法の要素がよく洞察されているので、そのことが直ちに現われます。』

 

中部経典『犬行者経』

中部経典の第57は、『犬行者経』です。

 

犬行者とはまた聞き慣れない言葉ですが、犬の動作そのままを行ない、地に落ちている食べ物を食べるという『犬の行』をする者のことらしいです。

いかにもインドならではです。

そんなことをして何の意味があるのかわかりませんが、とにかく、その犬行者と牛の動作をする牛行者の2人が、釈尊に、『この行をしていけば死後または来世の行方はどうでしょうか』と聞きます。

まずは、牛行者プンナが、犬行者セーニヤの運命を聞きます。

釈尊は2度答えを拒否して、プンナは3度聞き、そこで釈尊は答えます。

 

『この行によって、神のいずれかになるだろう』と考えるのは邪見であり、行く先は、地獄か畜生の胎か、です。

 

つぎに、犬行者セーニヤが、牛行者プンナの運命を聞きます。

釈尊は2度答えを拒否して、セーニヤは3度聞き、そこで釈尊は答えます。

 

『この行によって、神のいずれかになるだろう』と考えるのは邪見であり、行く先は、地獄か畜生の胎か、です。

 

これを聞き、犬行者セーニヤも牛行者プンナも涙を流します。

 

そこで、釈尊は、四の業について説きます。

 

1、黒の果のある黒の業があります

2、白の果のある白の業があります

3、黒白の果のある黒白の業があります

4、非黒非白の果のある非黒非白の業があり、業の滅尽に導きます

 

 

1の【黒の業】とは、害意のある身の行・語の行・意の行のこと。

【黒の果】とは、害意のある世界に生まれかわり、害意のある接触があり、害意のある苦しい感受を受けます。「行なう行為によって生まれかわる。生けるものたちは業の相続者である」

 

2の【白の業】とは、害意のない身の行・語の行・意の行のこと。

【白の果】とは、害意のない世界に生まれかわり、害意のない接触があり、害意のないもっぱら楽しい感受を受けます。「行なう行為によって生まれかわる。生けるものたちは業の相続者である」

 

3の【黒白の業】とは、害意があったありなかったり混合している身の行・語の行・意の行のこと。

【黒白の果】とは、害意があったありなかったり混合している世界に生まれかわり、害意があったありなかったり混合している接触があり、害意があったありなかったり混合している感受を受けます。「行なう行為によって生まれかわる。生けるものたちは業の相続者である」

 

 

4の【非黒非白の業】とは、黒の果のある黒の業を遮断するための意思(cetana道の思)、白の果のある白の業を遮断するための意思、黒白の果のある黒白の業を遮断するための意思のこと。

 

 

 

この経典でわかるのは、【白の業】とは、良きところに生まれかわる原因だが、釈尊の説いているところは、悪いところにも良いところにも生まれかわらない法だということです。

それは、業を捨断するための意思、つまり道の思だということです。

 

 

 

 

 

中部経典『ウパーリ経』

中部経典の第56は、『ウパーリ経』です。

 

これは大変興味深い経典です。最重要なことも説かれています。

 

興味深いのは、ジャイナ教の教祖マハーヴィーラ、つまりニガンタ・ナータプッタと釈尊との対決の話だからです。

最重要なのは、業の中で、心の想い、つまり意業が身体や口の業よりはるかに重要だという釈尊の真意が明らかになっているからです。

 

言い伝えによると、マハーヴィーラはこの釈尊との対決で口から血を吐き、そのあとほどなくして死んだとされます。

マハーヴィーラと釈尊が同時代人だったということは確かなようです。

 

 

マハーヴィーラは、身・口・意の行為のうち、身の行為が最も重要で、口や心の行為はそれに比べると取るに足りないと思っていたようです。

ゆえに、ジャイナ教は、苦行や裸行などの身体的な修行を重んじます。

 

釈尊は、身・口・意の行為のうち、意(心)の行為(想い)が最も重要で、身体や口の行為はそれに比べると取るに足りないと思っていました。

 

マハーヴィーラの信者であるウパーリが、これについて釈尊を論破しようと出かけます。

つまり、身の行為が最も重要で、口や心の行為はそれに比べると取るに足りないということを主張するためです。

 

 

釈尊は、そのようなウパーリにたいし、身・口・意の行為のうち、意(心)の行為(想い)が最も重要で、身体や口の行為はそれに比べると取るに足りないものであることを次のような例を次々と挙げて論破していきます。

 

 

『ニガンタ(ジャイナ教徒)が病気になり、苦しみ、重病人となり、冷水を拒み、湯を用い、かれは冷水を得ないまま死ぬとします。マハーヴィーラはこのものがどこに生まれかわると説いていますか?』

『マノーサッタ〈意に執着しているものたち〉という神々のところに生まれかわります。かれが意に束縛されているからです。』

 

解説すれば、ジャイナ教徒は、冷水を用いてはいけないという規則があり、冷水がほしいと考えながら死んだ場合、意に束縛された世界に行くと説かれていることの矛盾を突いています。

 

 

『もし、マハーヴィーラが、水に触れ進んだり引いたりしているうちに小さな生き物を殺すに至るとします。それはどういう果報となりますか?』

『意思のないものを大きく非難されるべきではありません。』

『意思をもってすればどうですか?』

『大きな非難されるべきものになります。』

 

 

『このナーランダーという町は栄え富み人々で賑わっています。ここで、ある人が、剣をかざして、『このナーランダーにいる生き物を一瞬のうちに肉塊にしてみせる』と言ったらどう思いますか?』

『それはできません』

『神通があり心が自在な沙門かバラモンが来て、『私はこのナーランダーを一つの意の怒りによって灰にして見せよう』と言ったらどうですか。』

『それはできます』

 

 

『ダンダキーの森、カーリンガーの森、マッジャの森、マータンガの森という森だけがなぜ森になっているのですか?』

『仙人たちの怒りによって、ダンダキーの森、カーリンガーの森、マッジャの森、マータンガの森という森だけが森になっています。』

 

はっきり言って、どれもこれも、例えとして、私たちには非常にわかりにくいものばかりです。

 

ただ、マハーヴィーラが説いていることをもってしても、冷水を飲まないということを守っていても、心で冷水にとらわれていたら、意に束縛された世界に生まれると説かれていて、身の行為より心の行為の方がその果報に影響しています。

 

害そうとする意思を持たずにうっかり殺生したときは非難は軽く、害そうとした意思をもって殺生したときの非難は重いとマハーヴィーラが説いていることも、矛盾です。

 

これらによって完全に論破されたウパーリは、釈尊の弟子となります。

 

ウパーリは資産家でしたので、それを聞いたマハーヴィーラは、ショックで口から血を出したということです。

 

 

 

 

中部経典『ジーヴァカ経』

中部経典の第55は、『ジーヴァカ経』です。

 

ジーヴァカという人が、つぎのように釈尊に尋ねます。

 

『ゴータマは、自分のために用意された肉を食べている』と言っている人がいます、と。

 

釈尊はこれに答えてこう言います。

 

(自分のために殺されたと)見られたもの、聞かれたもの、疑われたもの、の3つに関しては、肉を食べることができない。

(自分のために殺されたと)見られていないもの、聞かれていないもの、疑われていないもの、の3つに関しては、肉を食べることができる。

 

比丘が、慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住んでいます。

その彼に、資産家が近づいてきて、翌日の食事に招待し、最上の托鉢食によってもてなします。

彼は、その托鉢食に縛られず、迷わず、ふけらず、危難を見、出離の慧をそなえて食べます。

その比丘は、そのとき、無罪そのものの食べ物を食べるのではありませんか。

 

 

ジーヴァカは、それに答えて言います。

『おっしゃるとおりです。私は、梵天は慈しみに住む者である、と聞いています。そのことにつきまして、私には釈尊が証人であると認められます。と申しますのは、釈尊は慈しみに住んでおられるからです。』

 

釈尊は言います。

貪りによって、怒りによって、愚痴によって害する者となりえますが、そうした貪り、怒り、愚痴は、如来には断たれ、根絶され、根底を失ったターラ樹のようにされ、空無なものにされ、未来に生起しない性質のものにされています。

 

 

『慈しみの心をもって住みます』のところが、『憐れみの心』『喜びのある心』『平静のある心』についても同じように説かれます。

中部経典『ポータリヤ経』

中部経典の第54は、『ポータリヤ経』です。

 

自分の仕事や財産をすべて息子たちに譲った資産家ポータリヤと釈尊の対話です。

 

ポータリヤは釈尊が

『資産家よ。』と呼びかけるのを不快に思います。

すべての地位や財産を息子に譲って最小限の衣食で暮らしているので、自分では『俗事の正断』『業務の正断』と思っているからです。

 

釈尊は、『聖者の律による業務の正断』を説きます。

次の八法が、聖者の律による業務の正断に導くと説きます。

 

1、不殺生によって殺生が捨てられるべきです。

2、不偸盗によって偸盗が捨てられるべきです。

3、真実語によって妄語が捨てられるべきです。

4、不両舌によって両舌が捨てられるべきです。

5、無貪欲によって貪欲が捨てられるべきです。

6、無毀瞋によって毀瞋が捨てられるべきです。

7、無忿脳によって忿脳が捨てられるべきです。

8、無過慢によって過慢が捨てられるべきです。

 

ここでも、『不善の法の捨断』が出てきました。

 

そして、不善の法の捨断をして、世間の味に対する執着がすべて残りなく消滅している、捨のみを修習します。

 

そこで、かれは、自分の種々の過去の生存を思い出し、宿住智を得ます。

そして、生けるものたちがその業に応じて赴くありさまを観る天眼智を得ます。

そこでかれは、この無上の、平静による念の清浄によって、もろもろの煩悩の滅尽から、煩悩のない、心解脱、慧解脱を現世において自らよく知り、目の当たり見、成就して住みます。

中部経典『有学経』

中部経典の第53は、『有学経』です。

 

釈尊が、釈迦国のカピラヴァットゥに近い、二グローダ僧院に住んでいたときのことです。

カピラヴァットゥの釈迦族のために新しい会堂が建てられたのですが、その会堂を最初に使ってほしいと釈尊に依頼が来ました。

高名な釈尊に最初に使ってもらえると縁起がいい(笑)ということでしょう。繁栄を期待してのことです。

いわば、こけら落としのようなものでしょう。

釈尊が法話をした後、アーナンダを指名して講話するように言います。

そこで、釈迦族出身で釈迦族に抜群の人気があるアーナンダが『有学の実践者について』話します。

 

そして、ここでも

不善の法を断じる⇒四禅⇒三明

が語られます。

 

いわば、釈迦族の祝いの席、こけら落としというときに、多聞第一のアーナンダが 不善の法を断じる⇒四禅⇒三明  を選んだということは、このことがいかに重要な理法であるかがわかります。

 

具体的には、

1、戒をそなえる者となる

2、もろもろの感官の門を守る者となる

3、食事に量を知る者となる

4、覚醒に努める者となる

5、七の正法をそなえる者となる

6、四禅を得る

 

 

『七の正法』とはこれです。

 

1、如来の菩提について信仰のあるものになる(saddho hoti)

2、慚のあるものとなり、身・語・意の悪行を恥じ、悪しき不善の法が入ることを恥じます。(hirima hoti)

3、愧のあるものとなり、身・語・意の悪行を恐れ、悪しき不善の法が入ることを恐れます。(ottappi hoti)

4、聞を積んでいる多聞者になります。(bahussuto hoti)

5、努力精進をそなえ、もろもろの不善の法を捨てるために、もろもろの善の法を成就するために、住みます。

6、念があり、最上の念と賢明をそなえる者になります。長い間行なわれたことでも、長い間語られたことでも、記憶し、つぎつぎ記憶します。(satima hoti)

7、慧のある者となり、生滅に通じる、聖なる、洞察力をそなえている、正しく苦の滅尽にいたる慧をそなえています。(pannava hoti)

 

 

この『七の正法』は、仏陀の真意を知るためには、非常に重要です。

 

ここで、6、についての註を見ます。

 

身と語の両者は色(rupa)であり、それを起こす心・心処は無色(arupa)である。

以上のように、これら色・無色の法がこのように生じ、このように滅している、と記憶し、つぎつぎ記憶し、念覚支(sati sambojihanga)を起こす。

 

 

この経典を見ても、念(sati)が『記憶』と言う意味であることがはっきりと示されています。

 

念(sati)は、『記憶』と言う意味で捉えるべきです。

その理解で初めて、三十七菩提分法が解明できます。

 

 

 

 

 

中部経典『アッタカ市人経』

中部経典の第52は、『アッタカ市人経』です。

 

アッタカ市の資産家ダサマが、アーナンダに質問します。

 

『釈尊は、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法を説いておられるのでしょうか。その一法とは何でしょうか。』

 

この問いに、アーナンダは、『これが一法です』と11の法を挙げます。

 

ここに、比丘はもろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じる喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。

かれはこのように観察します。

『この第一の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じる喜びと楽のある、第二の禅に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この第二の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

喜びを離れていることから、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、聖者たちが『平静をそなえ、念をそなえ、楽に住む』と語る、第三の禅に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この第三の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この第四の禅は形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この慈しみのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この憐れみのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この喜びのある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

彼はこのように観察します。

『この平静のある心の解脱も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

比丘は、完全に色の想を超え、感覚的反応の想が消え、種々の想を思惟しないことから、『虚空は無限である』として、空無辺処に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この空無辺処定も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

比丘は、完全に空無辺処を超え、『識は無限である』として、識無辺処に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この識無辺処定も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

比丘は、完全に識無辺処を超え、『何ものも存在しない』として、無所有処に達して住みます。

彼はこのように観察します。

『この無所有処も形成されたもの、意思されたものである。また、およそ形成されたもの、意思されたものは無常であり、滅尽する性質のものである』

かれはそこにとどまり、もろもろの煩悩の滅尽に至ります。

これが、解脱していない心が解脱し、滅尽していないもろもろの煩悩が滅尽するに至り、到達していない無常の無碍安穏に到達するという、一法です。

 

 

 

アーナンダがこの11の法を説いたときに、ダサマは言います。

『私は一つの不死の門を探しながら、一度に11の門を聞くことにより得ました。たとえば、人の家に11の門があり、その家が焼けるとき、かれはいずれの門によっても自己を安全にすることができます。ちょうどそのように、私は、11の不死の門のいずれによっても自己を安全にすることができます。』

中部経典『カンダラカ経』

中部経典の第51は、『カンダラカ経』です。

 

カンダラカとは遍歴行者の名前です。

カンダラカという遍歴行者と象使いの子ペッサが、釈尊のもとに行って教えを聞きます。

 

釈尊は、ここの比丘には、阿羅漢であり解脱しているものがいて、それは四念処に心を定めて住んでいる、と言います。

 

身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。

 

 

象使いの子ペッサは言います。

獣は明瞭であり、象は調御することができるが、人間の心は密林(不透明)です。

それなのに、このように心が整えられているとは。

 

釈尊は、四種の人間のことを語ります。

 

1、自らを苦しめる者

2、他を苦しめる者

3、自らを苦しめ、他を苦しめる者

4、自らを苦しめず、他を苦しめない者

 

1の自らを苦しめる者は、苦行を行なう者。

2の他を苦しめる者は、猟師や漁師、牛殺しなど。

3の自らを苦しめ、他を苦しめる者は、横暴で残虐な王族などの支配者。

そして、4の自らを苦しめず、他を苦しめない者とは、この世に如来が現われていることを知り、出家し、不善の法を離れて修行し、五蓋を捨断し、四禅定に住みます。三明を獲得します。そして解脱します。

 

ここでも、

不善の法を捨離⇒五蓋の捨断⇒四禅定⇒三明⇒解脱

が出てきます。

 

 

 ここまで繰り返し繰り返し出てくるのは、仏陀が解脱した道筋である、

 不善の法を捨離⇒五蓋の捨断⇒四禅定⇒三明⇒解脱

が、極めて重要であるからです。

 

具体的には、

殺生・盗み・邪淫・妄言・両舌・悪口・綺語・などの不善の法を捨離する

眼耳鼻舌身意の感官から悪しき不善の法が流れ込まないように防護する

食べるにも飲むにも大小便をするにも正知をもって行動する

五蓋を捨断する

これが、不善の法の捨離となります。

 

その後、

第一の禅⇒第二の禅⇒第三の禅⇒第四の禅⇒宿住智⇒天眼智⇒漏尽智(煩悩を滅する智=四諦)⇒煩悩からの解脱

 

となります。

 

 

この経典には四念処も出てきますから、

四念処と、不善の法の捨離(そのひとつとして五蓋の捨断)

 

中部経典『降魔経』

中部経典の第50は、『降魔経』です。

 

この経典もわかりづらい内容です。

 

神通第一の弟子マハーモッガッラーナ(大目連)に悪魔が憑いて悩ませているという内容です。

 

過去七仏の第4のカクサンダ世尊のときの話をします。

そのときも、その悪魔は、バラモン資産家たちに憑依して、カクサンダ世尊の弟子の比丘を罵倒し誹謗します。

 

そのとき、カクサンダ世尊は弟子に向かって言います。

 

そなたたちは、

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みなさい。

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みなさい。

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みなさい。

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みなさい。

 

 

次に、その悪魔は、またバラモン資産家たちに憑依して、今度は比丘たちを尊重し供養しました。比丘たちはその喜びによって心に異変が起こるように。そのバラモン資産家たちは死後は善道の天界に生まれた。

 

そこで、カクサンダ世尊は弟子に向かって言います。

 

そなたたちは、

身体について不浄を観つづけ

食べ物について厭逆の想をもち

あらゆる世界について不快の想をもち

あらゆる行について無常を観つづけて、住みなさい。

 

 

その悪魔は、子供に憑依し、弟子の比丘の頭に一撃を加え、頭を割りました。

 

ここでカクサンダ世尊は、『この悪魔は際限を知らない』と感じて眺めた。

それと同時に、その悪魔は大地獄に生まれかわった。

仏陀の筏

原始仏典と大乗仏教を調べていくと、今こそ、歴史上の仏陀が残してくれた筏を甦らせないといけないという気持ちが強くなってきます。

 

原始仏典に何度も繰り返し出てくるものが仏陀の教えにとって極めて重要な法だということは間違いありません。

重要な理法は仏陀も何度も説かれ、弟子たちも心に留めて暗誦していたはずだからです。

 

『無常であり苦であるものを私、私のもの、わたしの本体と呼んでいいであろうか。』という言説はその一つです。数多く出てきます。

 

不善の法を捨てる⇒四禅定⇒三明⇒解脱

この図式も数多く出ます。

不善の法を捨てる⇒喜⇒身心が軽くなる⇒四禅定⇒三明⇒解脱

となることもあります。

このことから七覚支ができたと思います。

 

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

これが七覚支ですが、

私の理解では、念⇒択法⇒精進はすべて、不善の法を捨てて善法を残すことです。

 

私は、sati(念)は、記憶という意味だと考えています。

仏陀の理法を記憶し心に留めて繰り返し思い起こすこと、これがsati(念)です。

 

これは簡単なようで非常に難しいことです。

なぜなら、私たちは、常に思考の奔流に呑み込まれているからです。

肉体を持ち、感覚を持って、日々日常生活していると、絶え間なく感覚の経験が起きてきます。その感覚に反応して思考が出ます。その思考が連想となって、とめどない思考の奔流が起きます。

思考に巻き込まれている状態がほとんどです。

それに気づいてないと巻き込まれますから、『気づき』は大事なのですが、しかし、satiを気づきとだけ解釈してしまうと、ただの技法になってしまい仏陀の説いた理法と何の関係もないものとなります。

 

これでは、仏陀の真意は失われます。

最初期の弟子たちは、『生じるものは必ず滅する』という一言を聞いただけで悟っています。

これが仏陀の理法の根幹です。仏陀の理法の洞察なくして、涅槃はありえないと考えます。

 

四諦、十二縁起、四念処という仏陀の理法を洞察していくこと、ここを仏教なるものは捨ててしまった。

 

部派仏教(上座部仏教)は、マインドフルネス一辺倒です。

大乗仏教は、四諦十二縁起は声聞縁覚のための劣れる法として捨ててしまいました。

 

ゆえに、仏陀が残してくれた筏はいまはどこにもないのです。

 

大乗仏教の禅は、看話禅(公案禅)と黙照禅に分けられます。

公案を考え続けるか、何も考えず只管打坐か、です。

どちらも、仏陀の理法を瞑想することはありません。

 

40分の座禅の期間は思考のない状態になることはできたとしても、座禅から立ち上がると元の木阿弥です。

座禅を熱心にして、短期間で見性できたとしても、(3日間で見性させると豪語する禅師もおられるとか)我塊はそのままで、かえって、悟ったという体験を誇り増上慢になる人もいるようです。

 

仏陀の理法である十二縁起は、自我(私という中心)の成り立ちを洞察するものです。自我が構築され苦の集積に向かって激流に押し流されているこをとを如実に観察することです。

この洞察を経ないと大海へは出られません。

『私という中心』がそのままで、無量であることを阻害しているからです。

中心を持ったときに限定が生まれ欠乏感が生まれます。

 

大乗仏教には筏がありません。

 

『では大乗の修行によって悟った者がどれほどいるか、というと疑問ですね。宮元啓一氏が「大乗仏教の徒で、自他ともに仏となった、涅槃に入ったと認める人が、長い歴史のなかではたして登場したであろうか。答えは、まったく否なのである」と喝破している通りなのです。』(佐々木閑・宮崎哲弥  『ごまかさない仏教』より)

 

とある原因は、筏がないからだと考えます。

 

 

仏陀の理法を洞察し続けること、これこそが、仏陀の残した筏です。

 

 『無常であり苦であるものは、私、私のもの、私の本体ではない。』

つまり、非我です。

五蘊非我であり、四念処の身・受・心・法すべてを非我と観じること、です。

 

今の仏教には筏がありません。

今こそ、仏陀が残してくれた筏を掘り起こし甦らせなければならないと思っています。