中部経典『大有明経』

中部経典の第43は、『大有明経』です。

 

これは、サーリプッタの説法なのですが、解脱について詳しく説かれていて、非常に重要な経典だと思います。

 

ある比丘がサーリプッタに『無慧者』の意味を聞きます。

『これは苦である』と知らない。

『これは苦の生起である』と知らない。

『これは苦の滅尽である』と知らない。

『これは苦の滅尽に至る道である』と知らない。

このことを、無慧者と言います。

 

『有慧者』とは

『これは苦である』と知る。

『これは苦の生起である』と知る。

『これは苦の滅尽である』と知る。

『これは苦の滅尽に至る道である』と知る。

このことを『有慧者』と言います。

 

『識』とは何でしょうか。

『楽である』と識るのです。

『苦である』と識るのです。

『非苦非楽である』と識るのです。

 

そして、

『慧と識とは、結合しており、分離しているのではありません。

知るものが識り、識るものが知るからです。』

『慧は修習されるべきものであり、識は知悉されるべきものである。これがそれらの差異です。』

 

『受』とは何でしょうか。

『楽』を感受します。

『苦』を感受します。

『非苦非楽』を感受します。

これが受です。

 

『想』とは何でしょうか。

青を想う。

黄を想う。

赤を想う。

白を想う。

『それが想う。それが想う。』というこのことから想と言われます。

 

『受と想と識というこれらの法は結合しており、分離しているのではありません。

感受するものが想い、想うものが識るからです。

差異を知らせることはできません。』

 

『五の感官(眼・耳・鼻・舌・身)から解放されている清浄な意識によって、何が知られますか。』

 

『五の感官(眼・耳・鼻・舌・身)から解放されている清浄な意識によって、空無辺処、識無辺処、無所有処が知られます。』

 

『知られる法を何によって知るのでしょうか。』

『慧眼によって知ります。』

 

『慧は何を目的としているでしょうか。』

『慧は、よく知ることを目的と死、知悉することを目的とし、捨断することを目的としています。』

 

『正見が起こるためには、どれだけの縁がありますか。』

『正見が起こるためには、二の縁があります。

他からの声と正しい思惟です。』

 

『正見は、どれだけの部分に支えられて、心の解脱の果とも心の解脱の果報ともなり、慧による解脱の果とも慧による解脱の果報ともなるのでしょうか。』

『正見は、戒に支えられています。

 聞に支えられています。

 議論に支えられています。

 止に支えられています。

 観に支えられています。』

 

『どれだけの生存がありますか。』

『三の生存があります。欲の生存、色の生存、無色の生存です。』

 

『どのようにして未来に再生がありますか。』

『無明に覆われ、渇愛に縛られた生けるものたちが、あちこちに歓喜することにより、未来に再生があります。』

 

『どのようにして未来に再生がなくなりますか。』

『無明が消えることにより、明智が起こることにより、渇愛が滅することにより、未来に再生がなくなります。』

 

『第一の禅はどれだけの部分からなるのでしょうか。』

『第一の禅は、五の部分からなります。

 大まかな考察、細かな考察、喜び、楽、心の統一の五つです。

 第一の禅は、五の部分(五蓋)の捨断があり、五の部分の具足があります。

 捨断は、欲貪、怒り、沈鬱眠気、浮つき後悔、疑い、の五つです。

 具足は、大まかな考察、細かな考察、喜び、楽、心の統一の五つです。』

 

『五つの感官(眼・耳・鼻・舌・身)の拠り所(patisarana)は何でしょうか。』

『意です。』

 

『五つの感官(眼・耳・鼻・舌・身)は何によってとどまっているのでしょうか。』

『寿命によってとどまっています。』

 

『寿命は何によってとどまっているのでしょうか。』

『寿命は熱によってとどまっています。』

 

『熱は何によってとどまっているのでしょうか。』

『熱は寿命によってとどまっています。』

 

『どれだけの法がこの身体を捨てるとき、この身体は捨てられ、投げ出され、意思のない棒きれのように横たわるのですか。』

『寿命と熱と識の3つの法ががこの身体を捨てるとき、この身体は捨てられ、投げ出され、意思のない棒きれのように横たわるのです。』

 

『死んだ者と想受滅に入っている比丘との差異はなんでしょうか。』

『想受滅では、寿命と熱と識があります。』

 

『非苦非楽の心の解脱に入るためには、どれだけの縁がありますか。』

『楽を断ち苦を断ち、すでに喜びと憂いが消滅していることから、苦も楽もない、平静による念の清浄のある第四の禅に達して住みます。』

 

『無相のこころの解脱に入るためには、どれだけの縁がありますか。』

『一切の相を思惟しないこと、と、無相の界を思惟することです。』

 

『無相の心の解脱がとどまるには、どれだけの縁がありますか。』

『一切の相を思惟しないこと、と、無相の界を思惟すること、と、以前における決意です。』

 

『無相の心の解脱から出るためには、どれだけの縁がありますか。』

『一切の相を思惟すること、と、無相の界を思惟しないこと、です。』

 

 

そして、この後、【無量の心の解脱】と【無所有の心の解脱】と【空性の心の解脱】と【無相の心の解脱】の説明と、その差異と同一性が語られます。

 

 

【無量の心の解脱】

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

 

【無所有の心の解脱】

完全に識無辺処を超え、【何ものも存在しない】との無所有処に達して住みます。

 

 

【空性の心の解脱】

『これは我について空であり、あるいは我に属するものについて空である』と熟慮します。

 

 

【無相の心の解脱】

一切の相を思惟しないことから無相の心の定に達して住みます。

 

これが根拠であり、この根拠によれば、【無量の心の解脱】と【無所有の心の解脱】と【空性の心の解脱】と【無相の心の解脱】とは、意味も表現も異なります。

 

 

ところが、次の根拠によれば、表現は違っても、これらの法の意味は同じとなります。

 

貪欲は量を作るもの。

瞋恚は量を作るもの。

愚痴は量を作るもの。

 

無量のこころの解脱の中で最上とされる不動のこころの解脱では、

貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものである。

 

貪欲は障害のあるもの。

瞋恚は障害のあるもの。

愚痴は障害のあるもの。

 

無所有のこころの解脱の中で最上とされる不動のこころの解脱では、

貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものである。

 

貪欲は相を作るもの。

瞋恚は相を作るもの。

愚痴は相を作るもの。

 

無相のこころの解脱の中で最上とされる不動のこころの解脱では、

貪欲について空のものであり、瞋恚について空のものであり、愚痴について空のものである。

 

ここにおいて、これらの法は、意味が同じでただ表現のみが異なります。

 

 

 

 

 

中部経典『サーレッヤカ経』

中部経典の第41は、『サーレッヤカ経』です。

 

サーレッヤカ(Saleyyaka)とは、サーラー村の村民の意味です。

サーラー(Sala)という村で説かれました。

 

サーラーに住むバラモン資産家たちは、世尊にこう言った。

『ある生けるものたちは、身体が滅ぶと、死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわりますが、その因は何でしょうか。縁は何でしょうか。

 ある生けるものたちは、身体が滅ぶと、死後、善道の天界に生まれかわりますが、その因は何でしょうか。縁は何でしょうか。』

 

『非法行・不正行によって、ある生けるものたちは、身体が滅ぶと、死後、苦処・悪道・破滅の地獄に生まれかわります。

法行・正行によって、ある生けるものたちは、身体が滅ぶと、死後、善道の天界に生まれかわります。』

 

この後、非法行・不正行の詳しい内容が説かれます。

 

身による非法行・不正行が、3種。

語による非法行・不正行が、4種。

意による非法行・不正行が、3種。

この十不善業が語られます。

 

身による非法行・不正行は、殺生・盗み・邪淫の3種。

 

語による非法行・不正行は、

【妄語】知っていることを知らないと言い、見ているのに見てないといい、見てないのに見ていると言う。自分のために他人のためにあるいはわずかな利益のために故意の妄語者となること。

 

【両舌】和合している者たちを離反させ、分裂させるように、あちらで聞いてこちらで話、こちらで聞いてあちらで話すこと。

 

【悪口】粗暴で粗野で、他を苦しめ、他を不機嫌にさせる、怒りを伴った、定に資することのない言葉のこと。

 

【綺語】ふさわしくないときに語り、事実でないことを語り、意義のないことを語り、非法を語り、心に残ることのない、意味を伴わない言葉。

 

 

意による非法行・不正行は、貪欲・瞋恚・邪見(顚倒見)の3種。

貪欲は『どうか他人のものが私のものになるように』

瞋恚は『この生けるものらは害されよ。殺されよ。破壊されよ。』

邪見は『布施されるものはない。善悪の果報はない。この世はない。あの世はない。沙門バラモンは世にいない。』

 

それに対し、死後、善道の天界に生まれかわる因であり縁である法行・正行とは、これらの非法行・不正行から離れること、と説かれます。

 

そして、この法行者・正行者であれば、兜率天であれ梵身天であれ、光天であれ、夜摩天であれ、色究竟天であれ、生まれ変わることができると語ります。

さらに、空無辺処天、識無辺処天、無所有処天、非想非非想処天であれ生まれ変わることができる。

そして、もしこの法行者・正行者が

『もろもろの煩悩の滅尽により、煩悩のないこころの解脱、慧による解脱を、現世のうちに自らよく知り、目の当たり見、成就して住むことができますように』と希望すれば、それができる、それは法行者・正行者だからだ、と説かれます。

 

 

 

中部経典『小アッサプラ経』

中部経典の第40は、『小アッサプラ経』です。

 

ここでも、一切の悪しき不善の法を断つことから〈沙門の正しい実践〉が説かれます。

 

不善の法の浄化⇒満足⇒喜び⇒身体が軽やかになる⇒楽を感じる⇒心が統一される

 

という一連の流れが説かれます。

 

七覚支は、

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

です。

択法、喜、軽安、定はほぼそのままです。

 

この経典の大きな特徴は、

不善の法の浄化⇒満足⇒喜び⇒身体が軽やかになる⇒楽を感じる⇒心が統一される

の後に、四無量心が説かれることです。

 

 

慈しみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、慈しみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

憐れみのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、憐れみのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

喜びのある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、喜びのある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

平静のある心をもって、一つの方向を、同じく二つの方向を、同じく第三の方向を、同じく第四の方向を、満たし、住みます。

このようにして、上を、下を、横を、一切処を、一切を自己のこととして、すべてを含む世界を、平静のある、広い、大なる、無量の、恨みのない、害意のない心をもって、満たし、住みます。

 

 

この経典を見ると、七覚支の【捨】は四無量心の完成と解釈してもいいかもしれません。

 

 

 

中部経典『大アッサプラ経』

中部経典の第39は、『大アッサプラ経』です。

 

アッサプラとはこの説法が行なわれた町の名前です。

 

〈沙門となりバラモンとなるもろもろの法〉が説かれます。

沙門の目的である涅槃に至るためになすべき法が次々と語られます。

「それ以上になすべきことは何か」というふうに続きますので、後になればなるほど重要と言うことです。

 

最後に、五蓋を断つことが語られ、いつものように、

五蓋を断つ⇒四禅⇒三明⇒解脱

という解脱への道筋が語られます。

 

さて、〈沙門となりバラモンとなるもろもろの法〉は、〈慚愧をそなえる者になろう〉という法から始まります。

 

〈慚愧をそなえる〉

 ⇩

〈身の行為を清浄にする〉

 ⇩

〈語の行為を清浄にする〉

 ⇩

〈意の行為を清浄にする〉

 ⇩

〈生活を清浄にする〉

 ⇩

〈感官の門を護る〉

 ⇩

〈食べ物に量を知る〉

 ⇩

〈覚醒に努める〉

 ⇩

〈念と正智をそなえる〉

 ⇩

〈五蓋を断つ〉

 

 

そして、この経典では、〈五蓋を断つ〉について詳しく説かれています。

 

 

1、世界に対する貪欲を捨て、貪欲の消え失せた心をもって住み、貪欲から心を浄めます。

 

2、怒りと憎しみを捨て、怒りのない心をもち、すべての生き物を益し、同情して住み、怒りと憎しみから心を浄めます。

 

3、沈鬱と眠気を捨て、沈鬱と眠気が消え失せ、明るい想いを持ち、念と正念をそなえて住み、沈鬱と眠気から心を浄めます。

 

4、浮つきと後悔を捨て、浮つきがなく、内に静まった心をもって住み、浮つきと後悔から心を浄めます。

 

5、疑いを捨て、疑いを脱し、もろもろの善法に対して疑惑をもつことなく住み、疑いから心を浄めます。

 

 

ここで重要なのは、五蓋の反対が示されていることです。

これによって、五蓋の意味が浮かび上がってきます。

貪欲には、反対の言葉が示されていませんが、貪欲は他の説法でよく説明されているので、意味はわかると思います。

 

〈怒りと憎しみ〉に対して、〈すべての生き物を益し〉と〈同情〉が挙げられています。

慈悲の心をもつことによって消えるとされています。

 

〈沈鬱と眠気〉に対しては、〈明るい想い〉〈念と正念〉が挙げられます。

〈浮つきと後悔〉に対しては、〈静まった心〉が挙げられます。

そして、〈疑い〉とは、〈もろもろの善法に対しての疑惑〉のことだとわかります。

 

この説法によって、五蓋の性質がかなりはっきりと示されたと思います。

 

そして、さらに次の喩えで重要なことを言っています。

 

五蓋とは五つの障害であり、

1、負債

2、病気

3、牢獄

4、奴隷

5、荒野の道

に喩えられています。

 

【慧を弱めるもの】という定義です。

 

つまり、仏陀が、煩悩といい、不善法といい、五蓋というのもすべて、慧を弱めるもの、慧に蓋をしてしまうもの、慧に覆いかぶさるもの、という意味で、それを取り除けば慧が輝きだすということです。

 

 

 

中部経典『大愛尽経』

中部経典の第38は、『大愛尽経』です。

 

仏陀が、わざわざ『渇愛滅尽解脱の説示として常に心にとどめよ』と言われたくらい、極めて大切な説示です。

 

仏陀の真意の核心がここに説かれます。

 

十二縁起が何を意味するのかが具体的に明かされます。

 

 

漁師の子でサーティという比丘のことが語られます。

この比丘は

『この識は流転し、輪廻し、同一不変である』ということを釈尊の法だと思っています。

 

しかし、この見解は間違った見解であり、悪しき見解です。

 

仏陀は

『縁がなければ、識の生起はない』と説いたのです。

 

ここで、仏陀は、自ら説いた本当の意味を具体的に語ります。

 

『それぞれの縁によって識が生起すれば、それをそれぞれによって呼ばれる』

『眼ともろもろの色とによって識が生起すれば、それは眼識と呼ばれる。

 耳ともろもろの声とによって識が生起すれば、それは耳識と呼ばれる。

 鼻ともろもろの香とによって識が生起すれば、それは鼻識と呼ばれる。

 舌ともろもろの味とによって識が生起すれば、それは舌識と呼ばれる。

 身ともろもろの触れられるものとによって識が生起すれば、それは身識と呼ばれる。

 意ともろもろの法とによって識が生起すれば、それは意識と呼ばれる。』

 

このように、縁による識の生起を示された。

 

次に、縁による五蘊の生起を示す。

 

五蘊は、食(ahara)によって生起している。

 

『その食の滅によって、生じているものは滅する性質のものである、と如実に正しく慧によってよく見られていますか』

 

しかしながら

『このように清浄であり純白である、この見解に執着し愛好し貪り求め、我が物とするならば、執着するためにではなく渡るために説かれた、筏に喩えられる法を理解していないことになる』

 

ここで重要なことを仏陀は言っています。

仏陀の理法が清浄であり純白であっても、それは渡るために説かれたのであって執着するために説かれたのではない、ということです。

これが筏の喩えの真髄です。

 

私は、sati=念 とは、気づきという意味ではなく、『記憶』という意味だと考えています。

仏陀の理法を記憶し、心に常に留めておいて、意識的に繰り返し念じること、です。

しかし、その記憶し心にとどめ繰り返し念じる仏陀の理法も、渡るためのものです。

執着や限定をなくして無量の境地=涅槃に至るためのものであり、その理法に執着してしまったら、それがさらに強固な執着、限定になってしまって、本来の無量心を阻害してしまうのです。

 

ここで、五蘊を生じさせた四つの食(四食)は何を縁とするかが説かれます。

四食は、渇愛を縁として生じます。

四食は渇愛を

渇愛は感受を

感受は接触を

接触は六処を

六処は名色を

名色は識を

識はもろもろの行(sankhara)を

もろもろの行は無明を

その縁としています。

 

そして、十二縁起が説かれます。

 

無明⇒行⇒識⇒名色⇒六処⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死・愁・悲・苦・憂・悩

 

このように、苦の集積へと突き進んでいきます。

 

ここで仏陀はこう言います。

 

『比丘たちよ、そなたたちは私により、自ら見るべき、時間を隔てない、〈来たれ、見よ〉というにふさわしい、導くべき、賢者たちによって各自に知られるべきこの法をもって導かれています。』

 

こう言って、さらに核心を説きます。

 

註には、輪転の根本たる〈無明〉と還転の根本たる〈仏の出現〉を示した、とあります。

 

両親の和合によって受胎が起こります。

出産し、その子は成長します。

諸感官が成熟していきます。

もろもろの対象に触れます。

心地よい感受と好ましくない感受があります。

心地よい感受の経験や対象には執着していき、好ましくない感受の経験や対象は嫌悪していきます。

身に対する念(不浄、無常、苦、非我の理法)は現前せず、無量の心でない劣悪な心(無量心に蓋をされた状態)に住みます。

執着が有を生じさせ、有が生を生じさせ、苦の集積の生起となります。

 

ところが、世に仏が出現し、法を説きます。

その法を聞いて、ある人は出家します。

不善の法から離れ、感官から不善の法が流れ込むのを防護します。

 

五蓋を断ちます。

もろもろの不善の法を離れます。

四禅に住みます。

魅力的な対象に執着せず不快な対象を嫌悪しません。

身に対する念が現前します。

無量の心をもって住みます。

悪しき不善の法がここに残りなく消滅する、心の解脱、慧による解脱を如実に知ります。

執着の滅から全体の苦の集積の滅に至ります。

 

 

 

中部経典『小愛尽経』

中部経典の第37は、『小愛尽経』です。

 

愛尽とは、渇愛の滅尽のことです。

同じ問答が3回繰り返し出てきます。

それは、神々の主サッカ(帝釈天)が仏陀に質問し仏陀が答えた問答を、マハーモッガッラーナ尊者がサッカに聞きに行くのと、マハーモッガッラーナ尊者がその後仏陀に聞きに行くことで、3回同じ問答が出てきます。

 

その問答とはこうです。

 

『尊師よ、比丘は、要するに、どれだけをもって愛尽の解脱者となり、究極の終結者、究極の無碍安穏者、究極の梵行者、究極の完了者、人天の最勝者なのでしょうか』

 

『神々の主よ、

ここに、比丘は、〈あらゆる法は妄執に適しない〉と聞きます。

もし、比丘がそのように聞けば、かれはあらゆる法をよく知ります。

あらゆる法をよく知り、あらゆる法を知悉します。

あらゆる法を知悉し、いかなる感受もも、楽であれ、苦であれ、不苦不楽であれ、感受します。

かれは、それらの感受の、無常を観つづけて住みます。

消滅を観つづけて住みます。

滅尽を観つづけて住みます。

破棄を観つづけて住みます。

かれは、それらの感受の、無常を観つづけて住み、消滅を観つづけて住み、滅尽を観つづけて住み、破棄を観つづけて住み、世界のいかなるものにも執着しません。

執着せず、動揺することがありません。

動揺せず、ただ自ら寂滅します。

〈生まれは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなされた。もはや、この状態の他にはない〉と知ります。

神々の主よ、比丘は、要するに、これだけをもって愛尽の解脱者となり、究極の終結者、究極の無碍安穏者、究極の梵行者、究極の完了者、人天の最勝者となります。』

 

中部経典『大サッチャカ経』

中部経典の第36は、『大サッチャカ経』です。

 

この経典には、仏陀が出家してから行なった苦行の数々が詳細に語られています。

これ以上はないほどの、苛酷な修行に打ち込みますが、最勝の智見を得ることができませんでした。

そこで苦行を止め

四禅⇒三明⇒解脱

となります。

修業時代や、悟りの内容である四禅⇒三明⇒解脱に関しては、他の経典と重複します。

 

この経典の特徴としては、苦行の内容が詳しく書かれていることです。

そして、仏陀の苦行が、止息と断食であることがわかります。

呼吸と食事は生きる上で必須のものですから、つまり生存欲を滅しようということでしょう。

 

その他は、ほとんど他の経典にも出ていることですが、この経典は細かな箇所で面白い記述があります。

 

ひとつは、濡れた木片の喩えです。

火を起こそうとしている人がいます。

樹液があって水に浸けられている木片、水からは離れているけど樹液がある木片、水から離れていて樹液のない乾いた木片、のうち、初めの2つの木片からは火は出ません。火をおこそうとする人は最後の木片から火を起こすでしょう。

樹液や水は欲や煩悩の喩えです。

樹液があって水に浸けられている木片は、心の修習も身の修習もできていない修行者の喩え。

水からは離れているけど樹液がある木片は、身の修習はできているが心の修習ができていない修行者の喩え。

最後は身も心も修習ができている修行者です。

 

 

次に面白いエピソードは、サッチャカが、仏陀に対し、仏陀が日中に眠ったことについて問いただすところです。

簡単に言えば、『昼寝してたではないか。それは身の修習ができてないということでhないのか?』ということです。

仏陀は、『夏季の最終月に、食後、托鉢食から離れると、大衣を四つ折りに敷き、右脇を下にして、念をそなえ、正知をそなえて眠りに入ったことを憶えています。』

サッチャカは『ある沙門やバラモンたちは、これを迷いの住まい(sammoha-vihara)と語っています。』と言います。沙門やバラモンたちは、仏陀が昼寝しているのを見て、修行を怠けてる、なってない、と非難していたのでしょう。

仏陀は、『これだけをもって迷いのある者、迷いのない者にはなりません。』

『いかなる者でも、汚れのある、再生に導き、恐れを伴い、苦しみの果報のある、未来に生まれと老いと死のある、もろもろの煩悩が断たれていなければ、彼を私は迷いのあるものと言います。汚れのある、再生に導き、恐れを伴い、苦しみの果報のある、未来に生まれと老いと死のある、もろもろの煩悩が断たれていれば、迷いのない者と言います。』

これを聞き、サッチャカは感激します。

自分が議論をふっかけて、いろいろな攻撃的な言葉を投げかけたにもかかわらず、仏陀が平静で顔の色も澄んでいることに驚いたのです。

 

そして、自分が六師外道の6人それぞれに同じように議論を交わしたときは、6人とも、話をそらしたり、怒りや嫌悪や不満を顕わにしたと語ります。

 

故に、仏陀は阿羅漢であり正自覚者であると確信したのです。

 

インドにおいては、宗教上の議論は古来さかんに行なわれていました。

仏陀も、このサッチャカのような人からさかんに議論をふっかけられます。

そしてそのつど、相手を感服させています。

これはすごいことです。

仏教では、部派仏教も他の部派との議論に明け暮れていましたし、龍樹は説一切有部との論戦に明け暮れていました。

中国でも、天台宗と華厳宗との論戦は有名ですし、日本では叡山と南都との論戦が有名です。

最澄と南都の論戦だけでなく、若くて無名であった良源が南都の最優秀な人と論戦し完全に論破したことから、中興の祖ともなりました。

仏教の論戦は負けると負けた側の宗旨が間違っていたことになりますから、それは真剣でした。

 

あの温和なイメージの強い法然も、自説が師の考えと違った場合には一歩も引かずに論争を続け師匠からボコボコに殴られ血を出したことがあるくらいです。

仏教の歴史を見ると、論戦や法論の歴史でもありました。

 

しかし、この『大サッチャカ経』を見てわかるように、同じ議論をしても、六師外道の6人と仏陀は全く違ったということです。

その説得力がまず違っているのと、どんな議論でもきわめて平静です。

ここで本物かどうかの違いが分かります。

すぐ罵詈雑言するようであれば、それは間違いなくニセモノです。

 

 

 

『自洲法洲』の本当の意味

大般涅槃経の有名な言葉『自らを島とし、法を島とせよ』は、

自洲法洲とも、自燈明法燈明とも、自帰依法帰依とも言われますが、その本当の意味は何でしょうか。

 

大般涅槃経では、仏陀は、

『この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。』と説き

『では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起るのであるか?』と言った後、

四念処を説きます。

『身、受、心、法について観察すべし』ということです。

 

次に、『小サッチャカ経』では、色、受、想、行、識の五蘊を、『これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない』と如実に、正しく、慧をもって見るだけで、『自身を得る者』『他に依存しない者』となる、と言っています。

 

四念処は、身、受、心、法について不浄であり、苦であり、無常であって、私ではない、私のものではない、と洞察することです。

 

どちらにしても、『自身を得る』『島(中洲)を確立する』という結果が生じます。

 

ということは、仏陀は、人間の誰しも『これが自分だ』『これは自分のものだ』と考えているものすべてを非我と観じたところのものを『自身』『島』『中洲』だと言っているのです。

 

 

中部経典『小サッチャカ経』                                                                                                                                                                                                                                                  

中部経典の第35は、『小サッチャカ経』です。

 

サッチャカとは人の名前です。

ジャイナ教徒で、議論を好み、賢者を自称し、多くの人に善人と認められていた人のようです。

議論において自信満々な人であったようです。

 

仏陀が

 

色は無常である

受は無常である

想は無常である

もろもろの行は無常である

識は無常である

 

色は無我である

受は無我である

想は無我である

もろもろの行は無我である

識は無我である

一切の行は無常である

一切の行は無我である

 

と言うことを説いていると聞き、

論破してやろうと企みます。

 

そして、仏陀と会った時に

『識は私の我である。受は私の我である。想は私の我である。もろもろの行は私の我である。識は私の我である。』という、仏陀とは正反対の説をぶつけます。

 

仏陀は言います。

『王は自己の領土において、殺すべき者を殺したり、追放すべき者を追放したりする力を行使できます。』

『あなたは〈色は私の我である〉と言いましたが、その色に対して〈私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。〉というように力を行使するのか?』

 

これにより、サッチャカは黙ってしまいます。

 

そして

色は無常である

受は無常である

想は無常である

もろもろの行は無常である

識は無常である

 

色は無我である

受は無我である

想は無我である

もろもろの行は無我である

識は無我である

一切の行は無常である

一切の行は無我である

 

ということに同意します。

 

仏陀はさらに、サッチャカにこう言います。

 

私の弟子は、

いかなる色も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる色も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる受も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる想も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなるもろもろの行も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる識も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

私の弟子はこれだけをもって、教えに従う者となり、疑いを渡りきる者、自身を得る者、他に依存しない者として師の教えに住んでいます。

 

 いかなる色も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる受も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる想も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる行も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる識も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 

比丘は、これだけをもって、阿羅漢であり、煩悩が尽き、住み終え、なすべき事をなし、負担を下ろし、自己の目的に達し、生存の束縛を断ち、正しく知って、解脱する者になります。 

 

 

この『小サッチャカ経』で大変重要なのは、五蘊非我を観ずるだけで解脱し阿羅漢になれると断言していることです。

 

四念処を涅槃に至る一乗道と言った仏陀ですが、五蘊非我も涅槃に至る道ということです。

実は、四念処も五蘊非我もほとんど同じと考えていいでしょう。

災難をのがるる妙法

 遠佐 (126.77.139.124)  
ショーシャンクさん こんばんは。
良寛の災難に逢時節には災難に逢がよく候 ですが、私はこの言葉の意味をずっと考えていました。
そして、ふとした折、小林秀雄の「事変と文学」というエッセイを読み、その最後にこうあるのを知り、あ、これだなと思ったのです。
それは、こういう文です。  
困難な事態を、試練と受取るか災難と受取るかが、個人の生活ででも一生の別れ道となろう  と書かれています。
すなわち、良寛も、災難を試練と受け止めて、それを乗り越えろ、と励ました、と言うことだろうと思うのです。
災難に遭う時は遭えばいい、とはいいませんよ。
良寛は馬鹿じゃありません。
私は小林秀雄の文をよんで、アッと思ったのです。それは人生のとらえ方の根本を示していると思います。

 

 

 

 

遠佐さん、こんにちは。

 

良寛の住む新潟で1500人以上の死者を出す地震がありました。

そのとき、その地震で子供を亡くしてしまった山田杜皐に手紙を書きます。

 

「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。うちつけに、死なば死なずに永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ」

 

これが書き出しです。

地震は大変だよね、でも、自分の住居には何ごともなく、自分の親類にも死んだひとがなかったのでめでたいことだと思っている。

と言う意味です。

子供を亡くした人に対して、自分のほうは全員無事だったのでめでたい、と書き送る感性が理解できません。

私ならもし同じことを書き送るのでも、『自分の住居や親類は何ごともなかったですが、地震は本当に大変なことだと思います。』と書いて、『めでたい』と言う言葉は絶対に使わないでしょう。

 

そして、その後、

 

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候

 

と言う言葉が出てきます。

 

この意味については、いろいろな捉え方があるでしょう。

遠佐さんが言われるように、災難を試練と捉えて乗り越えよう、という意味ととらえるのが一般的かもしれません。

 

私はたぶん良寛はこういう意味で言ったと思っています。

 

いまで言えば、ワンネス、ノンデュアリティの人が言っている意味です。

 

災難はあっても災難に遭う『人』はいない

死ぬ『人』はいない

『私』というものがない以上、災難に遭う『私』もないし、死ぬ『私』もない。

このように『私』などないと見極めるのが、災難を逃れる妙法にて候。

 

つまり

災難に遭って、苦しみ、嘆き悲しみ、その災難を避けようとする『人』などいないということを見極め、

災難と見えていることもただ起こっているだけと見極めなさい、それを避けようとするのは自我の働きだ、と。

 

 

このようなことだろうと思います。

そして、それはある一面の悟りではあると思います。

 

悟りではあるのですが、一面にしか過ぎない。

 

悟りには、それ以上つまり、向上、があると考えます。

 

災難が起きていることをあきらめたり、災難を容認するのではなく

我此土安穏としていく働きがなければ、空一辺倒の虚無主義に留まります。

 

 

 

 遠佐 (126.77.139.124)  
このようなことだろうと思います。ってショーシャンクさんが思うのですよね。だけど、それは悟りの一面だ、と。ここで自我はないと仰った。じゃあ、ただおこっていることと見極めるのは誰ですか。悟りには向上があると仰る。では向上するのは、誰ですか。緊急の非常時に私は向上したいから、こうやろうと二元的に考えてやる人はいないでしょう。誰しも、必死になって我を忘れて対処するでしょう。それを試練ととらえて困難に向かうことだ、と言うのだと思います。大地震が起きた時、自我はないから、地震はないと考える人はいませんよ。
 
 
そうですよ。あくまでも、ここは私の考えを書いています。
それが正しいか間違っているかは、それぞれの人の判断でいいのです。
 
私が、たぶん良寛はこういう意味で言ったのではないかと思っただけです。
 
ノンデュアリティという考え方はご存じですか?
日本で最も有名なのは、大和田菜穂さんという女性です。
禅僧とコラボしており、禅の悟りがノンデュアリティだと考える人もかなりいます。
 
大和田菜穂さんの書いていることを読んだら、
『大地震はあるけど大地震に遭う『人』はいない』
『災害はあっても、災害に遭う『自分』はない』
などと言っています。
 
遠佐さんの考えは最も妥当だと思います。
 
私は、良寛はあまり評価していないので、また大和田菜穂という人も評価していないので、同じような一面的なワンネスの考えで発した言葉ではないかと思ったのです。
 
私は、災難に遭うのは全力で避ける努力をすべきだと考えていますので、良寛のこの言葉には批判的です。
 
 

中部経典『小牧牛者経』

中部経典の第34は、『小牧牛者経』です。

 

これは、前編の『大牧牛者経』を受けてより具体的な内容になっています。

これも無知な牧牛者の例え話です。

 

その昔、マガダ国に住む無知の牧牛者がいました。

 

ガンジス川のこちらの岸を確認せずあちらの岸も確認せず、渡し場でないところから牛たちを向こう岸に渡そうとしました。

その結果、牛たちは川の真ん中で溺れて死んでしまいました。

 

ちょうどそのように、この世について巧みでない、あの世について巧みでない、魔の領域について巧みでない、魔を超えた領域について巧みでない、死の領域について巧みでない、死を超えた領域について巧みでない比丘たちがいます。

かれらの言を聞いたものは、長く不利益に、苦しみになるにちがいありません。

 

 

その昔、智慧を備えた牧牛者がいました。

ガンジス川のこちらの岸を観察し、あちらの岸を観察して、渡し場から牛たちを対岸に渡そうとしました。

最初に、父牛であり首領牛である牡牛を渡しました。

次に、力のある牛を渡しました。

つぎに、牡の仔牛を渡しました。

つぎに、力の弱い仔牛を渡しました。

そして、生まれたばかりの幼い仔牛も向こう岸に着きました。

 

ちょうどそのように、この世について巧みである、あの世について巧みである、魔の領域について巧みである、魔を超えた領域について巧みである、死の領域について巧みである、死を超えた領域について巧みである比丘たちがいます。

かれらの言を聞いたものは、長く利益に、安らぎになるにちがいありません。

 

父牛は、阿羅漢の喩え。

力のある牛は、不還者の喩え。

牡の仔牛は、一来者の喩え。

力の弱い仔牛は、預流者の喩え。

生まれたばかりの仔牛は、随信行者の喩え。

 

 

 

中部経典『大牧牛者経』

中部経典の第33は、『大牧牛者経』です。

 

この牧牛者の喩えは大変面白いのですが、マニアックすぎて最初に説明がないとその喩えの巧みさがわかりません。

 

ダメな牧牛者、つまり牝牛から乳を充分に取れず、牛を増やすこともできない牧牛者の特徴を11個挙げます。

どれもマニアックすぎて、聞いただけではわかりません。

 

1、形を知らない

 

註によると、自分の牛の数や色、形を知らないということのようです。

自分の牛の頭数を把握してない。白い牛が何頭で赤い牛が何頭ということも把握してない、という意味らしいです。

 

2、特徴に巧みでない

 

牝牛には何か印がつけられているようで、そのマークのことを知らない、と言う意味のようです。

 

3、虫の卵を駆除しない

 

牛の体内で繁殖する虫の卵を駆除しないと、病気になり、乳が出なくなり、死ぬこともあるそうです。

 

4、傷を覆わない

 

牛の傷を放置していると、病気になり、乳が出なくなり、死ぬこともあるということ。

 

5、煙を起こさない

 

牛舎で、煙を起こさなければ、牛が蚊などに悩まされ睡眠不足になり衰弱してしまう。

 

6、渡し場を知らない

 

渡し場の状況を知らなければ、牝牛を渡らせるときに、岩石などを踏んで足を折ったりするし、鰐に襲われたりする。

 

7、飲んでることを知らない

 

この牛は、水を飲む必要がある、飲む必要がない、ということを知らない。

 

8、道路を知らない

 

この道は安全か、盗賊や虎などがいて危険か、あついはでこぼこ道で危険か、ということを知らない。

 

9、牧草地に巧みでない

 

牧草地は牛が食べてから5日か7日しなければ青草が成長しないので、どの牧草地はいつ牛が通ったかを常に把握しておく必要がある。

 

10、余分を残さず乳を搾っている

 

仔牛が飲む乳のことを考えずに、すべての乳を搾ってしまうと、母牛は仔牛が心配で乳が出なくなってしまう。

 

11、かの父牛や首領牛である牡牛たちを充分に尊重しない

 

ダメな牧牛者は乳が出る牝牛ばかりを尊重して群れを守る牡牛を尊重しないので、牡牛は群れを守らなくなる。

 

 

 

さて、以上が、ダメな牧牛者の11の特徴です。

 

ちょうど、このように、これらの11の法を備えている比丘は、法において広大に到達することができません。

 

1、形を知らない

 

『およそ色という色は、すべて四大要素と四大要素を取る色からなる』ということを知らない。

 

2、特徴に巧みでない

 

『愚者は業を特徴とし、賢者は業を特徴とする』ということを知らない。

だから、愚者を避けることができない。

 

3、虫の卵を駆除しない

 

つぎつぎに生じている悪しき不善の法を除去しない。

 

4、傷を覆わない

 

眼によって色を見る場合、その外相を捉え、その細相を捉えます。

この眼の感官を防護しないで住むならば、もろもろの悪しき不善の法が、貪欲として憂いとして、流れ込むことになります。

眼・耳・鼻・舌・身・意による色・声・香・味・触・法すべてそうです。

 

5、煙を起こさない

 

その比丘は、学んでいるとおりに、法を広く他のものたちに説くことがない。

 

6、渡し場を知らない

 

その比丘は、多聞の比丘に『この意味は何ですか?』と充分に問うことがない。

だから疑いを除去することができない。これを渡し場を知らないという。

 

7、飲んでいることを知らない

 

如来によって法が説かれたとき、法の歓び、満足を得ない。

 

8、道路を知らない

 

八正道を知らない。

 

9、牧草地に巧みではない

 

四念処を知らない。

 

10、余分を残さず乳を搾っている

 

信者である資産家たちが、衣・食など『必要なだけどうぞ』と言うときに、受け取る適量を知らない。

 

11、長老たちを充分に尊重しない

 

長老たちに、慈しみのある、身・口・意の行為をしない。

 

 

そして、これらの反対の11の法をそなえている比丘は法において増大や広大に到達できます。

 

 

 

中部経典『大ゴーシンガ経』

中部経典の第32は、『大ゴーシンガ経』です。

 

これは、前編の『小ゴーシンガ経』と同じ、ゴーシンガのサーラ森林にて説かれたものです。

『小』のほうは、釈尊と3人の比丘(アヌルッダ、ナンディヤ、キミラ)が登場人物でしたが、『大』は、オールスターです。

サーリプッタ、マハーモッガッラーナ、マハーカッサパ、アーナンダなどの長老が勢揃いです。

 

サーリプッタがそれぞれの人に問いかけます。

『このゴーシンガのサーラ森林は楽しいところです。夜は明るく、サーラの花は満開し、天の香りのように馥郁としています。友よ、どのような比丘が、ゴーシンガのサーラ森林を輝かすことができるでしょうか?』

 

アーナンダ『多聞の比丘でしょう。』

レーヴァタ『禅定の比丘でしょう。』

アヌルッダ『天眼の比丘でしょう。』

マハーカッサパ『頭陀の比丘でしょう。』

マハーモッガッラーナ『2人の比丘が勝れた法の話をし、互いに質問し、互いに質問に答え、放棄することがなく、法に関する話が進んでいきます。そのような比丘が輝かすことができます。』

 

ここで、マハーモッガッラーナはサーリプッタに同じ質問をしました。

サーリプッタ『心を自在に使い、しかも心の自在にならない比丘でしょう。』

 

答えが出そろったところで、釈尊のもとに行って聞きます。

 

釈尊は、そのすべての答えを褒めます。

どの人の答えに対しても、

『よいことです。よいことです。正しく答えることができています。』と。

 

サーリプッタは聞きます。

『誰のものがよく語られているでしょうか?』と。

釈尊は答えます。

『そなたたちのすべてのものは、道理によってよく語られています。

しかし、私の言うことも聞きなさい。

サーリプッタよ、ここに、比丘が、食後、托鉢食を離れ、跏趺を組み、まっすぐに身体をたもち、全面に念を凝らし〈私は、とらわれがなくなり、もろもろの煩悩から心が解脱しない限り、この跏趺を破らない〉と坐ります。

このような比丘が、ゴーシンガのサーラ森林を輝かすことができます。』

 

 

これは素晴らしい説法です。

弟子たちはそれぞれの特徴を言っていきます。そのような性質、能力が輝かすことができるのだ、と。

釈尊がそのすべてを褒めながら、最後のこの言葉はやはり他を圧しています。

 

これは釈尊ご自身が、菩提樹下に坐ったときの決意です。

このような決意ができるものが本当に輝かすことができる、ということなのでしょう。

 

中部経典『小ゴーシンガ経』

中部経典の第31は、『小ゴーシンガ経』です。

 

仏陀の弟子である3人の尊者が住み、そこで仏陀の説法が行なわれたのが、ゴーシンガのサーラ森林と呼ばれる森であったので、題名にゴーシンガがついています。

 

3人の尊者、アヌルッダとナンディヤとキミラがいるところに仏陀は行きます。

 

そして、仏陀は3人に問いかけます。

『元気であろうか?』

『食べ物は得やすいか?』

『争いなく和合し、敬愛の眼で見て住んでいるか?』と。

 

答えて言います。

慈しみのある身業

慈しみのある語業

慈しみのある意業を確立しています。

 

そして、日常生活では、声を出すことなく、手で合図して意思疎通していると。

また、5日ごとに、夜を徹して法話のためにともに坐っている、と。

 

仏陀は聞きます。

『安楽な住まいというものはありますか?』と。

 

答えて言います。

 

第一禅に達して住んでおります。

第ニ禅に達して住んでおります。

第三禅に達して住んでおります。

第四禅に達して住んでおります。

空無辺処に達して住んでおります。

識無辺処に達して住んでおります。

無所有処に達して住んでおります。

非想非非想処に達して住んでおります。

想受滅に達して住んでおります。

慧によって見、煩悩は滅尽しています。

これが安楽な住まいです。

 

この対話の後、

神々が口々に讃えていった。

『ヴァッジ国に住む人は利得がある。世尊が来られ、3人の尊者が住んでおられるから。』

 

仏陀は言われた。

その通りです。

その家が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その家には長く利益と安楽があるはずです。

その村が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その村には長く利益と安楽があるはずです。

その町が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その町には長く利益と安楽があるはずです。

その都市が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その都市には長く利益と安楽があるはずです。

その地方が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その地方には長く利益と安楽があるはずです。

すべての王族が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、そのすべての王族には長く利益と安楽があるはずです。

すべてのバラモンが、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、そのすべてのバラモンには長く利益と安楽があるはずです。

すべての庶民が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、そのすべての庶民には長く利益と安楽があるはずです。

すべての隷民が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、そのすべての隷民には長く利益と安楽があるはずです。

神々や魔や梵天を含む世界が、かれら三人に対し浄心をもって念じ続けるならば、その神々や魔や梵天を含む世界には長く利益と安楽があるはずです。