マニカナが自由な討論の場になりますように

くり (112.69.54.251)  

ショーシャンクさま こんにちは。 >石飛先生は、芳和さんに対しては『仏典への尊敬がない』と注意していましたが、春間さんのこのような捏造には何も言いません。ダブルスタンダードです。 ここなのですが、石飛先生はおそらくmanikanaの中で個人の間でなされている「(自身の心に)嘘のない対話」をとても重視されていて、(文献学的なところで)何か気になるところがあっても、ご自身からその対話の間に割って入るということはなされない方ように思います。 それは、そのような「対話」の中にこそ、自然とこれまでその人の生きてきた生き様や論理性なりが如実に現れてくることになり、その貴重な有り様(よう)に、あえて自分から影響を及ぼすような形にしてはならないという配慮があるからではないでしょうか。 ですから、その時、ショーシャンクさまと春間さまの対話には入られることはなかったのだと思います。 でも、ショーシャンクさまがそのことについて、その時、石飛先生に意見を求められれば、経典に沿った形でしっかりとお答えになったと思います。 そういうことを考えますと、今現在、石飛先生が対話している(しようとしている?)相手は芳和さまであり、その方へは忌憚のないご自身の意見を表明されたということだと思います。 初学者のわたしが、ショーシャンクさまと石飛先生との「対話」をある種の感動を持って見ることができたのも、その内容のみならず、お二人の中にある真摯な真理探究心から来る論理が、相手への敬意として、書かれた文章に顕わとなっていたからのように思うのです。
 
 

 

くりさん、こんにちは。

私がマニカナに投稿し始めの時、春間さんがさかんに『縁起を見るものは私を見る』という言葉を書いてましたので、石飛先生に『「縁起を見るものは私を見る」という言葉は仏典にあるのでしょうか?』とお聞きしたことがあります。

石飛先生は『どうでしょうか』というような感じで困っておられたような様子でした。

 

私は、『縁起を見るものは法を見る』という象跡喩大経の言葉の中の『法』は四諦の法のことでしょうと書きました。

そして、『法を見るものは私を見る』という言葉の『法』は、仏陀が説いた理法全般を指すのでしょうと書きました。

つまり、『縁起を見るものは法を見る』と、『法を見るものは私を見る』の中の『法』は違うということを言いました。

ですから、勝手にこの2つを一つにして『縁起を見るものは私を見る』というのはおかしいと考えたのです。

 

マニカナは仏教の掲示板ですから、仏陀の法の下には参加者は平等であってほしいですし、誰をも特別扱いせずに、自由に討論できる場であってほしいと思っています。

 

芳和さんには、ヤフー掲示板の時のように他人の掲示板に勝手に大量投稿するのではなく、主催者やスレ主が真摯に質問したときはそれに正面から答える最低ラインのことはしてほしいですね。

石飛先生の質問から逃げまくっているのは情けないです。正面から堂々と反論すればいいではないですか。自分に自信があるのであれば。

春間さんも人の揚げ足取りばかりでなく、自分の意見をいうべきです。自分に自信があるのであれば。

 

ヤフー掲示板のときから、春間さんと芳和(和弘)さんはそっくりだと思っていました。

この2人でどこかで会話していてくれたら、他の人が非常に助かるのに、と思っていましたが、その『どこか』がマニカナになってしまったということでそれは残念です。

 

 

 

 

 

 

龍樹以降の釈迦?

マニカナでの春間さんの投稿に驚きました。

 ↓↓↓

> 龍樹がいなくても釈迦は釈迦。

龍樹がいなければ、 龍樹以降の 釈迦はいない

> 龍樹がいなくても仏典は仏典。

龍樹以降の 仏典はない

 

 ↑↑↑

何ですか、これは?

『龍樹以降の釈迦』??

何を馬鹿なことを言っているんでしょう。

龍樹の500年前に釈尊は入滅しています。

しかし、ここに春間さんの本音が出ていますね。

春間さんが、『釈迦』というとき、龍樹仏教に脚色された『釈迦』を指すのです。

歴史上に存在し、多くの人を涅槃に導いた釈尊には何の関心もないのです。

ですから春間さんはよく『歴史上の仏陀などいません』と言っています。

あくまでも龍樹仏教の中の『釈迦』にしか興味がないのです。

ですから、原始仏典についての尊敬がなく、勝手に自分で『釈迦』の言葉を捏造して平気なのです。

春間さんはよく

『縁起を見るものは私を見る』という言葉をでっち上げて使っていました。

釈尊は、『法を見るものは私を見る』とは言いました。

また、『縁起を見るものは法を見る』とも言いました。

しかし、『縁起を見るものは私を見る』などとは言っていません。

釈尊の言葉を捏造するのは仏教徒ではありえないことです。

他にも『受想行識が一切です』と断言し、『仏典にあるから探しなさい』と言っていました。

仏典にあるわけないです。

このように原始仏典、仏陀の直説に対しての尊敬の念が全くない。

石飛先生は、芳和さんに対しては『仏典への尊敬がない』と注意していましたが、春間さんのこのような捏造には何も言いません。ダブルスタンダードです。

 

龍樹がいなければ龍樹以降の仏典がないなどというのもあり得ません。

大乗仏典は、紀元初頭から同時多発的にあちこちで作られていったのです。

龍樹がいてもいなくても大乗仏典は作られていきました。

 

石飛先生は芳和さんに『正しいことを言っているのなら、なぜ賛同者がひとりもいないのか考えたことはありますか?』と問いかけていましたが、同じ問いかけを春間さんにもするべきだと思います。

 

 

 

 遠佐 (126.77.139.124)  
ショーシャンクさん、石飛先生への疑念をマジカナ道場で言ってください。胸に秘めたまま投稿するのは、同じダブルスタンダードになるのでは。
 
 遠佐 (126.77.139.124)  
ショーシャンクさん、石飛先生に疑念を持っているのですね。マジカナ道場ではっきりとおっしゃってください。
 
 
遠佐さん、私ははっきりと言っていますよ。すでに、何度も何度も。
私は、春間さんと芳和さんは同じような投稿姿勢だと思っています。
ですから、上記の文章にあるように、芳和さんに対するのと春間さんに対する態度が違うのは、ダブルスタンダードだと指摘したのです。
それについても、石飛先生にも直接言っています。
その答えは、先生は、春間さんの自我の部分は気づいていながらその底に禅の悟りのようなものがあると認めておられているということでした。ですから、そのとき、私は『それは先生の思い込みの可能性はありますが、そうおっしゃるのであれば、春間さんが何を得ているのか見ていきたいと思います』と書きました。
その後、春間さんが、『どんな行為も仏教の布施だ』ということを書いていたので、私は『それは仏教ではないし、石飛先生は春間さんは何かを得ていると思っているけど、それはただの勘違いだとわかった』と書きました。
このように、私は、自分の疑念はすべて、はっきりと書いてますけど?
 
また、今は、マニカナには投稿していませんし、これからもしないでしょう。
私はマニカナで、自分が自費出版することなど一度も書いたことはありませんでした。
しかし、マニカナの人が、わざわざ私のブログに書いたことを抜き出してきて、自費出版をすることなどを取り上げていました。また、その自費出版をマニカナで宣伝しているようなことを書かれたので、もう二度と書くことは止めようと思ったのです。
 
 
いまは、もう、自費出版の原稿を書くだけに集中したいですし、もし、自費出版が出版されたとしても、自分のこのブログでも宣伝するつもりはありません。
ましてや、マニカナという他人のホームページで宣伝するなんて考えてもいません。それを宣伝に利用しているなどと言われたら書き込む気力はなくなります。
文献学を目の敵にしている人たちがいるのも、遠ざかりたい理由です。
文献学の進歩により、史実が明瞭になりつつあります。
史実に目を向けるのを拒否していては真実には到達できません。
 
私は、マニカナに最初に投稿したときから言っていますが、あのような良質な仏教のホームページが盛り上がってほしいと言う気持ちがあります。
そして少しなりとも盛り上がったと思いますよ。それで満足です。
 
 
 
 

 

 

 

 

『火ヴァッチャ経』

中部経典『火ヴァッチャ経』にも、こうあります。

 

ヴァッチャ族の遍歴行者が釈尊に質問した。

『世界は永遠か、永遠でないか。』

『世界は有限か、無限か。』

『生命と身体は同一なのか、別なのか。』

『如来は死後存在するのか、存在しないのか。存在しながらしかも存在しないのか、存在するのでも存在しないでもないのか。』

 

これは、毒矢の喩えでの質問と同じです。つまり、自己や世界が実在するのか、しないのか。自己や世界に実体があるのか、自己や世界に実体はないのか、という質問です。

実体とは、『さまざまに変化してゆく物の根底にあって持続的だと考えるもの』だからです。

永遠に続くものがあるのであれば実体がある、ないのであれば実体がない、と考えられるからです。

 

釈尊はこのように答えます。

『「世界が永遠である」というのは見解に捕らわれることであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、煩悩の消滅、智慧、正しい悟り、涅槃に役立たない。』

『「世界が永遠でない」というのは見解に捕らわれることであり、見解の密林、見解の難路、見解の見せ物、見解の狂騒、見解の結縛であり、苦をともない、煩悩の消滅、智慧、正しい悟り、涅槃に役立たない。』

 

以下、すべての質問につき、そのように答えます。

 

そして、こう言います。

 

『如来は、見解に捕らわれるということを脱却している。』

『如来は、五蘊(色受想行識)と五蘊の原因と五蘊の消滅を洞察する。そして、あらゆる妄想、顚倒、我見、我所見、慢を消滅し尽くして解脱した。』

 

ヴァッチャの、解脱した如来はどこに再生しますか?と言う質問に答えて

 

薪によって燃えている火は、薪が尽きたら消える。

その火はどこに行ったかと問うのは適切ではない。

それと同じように

色(受・想・行・識)が捨てられその根が断たれたとき、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。

そのとき人は色(受・想・行・識)から解脱したのである。

それは甚深無量にして底なき大海のごとくであって、赴きて生じるというも、赴きて生ぜずというのも当たらないであろう。

 

 

かなり省略して書きましたが、この経にはとても重要なことが書かれています。

それは薪が尽きて火が消滅したときのように

色(受・想・行・識)が尽きて消滅しても

甚深無量にして底なき大海のごとくである』ということです。

 

さて、ここでも、毒矢の喩えと同じように、自己や世界に実体があるとか実体がないとかという論議は苦の消滅、涅槃に至る道の役に立たず妨げになる、ということです。

 

 

しかし、後世には、龍樹と説一切有部の間で、法(ダルマ)に実体があるか実体がないかの論争に明け暮れるようになります。

 

 

 

 

 

煩悩とは何か

仏教用語に『煩悩』と言う言葉があります。

 

一般的には、煩悩とは欲望のことだと思われています。

欲望をなるべく少なくしていくこと、足るを知るということが煩悩をなくしていくことだと言う人は多いです。

ところが本能も欲望です。食欲を否定すると死んでしまいますし、性欲を否定すると人類は絶滅します。

だから、欲望はなくならない、煩悩はなくならないものだろうということになっていきました。

もっと時代が下れば、煩悩はあるがままでよい、とか、煩悩がなければ菩提に近づけないとか言われ始め、煩悩即菩提と言う言葉が流行していきます。

 

 

私は、煩悩とは束縛のことだと考えています。

精神の自由を束縛するもの、

本来の無量の精神を限定させるもの、

これが煩悩の本質です。

精神に苦をもたらすもの、それが煩悩です。

自由をその本質としている精神にとって、束縛は苦なのです。

 

故に、煩悩の別名は、『結』であり『縛』なのです。

 

そして、最も下方(欲界)に結びつける結縛が、五下分結です。

 

五下分結は

有身見

戒禁取

です。

中部経典『五下分結経』によれば、四禅によってこれを捨断するとのことです。

 

とすると、

五蓋と非常に似かよった概念です。

五蓋も、初禅に入る前にこの五蓋を除去することが求められます。

五蓋は、

惛眠

掉悔

です。

 

『結』にせよ『縛』にせよ『蓋』にせよ、煩悩の本質をよく表わしている言葉です。

 

すべて、自由な精神でないようにしているものです。

これこそが、煩悩の本質です。本来の意味です。

 

ですから、後世に流行して、大乗仏教の旗印になった感がある、

『煩悩即菩提』という言葉がいかに煩悩の本質を見失わせてしまったか、です

涅槃に赴かないものは『無記』

マニカナに『「これは仏教の道にいく、これは仏教の道にはいかない」と知る能力』とありました。

『だから、「大乗仏教は、ブッダの言葉とは似ても似つかないから正しく仏教を伝えていない」という意見をいう人がいるならば、その意見それ自体が、処非処智力によって判定されるのです。この人は、仏教を知らないみたいだ、と。このように判定できる能力は、ブッダから教えられたもので、すぐれた註釈者ならブッダに近い能力までもっているものです。』とのことです。

 

さて、仏陀の死後、『仏教なるもの』が形成されてきました。

仏陀は、仏教なるものの開祖になろうという気はありませんでした。

あくまで、過去の覚者たちが歩んだ古城に至る古道を見つけただけだ、と言いました。

その古道とは、苦の消滅に至る八正道です。

仏陀の死の直後、第一結集が行なわれ、仏陀の生前の教えを確認し合いました。

その100年後根本分裂が起き、仏陀滅度の500年後大乗仏教が起きます。

 

それから現代に至るまで、実に様々な人たちが、『自分なりの言い方』で教えを説いてきました。

その全体を『仏教』と呼んでいます。

 

それでは、様々な『仏教なるもの』の共通点は何でしょうか。

例えば、キリスト教ではどのように宗派があったとしても『聖書』という共通点は揺らぎません。イエス・キリストを救世主とすることも共通点です。

『仏教なるもの』に共通点はあるでしょうか。

根本の仏法僧三宝にしても、仏は宗派によって釈迦牟尼仏、阿弥陀仏、大日如来とバラバラです。

法も法華経、華厳経、涅槃経、阿弥陀経、無量寿経、大日経、般若経、あるいはスッタニパータとバラバラです。

僧はサンガのことですが、そもそも日本にサンガが存在したことは一度もありません。

 

よくいえば、非常に寛容に、その人が仏教と言えば仏教となった、といったところです。

その寛容や鷹揚は、異端排斥が生まれにくいといういい点と、それでは歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかがわからなくなっているという悪い点があります。

 

例えば、仏陀は火を使った儀式や占いの類いは禁止しました。

しかし、密教では、護摩(バラモン教のhomaホーマです)を焚き、占いをします。

それでも、仏教とされています。

 

このような中において、『これは仏教だ』とか『これは仏教でない』と異端審問することに何か意味があるでしょうか。

確かにそれぞれの人がそれぞれの立場で、『これが仏陀の真意だ』と考え、それを表わしてきました。

そして、私も、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかという視点から、仏陀の真意を探求しています。

 

おそらく、『これは仏教の道だ』と書かれた判断は、龍樹に依っていると思います。

つまり、実体化するかしないか、という判断基準です。

自己や世界を実体化してしまったら『仏教ではない』『外道だ』という基準です。

 

しかし、そもそも、歴史上の仏陀は、自己や世界に実体があるとかないとか、そのようなことは『無記』としました。説かなかったのです。そのような論議自体を禁止しました。

しかし、部派も大乗も、そういう論議ばかりに耽るようになりました。

 

自己や世界を実体化しないから仏教、実体化したら外道、というのは、仏陀の真意ではありません。

仏陀の真意は、そのようなことは涅槃に赴かないから『無記』としたのです。

 

仏陀の弟子の自殺

 高原 (126.66.155.7)    
ショーシャンクさん、こんばんは。 スッパニパータ 第二章 小なる章 十 精励(岩波版)のとこです。 panado rajo pamado (怠りは汚れである)の4行詩の一行目です。 直訳すれば3文字の文を、中村元氏は50字で日本語訳し、およそ「怠るな、眠るな」と言い、講談社版の本庄氏は60字で「苦しみもがく輪廻の世をさまよう傷病者のくせに眠るな」という意のことを言ってます。石飛さんも自分で訳しておられたことを思い出して調べると、ほぼ中村元さんの訳と同じで50字に及ぶ訳文が合致し、ならばパーリー語3語の後ろにも文があるのかと思い、スッパニパータ原語を探したのですが探せませんでした。 それと、スマラサーラは経済活動は非難をしているというのは誤解です。自分を救うことをしてないことをpamadoと非難してるんだと思います。 あと、自殺については、そう安易に決めつけられないと思います。それぞれ理由は違って、きっかけはあったかも知れませんが、最近、続けてクローゼットで自殺なさった俳優さん、女優さんたちも、普通に仕事もなさっていて、一般人から見れば恵まれた輝いていた成功者で、なぜ自殺を選ばれたのか理由が分からない人たちばかりです。 良かったら、10分ほどのYouTubeの動画で「お寺で対談6。自死について。佐々木閑、対談」(臨済宗大本山円覚寺チャンネル)を見てください。最初、見たとき、ぼくは少し泣いてしまいましたが、なかなか、自殺をこういう見方から見ることはできませんが。

 

 

高原さん、こんにちは。

紹介されたYouTube、見ました。その感想は後にして。

 

私は、自殺の原因がどうだとか、あるいは、自殺が殺人か殺人でないかとか、自殺は悪いか悪くないか、とかを言っているのではありません。

 

仏陀が言った『dukkha=苦』について、多くの人は、こう考えています。

若くて健康で友達も多く、社会的にも成功してお金を多く持っている、そういう人は『苦』がわからず、自殺するくらい悩んで苦しんでいる人は、仏陀の言う『苦』がわかるだろう、と。

しかし、この世が楽しくて仕方がないという人も、自殺するくらい苦しんでいる人も、仏陀の言う『苦』は同じくらいわからないものだ、ということを言ったのです。

現世的な条件付けられた苦しみ(これも含まれますが)以上のものがdukkhaの意味には込められているということです。

 

さて、YouTube見ました。

私も自殺は殺人とは思いません。

この動画で取り上げられた仏陀の弟子のエピソードとは別のエピソードがあります。

それは、悟りに達した弟子が、どうしてもその境地にとどまれないで元の木阿弥になってしまう。

これは、玉城康四郞の本にも自身の体験としてよく書かれています。

そこで、その弟子は、悟りに達したときに、自殺してしまうのです。

仏陀は、その弟子が涅槃に達したことを明言します。

 

世界から自殺はなくなるべきですが、自殺した人を非難するようなことはしてはいけないと思っています。

 

 

 

言語寂滅と言うのであれば

マニカナでの芳和さんや春間さんの投稿見ていて不思議に思うのは

『龍樹の「戯論(言語)寂滅」』ということをさかんに強調しているのに、結局、言葉に付いて回って、ただの言葉遊びのようにしか見えないことです。

相対とか絶対とか、実体があるとかないとか、仏教に上下があるとかないとか、そんなことばかり頭の中でぐるぐるさせていて、それがその人たちの精神に何をもたらしたのか、それがとても疑問です。

『詩や文学、音楽に親しみイメージ脳を使ってみることだろう。』と自分で書いているのだから、仏教解説書などを言葉でぐるぐるさせるのではなく、言語を絶した音楽に参入すべきだと思います。

 

歌詞のない音楽は、言葉で把握することができず、魂に直接響いてくるのだから、仏教書など何百冊読むより人類の至宝である音楽に親しんだ方がいいでしょう。

 

わたしは、クラシック音楽、大乗仏典、禅の公案、この3つは、自分のそのときの意識の広がりを測るバローメーターでもあると思っています。

 

実際に、意識が広がったときに、はじめて、クラシック音楽の大部分が心の底からわかるようになりましたし、その後も、たとえば、どうしてもわからなかったマーラーの第9交響曲が本当にわかってきたりして、そのときのうれしさは格別です。

大乗仏典も禅の公案も解説書などは一切読まずに直接向き合って、それまでどうしてもわからなかったものがわかったら、それはうれしいものです。

解説書を読んでわかるのは、頭だけの理解です。

 

もちろん、クラシック音楽をいくら聴いたからといって悟ることは出来ません。

大乗仏典や禅の公案をいくら読んでも悟ることはできません。

 

しかし、意識が広がったかどうかは、その理解度によってかなり正確に測れるような気がしています。

 

もし、「戯論(言語)寂滅」と叫んでいる人が、バッハもモーツァルトもマーラーも聴いてわからないのであれば、それはちっとも言語を絶していません。

本などで言語や理論を弄ぶのではなく、言語を介さない音楽に参入するべきです。

 

芳和さんと春間さんに、『この3年間に最も数多く聴いた音楽ベスト10』『今までの人生で最も数多く繰り返して観た映画ベスト10』を聞いてみたいです。

 

よくある質問の『最も好きな映画』とか『最も好きな音楽』という質問では、本音が出ません。

自分が観た中で最も『他人に言ってかっこよい映画』『恥ずかしくない音楽』という基準で、一回しか観てない映画やこの1年ほとんど聴いてない音楽を引っ張り出して来るからです(笑)

 

 

『苦』は理解されなかった

仏教学者の佐々木閑が、『仏教は、この世で行きづらい人や生きるのが嫌になった人のために説かれた』『病院のようなものだ』と書いているらしいので、それについて書きます。

 

全然違います。

仏典を見ればわかることです。

 

仏陀が森にいたときに、30人の若者たちが遊んでいました。その中の一人は遊び女を連れていたのですが、我を忘れて遊んでいるうちにその遊び女がかれらの財布などを取って逃げたのです。若者たちはその遊び女を探すために森を駆け巡ります。

仏陀が坐っているのを見て、『女を見なかったか?』と聞きます。

仏陀は言います。『女をたずねるのと、己をたずねるのとどちらが大事なのか?』

若者たちは『己をたずねることの方が大事です』と言います。

そこで、仏陀は理法を説き、若者たちは受戒します。

 

健康な若者たちで、仲間30人でわいわい騒いでいるのですから、生きづらい人でもなく、生きるのが嫌になった人たちでもありません。人生や青春をエンジョイしている人たちでした。

 

佐々木閑の認識は浅いですね。

 

それは仏陀が言ったdukkha=苦が、ほとんどの仏教者には理解できなかったからです。

 

たとえば、自殺するほど苦しんでいる人は、仏陀の言う『苦諦』が最もよく分かっていると思っている人が多いのです。

全然違います。

仏陀の言う『苦』はそうではありません。

 

たとえば、自殺する人は理由は様々ですが、そのほとんどは思うようにならないからです。

病気の苦しみ、借金の苦しみ、失恋の苦しみ、いじめの苦しみ、様々あるでしょうけど、病気が治ったら、借金がなくなって大金持ちになったら、失恋したと思っていた相手から求婚されたら、いじめがなくなったら、とたんに苦しみはなくなるでしょう。

楽しくて仕方なくなるはずです。

一切皆苦』などと思いもしないはずです。

 

仏陀が説く『dukkha』=苦が人類には理解されずに来た理由です。

仏陀の真意と部派仏教

 高原 (126.66.155.7)    
ショーシャンクさん、返信、ありがとうございました。
 
「矢」のことをお話したのは、スマナサーラがスッパニパータの解説をしていて、「怠り」の説明にぼくが得心するする所があったからです。
 
pamado(怠り)は普通の一般的な意味の怠りとは全然意味が違うと言っていて、無知なぼくは「怠り」とは、惰眠をむさぼるとか勤勉ではないとか「律」に属する言葉だと思っていました。 pamado(怠り)とは、仏教では重要な意味を持つ言葉だと言います。
人は生まれれて幸せのプログラムに沿って生活を始めます。
学校に行って勉強して就職して結婚して家庭を持ち子供を産んで育てます。
それは人が社会のプログラムに組み込まれるだけで実は幸せとは違う。
家族を養うために働き、勤勉に努力して一日睡眠時間2時間で働いて遂には大金を得て、世間の称賛を受け褒めらても、それこそがpamado(怠り)だとスマラサーラは言います。
社会に組み込まれ、家族を作り、子供を育て、プログラムが進んでいくにつれて、心配事や悩みも増えていくのに、ただ生活だけに追われ、「endlessに続いていく苦(輪廻)から抜け出そうとしない」ことがpamado(怠り)であり悪業だと言うのです。 普通に真面目に生活する人をpomado(怠り)とか悪業とか言われてはとも思いますが、煩悩や執着は(苦)輪廻を回転させる高純度の燃料となって、輪廻という乗り物に乗せて次の生苦、遠くのとんでもないかもしれない未来へ運んで行くことを思えば、この世に生きているうちに煩悩、執着、毒矢を抜こうと試行することのない人生はpamado(怠り)、悪行と言われても仕方がないかもしれません。
pamadaは「放逸」と訳され、似た意味です。
学者の佐々木閑さんは、スマラサーラほど激しくはありませんが、ブッダの仏教は、この世で生き辛い人や、生きるのが嫌になった人のために、説かれたと言いました。
病院のようなものだと例えました。
そういう意味では、心身ともに健康で元気ハツラツな人ほど、仏のお教えには無縁で届かないものかも知れません。

 

 

高原さん、こんにちは。

先に、わたしは仏教を3つの時代に分けました。

原始仏教、部派仏教、大乗仏教、です。

さらにいえば、

仏陀の真意、原始仏教、部派仏教、大乗仏教、です。

仏陀の真意は、原始仏教にもあり、部派仏教にもあり、大乗仏教にもありますが、原始仏教が仏陀の真意そのものではなく、部派仏教、大乗仏教は煩瑣な理論により仏陀の真意がねじ曲げられたと考えています。

スマナサーラは上座部仏教ですから部派仏教ですね。

部派仏教にはどうしても出家至上主義があります。

仏陀は本当にスマナサーラが言うように『社会で一生懸命働いても執着を増やすだけで輪廻を断ち切ろうとしてないから悪業だ』と言ったでしょうか。

たとえば、スッタニパータには『適宜に事をなし、忍耐強く努力するものは財を得る』とあります。また『誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ』とあり、その次に『信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら4種の徳があれば、彼は来世に至って憂えることがない』と、社会で現世的な努力をする人を肯定的に見ています。

決して社会的な努力すべてを悪業だなどとは言っていません。

そもそも、仏陀が言う『dukkha』を苦とか痛みではない、空しいとか無価値という意味、霜降り和牛は非常に美味しいけどコレステロールも多くプラスもマイナスもある、プラスマイナスゼロだ、無価値だ、そのようにすべて無価値というのをdukkhaという、などと言ってる人が仏陀の真意などわかるのか、と言いたいですね。

 

仏陀が言った『dukkha』とは、間違いなく、『苦』のことです。激痛です。

 

そこがわからない人が仏教の正統派を自認している、情けないことです。

 

佐々木閑も、この世で生きづらい人だけのために仏教があるなどというのもとんでもないことです。

仏陀の真意は、すべての人が、激流に押し流されているのです。苦の大海で溺れそうなのです。

心身とも健康で裕福で権力があっても、『苦』なのです。

そこもわからないのであれば、仏教学者など何にもなりません。

 

 

仏教学者や仏教者が仏陀の真意を失わせてしまったのです。

 

 

 

 

 

『私』が矢

高原 (126.66.155.7)    

ショーシャンクさん、こんにちわ。
 
「矢」について質問があります。
矢が刺されば、人は痛いので苦しみ、その矢を抜いて苦しみから救われようとします。
おそらく、一人の例外もなく矢は誰にでも突き刺さっているんだと思いますが、ぼくが見ている限りでは、誰もが矢の痛みに悲鳴を上げている訳ではなく、ほとんど痛みを感じていない人も、痛みを感じているものの抜く方が痛いのでそのままで支障がなく生活している人もいます。
矢が刺さって痛くて堪らない人なら、その人は矢を何とか抜こうと必死になるでしょうが、矢の痛みを感じていない人なら、どうでしょうか?
抜く必要があるでしょうか?
ショーシャンクさんなら、どうお考えでしょうか?

 

 

高原さん、こんばんは。

『矢』に関しては、非常に重要なことをまずは自費出版にはじめて書こうと思っていましたが、いろいろ新しい発見があって原稿にとりかかれず自費出版もいつになるかわからないので、ここで少し書きます。

 

私に矢が刺さっているのではないのです。

『私』が矢なのです。

 

これだけで、ごく少数の人はわかるでしょう。

 

私がこのことに思いついてから、かなり仏陀を近くに感じるようになりました。

この言葉については質問しないでください。

いずれまた説明する時が来ると思います。

わかる人にはわかるということで。

 

これは置いといて、すべての人は矢が刺さっています。

毒矢です。

毒は三毒です。貪瞋痴です。

その毒は全身に回ってその人を害します。

 

しかし、自分に矢が刺さってるなんて気が付いている人なんてほとんどいません。

人類は、仏陀が言った『苦』=dukkha を理解できなかったのと同じです。

 

仏陀は、dukkhaが分かった人のために、そして『矢』が分かった人のために、毒矢を抜く方法を教えてくれました。それが仏陀の残した理法です。

そして、dukkhaや『矢』がわからず、しかし、より幸せな人生を送りたい大多数の人に、毒矢の毒を少なくする方法を教えました。

悪いことを思わず、善い思いを出すこと、です。仏法僧を念じたり、です。

あるいは善行です。供養したり、布施をしたりです。

 

矢を抜くというのは非常に大変です。

矢から出る毒を少なくしていく方が簡単です。

しかし、いつか(今世でなくとも)矢は抜かないと、苦=dukkha からは免れません。

 

苦しくなんかない、この世は楽しくて仕方ない、といま思っている人はいるかもしれません。楽しければ楽しいほど、その快楽の対象がなくなったとき、それよりも自分自身が死ぬとき、その衝撃は大きいでしょう。そしてその時にはもう遅いのです。

 

ですから、矢の痛みは感じている人の方が私はいいと思います。

仏教に出会えますから。

仏陀は、若い時から『苦』をひしひしと感じ取っていた人でした。

 

矢の痛みを感じていない人は、そもそも矢の存在、毒の存在がわからないのですから、抜こうなどという気も起きないのです。そのままでいるしかないでしょう。

痛みも苦も感じていない人に、『矢が刺さってるから抜いたほうがいいですよ』と言っても『こいつ、何言ってるんだ?頭おかしいんじゃないのか?』と思われるだけです。言うだけ無駄です。

 

 

 

 

 

 

涅槃に至った在家の例

くり (101.143.86.79)  

ショーシャンク さま おはようございます。
 
>しかし、原始経典には、在家者は解脱できないと説かれることの方が稀です。在家者でも解脱・涅槃に到達できるというのが原始仏教の基本的な立場です。 (原始仏典 中部経典Ⅱ 註より)
 
{え!ほんとうに!そうなの!??}って思って、ネットで調べてみますと、このような論文が出てまいりました。
『原始仏教に見られる在家者の実践』
読んでみますと、ショーシャンクさまの仰る通りでした。
覆われていた部分がとれ、とても爽快な気分がいたします。
有難うございました。

 

 

くりさん、こんにちは。

論文のご紹介、ありがとうございます。

この論文を読んでみますと、涅槃や解脱に達した在家という記述はかなりあるようですね。

例として『在家者ヤサは、如実智見によって、 諸漏から解脱したとあり、在家者の解脱が説かれている。』と書かれています。

また、『AN.6.120.(41) には、仏不壊浄、法不壊浄、僧伽不壊浄、聖戒、聖智、聖 解脱の六つの事柄を成就して、不死を見、不 死を悟り、解脱・涅槃に至った者として、パッリカ長者、アナータピンディカ長者、チッタ長 者、マハーナーマ、ウッガ長者等の21人の在家者の名前を挙げている。在家者ウッガ長者は布 薩の弛まない実践により、不死を悟り、解脱・涅槃に至ったのである。』とあります。

 

大乗仏教の人は、かたくなに『小乗仏教は出家しなければ悟れない』と言いますが、全く違いますね。

 

私は、仏教は3つに分けたほうがいいと思っています。

原始仏教、部派仏教、大乗仏教です。

原始仏教は釈尊とその直弟子の時代。部派仏教は釈尊滅度から100年後の根本分裂以後。そして、釈尊滅度後500年くらい経ったときに起こった大乗仏教、です。

 

部派仏教では出家至上主義に傾いたかもしれませんが、仏陀の真意は原始仏教にあります。

釈尊在世中は、その教えはとらわれずに活き活きしています。

 

そもそも、最初期の戒律は、1つだけでした。

サンガが出来上がるにしたがって、誰かが不都合なことをすると、新たに戒律を増やしていったのです。これを随犯随制と言います。

 

釈尊は亡くなるときに、『小さな戒律は変えてもよい』と言いました。

 

サンガが発展して、様々なレベルの者たちが入ってくると、どうしても戒律が多くなっていきます。

釈尊も多くなりすぎたと考えられたのかもしれません。

最初期の仏教は、いまイメージするよりはるかにのびのびとしていたのかもしれません。

戒律厳格派の提婆達多が戒律が緩すぎると意見したくらいですから。

 

出家と在家の区別も、部派以降よりかなり少なかったのかもしれません。

 

 

 

仏陀は在家でも解脱できると説く

大乗仏教側は、歴史上の仏陀に関して極めて無知なために、様々な勝手なイメージを固く持っています。

原始仏教(年配者には小乗と呼ぶ人がいますが)は、出家でないと解脱できない教えだというのもその一つです。

 

しかし、原始経典には、在家者は解脱できないと説かれることの方が稀です。在家者でも解脱・涅槃に到達できるというのが原始仏教の基本的な立場です。

(原始仏典 中部経典Ⅱ 註より)

 

実際、四念処は涅槃に至る一乗道と仏陀は言いました。

在家も出家も関係なく、涅槃に至る道としたのです。

部派も大乗も毒矢の喩えに反している

毒矢の喩えによって、涅槃に役立たず苦の滅に役立たないものは仏陀は説かないことがわかりました。

 

世界の常住・無常、有辺・無辺などのことは、私はこれを説かない。

なにゆえ説かないのであるか。

実にそれは、道理の把握に役立たず、正道の実践に役立たず、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たないからである。

これ故に、わたしは説かないのである。

 

とある通りです。

 

そして、

わたしの説かないことは説かれぬまま受持しなければならぬ。

わたしの説いたことは、説かれたままに受持せねばならぬ。

と言います。

 

仏陀が説いたことは

それではわたしが説いたものとはなんであろうか。

『これは苦である』とわたしは説いた。

『これは苦の集起である』とわたしは説いた。

『これは苦の滅である』とわたしは説いた。

『これは苦の滅に至る道である』とわたしは説いた。

とある通りです。

 

結論としては、

わたしの説かないことは説かれぬままに受持するがよい。

わたしの説いたことは、説かれたままに受持するがよい。

ということです。

 

しかし、仏陀の死後、特に根本分裂から部派仏教の時代になり、アビダルマという煩瑣な哲学の論議にふけるようになりました。

仏陀の死後は非我が無我となっていきましたから、無我、つまり主体がないのであれば、因果の果を受ける主体は何か、無我であるならば輪廻はどうなるのか、つまり、自己についてあれこれと論議にふけっていってしまいました。

 

これは、毒矢の喩えで、仏陀が誡めた『霊魂と身体とは同じであるか、別なのかとか、

人間は、死後も存在するのか、存在しないのかなどの涅槃に役立たない、むしろ妨げになることは論議してはいけない』という教えに反するものです。

 

このように、部派仏教が仏陀の真意からかけ離れていったことから、そのアンチテーゼとして大乗仏教は生まれました。

同時多発的に、大乗仏典が作られていきます。

 

しかし、龍樹が現われ、『縁起』という考え方を世界や自己の有り様を解き明かすものとしてしまい、空や無我の理論を構築していきました。

ふたたび、自己に実体があるだのないだのというような、仏陀が禁じた論議ばかりになっていきました。

 

仏陀の真意は、

マールンクヤよ、それではわたしが説いたものとはなんであろうか。

『これは苦である』とわたしは説いた。

『これは苦の集起である』とわたしは説いた。

『これは苦の滅である』とわたしは説いた。

『これは苦の滅に至る道である』とわたしは説いた。

 

では、なにゆえにわたしはそれらのことを説いたのであろうか。

実にそれは、道理の把握をもたらし、正道の実践に基礎を与え、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立つからである。

 

その故にマールンクヤよ、わたしの説かないことは説かれぬままに受持するがよい。

わたしの説いたことは、説かれたままに受持するがよい。

 

これです。

 

しかしながら、仏教なるものは、それを捨ててしまいました。

部派仏教も大乗仏教も、四諦の法を瞑想するところはありません。十二縁起の法を瞑想するところもありません。

 

部派仏教は実践といえば、ヴィッパーサナー瞑想=マインドフルネス瞑想ばかりです。

大乗仏教は、そもそも実践といえば、大乗経典を読誦することばかりです。

鎌倉仏教になってから、念仏か唱題か座禅かのどれか一つを『選択』して絶対視することになりました。

いずれにせよ、仏陀の四諦十二縁起の法は捨てられています。 

『毒矢の喩え』で仏陀が言いたかったこと

仏陀が言った『毒矢の喩え』は非常に有名です。

仏教を少しでも知っている人なら誰でも知っているほどです。

『毒矢に射られた人が、毒矢を射ったのはどんな人か、どのような弓で射ったのか、その矢はどんな形だったのか、それがわかるまでは毒矢を抜いてはいけない、と言ったらどうなるか?その人は死んでしまうだろう。』という喩えです。

 

しかし、この部分だけ切り取られて伝わっていてその前後はほとんど知られていないために、仏陀がこの喩えで何が言いたかったのかが伝わってない気がします。

 

仏陀の弟子で

『世尊は次の質問に絶対に答えてくれない。もし、今度問うて答えてくれないのであれば、私は修行を捨てて世俗に戻ろう』と決意した人がいました。

 

その疑問とは、

①世界は終わりがあるのか、永遠であるか

②世界は有限であるか、無限であるか

③霊魂と身体とは同じであるか、別なのか

④人間は、死後も存在するのか、存在しないのか

この4つでした。

 

仏陀はその質問にたいし、毒矢の喩えを説いて、こう言います。

 

世界が終わりがあるとか、永遠であるとかの見解があっても、清浄の行が成る道理はない。

むしろ、それらの見解があるところには、いぜんとして、生老病死、愁悲苦悩がとどまり存するであろう。

わたしは、この現在の生存において、それらを征服することを教えるのである。

 

その故にマールンクヤよ、わたしの説かないことは説かれぬまま受持しなければならぬ。

わたしの説いたことは、説かれたままに受持せねばならぬ。

 

マールンクヤよ、世界の常住・無常、有辺・無辺などのことは、私はこれを説かない。

なにゆえ説かないのであるか。

実にそれは、道理の把握に役立たず、正道の実践に役立たず、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たないからである。

これ故に、わたしは説かないのである。

 

マールンクヤよ、それではわたしが説いたものとはなんであろうか。

『これは苦である』とわたしは説いた。

『これは苦の集起である』とわたしは説いた。

『これは苦の滅である』とわたしは説いた。

『これは苦の滅に至る道である』とわたしは説いた。

 

では、なにゆえにわたしはそれらのことを説いたのであろうか。

実にそれは、道理の把握をもたらし、正道の実践に基礎を与え、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立つからである。

 

その故にマールンクヤよ、わたしの説かないことは説かれぬままに受持するがよい。

わたしの説いたことは、説かれたままに受持するがよい。

 

 

ここで、仏陀は、知っていても涅槃に役立たないものは説かない、と断言しています。

 

そして、仏陀が説いたこととは四諦だと言っています。

 

 

大乗仏教の人たちは、仏陀のエピソードをさかんに引用しますが、自分たちに都合が悪いものはすべてカットしています。

たとえば、この毒矢の喩えでも、仏陀自身が『それでは、わたしが説いたこととは何であろうか』と言って、四諦の法だけを言うのですが、これでは都合が悪いと思う人たちがほとんどなので、この部分はカットされていることがほとんどです。

 

仏教解説書は、特に大乗仏教側の仏教解説書は、このようなことだらけです。

自分の理論の都合のいい部分だけ切り貼りするのです。

かならず全文を読まなければ、仏陀の真意は絶対にわかりません。

 

 

 

 

 

 

 

仏陀が説いた『縁起』とは

仏陀が説いた『縁起』とは何でしょうか。

今の仏教の『縁起』は、龍樹が作り上げた解釈です。

仏陀が説いた縁起と、龍樹が作り上げた縁起の理論は全く違います。

 

歴史上の仏陀が説いた『縁起』とは、苦の縁って起こる原因のことです。

 

仏陀は、苦の消滅のみを求め続けました。

仏陀は出家した後、苦の原因を探求していきました。

 

そして、『縁起の公式』と呼ばれるものを発見しました。

 

AがあればBがあり、Aが生じるが故にBが生じる。

AがなければBはなく、Aが滅するが故にBが滅する。

 

これが『縁起の公式』です。

 

Bの直接原因、根本原因、です。それがAです。

 

なぜ、そのようなものを知りたいのでしょうか。

それは、Bを滅するためです。

Bを滅するためには、Aを見つけ、Aを滅すればいいと考えたのです。

 

 

つまり、縁起の法とは

 

Aがあれば苦があり、Aが生じるが故に苦が生じる。

Aがなければ苦はなく、Aが滅するが故に苦が滅する。

 

このようなAを発見するためのものでした。

 

 

そして、仏陀は、四禅定の後、宿命智、天眼智、漏尽智の三明によって、因果の法、四諦十二縁起の法を悟ります。

 

過去生を俯瞰して見ることによって根本原因たるAを発見したのです。

 

まず、四諦の法によって、煩悩を滅します(漏尽智)

 

そして、その7日後に十二縁起を観じて、縁の滅を成し遂げ、すべての疑念が消滅し、太陽のように一人立つことになります。