自由意志とは

id:tabotan  

ショーシャンクさん、また一人私やショーシャンクさんと感覚の合う人を見つけたよ。 良かったら「クリッシュナムルティ 、ボーム、禅」というブログ見てください。 禅者が因果だけがあって自由意思などないと言い張っている中でカルマさんという人が反論してて、それが結構いいです。ダンマ(無量)をしっかり掴んで分かっている人です。
 
 
言われて初めてそのブログ見てみました。
仏陀が本当に言ったことを知らずに、大乗仏教の抽象論をぐちゃぐちゃ弄んでいる感じですね。
因果だけあって自由意志などない、など運命論にしか過ぎません。
運命論は仏陀が最も嫌った考えの一つです。
 
すべてカルマのなせるもので、こうなるしかなかったんだ、というのは、それは自分の責任は無くなったと感じられて肩の荷は降りるでしょう。
しかし、最も大切な自由意志まで無くしてしまうとは、最もしてはいけないことです。
これが白隠の言う『たらいの水と一緒に赤子を流す』ということです。
赤子をたらいで洗った水、汚くなった水は捨ててもいいですが、最も大事な赤子を捨ててはいけないのです。
 
 
そのブログの文章を載せます。他人の文章を勝手に俎上に載せます。すみません。
 ↓↓↓
自由意志はない、という表現に、虚無感や無力感、不気味さを感じてしまう人もいるようですが、表層での理解だとそのように感じてしまうものなのかもしれません。

自由意志がない、すべては因縁で動いている、ということをきちんと理解できれば、それは大きな救いになりますよ。
例えばですが。 どうしようもなくアル中な人がいたとします。また、どうしようもなく粗野で短気な人がいたとします。その人たちは、なぜそうなのでしょう?脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるわけです。自分を責めてもしかたないんです。(責める、ということさえ、そうなるしかないからそうなってるんで、それはそれでいいんですけど。)自分を責めてもしかなない、というのは大きな救いですよ。責めずに淡々と治していけるきっかけになれます。また逆に、とても才能があり優秀な人というのも、脳、身体の特性、環境、遺伝などからそうであるということで、その人個人の持ち物でもないのです。

因果しかない、自由意志はない、というのを、理解するのは結構大変です。情緒的に反発するからです。どうしても、自由意志があるような気がしてならないからです。

それは、そうです・・・・・自由意志がないということになれば、無力感を感じますから・・・

ところが、実際は、逆のことが起きます。あらゆることがただの因果だとわかったとき、肩の荷がおります。ホッとします。つまり、努力することがすべて無駄であったということに気が付きます。これは、ホントに楽になります。真理に達する道はないことが、ありがたいんです。あがくのを止めます。あがくのが止めば、真理は目前に現前します』

 

因果しかない、自由意志はない、ですか。すべてはカルマのなせるもの、ですか。

馬鹿馬鹿しい。

仏陀が言ったkamma(業・カルマ)とは、行為、行ないのことです。

行為、行ないと言っても、私たちが思う身体的な行為だけではなく、身口意の行為のことです。

つまり、心の想い、口から出る言葉、身体的な行為 のことです。

仏陀は

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」
                        (『スッタニパータ』650』)

と言いました。

身口意の行為をすることは自由意志です。

つまり、身口意の行為=カルマ をすることは自由意志なのです。

仏陀は、生まれや環境や能力によってバラモンになるのではない、と言っているのです。

真理を行なおうとする意思によってバラモンになると言っているのです。

故に

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

                           『ダンマパダ』

と言います。

清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう

この『汚れた心で話したり行なったりする』『清らかな心で話したり行なったりする』というのがカルマ=身口意の行為です。

カルマに縛られるとかいうのも原意を知らない愚かなことです。カルマ=身口意の行為こそ自由意志なのです。

 

アルコール中毒の人が、「自分がアルコール中毒になったのは、生まれのせい、環境のせい、親のせいであって俺には何の責任もない」と考えれば、なるほど責任感、罪悪感からは解放されるでしょう。

しかし、最も重要な、『自分の自由意志でバラモンにもなれるのだ』という真理を捨て去ってしまうことになります。

『たらいの水と一緒に赤子を流す』という愚かなことです。

 

 私が使うときの『自由意志』とは非常に簡潔です。

それは、『外界に自動的に反応するのでなく、自分が主体的に出していこうとする想い』のことです。

私たちは、そのほとんどの想いは外界=環境に振り回されていて、環境(人など)に反応して自動的に想いが出るのであり、自分で出そうと思って出す想いはほとんどありません。

意識的に出す想いを、私は念(sati)と呼んでいます。

今の上座部仏教では、sati は気づきと訳されていますが、私はそうは訳しません。

外界に、自分の記憶の束が反応する、そのような思考ではなく、外界と関係なく意識的に出す想い、それは自由意思です。

 

 

 

 

赤い実 (123.217.210.189)    

ショーシャンクさん、おひさしぶりです。 愚さんという方のブログに私がコメントした文章の、アル中の人云々のところなんですが。 「責めずに淡々と治していけるきっかけになれます。」というのをきちんと書いているんですけど、なぜそこは抜かして、否定的にだけ捉えようとするのでしょう? あのブログで、愚さんや私が言わんとしているのは。 自由意志はない(因果因縁ですべては動いている)ということが理解できれば、世界と自分に対しての理解が深まり、新鮮な目で世界を見られるようになり行動も変化していく、ということですよ。 知ろうとせずに否定から入ってもしかたないとは思います。

 

 

 

赤い実さん、おひさしぶりです。『愚さんという方のブログに私がコメントした文章』と言う意味がわかりません。赤い実さんはあのブログにコメントしていたのですか?私が引用したのは、その時のブログの一番上にあった文章です。あの文章は、ブログ主が書いたものではないのですか?

それは置いといて、禅であれ、浄土門であれ、ノンデュアリティであれ、『自由意志はない』などというような教えには大反対です。

それは仏陀の教えとは真逆ですし、私が考える限りでは、そのような考えでは人間は最も悪い方向に行ってしまいます。人を無気力にする虚無思想です。あるいは薄っぺらい運命論です。

責めずに淡々と治していけるきっかけになれます』ということですが、アル中を治そうとする意思は自由意思ではないのですか?

アル中を治そうとか、この世をよくしようとか、身体を健康にしようとか、この世をカンバスとして自由に夢を描く、というのも自由意思ではなく、因縁因果とやらに支配されていることなのですか?業縁だとか、因果だとか、そういうものに操られているのが私たち人間だとでも?

馬鹿馬鹿しい。

そんな考えは、本当の仏陀の教えとは真逆ですし、人間から最も大事な『意志』を剥奪し現実から遊離した人間ばかりを増やす誤った考えです。

 

 

 

 

赤い実 (153.223.183.46)    

ブログの文章は。最初の方の部分は私の文章で、「因果しかない、自由意志はない、というのを理解するのはけっこう大変です。」という部分からは、愚さんというブログ主の文章です。 この世界のすべては、因果因縁に拠って成っている。 それは事実ではないですか? それから外れるものなど何もないでしょう。 ということは、自由意志というものは、原理的に「ない」ということですよ。 感情論で、「そんなことはない。」と言ってみてもしかたないです。 すべては因果因縁に拠って成っている、ゆえに自由意志というものはない、というのは、いわば、「世界は実はこうなっている」という設計図を示されているようなものです。 設計図を見て腑に落ちれば人は納得しますよね。 譬えで出している、アル中を治そうとする意志ですが。 ある人が「これは自分の意志である。」と思うことにより救われるのであれば、そう思うことは何の問題もないですよ。 それで救われるなら。 ただ。すべては因果因縁に拠り成っていて、ゆえに自由意志はない、というのは事実だということです。 事実を言っているだけです。
 
 
 
 
歴史上の仏陀、本当の仏陀(ゴータマ・シッダッタ)が説いた「縁起」とは本当はどういう意味か知ってますか?
これは私がずっと言ってきたことで、仏陀の真意は今の仏教のどこにも伝わっていないのです。要するに、今の仏教は仏陀が説いたものとはかけ離れた似非仏教です。
 
縁起と言うのは、苦の縁って起こる原因のこと、その完成形が十二縁起であり、相応部経典や中部経典などのどのパーリ仏典を見ても、縁起とは苦の縁って起こる原因のことです。ゆえに、仏陀が成道したとき『縁の滅を知ったので疑問はすべて消え去る』と言って解脱したのです。
縁が、あらゆる存在を成り立たせるものであれば、『縁の滅』などはあり得ないですね。
縁起とは苦の縁って起こる原因のことであるので、仏陀は『縁の滅』つまり苦の根本原因の滅を知って解脱したのです。仏陀の出家の動機は苦の消滅の探求でした。
もし違うというなら、パーリ仏典をすべて当たってみればいいでしょう。
 
それを仏陀の死後数百年の後に現れた龍樹が、『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない。実体がない。空である。』という独自の理論を打ち立てたのです。
これにより、『あらゆる存在は、他のすべての存在によって成り立っている。自分など無い。自性などない。空である。』というのが仏教の根本だとなっていきました。
 
歴史上の仏陀が説いた言葉に、『あらゆる存在は、他のすべての存在によって成り立っているから自分など無い。自性などない。空である。』というようなものがひとつでもありますか?出してみてください。
それははるか後世の者が勝手に作り上げた理論です。
今では『私たちは他のすべての存在に縁って生かされているの。だって、そうでしょ。食べている米も農家の人が作ったもの、着ている服もその素材を作った人がいる。それには空気も水もいる。人は自分一人では生きていけないの。周囲のものに生かされているのよ。それが縁起。縁起だから自分なんてないの。』みたいなことが仏教の本質だと考えられています。
歴史上の仏陀はそんなことは一言も言っていません。
『縁起だから空』などと言ったことはありませんし、『縁起だから自分がない。自由意志がない。』などと言ったこともありません。
『無常であり(つまり、生じたものは滅するものであり)苦であるものを、私、私のもの、私の本体だと言っていいであろうか?』と言ったのです。
つまり、無常なものは非我と言ったのです。
 
仏陀が説いたkamma(業・カルマ)とは、身口意の行為、行い のことです。
心の想い、口から出る言葉、身体的な行為 のことです。
心の想い、想いにもとづく言葉、想いにもとづく身体的な行為 のことです。
 

生まれによって、バラモンとなるのではない。

 生まれによって、バラモンならざる者となるのでもない。

 行為によって、バラモンなのである。

 行為によって、バラモンならざる者なのである。」

『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。』

 

自らの想い(それに、想いに基づく言葉、想いに基づく行為)によって、バラモンとなるのです。

自らの想い(それに、想いに基づく言葉、想いに基づく行為)によって、現象が現れてくるのです。

ものごと、現象(環境)はその人の想いによって作り出されるのです。影のようにつき従うのです。

もし、因果というなら、意思、想いが因で、物事、現象が果です。

自由意思が因であり主です。ものごとはそれにつき従うのです。

 

その最も主であり原因である自由意思を否定するのは、虚無思想、運命論であり、最も怖ろしい邪法です。

 

今の仏教には仏陀の真意は伝わっていません。

 

そして、シャンカラが起こしたアドヴァイタも本来の意味からかけ離れたノンデュアリティ(似非アドヴァイタ)になっています。

アドヴァイタを名乗っていた人たちがなぜ最近アドヴァイタと言う言葉を使わずにノンデュアリティという名称に変えたか知ってますか?

それは、シャンカラから伝えてきた正統アドヴァイタの人たちから、『そのようなものはアドヴァイタではない。似非アドヴァイタだ。』と強い非難をされたからです。

ノンデュアリティの人は『すべては起こっているだけ。そこには自由意思はない。自分もない。』 と言います。意思をなくして、現実社会に力強く対処する原動力もなくしてどうするのでしょう。

 

どうしようもなくアル中な人がいたとします。また、どうしようもなく粗野で短気な人がいたとします。その人たちは、なぜそうなのでしょう?脳、身体の特性、環境、遺伝的なもの、それらがあいまってそのようになってるわけです。自分を責めてもしかたないんです

赤い実さんが言うような、罪悪感を持たない人、責任感を持たない人、環境や遺伝のせいにする人は非常に増えていますね。

自分の身勝手な欲望のために何人も殺してしまった犯罪者でも、環境や親のせいにして自分に責任はないと言う人も数多いようです。

良心=無量心 に少しでも目覚めると、懺悔の気持ちは沸き上がってくるものです。

それによって、過去の記憶の束がいかに限定されているかを知り、deleteできるのであって、自分の責任など無い、すべては環境のせい、遺伝のせいで、俺が悪いんじゃない、などと考えていたら、罪悪感に苦しむことはないでしょうけど、犯罪者によくある『環境や人のせいにする責任逃れの甘え人間』を増長するだけです。

 

いいですか?人間は自分に起きていることはすべて自分が原因なのです。アル中の人がいて、その人がアル中なのはその人が原因なのです。自らの起きることの原因は自分です。であるので、自分がアル中を治すこともできるのです。

自分以外のものがすべての原因で自分の意思などなくアル中になってしまったのなら、自分の意思でアル中から抜け出すことなどできないですよね。

 

自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?

自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

                   (ダンマパダ 160)

 

 

 
 
赤い実 (123.217.205.19)    
たびたびお邪魔します。 どうも話がかみ合いませんね。これも因果因縁ということなんでしょうけど。(笑) 私が言っているのは。世界は実はこうなっているよ、という設計図ですよ。 自由意志というものがあるように見えているけれど、すべては因縁因果に拠って成っている、ということ。 それは、自然現象だけでなく人間界にも貫いていますよね?という話です。 何も、普段から、「自由意志なんてない。」なんて言わないですし、自分の責任を放棄してもいい、だなどとまったく言っていません。 ショーシャンクさんにとっては、そういうふうに認識されるもの、なのでしょうけれど。 自灯明というのは、四念処から得られるものだという話をたしかされていましたよね。 ここでも書かれていますが、無常なものは非我であるということを明らかにしていくのが四念処ですよね。 無常なものは非我ということは、身体や思いというのは非我ですね。 それが理解できれば、そこに新しい力が自ずと湧いてくる、ということ、これは、「自由意志はない。」と理解できれば、逆に自ずとそこに新しい別の力が湧いてくる、というのと同義になりますよ。 と、言っても、認めたくはないでしょうけれど。 言えるのは。 ノンデュアリティも玉石混交で、きちんとしたものは本も重版されて広まっていて、多くの人に役立っているということです。 それは、ショーシャンクさんがノンデュアリティ(非二元)を訝しく思おうと事実ではあります。 どういうことがそこで言われているのかを、先入観なしに見てみるか否かは、どれだけ、「記憶の束からの束縛」を受けているか否かの試金石になるかもしれません。
 
 
ですから、『すべては因縁因果に拠って成っているから、自由意志なんてない、自分なんてない』というのは仏陀の真意ではないと言っているのです。
むしろ真逆です。
環境などの『他』を主としてはいけないのです。
『他』に従属し、反応するのは記憶の束です。
そのようなものをdeleteして主体的な想い、意識的に出そうとする想い、自由意志こそが重要なのです。
自由意志がものごとを作り上げるのです。
因縁因果などという薄ぼんやりした曖昧なものなどに支配されてはいけないのです。
因縁因果と書いてますが、具体的に何ですか?
 
環境に従属した想いを出す人は多くいます。
環境にとらわれずに主体的な想いを出す人もいます。
無量からの想いは自由意思です。
条件付けられたりはしない。
 
新しい力が自ずと湧いてくる』のは自由意思ではないのですか?
責めずに淡々と治していけるきっかけになれます』と書いてますが、アル中を治そうというのは自由意思ではないのですか?
 
四念処とは、身⇒受⇒心⇒法 です。
身は滅するもの、腐っていくものだと観じること。
受は身の六入によってあり、精神を縛るもので苦であることを観じること。
心はその時々の受によってふわふわと起こってくる思いでとりとめもなく生じ滅するものだと観じること。
法とは、観念、記憶の束という思いが集まったもので、私ではないとdeleteすること。
 
四念処⇒択法⇒精進 の択法とは
四念処の身⇒受⇒心⇒法の法を捨て、仏陀が説いた理法を選択してそれを念=記憶して留めること。
 
一言で言えば、環境に従属した思いを捨て、主体的な思いを出すことです。
それが自己を主とすること、自由意思です。
 
 
赤い実 (123.217.215.227)    
すみません。質問です。 さきほど書き忘れました。 >いいですか?人間は自分に起きていることはすべて自分が原因なのです。 と書かれています。これは、もちろんご自分にも貫かれているとお考えでいいですよね? であればですが。ヤフー掲示板にいろんな人が来てトピが荒れたようになったのも、ショーシャンクさんが原因とお考え、ということでいいのですね? 他の誰一人として荒れた原因になった人はいない、と考えていらっしゃる、そして当時もそのように考えていらしたということですか? このブログで、「ここならアラシも来ないので。」という文章を去年の夏ごろでしょうか、文中に書かれているのを見たんですよ。 アラシが来ていた、と認識していたということと、「自分にだけ原因がある」というのは両立しうるんでしょうか? なにか、体裁を繕って綺麗ごとを言っているようにも感じられはします。  もちろん。ショーシャンクさんのあのトピには大勢の人々がやってきて、それでも真摯に対応されていたと思うのです。 荒れた原因というのは、ショーシャンクさんだけにあったのではなく、そういう因縁因果に拠り成ったのだと私は思いますよ。 ただ、これは。誰にでももちろん、私ももちろんなのですが、「自分のどこか良くなかったのか。」というのは、どれほど痛くてもその都度、考えてみる必要があるだろう、ということです。 このあたりの話を掲示板の最後のあたりで、ショーシャンクさんとしたかったのですが、話の持って行き方が不味くて伝わらず、怒りを買ってしまうだけになってしまったのは、少し心残りではありました。 今のこの話も、どこまで伝わるか自信はないのですが・・・。 めんどうでしたらスルーしていただいてかまいません。
 
 
その質問にもすでにはっきり答えています。
大事な日に雨が降るのも、晴れるのも、つまり自分に起こるすべての環境は自分が作り上げたものだと考えています。
つまり、想いが主となり、ものごと、環境が影のように現れてきます。
しかし、雨の時は傘をさします。想いで雨の環境を引き寄せたからと言ってずぶ濡れにはなりません。傘をさすでしょうし、軒下に逃げ込んで雨宿りするでしょう。
同じく、誰かが刃物で襲い掛かってきたら、落ちている棒を取って防御し戦うでしょう。あるいは全速力で逃げるでしょう。あるいは警察を呼ぶでしょう。刃物で刺されるままになどしません。
すべて自分の想いが現象になって表れてくるので、卑小な思いばかり出していると卑小な環境になって表れてきます。だから、卑小を離れ無量に近い思いを出していこうとするのです。しかし、卑小な思いも多く出しているのでそういう現実が現れます。それだけのことです。
アラシが来ると言っても、浄土真宗の寺のmicだけでしたね。アラシは。
これは酷かったですね。
30も連続投稿を続けて私の投稿が表示されるのを邪魔していました。
親鸞を否定することを私は書いていたので、浄土真宗のその人はそういう嫌がらせを延々と続けてきました。これは私の信念が引き寄せた出来事です。
いくら迷惑投稿をされても、私は同じ主張をしていました。
hさんは、最初は同じく迷惑投稿していましたが、最後には、私だけといっていいほど丁寧で教養のある投稿をされるようになりました。
 
micのようなアラシも雨と同じです。雨のかからないところに雨宿りしたり傘はさします。
 
 
赤い実 (123.217.211.184)  
>因縁因果と書いてますが、具体的に何ですか? すべてのものは、因縁因果に拠り成っている、ということですよ。 山も海も身体も心も。 >『新しい力が自ずと湧いてくる』のは自由意思ではないのですか? >『責めずに淡々と治していけるきっかけになれます』と書いてますが、アル中を治そうというのは自由意思ではないのですか? これね。自然と湧いてくるものなんですよ。 すべての思い、こうしようという決意みたいなものも自然と湧いてくるものなんです。 自分が考えている、と通常は考えられるでしょうけれど、そうではなく自然と湧いてくるものです。 瞑想、坐禅をする人ならわかりそうなものですが。 で、何かを決意した、その決意を、「自分が決めた。」と思い、そう思うことによっていい気分になれるならそれでいいんじゃないですか、ということを言っています。 原理的に言って、非我であるものが自ら決定できますか? それとも、わざわざ四念処までして非我を知ろうとするのは、形だけのものですか? 条件づけられたものから湧いてくる、湧いてきたものを、「自分が決定した。」とするのは、方便としては有効でしょう。 しかし、原理としては、非我であるのだから、決意も湧いてくるものである、という捉え方を私はしている、という話です。 ショーシャンクさんはショーシャンクさんの認識のされ方で別にいいのではないでしょうか。 私の見解に説得しようというつもりはありません。 もしかしたら理解していただけるかな、と思い、私の投稿が引用されていたのでコメントしには来ましたけど。
 
 
だから、赤い実さんがいう、その因縁因果とは何ですか?と聞いています。
山、海、身体、心、が
どのような因縁因果で成っていると考えているのですか?
 
 『こうしようという決意みたいなものも自然と湧いてくるものなんです
だから、それが自由意思ではないですか。
外界に条件付けられて反応する思考でなく、自ら起こる思いは自由です。
つまり、自らに由るということです。
 
もう一度よく読んでください。
理解できないのなら、話すのは時間の無駄です。
条件付けられたものから沸き上がるものが自由意思だといつ書きましたか?
人の文章はちゃんと読んで理解してから投稿してください。
無我、非我だから何もないというのが虚無思想です。
限定という我 がないのが非我です。
限定がないとき無量となる、その無量から起こる想念は自由意思です。
ここまで何度も言ってわからなければ無駄ですね。
 
 
  赤い実 (123.217.211.184)    
お手数をおかけしております。 お答えいただきありがとうございます。 >大事な日に雨が降るのも、晴れるのも、つまり自分に起こるすべての環境は自分が作り上げたものだと考えています。 そうですか?  ショーシャンクさんの「思い」って天気まで作り出せる、と考えていらっしゃるのですか? 私はそんなものはない、と思いますよ。 因縁因果に拠って、天気は変化するでしょうけれど、自分の思いとは関係ないでしょうね。 >すべて自分の想いが現象になって表れてくるので、卑小な思いばかり出していると卑小な環境になって表れてきます。だから、卑小を離れ無量に近い思いを出していこうとするのです。しかし、卑小な思いも多く出しているのでそういう現実が現れます。それだけのことです。 人間関係には、思いが影響を及ぼすのは当然あるでしょうね。 卑小な、と書かれていますが、具体的にどのように卑小な思いが、あの掲示板の状態に影響を及ぼした、と考えられているのですか? 雨宿り、傘をさす、ということを否定するつもりはありません。
 
 
これもすでに書いているでしょう?
本当に文章をちゃんと読んでから質問してますか?
『アラシが来ると言っても、浄土真宗の寺のmicだけでしたね。アラシは。
これは酷かったですね。
30も連続投稿を続けて私の投稿が表示されるのを邪魔していました。
親鸞を否定することを私は書いていたので、浄土真宗のその人はそういう嫌がらせを延々と続けてきました。これは私の信念が引き寄せた出来事です。
いくら迷惑投稿をされても、私は同じ主張をしていました。』
こう書いてますよね。
つまり、親鸞を否定するという私の信念が引き寄せたことです。
それはどんな嫌がらせをされても、曲げませんでした。
自分の信念に従わずに親鸞凄いと言えば嫌がらせはなくなったかもしれませんが、
私はそうはしませんでした。
micに関してはそれが原因です。それはすでに書いているのですが。
質問をするときはちゃんと読んで理解してからしてください。
 
 
ところで、赤い実さんは、私のブログは見ませんから、と言ってませんでしたか?
どうせ嘘だろうとは思っていましたが。
 
『すべては因縁因果で起こっているだけ』なのなら、ヤフー掲示板でもしてましたが、なぜ赤い実さんは、人のスレやブログにまでわざわざ来ていろいろ言おうとするのでしょう?
すべて起こっているだけなんでしょ?
何かを自分の力で変えようとする自分の心を少しは見つめた方がいいですよ。

 

 

赤い実 (123.217.211.184)    

>だから、赤い実さんがいう、その因縁因果とは何ですか?と聞いています。 >山、海、身体、心、が どのような因縁因果で成っていると考えているのですか? ほんとにわからないんですか? 普通に考えればわかることじゃないですか。 例えば。ショーシャンクさんが自分のトピに親鸞批判を書いたので、みちおさんが来た。 来た理由は他にもあるのかもしれませんが、とりあえずそれですよね。 それは因果ではないですか。 山は、海から隆起してできた陸が、さらに火山活動などで出来たものですよね。 風雨に削られ変形したりもしていきます。 こうした、自然現象、人間界のことすべては、因果因縁に拠り成っている、ということを言っています。 >『こうしようという決意みたいなものも自然と湧いてくるものなんです』 だから、それが自由意思ではないですか。 ですから。そうしたものを「自由意志だ。」と思いたいなら思ったらいい、それで自分が納得がいく、救われるなら、と書いていますよね。 >限定がないとき無量となる、その無量から起こる想念は自由意思です。 沸き上がってくるものは自分の意志ではないですよ。原理的に言えばそうなります。 しかし、それを自由意志と呼びたいならそれでいいのではないですか、ということです。 前にも書いてますが。 非我であることがわかると別の力が沸き上がってくる、というのはたしかにそうで、それを自由意志だと取るか(ショーシャンクさんの意見)、いやそれも自由意志とは言えない(私の意見)という違いがあるだけ、だと思いますよ。 話がかみ合わないようですので、これについては終わっていただいてこちらとしては構いません。
 
 
ああ、つまり物理現象の原因結果のことを言っているのですね。
山は地球の物理現象により隆起してできたと。因縁因果でなるようにしかならなかったと。
しかし、その山の所有者の意思によって、その山を全部削って平地にして住宅地分譲するか、その山のままで置いておくか、どちらの判断もできる場合、その人個人の意志で山が全部無くなったりあったりしますね。
なるようにしかならないわけではなく、人間の意志、判断で無数の選択肢があり、すべては不確定であり、その変化の可能性は無限です。
つまり、このように物理的なことだけで考えても、人間の意志によって、つまり人間の意志を原因としてどのようにも主体的に作り上げることができるではないですか。
因縁因果だから自由意思がないなどと言うのは、全くの空論です。
まあ、赤い実さんの反論も予想できます。
その山の所有者の判断も条件付けられてそういう判断をするしかなく、山がなくなるのも因縁因果でそうなるしかなかったんだ、山の所有者の自由意思などないんだ、というのでしょう。
そういうことであれば、薄っぺらい運命論にしか過ぎませんね。
仏陀の本当の教えがこのようなくだらない理論と勘違いする人が増えないのを祈るばかりです。
 
まあ、平行線ですからこの辺で終わりにします。
自由意思がないなどと言うのは、無我という言葉を勘違いして虚無思想に突き進んだ仏教の弊害だと思っていますよ。
やはり、本当の仏陀の真意を復興させなくてはと切実に思いました。
 
赤い実さん、これ以上は平行線なのでこれで終わりにしますね。
 
 
 
 
 
 

 

レス

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ショーシャンクさんこんばんは。 また某M掲示板見たら、揃いも揃ってあまりにピント外れだったのでここに書きます。 智慧について言えば私なら一言で言えます。 智慧とは自分は無知だと体全体で気付いて後、全身で一個の問いになって天に問う事。 ショーシャンクさん私の智慧の定義はどうですか? クリッシュナムルティ ならこうゆうでしょう。 ありのままの真理を見る自由と知恵はその真理の自覚である。 うん、まぁこれも分かります。 つまり思考が完全に停止した時にありのままの真理を見る自由があるのだと思います。 空の世界と現象界と第3の無常の世界 そして仏陀のいう中道とか四無量心はここだと思います。ショーシャンクさん違う?
 
 
たーぼーさん、おはようございます。
私は判断する立場にはないですが、いいのではないでしょうか。
『全身で一個の問いになって天に問うこと』は、臨済禅であれば公案、曹洞禅であれば只管打坐と言うことだと思います。
特に白隠が強調したことですね。
 
仏陀のいう中道とは八正道のことで、八正道とは正見=智慧に基づく生き方、そして智慧とは無量心の自覚と考えていますので、『仏陀のいう中道とか四無量心はここだと思います』というのはその通りだと思います。

大乗仏教はなぜ興ったのか

仏陀の死後、仏教はその教説の独自性、優越性を強調する方向に行きました。
これは、どの宗教でも見られることで、自分が信じる宗祖の教えが他の教えより優れていることを強調したいというのは
その弟子たちにありがちなことです。
仏教も、どんどん、その方向に進んでいきました。
特に、その時代の精神フィールドそのものだったバラモン教との差別化や優越性の強調は大きくなっていきました。
例えば、最古層の仏典では、ゴータマ・シッダッタを『バラモン』とか『ヴェーダの達人』とか呼ぶ場面は多いですが
時を経るにつれ呼称は『尊師』などとなっていきました。

『諸法非我』についても、『我』がバラモン教のアートマン思想と見なされ、アートマン否定、バラモン教否定という意味での『諸法無我』に意味が変わっていきました。

ブラフマンもアートマンも存在の根源という意味合いが強く、それを否定していったために灰身滅智の方向へと仏教は傾いていきました。
根本分裂以降、部派仏教の時代になると、無我であれば因果の果を何が受けるのかという根本命題が出てきて、
それに対して煩瑣な理論ばかり盛んになっていきました。

仏陀の在世中には、無量心はbrahmam vihara という究極の境地だったと思いますが、
後世の仏教はブラフマンを宇宙の根源ではなく、色界最下層の梵天にまで貶めたため
無量心も色界最下層の境地とされ、解脱には至らないとされました。

このような状況の時に、『こんなものは仏陀の説かれた法ではない』『仏陀はもっと大いなる法を説いたのだ』と主張していったのが
大乗仏教運動だと考えています。
それは僧院の中で反骨的な僧が新たに大乗仏典を書いていったところから始まり、
それが徐々に広がっていきましたが、教団ができるのは5世紀以降です。
法華経にあるように、僧院を追い出されたりした『法師』という人たちが中心に小さな教団ができていったと考えます。
それより前に大乗仏典は中国に渡り、インドよりも中国で流行り出します。


このように、私は、大乗仏教は、灰身滅智に傾き、煩瑣な理論にふけっていた部派仏教のアンチテーゼ、
仏陀の真意の復興運動として起こったと考えます。

 

中心のない大海

id:tabotan  

たーぼーです。 ショーシャンクさんこんばんは。 全ての現象は心が作り出すという気持ちが日に日に強くなってきてます。 そうすると、日本の大乗仏教が仏陀の真意から外れて、こんなに歪んでしまったのは、私の心が歪んでしまったからではないかと思うんです。 つまり仏法といえども私の心から独立したものではなく、私の心が映し出した現象に過ぎないと思います。 最近、何か他の禅などをスマホで見ていると、ちょっと以前と変わってきて、何かまともになってきたというか私好みに変わって来てるような気がしてます(笑 気のせいでしょうか?
 
たーぼーさん、おはようございます。
心が極限まで広がっていけば、宮澤賢治のように、世界のすべては自分の心の現れだと本当に感じることができるのだと思いますが、現実には、肉体を持ち感覚を持っているわけです。この、感覚⇒経験⇒記憶⇒思考⇒自我 という形成作用は止むことがありません。ここを放置していて、世界を動かす気分になっても、それは気分だけになってしまって現象として現れません。
無量心とは、喩えると、無限の大海です。現象は、その大海の上に浮かんでは消える波です。無限の大海には中心がありません。中心がないから無限なのです。
ただ、私たちは肉体を持ち感覚を持ち記憶の束を持っています。それを『私』と呼んでいます。つまり中心を持っているのです。
 
仏教つまり、大乗仏教や部派仏教を問わず、過去の記憶の束をdeleteする方法を捨て去ってきました。自我という中心を洞察する方法も捨てています。
 
今思うのは、いくら頭や気分で『ワンネス』だと言っても、それはただの気分なので、精神を現実から遊離させるだけになってしまうということです。
 
ノンデュアリティの指導者で、『すでに目覚めている』などの著作もあるネイサン・ギルという人は自殺しました。病苦を抱えていたとのことです。
いくら口で『私はすでに目覚めている』『私など無い』『あるのはワンネスだけ』『すべては起こっているだけ』などという悟りすましたような言葉を並べても、病苦で自殺してしまうのです。
ノンデュアリティにしても、今までの仏教にしても、何かが違うと言わざるを得ないです。
想像上の広がりではなくて、広がりを限定している中心を洞察することで中心を消滅し無限の大海に到達すること。
これが本当ではないかと思っています。

仏陀の真意=無量心 から解釈する法華経自我偈

私は歴史上の仏陀の真意を探求してきました。最古層の仏典からわかった仏陀の真意は素晴らしいものでした。もちろん、一時的で、まだずっとその無量にあることはできてないですが、垣間見た無量から法華経を訳してみました。

大乗仏典は、仏陀の教えによって目覚めた人たちが次々と創作したものです。そのため、筏はないのですが、芸術作品としては素晴らしいものです。

なぜ、大乗仏教が生まれたのかもはっきりとわかるようになってきました。それについても、この『今まで絶対に書けなかったこと』で書いていきます。法華経全二十八品の全訳もいつかはしたいと思っています。

歴史上の仏陀の真意から大乗仏典を見ることができれば、小乗大乗という争いがなくなり、仏教の全肯定に進むことができるかもしれません。

今回、法華経の真髄の中の真髄、法華経如来寿量品自我偈について、仏陀の真意、無量からの訳をしてみます。

 

 

 

 

法華経如来寿量品自我偈】仏陀の真意、無量からの訳

 

私は、実に無量百千万の昔から無限の大海であるのだ。

ある時には仏陀として現れ、ある時には諸仏として現れ、また様々な覚者として現れ、無量劫において常に法を説いて無数の衆生を無量の境地に入らしめてきた。

衆生を救うために、方便をもって、波として現れ 波として滅を現じる。

しかし、本当は滅度などしておらず、常に無限の大海として此処に住して法を説いている。

私は常に此処に住しているが、顛倒の衆生は、その顛倒妄想によって近くても見えないのだ。

衆生は、私が死んだのを見て広く舎利を供養し、皆強く恋慕し、渇仰の心を生ずる。

衆生が強く信じ、正直で柔らかい心となり一心に仏を見たてまつらんと欲して自らの身命を惜しまないならば、その時、私と私の弟子は共に霊鷲山に現れる。

その時、私は、衆生に語る。

私は実に無限の大海であり、常に此処にあって滅したことなどなく、方便力をもって波としての生死を見せたのだ。

他の国に恭敬し信じる衆生があれば、私はそこに現れ無上の法を説く。

汝等はこれを聞かず、ただ私が滅度したと思っている。

私が見るに、もろもろの衆生はみな、苦海に没している。

故に、仏陀の個体を滅して姿を消し、衆生に渇仰の心を生じさせる。

衆生に恋慕の心が生じれば乃ち出でて為めに法を説く。

神通力はこのようである。

永遠の昔から、私は常に霊鷲山やその他のあらゆるところに遍満し、山となり、川となり、海となり、星となり、宇宙となって輝いている。

衆生が生滅するこの世を見て世の終わりと嘆くときも、我なる大海に浮かぶ波は穏やかで光り輝いており、天人は充満し、園林や諸堂閣は種々の宝で荘厳され、宝樹には花が咲き誇り果実がたわわに実っていて、衆生が遊楽している。諸天は天鼓を撃って常に妙なる音楽を鳴らし曼陀羅華を仏や衆生に降らしている。

我が大海に浮かぶ波はこのようであるのに、諸々の衆生は悪業の因縁のせいで阿僧祇劫を過ぎても三宝の名前さえ聞くことができず憂怖や苦悩という大火に焼かれている。

しかし、心が柔和でまっすぐになれば、その瞬間、私が無限の大海でありここにあって法を説いているのをたちまち見るであろう。

 

仏の慧光は無数劫に無量を照らしている。

汝ら智がある者よ、ここにおいて疑いを生ずることなかれ。まさに断じて永遠に疑いをなくしてしまえ。仏の言葉は真実なのだ。

医師が自分の狂った子を治すために、死んでいないのに死んだと言って方便を使って救ったように、私もこの世の父でありすべての苦悩を救う者なのだ。

凡夫は顛倒しているがゆえに、無限の大海が今ここにあるのに見えないのだ。凡夫は、ずっと仏陀という個体が存続すると考えるとそれに頼り、おごりの気持ちを生じ、怠けて五欲に執着し、悪道に堕ちるだろう。

私は、常に衆生がどのくらい心境が進んでいるかを知って、それに応じて種々の法を説く。

私は、無限の大海として、常にこう念じている。

すべての衆生が無量の境地に達し、無限の大海になりますように。

縁起・・・歴史上の仏陀が説いた本当の縁起とは

仏教がほかの教説と違うのは【縁起】を説いたことだと言われています。

しかし、現在、仏教で説かれている縁起の解釈は、歴史上の仏陀ゴータマ・シッダッタ)が説いたこととはかけ離れています。

それでは、仏陀は何を説いたのでしょうか。

 

仏陀が目指したのは、苦の完全な消滅でした。

これは、仏教の根本たる四諦の法が、もっぱら苦と苦の生滅についての理法であることからも明白です。

 

仏陀は、苦を完全に消滅させるために、苦の原因を探求していきました。

何故、苦の原因を探って、苦を消滅させようと思ったのでしょうか。

 

『それ』があれば苦があり、『それ』がなければ苦がない。『それ』が生じれば苦が生じ、『それ』が滅すれば苦が滅す。・・・

厳密にこのような『それ』を見出すことができたなら、『それ』を消滅させれば苦を滅することができると考えたからです。

 

『それ』を滅したときに、苦が完全に滅する、そのようなものを探求していったのです。

 

縁起とは、縁りて起こることです。

歴史上の仏陀が説いた縁起とは、苦の縁りて起こる原因のことです。

その完成形が十二縁起です。

それ以外の縁起は歴史上の仏陀が説いたことではありません。仏陀がなくなって数百年も経って誰かが勝手に違う意味を付加したものです。

 

縁起とは、苦の縁って起こる原因のことであるからこそ、仏陀が成道したときに繰り返し十二縁起を順逆に観じ、

『縁の滅を知ったので、疑念はすべて消え去る』と言ったのです。

 

もし、後世の仏教解釈のように、縁起とは『あらゆるものはそれ以外のすべてのものに縁ってできている』というものであれば、どこまで行っても『縁の滅』というのはあり得ないですね。

『縁』『縁起』が苦の縁って起こる原因だからこそ、仏陀は成道の時に『縁の滅を知ったので、疑念はすべて消え去る』と言ったのです。

 

 

 

 

天上天下唯我独尊

私は、『天上天下唯我独尊』の伝説は、仏陀が成道してから初めて遇ったウパカに対して答えたときの偈から来ていると思っています。

【われは一切勝者、一切知者である。
一切の法のために縛せられず、すべてを捨てて、渇愛尽きて解脱した。
みずから覚りて誰をか師といおう。
われには師もない。等しい者もない。
この世にはわれに比すべき者はない。
ただひとりなる正等覚者にして、清く涼やかなる涅槃を得たのである。】

この【この世にはわれに比すべき者はない】が
天上天下唯我独尊】の伝説になったと見ています。

仏陀の死後、急速に、仏陀の神格化や他の教えとの優位性、独自性の強調が進んでいきました。

しかし、歴史上の仏陀は、ウパカの『師は誰か』という質問への答えとして、『私には師はなく等しい者もない。無上の悟りを開いたのだ。』と言ったのです。

そして後世、仏陀が生まれた直後に『天上天下唯我独尊』と宣言したという伝説ができていきます。

質問の答えとしての偈の一部だけを切り取って、生まれてすぐ『天下で唯、我だけが尊い』と宣言したことになりました。

仏教なるものができていく過程において、このように歴史上の仏陀の真意とは変質していくことが起きたと思っています。


というのは、ウパカとの対話には続きがあります。
ウパカが仏陀にこう問います。
『尊者よ、あなたは何によって、自ら一切勝者であると認めるのであるか?』

仏陀
『もろもろの悪しき法に勝てるが故に
われは勝てる者と称するのである。
なんじ、もろもろの煩悩を滅ぼさば
われとおなじく勝者と称するがよい。』
と答えます。

仏陀の真意、そして仏陀の教えの本質は、
この仏陀が言った言葉にこそ現れており、
煩悩を滅すれば自分と同じ勝者なのだ、ということです。

後世にどんどん進んでいった、仏陀の神格化、特別化は
仏陀の真意から遠ざけてしまうものだと考えています。

縁起

仏陀の説いた縁起とは、苦の縁って起こる原因のことです。

これあればかれがあり、これが生じればかれが生じ
これがなければかれなく、これが滅すればかれが滅す

この四つの定理を使って、苦の原因を究明していきました。

苦の消滅を目指して出家した仏陀は、
これあれば苦があり これが生じれば苦が生じ
これがなければ苦がなく これが滅すれば苦が滅す
というものを徹底的に洞察していったのです。
それが縁起です。

そして、その完成形が十二縁起です。

ゆえに、原始仏典に仏陀が説いている縁起の法は十二縁起を完成形とし五支縁起などの省略形はありながらもすべて『苦の縁って起こる原因』のことです。

 

十無記

>質問の主旨からはずれますが、私はこの「無常・苦・非我」が真理として観るべきものであるかどうか疑問に思っています。
もし真理ならなぜ十無記の中に「“世界が無常である”とは、わたくしの記説しなかったことである。」が入っているのか?



マールキヤプッタが抱いた10の疑問とは、その当時のインドにおいて盛んに議論されていた哲学的、形而上学的な難題でした。
インド人は、特に古代においては高度に哲学的であり、そのような哲学的な議論が盛んだったのです。

その10の哲学的難題とは
1.世界は永遠であるのか(時間的無限論)
2.世界は永遠でないのか(時間的有限論)
3.世界は無限であるのか(空間的無限論)
4.世界は無限でないのか(空間的有限論)
5.生命と身体は同一か (霊肉同一論)
6.生命と身体は別個か (霊肉相異論)
7.如来は死後存在するのか
8.如来は死後存在しないのか
9.如来は死後存在しながらしかも存在しないのか
10.如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

つまり、時間と空間についての哲学的な議論と霊魂と肉体についての形而上学的な議論なのです。

ですから、
世界は永遠であるのかないのか=時間は無限か有限か
という哲学的な議論と
仏陀の説いた『すべての形成されたものは無常である』ということとは全く違うものであるのです。

相応部経典22・97に
爪の上に土をのせて語る場面があります。

弟子が『この世の物象にて常恒永住にして変易しないものがありますか』と聞くと
仏陀は『比丘よ、この世には、常恒永住にして変易しないものは、少しもない』と言って
爪の上に土をのせて
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのである。』
と示しました。
そして
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのであるが故に、私の教えるところに従って苦を滅することができるのである。』
と言われたのです。


マールキヤプッタの質問とは
『時間は無限であるのか』という形而上学的な命題であり
仏陀の説く『生じたものは滅するものだ』という理法とは何の関係もありません。

 

 

 

原文では
sassato loko 世間(世界)は恒久(永久)か
asassato loko  世間(世界)は恒久(永久)でないか

この問いは、つまり、この世の終わりが来て何もない状態になるのかならないのか、という意味の問いです。
この世界に終わりがあるかどうか、です。

仏陀の言う
sabbe samkhara anicca
すべての形成されたものは無常である

というのは、生ずる性質を持つものは滅する性質を持つ、ということであることは初期経典にあり、最初期はこの一言を聞いただけで解脱した人がかなりいたことが記されています。

人間を見ても、これまでの長い歴史でも、『生じたものは滅する』という理法から逃れられた人はいません。みんな死んでいます。
しかし、生じるものも次々いますので、いまでも人間はいて世間は存続してます。
しかし、今生きている人間は当然すべて滅していきます。
生滅の法から逃れられる人はいません。

このように、世間が永久に続くのかどうかということと
『生まれたものは必ず滅する』という理法とは全く違うことなのです。

 

 

集諦

>ところで、お伺いしますが、四諦の集諦には三種の渇愛の集まるさま(ようす)が説かれ、滅諦には三種の渇愛の滅するさま(ようす)が説かれています。
この渇愛(煩悩)と無常・苦・非我はどのように関係づけられているとお考えでしょうか。よろしければご教授ください。



十二縁起の順観が、四諦の集諦です。
十二縁起の逆観が、四諦の滅諦です。

それをごく短く簡潔に表したものが『マハーヴァッガ』などのこの文です。

比丘たちよ、集諦とは次のごとくである。
後有をもたらし、喜びと貪りとともにあり、随所に歓喜する渇愛である。それは、欲愛・有愛・無有愛である。

比丘たちよ、滅諦とは次のごとくである。
この渇愛を余すところなく離滅し、放擲し、解脱し、愛著のないことである。


仏陀の説いた、無常(生じたものは滅するということ)、苦、非我の理法がわからないので、無意識的に『私』という好き嫌いのフィルターを作っているのです。

受(感覚)を感じ、その感覚を快か不快かに無意識に分けています。
快の感覚は、長く感じていたいし、繰り返し感じることを望みます。
不快の感覚は、すぐでも排除し、嫌悪していきます。
快の感覚は、快楽の想念となります。
不快の感覚は、嫌悪の想念となります。
想念が繰り返すことによって、観念となります。
その対象の観念に執着するようになります。

これが十二縁起で言う
受⇒愛⇒取  です。

これが私たちが苦の集積に向かう激流に巻き込まれる様です。

受・愛・取が精神を束縛する鎖であり、苦そのものだということが本当にわかっていたら、激流には巻き込まれません。

すべては、触れる対象が、苦でなく快楽であり、非我ではなく私のものだと考えることによって、苦の集積に流されていきます。

 

 

 

 

 

 

八正道

相応部経典45.1『無明』にこうあります。

 



比丘たちよ、無明がまずあって
無明に従う無智者によって邪見が生じる。
邪見によって邪思が生じる。
邪思によって邪語が生じる。
邪語によって邪業が生じる。
邪業によって邪命が生じる。
邪命によって邪精進が生じる。
邪精進によって邪念が生じる。
邪念によって邪定が生じるのである。

比丘たちよ、明がまずあって、もろもろの善法が生じ、さらに慚と愧とがこれに従うのである。
比丘たちよ、明にしたがう智者において正見は生じる。
正見によって正思が生じる。
正思によって正語が生じる。
正語によって正業が生じる。
正業によって正命が生じる。
正命によって正精進が生じる。
正精進によって正念が生じる。
正念によって正定が生じるのである。

 

 




つまり、正見=正見解 こそは、明=無明の反対=慧 であるということです。
そして、正見=慧 に至る過程で、慚と愧を経るのです。
無明というのは、四諦を知らないこと、具体的には形成されたものは無常であり苦であり非我であることがわからないことです。
明=慧 というのは、形成されたものが私ではなく、無量心こそが本来の境地だと分かることです。

八正道とは人間の頭で考えた倫理道徳の8つの項目ではありません。
究極の境地=智慧 に基づいた思考、言葉、行為ということです。

 

 

  八正道  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 20:43 No.55591

クォークさん、こんばんは。

>正観察とは五取蘊を無常・苦・空、そして非我・非我所であると観察することだといいます。


その通りですね。
歴史上の仏陀が繰り返し言った言葉があります。
それは
『無常であり、苦であるものを我、我が物、我が本体と言っていいであろうか』ということです。

この言葉からすると、仏陀の教えの根幹は、無常・苦・非我 であることがわかります。

四念処も、自分の肉体・感覚・思考・観念 が、無常・苦・非我であることを洞察することだと思います。


>ところで、八正道の要素である正念は四念処の実践でもありますよね?


確かにそれでもいいと思いますが
私はむしろ
八正道の、正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、
つまり正見以外の7つは
正見に基づくものだと考えています。

正見にもとづく一瞬一瞬の思い
正見にもとづく言葉
正見にもとづく行為
正見にもとづく生活
正見にもとづく精進
正見にもとづく理法を保持し繰り返し念ずること
正見にもとづく正念への全面的な集中

と考えた方が適切なような気がしてます。

四念処

 『涅槃へ至る一乗道』と歴史上の仏陀が言った四念処について、今の時点での私の解釈を書きます。あくまでも私独自の解釈ですので、全く間違っている可能性も高いですが、今思っているところまで書いておきます。


私は、四念処観とは、身・受・心・法において、無常であり(生ずるものは滅するという生滅の法)、苦であり、非我であるという仏陀の理法を観じていくことだと思っています。

四念処の最後『法』が七覚支の『択法』につながり、『四正勤』につながると考えます。

まずは、四念処とは、自分の身(肉体)、受(感覚)、心(思考)、法(記憶や観念)につき、どれもが『私ではない』と切っていくことです。

長くなりますので、非常に簡潔に言いますと、
身(肉体)は、自分の肉体は死体のように腐って朽ち果てる性質のものであることを観じ、『私ではない』と観じます。
受(感覚)は、苦受・楽受・非苦非楽受がありますが、そのどれも束縛であり苦に行き着くものであり『私ではない』と観じます。
心(思考)は、受に反応して起きます。その生じて滅するありさまを観じ、そのような根のないものは『私ではない』と観じます。
法(記憶・観念)は、蓋であり、精神を縛するものであると観じ、『私ではない』とどんどん切り捨てていきます。

これが私が考える四念処です。

三十七菩提分法

Yahoo掲示板『仏教についてのひとりごと』で、ある人からどのような瞑想をしているかを聞かれたのですが、その答えが次の文でした。

 

四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の七科三十七菩提分法は重なっている項目が非常に多いですね。
特に、念・精進・定は七科のほとんどに出てきます。

私は、四諦の集諦滅諦は十二縁起の順観逆観だと思っていますので、四諦十二縁起は一体です。

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。
私は、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心の完成と捉えて瞑想しています。

ですから、実際の瞑想の順番は
四諦十二縁起⇒四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心 です。
この瞑想を繰り返すことによって初めて正見解(sammā‑diṭṭhi)が生じる。
そのsammā‑diṭṭhiを基に日常生活で八正道を行なう、という順番です。

このうち、喜と軽安は、四念処・択法・四正勤の結果として身心に生じるものと考えています。
つまり、喜(pīti)が生じて、心も身体も軽くなる感じですね。
軽くなったときにsamādhiが生じる。

続きですが
十二縁起の瞑想にしても三十七菩提分法にしてもすべて私独自の解釈ですので
役には立たないとは思いますが、一応。

十二縁起に関しては、無明から五蘊を集めようとする潜在力というか意志がはたらき
実際に五蘊を仮合させ感覚器官が生じ、外物に触れることによって感覚が生じ
それが好き嫌いなどを生じて自我が形成されることを解き明かしたものだと考えていますので
そのありさまをまざまざと観じます。
それは抽象的な観法ですることもあり、自らの実際の自我の成立過程を観じる観法ですることもあって、その両方をしています。

大まかに言えば以上です。
ネットの掲示板で書けるのはここまでです。

 

以上のように答えました。ここはアラシのいる掲示板ではないので、その先を書きます。

 

まず、この解釈の行き着いたのは、仏典『ウダーナヴァルガ』(感興のことば)の次の文が鍵となりました。

 

『四念処を楽しみ、またさとりを得るためのよすが(七覚支)を楽しみ、』

『四神足と八つの部分よりなる道(八正道)を楽しむ』

 

仏陀のこの言葉により、四念処⇒七覚支⇒四神足⇒八正道

という順番に意味があるのではないかと考えたのです。

 

また、ダンマパダの『覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている』という言葉から、覚りのよすが=七覚支はかなり構成の中心ではないかと考えました。現に、七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 ですから、七科三十七菩提分法の中の、四念処と四正勤(精進)と四神足(定)が出てきます。

 

ここで、七科三十七菩提分法を整理します。

七科三十七菩提分法は、七つの種類の瞑想のことで、

四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道

からなります。

七種類の瞑想法なので七科、この項目を全部足せば三十七ありますので三十七菩提分法といいます。

 

【四念処】

1、身念処  身は不浄であると観じること

2、受念処  受は苦であると観じること

3、心念処  心は無常であると観じること

4、法念処  法は非我であると観じること

 

【四正勤】

1.断断   いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。

2.律儀断  すでに生じた悪を断滅するように努力する。

3.随護断   いまだ生じていない善を生じさせるように努力する

4.修断    すでに生じた善を増長させるように努力する。

 

【四神足】

1、欲神足  意識を集中統一しようとする強い意欲を持つ。

2、精進神足 すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。

3、心神足  想像(真理の観念)に意識を集中する。

4、慧神足  真理の観念への集中により得られた智慧に意識を集中する。

 

【五根】

1、信根   仏法僧(三宝)への絶対の信頼。
2、精進根  仏法僧の法(真理)をもとにした努力。
3、念根   仏法僧の法(真理)をもとにした『意識的に繰り返す想い』。  
4、定根   仏法僧の法(真理)をもとにした精神集中。
5、慧根   精進⇒念⇒定により、顛倒夢想が正しい見解(智慧)となること。

 

【五力】

1、信力   信根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
2、精進力  精進根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
3、念力   念根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
4、定力   定根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
5、慧力   慧根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。

 

【七覚支】

1、念覚支
2、択法覚支
3、精進覚支
4、喜覚支
5、軽安覚支
6、定覚支
7、捨覚支

 

【八正道】

1、正見
2、正思
3、正語
4、正業
5、正命
6、正精進
7、正念
8、正定

 

 

【四念処の私的解釈】

1、身念処  身は不浄であると観じること

2、受念処  受は苦であると観じること

3、心念処  心は無常であると観じること

4、法念処  法は非我であると観じること

 

身とは肉体です。受とは肉体の感覚です。心とは思考です。法とは、観念です。

眼耳鼻舌身意の対象物を色声香味触法といいます。眼耳鼻舌身意を六根、色声香味触法を六境といいます。眼という感覚器官の対象は色(形)です。耳は声を、鼻は香を、舌は味を、身体の触覚は触れるものを、そして意識は考える対象を、その対象としてます。ですから、法とは、イメージ、記憶ということです。

四念処は、肉体を不浄と観じ、感覚を苦と観じ、湧き上がる思考を無常と観じ、イメージ・記憶を非我と観じます。

自分の美しい肉体をなぜ不浄と観じなければならないかと思う人もいるでしょう。しかし、肉体が美しいというのは人類の幻想です。それは異性の気を惹くため、あるいは対外的に良く扱われたいため起きた幻想です。その幻想を維持するために夥しい化粧品や香水、衣服などが作られました。

しかし、ありのままに見ると、身体のあらゆるところから排せつ物が出ています。どんなに頑張っても、年を取るたびに劣化していきます。死体になると、どんどん腐っていきます。それがありのままの肉体です。

 

肉体の感覚が苦であるというのはどういうことでしょうか。感覚には、苦もあれば楽(快感)もあり、苦でも楽でもない感覚もあります。苦受(苦痛の感覚)が苦であることは当然分かります。棒で強く殴られたら痛いですし苦ですね。これを苦苦といいます。楽受(快感の感覚)は心地よいですね。美味しいものを食べたり、異性に触れたりする楽受は望ましいものでしょう。しかし、楽受の対象は永久ではなく、壊れたり、離れたりします。愛着する対象が壊れるとき苦に変じます。これを壊苦といいます。それ以前に美味しいものを食べて楽受なのはほんの一瞬です。ある量を超えると苦しみに変じます。苦でも楽でもない非苦非楽受も、感覚器官の衰え老化によって苦に変じます。これを行苦といいます。

このような説明よりも、受(感覚)が苦であるもっと直接的な理由は、感覚が束縛だからです。否応なく感覚しなければならないのです。強く殴られたらどんなに感じないようにしようと思っても痛みを感じてしまいます。一点に固定化されてしまう。束縛であり苦しみです。

心は無常であること。これは、湧き上がる思考を見ればわかりますね。とりとめのない思いが次々に湧いて出ます。外部からの刺激によって記憶の束が反応することが多いです。連想であったり、前にその人から受けた良いあるいは悪い経験であったり、です。眼で見るもの、耳で聞くものは次々に入ってきますから、思考も瞬瞬その都度反応していき、とめどもない思いが毎日大量に湧き上がるままになっています。外部からの刺激が変わればまた違う思考が出てきますから、コロコロ変わって無常です。

法が非我であること。つまり、これまで積み上げてきた記憶の束や、積み上げてきた観念、イメージを私ではないと観じること、これは、四念処観で最も難しい観法なので一番最後に来ています。この観法を実感するためには、十二縁起を理解する必要が出てくるかもしれません。これは後で説明します。

 

四念処は、身、受、心、法につき、不浄、苦、無常、非我をそれぞれ観じる瞑想法ですが、つまるところは、非我を観じていくのです。不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して、それらへの執着、愛着、自己同化から離れ、厭離の心を生じさせ、身・受・心・法につきどれも私ではないということを徹底させるのです。

仏陀は、四念処観は涅槃に至る一乗道だと言いました。

また仏陀は、四念処が自帰依法帰依(自燈明法燈明)の内容としています。

 四念処観だけ徹底していけば涅槃に至るものであり極めて重要な瞑想法です。

 

 

さて、ダンマパダの

覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている

という仏陀の言葉ですが、この中の『覚りのよすが』という語句がキーワードです。

『覚りのよすが』とは、三十七菩提分法のことであり、そして七覚支のことであると考えます。

つまり、七覚支は三十七菩提分法の要約、短縮形、あるいは中核ではないかということです。

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。

そして、七覚支の中の、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心です。

そうすると

四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心

となります。

こまかくしていくと

身念処⇒受念処⇒心念処⇒法念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒欲神足⇒精進神足⇒心神足⇒慧神足⇒四無量心

 

四念処の最後、法念処は、私の解釈では、積み上げてきた記憶の束や観念の束が私ではないと観じることです。

『法』という言葉は、①真理 ②観念 ③事物 と、大きく分けて3つの意味があり、どれを取るかによって意味が全く違ってきます。仏教の解釈が混とんとしているのも、頻繁に使われていて極めて重要な『法』という言葉に全く違う意味があるからです。

七覚支の 念⇒択法⇒精進 も、その『法』の意味をどうとらえるかで解釈は全く違うものになっています。

択法の私の解釈は、法(観念)が真理(無量)に合っているかどうかを選択することです。

法念処は、積み上げてきた法(観念・記憶)のことです。

その積み上げてきた五官の記憶の束は、『私という中心』を形成し、無量から離れさせています。真理に触れたことのない人はほとんどすべて積み上げてきた観念・記憶は無量と反対のものです。真理に触れたことのある人に限りほんの少し無量に沿った観念があるくらいです。択法とは、無量に反する観念・記憶の束を捨て、無量に沿う観念を選択することです。

次の精進は、四正勤です。『いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。すでに生じた悪を断滅するように努力する。いまだ生じていない善を生じさせるように努力する。すでに生じた善を増長させるように努力する。』ということです。

ここでいう善、ここでいう悪とは何でしょうか。善とは、真理(無量)に沿った考え・観念のことで、悪とは真理(無量)に沿わない考え・観念のことです。

ということは、 『いまだ生じていない【無量に沿わない観念】を生じさせないように努力する。すでに生じた【無量に沿わない観念】を断滅するように努力する。いまだ生じていない【無量に沿う観念】を生じさせるように努力する。すでに生じた【無量に沿う観念】を増長させるように努力する。』となります。

 

つまり、法念処や択法で、自分の中に積み上がった観念を総点検して、真理(無量)に沿った観念と沿わない観念に分けて、『いまだ生じていない【無量に沿わない観念】を生じさせないように努力する。すでに生じた【無量に沿わない観念】を断滅するように努力する。いまだ生じていない【無量に沿う観念】を生じさせるように努力する。すでに生じた【無量に沿う観念】を増長させるように努力する。』のです。

この解釈で初めて、七覚支の 念⇒択法⇒精進 がつながります。これ以外の解釈では、念⇒択法⇒精進 が意味のないものとなってしまいます。

 

そして、念⇒択法⇒精進 を進めていけば、無量に沿う観念が増えていくため、喜が生じます。心の中で大多数を占める『無量に沿わない観念』を断滅していきますから、心も身体も軽くなって落ち着いていきます(軽安)。『無量に沿わない観念』とは、貪瞋痴の三毒のどれかなので、あればあるほど重く苦しくなっていくものだからです。

 

ここまでで、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安 です。

 

軽安の次は定(samādhi)です。

念⇒択法⇒精進 は心の大掃除で、今まで積み重ねてきた膨大な誤った観念を徹底的に除去していきます。心も身体も軽くなって初めて、集中することができます。集中しようとする強い意欲が湧きます。これが欲神足です。

欲神足⇒精進神足⇒心神足⇒慧神足

1、欲神足  意識を集中統一しようとする強い意欲を持つ。

2、精進神足 すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。

3、心神足  想像(真理の観念)に意識を集中する。

4、慧神足  真理の観念への集中により得られた智慧に意識を集中する。

 

定が進むことによって、顛倒妄想の見方が180度大転換し、はじめて智慧=正しい見方が生じる。

そして、その 智慧=正しい見方 こそ 四無量心。

(もともと無量心であるということが正しい見方)

これにより

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

の七覚支が完成です。

五根も五力も

信⇒精進⇒念⇒定⇒慧

です。

これは、今まで述べた修行体系のおおすじを表しています。

信は仏陀の説かれた真理に絶対の信頼を置くことです。

その真理を繰り返してついには智慧とすることです。

この三十七菩提分法(八正道を除く)によって 智慧=正しい見方 が生じます。

その正しい見方が、八正道の正見です。

つまり、八正道とは、八つの道徳項目などでは全く無くて

七覚支などによって生じた 智慧=正しい見方 に基づいた思考、言葉、行為、生活のことであり、顛倒妄想を大転換して智慧が生じてはじめて実践できるものです。

ただの道徳をいくら守っても涅槃、解脱には行き着きません。

これが私の解釈です。

(八正道については、かなり後になるとは思いますが、新たなテーマとして詳しく書くつもりです)

仏教の全肯定へ

今まで仏陀が説いたとされる原始仏典から歴史上の仏陀が本当に言いたかったのは何かを探求してきました。

その過程の中で、どうしても大乗仏典を軽視するようになっていきました。

これは、原始仏典を研究する人にはよくあることです。

逆に言えば大乗仏教一辺倒で来ている人は、原始仏典を『小乗仏教』と見下すことが多いです。

歴史上の事実からすれば、歴史上の仏陀=ゴータマ・シッダッタが説いた教えは第一結集で500人の直弟子によって確認、確定されていて、それを後に経典にしたのが原始仏典ですから、歴史上の仏陀の真意を知ろうとすればまずは原始仏典に取り組まなければなりません。

 

歴史上の仏陀の真意を探るとともに、なぜ大乗仏教は興ったのか、も私の大きなテーマでした。

解明するのには、グレゴリー・ショペンの『4世紀までは大乗教団というものはなく、大乗仏典だけがあった』という最新の説は役に立ちました。

初期大乗の『法華経』の中にもヒントがありました。

大乗仏教は、根本分裂の後の大衆部が発展して大乗仏教になったわけでもなく、仏塔管理の在家が始めたわけでもありませんでした。

 

私は、いま、大乗仏教は、部派仏教に不満を持ち『これは仏陀の真意ではない』と叫んだ人たちによる仏陀の真意の復興運動だったと確信しています。

なぜ、その人たちは部派仏教に不満を持ち、仏陀の真意はそんなものではないと思ったのか、です。

それは、仏陀の死後、教団が確立し大きくなるにしたがって、仏陀という『宗祖』の教えが他とは全く違った優れた教えであるということを強調していって、それまでのインドの豊饒なるものを排除していき、大いなるものを見失っていったからです。特にバラモン教を全否定し対立するものとしての理論構築がなされるようになりました。その過程で大いなるものを喪失していったのです。

 

私は今、原始仏教と大乗仏教をすべて包含した仏教の全肯定へと進みました。

                       (2019年9月19日)

思考が思考者を作った

id:kougenn  

ターボーさんの返信を待っていたのですが。
「自分とは何か」の、ショーシャンクさんの「存在基盤と思い込んでいる記憶の束が抜け落ちたときに開ける無限の空間」という答えは、ぼくの言いたかった答えとほぼ同じ答えでした。
先日の「底が抜けた」話から盤珪のことを話しましたが、盤珪が十五年間考え続けた「明徳」とは「大学(大いなる学び)の道とは、明徳を明らかにするにあり」(大学)の中にあります。辞書的に言えば「天から授けられた(自らの)優れた徳性」という意味で、「自分に備わっているもの」とも読め、盤珪も十五年間「明徳」「自分とは何か」を迷い考え続けたということです。 「自分とは何か」とは、個々、であり、器であり、DNAであり、「自分とは何か」の答えは人の数だけ答えがある訳です。なかなか考えてみても、自分はこうだと答えが出るものではなく、盤珪池田晶子も「底が抜けた」と言っているように、桶の底が抜けるように突然、ハッと分かるものなのかも知れません。 本当は話の上では簡単なことで「因」と「果」の関係で考えると分かりやすいかも知れません。今、我々が生きているのは「果」であり、その「果」とはショーシャンクさんのおっしゃってる記憶の束を作っているものです。「果」があれば当然、「因」があるはずなのに、その「因」が何なのか分かりません。「因」とは何かと考えてみれば、「果」を作っているものであり、「果」を「苦」とイコールにすれば、「苦」を作り出している「矢」があるはずです。「矢」が「因」になります。 つまり、自分に突き刺さっている矢が何であるかと分かれば、矢は自然に解(ほど)け、抜けてゆき、「矢」が、「苦」が、自分(と思っていた架空の存在)という人間を形造っていたことに気がつきます。 「矢」「苦」が抜けた自分は、ターボーさんが禅で言われた「忘我」の話と似ていて、何者でもない名前さえもない自分がそこにいるのです。 ターボーさんの「あれがあって、これがある」というお話は、ターボーさんが自分に突き刺さっている「矢」の正体が分かりかけていて、「因」と「果」の構図が分かりかけているのかも知れないと思ってみてました。 戻るところは、個々であり、それぞれのDNAの中に「自分とは何か」という延々たる答えが隠れているのでしょうが、現実に現れている「果」の部分ばかりを見つめていても答えは出ずに、「因果」の「因」の部分に目を向けることに気がつけば、「果(今の自分)」も綺麗さっぱりと底が抜けるんだと思います。話そうと思っていたことが話せているのかも自信がなく、うまく説明できなくてすみません。
 
 
これは、自費出版の中でのみ書こうと思っていたことですが、夜半に嵐が吹くかもしれませんので書いておきます。
 
『矢』とは何か。
自分に矢が刺さって痛い、その矢を抜かなくてはいけない、誰もがそう思います。
しかし、自分に矢が刺さっているのではない、『自分』こそが『矢』なのだ、それがわかったとき、仏陀が言おうとしたことがはっきりわかりました。
顛倒夢想。私たちは顛倒しているのです。仏陀の見方と私たちの見方は180度違うのです。それが顛倒ということです。
自分という存在基盤、様々に作り上げてきた『自分』という中心。
クリシュナムルティが言った、『思考者が思考しているのではない。思考が思考者を作ったのだ。』という言葉。
 
因果といいますが、歴史上の仏陀は因と言う言葉はあまり使っていません。
仏陀は、縁といいました。縁起です。
後世になれば、因というのは直接的な原因、縁というのは間接的な原因、などという解説が横行しています。
全く違います。
目覚めの偈にありますように、仏陀は『縁の滅を知ったので』目覚めたのです。
縁起とは苦の縁って起こる原因です。間接的な原因などではありません。
それが滅すれば苦が滅するとされる根本原因です。
縁起とは十二縁起です。
そして、根本原因は無明です。
無明とは何か、四諦を知らないことです。苦であることを知らず、苦の集起するありさまも知らず、苦の滅するありさまも知らず、苦を滅する道も知らない、つまり『苦』そのものを知らないことです。
それが『苦』であることを知らないから、『行』すなわち能動的な衝動というか形成せんとする意思というか、それが生じる。苦でなく好ましいことと思うから形成せんとする能動が生まれるのです。
それが五蘊を集合させ、感覚が生まれ、感覚の記憶が生まれ、記憶の反応としての思考が生まれ、思考が集まって観念となり、記憶の束・観念の束である『私』『自分という中心』が生まれる。
 
盤珪は『明徳』を知りたくて何年も何十年も死に物狂いで坐禅しました。
これは『明徳』でなくとも『無位の真人』でも『本来の面目』でも同じく悟っただろうと思います。
 
しかし、それが本当にわかるためには、ため込んでいる記憶データをクリアにしていかなければいけないでしょう。
仏陀は、それをクリアにするために、四念処や四正勤を説いたのだとはっきりわかりました。
盤珪は本当に悟った人だと思いますが、残念ながら『不生の仏心でござれ』とだけ言って筏を与えなければ誰も何も変わらないでしょう。