天上天下唯我独尊

私は、『天上天下唯我独尊』の伝説は、仏陀が成道してから初めて遇ったウパカに対して答えたときの偈から来ていると思っています。

【われは一切勝者、一切知者である。
一切の法のために縛せられず、すべてを捨てて、渇愛尽きて解脱した。
みずから覚りて誰をか師といおう。
われには師もない。等しい者もない。
この世にはわれに比すべき者はない。
ただひとりなる正等覚者にして、清く涼やかなる涅槃を得たのである。】

この【この世にはわれに比すべき者はない】が
天上天下唯我独尊】の伝説になったと見ています。

仏陀の死後、急速に、仏陀の神格化や他の教えとの優位性、独自性の強調が進んでいきました。

しかし、歴史上の仏陀は、ウパカの『師は誰か』という質問への答えとして、『私には師はなく等しい者もない。無上の悟りを開いたのだ。』と言ったのです。

そして後世、仏陀が生まれた直後に『天上天下唯我独尊』と宣言したという伝説ができていきます。

質問の答えとしての偈の一部だけを切り取って、生まれてすぐ『天下で唯、我だけが尊い』と宣言したことになりました。

仏教なるものができていく過程において、このように歴史上の仏陀の真意とは変質していくことが起きたと思っています。


というのは、ウパカとの対話には続きがあります。
ウパカが仏陀にこう問います。
『尊者よ、あなたは何によって、自ら一切勝者であると認めるのであるか?』

仏陀
『もろもろの悪しき法に勝てるが故に
われは勝てる者と称するのである。
なんじ、もろもろの煩悩を滅ぼさば
われとおなじく勝者と称するがよい。』
と答えます。

仏陀の真意、そして仏陀の教えの本質は、
この仏陀が言った言葉にこそ現れており、
煩悩を滅すれば自分と同じ勝者なのだ、ということです。

後世にどんどん進んでいった、仏陀の神格化、特別化は
仏陀の真意から遠ざけてしまうものだと考えています。

縁起

仏陀の説いた縁起とは、苦の縁って起こる原因のことです。

これあればかれがあり、これが生じればかれが生じ
これがなければかれなく、これが滅すればかれが滅す

この四つの定理を使って、苦の原因を究明していきました。

苦の消滅を目指して出家した仏陀は、
これあれば苦があり これが生じれば苦が生じ
これがなければ苦がなく これが滅すれば苦が滅す
というものを徹底的に洞察していったのです。
それが縁起です。

そして、その完成形が十二縁起です。

ゆえに、原始仏典に仏陀が説いている縁起の法は十二縁起を完成形とし五支縁起などの省略形はありながらもすべて『苦の縁って起こる原因』のことです。

 

十無記

>質問の主旨からはずれますが、私はこの「無常・苦・非我」が真理として観るべきものであるかどうか疑問に思っています。
もし真理ならなぜ十無記の中に「“世界が無常である”とは、わたくしの記説しなかったことである。」が入っているのか?



マールキヤプッタが抱いた10の疑問とは、その当時のインドにおいて盛んに議論されていた哲学的、形而上学的な難題でした。
インド人は、特に古代においては高度に哲学的であり、そのような哲学的な議論が盛んだったのです。

その10の哲学的難題とは
1.世界は永遠であるのか(時間的無限論)
2.世界は永遠でないのか(時間的有限論)
3.世界は無限であるのか(空間的無限論)
4.世界は無限でないのか(空間的有限論)
5.生命と身体は同一か (霊肉同一論)
6.生命と身体は別個か (霊肉相異論)
7.如来は死後存在するのか
8.如来は死後存在しないのか
9.如来は死後存在しながらしかも存在しないのか
10.如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

つまり、時間と空間についての哲学的な議論と霊魂と肉体についての形而上学的な議論なのです。

ですから、
世界は永遠であるのかないのか=時間は無限か有限か
という哲学的な議論と
仏陀の説いた『すべての形成されたものは無常である』ということとは全く違うものであるのです。

相応部経典22・97に
爪の上に土をのせて語る場面があります。

弟子が『この世の物象にて常恒永住にして変易しないものがありますか』と聞くと
仏陀は『比丘よ、この世には、常恒永住にして変易しないものは、少しもない』と言って
爪の上に土をのせて
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのである。』
と示しました。
そして
『たったこれだけのものでも常恒永住にして変易しないものはこの世には存在しないのであるが故に、私の教えるところに従って苦を滅することができるのである。』
と言われたのです。


マールキヤプッタの質問とは
『時間は無限であるのか』という形而上学的な命題であり
仏陀の説く『生じたものは滅するものだ』という理法とは何の関係もありません。

 

 

 

原文では
sassato loko 世間(世界)は恒久(永久)か
asassato loko  世間(世界)は恒久(永久)でないか

この問いは、つまり、この世の終わりが来て何もない状態になるのかならないのか、という意味の問いです。
この世界に終わりがあるかどうか、です。

仏陀の言う
sabbe samkhara anicca
すべての形成されたものは無常である

というのは、生ずる性質を持つものは滅する性質を持つ、ということであることは初期経典にあり、最初期はこの一言を聞いただけで解脱した人がかなりいたことが記されています。

人間を見ても、これまでの長い歴史でも、『生じたものは滅する』という理法から逃れられた人はいません。みんな死んでいます。
しかし、生じるものも次々いますので、いまでも人間はいて世間は存続してます。
しかし、今生きている人間は当然すべて滅していきます。
生滅の法から逃れられる人はいません。

このように、世間が永久に続くのかどうかということと
『生まれたものは必ず滅する』という理法とは全く違うことなのです。

 

 

集諦

>ところで、お伺いしますが、四諦の集諦には三種の渇愛の集まるさま(ようす)が説かれ、滅諦には三種の渇愛の滅するさま(ようす)が説かれています。
この渇愛(煩悩)と無常・苦・非我はどのように関係づけられているとお考えでしょうか。よろしければご教授ください。



十二縁起の順観が、四諦の集諦です。
十二縁起の逆観が、四諦の滅諦です。

それをごく短く簡潔に表したものが『マハーヴァッガ』などのこの文です。

比丘たちよ、集諦とは次のごとくである。
後有をもたらし、喜びと貪りとともにあり、随所に歓喜する渇愛である。それは、欲愛・有愛・無有愛である。

比丘たちよ、滅諦とは次のごとくである。
この渇愛を余すところなく離滅し、放擲し、解脱し、愛著のないことである。


仏陀の説いた、無常(生じたものは滅するということ)、苦、非我の理法がわからないので、無意識的に『私』という好き嫌いのフィルターを作っているのです。

受(感覚)を感じ、その感覚を快か不快かに無意識に分けています。
快の感覚は、長く感じていたいし、繰り返し感じることを望みます。
不快の感覚は、すぐでも排除し、嫌悪していきます。
快の感覚は、快楽の想念となります。
不快の感覚は、嫌悪の想念となります。
想念が繰り返すことによって、観念となります。
その対象の観念に執着するようになります。

これが十二縁起で言う
受⇒愛⇒取  です。

これが私たちが苦の集積に向かう激流に巻き込まれる様です。

受・愛・取が精神を束縛する鎖であり、苦そのものだということが本当にわかっていたら、激流には巻き込まれません。

すべては、触れる対象が、苦でなく快楽であり、非我ではなく私のものだと考えることによって、苦の集積に流されていきます。

 

 

 

 

 

 

八正道

相応部経典45.1『無明』にこうあります。

 



比丘たちよ、無明がまずあって
無明に従う無智者によって邪見が生じる。
邪見によって邪思が生じる。
邪思によって邪語が生じる。
邪語によって邪業が生じる。
邪業によって邪命が生じる。
邪命によって邪精進が生じる。
邪精進によって邪念が生じる。
邪念によって邪定が生じるのである。

比丘たちよ、明がまずあって、もろもろの善法が生じ、さらに慚と愧とがこれに従うのである。
比丘たちよ、明にしたがう智者において正見は生じる。
正見によって正思が生じる。
正思によって正語が生じる。
正語によって正業が生じる。
正業によって正命が生じる。
正命によって正精進が生じる。
正精進によって正念が生じる。
正念によって正定が生じるのである。

 

 




つまり、正見=正見解 こそは、明=無明の反対=慧 であるということです。
そして、正見=慧 に至る過程で、慚と愧を経るのです。
無明というのは、四諦を知らないこと、具体的には形成されたものは無常であり苦であり非我であることがわからないことです。
明=慧 というのは、形成されたものが私ではなく、無量心こそが本来の境地だと分かることです。

八正道とは人間の頭で考えた倫理道徳の8つの項目ではありません。
究極の境地=智慧 に基づいた思考、言葉、行為ということです。

 

 

  八正道  ショーシャンク 2019/11/12(Tue) 20:43 No.55591

クォークさん、こんばんは。

>正観察とは五取蘊を無常・苦・空、そして非我・非我所であると観察することだといいます。


その通りですね。
歴史上の仏陀が繰り返し言った言葉があります。
それは
『無常であり、苦であるものを我、我が物、我が本体と言っていいであろうか』ということです。

この言葉からすると、仏陀の教えの根幹は、無常・苦・非我 であることがわかります。

四念処も、自分の肉体・感覚・思考・観念 が、無常・苦・非我であることを洞察することだと思います。


>ところで、八正道の要素である正念は四念処の実践でもありますよね?


確かにそれでもいいと思いますが
私はむしろ
八正道の、正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定、
つまり正見以外の7つは
正見に基づくものだと考えています。

正見にもとづく一瞬一瞬の思い
正見にもとづく言葉
正見にもとづく行為
正見にもとづく生活
正見にもとづく精進
正見にもとづく理法を保持し繰り返し念ずること
正見にもとづく正念への全面的な集中

と考えた方が適切なような気がしてます。

四念処

 『涅槃へ至る一乗道』と歴史上の仏陀が言った四念処について、今の時点での私の解釈を書きます。あくまでも私独自の解釈ですので、全く間違っている可能性も高いですが、今思っているところまで書いておきます。


私は、四念処観とは、身・受・心・法において、無常であり(生ずるものは滅するという生滅の法)、苦であり、非我であるという仏陀の理法を観じていくことだと思っています。

四念処の最後『法』が七覚支の『択法』につながり、『四正勤』につながると考えます。

まずは、四念処とは、自分の身(肉体)、受(感覚)、心(思考)、法(記憶や観念)につき、どれもが『私ではない』と切っていくことです。

長くなりますので、非常に簡潔に言いますと、
身(肉体)は、自分の肉体は死体のように腐って朽ち果てる性質のものであることを観じ、『私ではない』と観じます。
受(感覚)は、苦受・楽受・非苦非楽受がありますが、そのどれも束縛であり苦に行き着くものであり『私ではない』と観じます。
心(思考)は、受に反応して起きます。その生じて滅するありさまを観じ、そのような根のないものは『私ではない』と観じます。
法(記憶・観念)は、蓋であり、精神を縛するものであると観じ、『私ではない』とどんどん切り捨てていきます。

これが私が考える四念処です。

三十七菩提分法

Yahoo掲示板『仏教についてのひとりごと』で、ある人からどのような瞑想をしているかを聞かれたのですが、その答えが次の文でした。

 

四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の七科三十七菩提分法は重なっている項目が非常に多いですね。
特に、念・精進・定は七科のほとんどに出てきます。

私は、四諦の集諦滅諦は十二縁起の順観逆観だと思っていますので、四諦十二縁起は一体です。

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。
私は、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心の完成と捉えて瞑想しています。

ですから、実際の瞑想の順番は
四諦十二縁起⇒四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心 です。
この瞑想を繰り返すことによって初めて正見解(sammā‑diṭṭhi)が生じる。
そのsammā‑diṭṭhiを基に日常生活で八正道を行なう、という順番です。

このうち、喜と軽安は、四念処・択法・四正勤の結果として身心に生じるものと考えています。
つまり、喜(pīti)が生じて、心も身体も軽くなる感じですね。
軽くなったときにsamādhiが生じる。

続きですが
十二縁起の瞑想にしても三十七菩提分法にしてもすべて私独自の解釈ですので
役には立たないとは思いますが、一応。

十二縁起に関しては、無明から五蘊を集めようとする潜在力というか意志がはたらき
実際に五蘊を仮合させ感覚器官が生じ、外物に触れることによって感覚が生じ
それが好き嫌いなどを生じて自我が形成されることを解き明かしたものだと考えていますので
そのありさまをまざまざと観じます。
それは抽象的な観法ですることもあり、自らの実際の自我の成立過程を観じる観法ですることもあって、その両方をしています。

大まかに言えば以上です。
ネットの掲示板で書けるのはここまでです。

 

以上のように答えました。ここはアラシのいる掲示板ではないので、その先を書きます。

 

まず、この解釈の行き着いたのは、仏典『ウダーナヴァルガ』(感興のことば)の次の文が鍵となりました。

 

『四念処を楽しみ、またさとりを得るためのよすが(七覚支)を楽しみ、』

『四神足と八つの部分よりなる道(八正道)を楽しむ』

 

仏陀のこの言葉により、四念処⇒七覚支⇒四神足⇒八正道

という順番に意味があるのではないかと考えたのです。

 

また、ダンマパダの『覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている』という言葉から、覚りのよすが=七覚支はかなり構成の中心ではないかと考えました。現に、七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 ですから、七科三十七菩提分法の中の、四念処と四正勤(精進)と四神足(定)が出てきます。

 

ここで、七科三十七菩提分法を整理します。

七科三十七菩提分法は、七つの種類の瞑想のことで、

四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道

からなります。

七種類の瞑想法なので七科、この項目を全部足せば三十七ありますので三十七菩提分法といいます。

 

【四念処】

1、身念処  身は不浄であると観じること

2、受念処  受は苦であると観じること

3、心念処  心は無常であると観じること

4、法念処  法は非我であると観じること

 

【四正勤】

1.断断   いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。

2.律儀断  すでに生じた悪を断滅するように努力する。

3.随護断   いまだ生じていない善を生じさせるように努力する

4.修断    すでに生じた善を増長させるように努力する。

 

【四神足】

1、欲神足  意識を集中統一しようとする強い意欲を持つ。

2、精進神足 すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。

3、心神足  想像(真理の観念)に意識を集中する。

4、慧神足  真理の観念への集中により得られた智慧に意識を集中する。

 

【五根】

1、信根   仏法僧(三宝)への絶対の信頼。
2、精進根  仏法僧の法(真理)をもとにした努力。
3、念根   仏法僧の法(真理)をもとにした『意識的に繰り返す想い』。  
4、定根   仏法僧の法(真理)をもとにした精神集中。
5、慧根   精進⇒念⇒定により、顛倒夢想が正しい見解(智慧)となること。

 

【五力】

1、信力   信根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
2、精進力  精進根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
3、念力   念根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
4、定力   定根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
5、慧力   慧根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。

 

【七覚支】

1、念覚支
2、択法覚支
3、精進覚支
4、喜覚支
5、軽安覚支
6、定覚支
7、捨覚支

 

【八正道】

1、正見
2、正思
3、正語
4、正業
5、正命
6、正精進
7、正念
8、正定

 

 

【四念処の私的解釈】

1、身念処  身は不浄であると観じること

2、受念処  受は苦であると観じること

3、心念処  心は無常であると観じること

4、法念処  法は非我であると観じること

 

身とは肉体です。受とは肉体の感覚です。心とは思考です。法とは、観念です。

眼耳鼻舌身意の対象物を色声香味触法といいます。眼耳鼻舌身意を六根、色声香味触法を六境といいます。眼という感覚器官の対象は色(形)です。耳は声を、鼻は香を、舌は味を、身体の触覚は触れるものを、そして意識は考える対象を、その対象としてます。ですから、法とは、イメージ、記憶ということです。

四念処は、肉体を不浄と観じ、感覚を苦と観じ、湧き上がる思考を無常と観じ、イメージ・記憶を非我と観じます。

自分の美しい肉体をなぜ不浄と観じなければならないかと思う人もいるでしょう。しかし、肉体が美しいというのは人類の幻想です。それは異性の気を惹くため、あるいは対外的に良く扱われたいため起きた幻想です。その幻想を維持するために夥しい化粧品や香水、衣服などが作られました。

しかし、ありのままに見ると、身体のあらゆるところから排せつ物が出ています。どんなに頑張っても、年を取るたびに劣化していきます。死体になると、どんどん腐っていきます。それがありのままの肉体です。

 

肉体の感覚が苦であるというのはどういうことでしょうか。感覚には、苦もあれば楽(快感)もあり、苦でも楽でもない感覚もあります。苦受(苦痛の感覚)が苦であることは当然分かります。棒で強く殴られたら痛いですし苦ですね。これを苦苦といいます。楽受(快感の感覚)は心地よいですね。美味しいものを食べたり、異性に触れたりする楽受は望ましいものでしょう。しかし、楽受の対象は永久ではなく、壊れたり、離れたりします。愛着する対象が壊れるとき苦に変じます。これを壊苦といいます。それ以前に美味しいものを食べて楽受なのはほんの一瞬です。ある量を超えると苦しみに変じます。苦でも楽でもない非苦非楽受も、感覚器官の衰え老化によって苦に変じます。これを行苦といいます。

このような説明よりも、受(感覚)が苦であるもっと直接的な理由は、感覚が束縛だからです。否応なく感覚しなければならないのです。強く殴られたらどんなに感じないようにしようと思っても痛みを感じてしまいます。一点に固定化されてしまう。束縛であり苦しみです。

心は無常であること。これは、湧き上がる思考を見ればわかりますね。とりとめのない思いが次々に湧いて出ます。外部からの刺激によって記憶の束が反応することが多いです。連想であったり、前にその人から受けた良いあるいは悪い経験であったり、です。眼で見るもの、耳で聞くものは次々に入ってきますから、思考も瞬瞬その都度反応していき、とめどもない思いが毎日大量に湧き上がるままになっています。外部からの刺激が変わればまた違う思考が出てきますから、コロコロ変わって無常です。

法が非我であること。つまり、これまで積み上げてきた記憶の束や、積み上げてきた観念、イメージを私ではないと観じること、これは、四念処観で最も難しい観法なので一番最後に来ています。この観法を実感するためには、十二縁起を理解する必要が出てくるかもしれません。これは後で説明します。

 

四念処は、身、受、心、法につき、不浄、苦、無常、非我をそれぞれ観じる瞑想法ですが、つまるところは、非我を観じていくのです。不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して、それらへの執着、愛着、自己同化から離れ、厭離の心を生じさせ、身・受・心・法につきどれも私ではないということを徹底させるのです。

仏陀は、四念処観は涅槃に至る一乗道だと言いました。

また仏陀は、四念処が自帰依法帰依(自燈明法燈明)の内容としています。

 四念処観だけ徹底していけば涅槃に至るものであり極めて重要な瞑想法です。

 

 

さて、ダンマパダの

覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている

という仏陀の言葉ですが、この中の『覚りのよすが』という語句がキーワードです。

『覚りのよすが』とは、三十七菩提分法のことであり、そして七覚支のことであると考えます。

つまり、七覚支は三十七菩提分法の要約、短縮形、あるいは中核ではないかということです。

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。

そして、七覚支の中の、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心です。

そうすると

四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心

となります。

こまかくしていくと

身念処⇒受念処⇒心念処⇒法念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒欲神足⇒精進神足⇒心神足⇒慧神足⇒四無量心

 

四念処の最後、法念処は、私の解釈では、積み上げてきた記憶の束や観念の束が私ではないと観じることです。

『法』という言葉は、①真理 ②観念 ③事物 と、大きく分けて3つの意味があり、どれを取るかによって意味が全く違ってきます。仏教の解釈が混とんとしているのも、頻繁に使われていて極めて重要な『法』という言葉に全く違う意味があるからです。

七覚支の 念⇒択法⇒精進 も、その『法』の意味をどうとらえるかで解釈は全く違うものになっています。

択法の私の解釈は、法(観念)が真理(無量)に合っているかどうかを選択することです。

法念処は、積み上げてきた法(観念・記憶)のことです。

その積み上げてきた五官の記憶の束は、『私という中心』を形成し、無量から離れさせています。真理に触れたことのない人はほとんどすべて積み上げてきた観念・記憶は無量と反対のものです。真理に触れたことのある人に限りほんの少し無量に沿った観念があるくらいです。択法とは、無量に反する観念・記憶の束を捨て、無量に沿う観念を選択することです。

次の精進は、四正勤です。『いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。すでに生じた悪を断滅するように努力する。いまだ生じていない善を生じさせるように努力する。すでに生じた善を増長させるように努力する。』ということです。

ここでいう善、ここでいう悪とは何でしょうか。善とは、真理(無量)に沿った考え・観念のことで、悪とは真理(無量)に沿わない考え・観念のことです。

ということは、 『いまだ生じていない【無量に沿わない観念】を生じさせないように努力する。すでに生じた【無量に沿わない観念】を断滅するように努力する。いまだ生じていない【無量に沿う観念】を生じさせるように努力する。すでに生じた【無量に沿う観念】を増長させるように努力する。』となります。

 

つまり、法念処や択法で、自分の中に積み上がった観念を総点検して、真理(無量)に沿った観念と沿わない観念に分けて、『いまだ生じていない【無量に沿わない観念】を生じさせないように努力する。すでに生じた【無量に沿わない観念】を断滅するように努力する。いまだ生じていない【無量に沿う観念】を生じさせるように努力する。すでに生じた【無量に沿う観念】を増長させるように努力する。』のです。

この解釈で初めて、七覚支の 念⇒択法⇒精進 がつながります。これ以外の解釈では、念⇒択法⇒精進 が意味のないものとなってしまいます。

 

そして、念⇒択法⇒精進 を進めていけば、無量に沿う観念が増えていくため、喜が生じます。心の中で大多数を占める『無量に沿わない観念』を断滅していきますから、心も身体も軽くなって落ち着いていきます(軽安)。『無量に沿わない観念』とは、貪瞋痴の三毒のどれかなので、あればあるほど重く苦しくなっていくものだからです。

 

ここまでで、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安 です。

 

軽安の次は定(samādhi)です。

念⇒択法⇒精進 は心の大掃除で、今まで積み重ねてきた膨大な誤った観念を徹底的に除去していきます。心も身体も軽くなって初めて、集中することができます。集中しようとする強い意欲が湧きます。これが欲神足です。

欲神足⇒精進神足⇒心神足⇒慧神足

1、欲神足  意識を集中統一しようとする強い意欲を持つ。

2、精進神足 すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。

3、心神足  想像(真理の観念)に意識を集中する。

4、慧神足  真理の観念への集中により得られた智慧に意識を集中する。

 

定が進むことによって、顛倒妄想の見方が180度大転換し、はじめて智慧=正しい見方が生じる。

そして、その 智慧=正しい見方 こそ 四無量心。

(もともと無量心であるということが正しい見方)

これにより

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

の七覚支が完成です。

五根も五力も

信⇒精進⇒念⇒定⇒慧

です。

これは、今まで述べた修行体系のおおすじを表しています。

信は仏陀の説かれた真理に絶対の信頼を置くことです。

その真理を繰り返してついには智慧とすることです。

この三十七菩提分法(八正道を除く)によって 智慧=正しい見方 が生じます。

その正しい見方が、八正道の正見です。

つまり、八正道とは、八つの道徳項目などでは全く無くて

七覚支などによって生じた 智慧=正しい見方 に基づいた思考、言葉、行為、生活のことであり、顛倒妄想を大転換して智慧が生じてはじめて実践できるものです。

ただの道徳をいくら守っても涅槃、解脱には行き着きません。

これが私の解釈です。

(八正道については、かなり後になるとは思いますが、新たなテーマとして詳しく書くつもりです)

仏教の全肯定へ

今まで仏陀が説いたとされる原始仏典から歴史上の仏陀が本当に言いたかったのは何かを探求してきました。

その過程の中で、どうしても大乗仏典を軽視するようになっていきました。

これは、原始仏典を研究する人にはよくあることです。

逆に言えば大乗仏教一辺倒で来ている人は、原始仏典を『小乗仏教』と見下すことが多いです。

歴史上の事実からすれば、歴史上の仏陀=ゴータマ・シッダッタが説いた教えは第一結集で500人の直弟子によって確認、確定されていて、それを後に経典にしたのが原始仏典ですから、歴史上の仏陀の真意を知ろうとすればまずは原始仏典に取り組まなければなりません。

 

歴史上の仏陀の真意を探るとともに、なぜ大乗仏教は興ったのか、も私の大きなテーマでした。

解明するのには、グレゴリー・ショペンの『4世紀までは大乗教団というものはなく、大乗仏典だけがあった』という最新の説は役に立ちました。

初期大乗の『法華経』の中にもヒントがありました。

大乗仏教は、根本分裂の後の大衆部が発展して大乗仏教になったわけでもなく、仏塔管理の在家が始めたわけでもありませんでした。

 

私は、いま、大乗仏教は、部派仏教に不満を持ち『これは仏陀の真意ではない』と叫んだ人たちによる仏陀の真意の復興運動だったと確信しています。

なぜ、その人たちは部派仏教に不満を持ち、仏陀の真意はそんなものではないと思ったのか、です。

それは、仏陀の死後、教団が確立し大きくなるにしたがって、仏陀という『宗祖』の教えが他とは全く違った優れた教えであるということを強調していって、それまでのインドの豊饒なるものを排除していき、大いなるものを見失っていったからです。特にバラモン教を全否定し対立するものとしての理論構築がなされるようになりました。その過程で大いなるものを喪失していったのです。

 

私は今、原始仏教と大乗仏教をすべて包含した仏教の全肯定へと進みました。

                       (2019年9月19日)

思考が思考者を作った

id:kougenn  

ターボーさんの返信を待っていたのですが。
「自分とは何か」の、ショーシャンクさんの「存在基盤と思い込んでいる記憶の束が抜け落ちたときに開ける無限の空間」という答えは、ぼくの言いたかった答えとほぼ同じ答えでした。
先日の「底が抜けた」話から盤珪のことを話しましたが、盤珪が十五年間考え続けた「明徳」とは「大学(大いなる学び)の道とは、明徳を明らかにするにあり」(大学)の中にあります。辞書的に言えば「天から授けられた(自らの)優れた徳性」という意味で、「自分に備わっているもの」とも読め、盤珪も十五年間「明徳」「自分とは何か」を迷い考え続けたということです。 「自分とは何か」とは、個々、であり、器であり、DNAであり、「自分とは何か」の答えは人の数だけ答えがある訳です。なかなか考えてみても、自分はこうだと答えが出るものではなく、盤珪池田晶子も「底が抜けた」と言っているように、桶の底が抜けるように突然、ハッと分かるものなのかも知れません。 本当は話の上では簡単なことで「因」と「果」の関係で考えると分かりやすいかも知れません。今、我々が生きているのは「果」であり、その「果」とはショーシャンクさんのおっしゃってる記憶の束を作っているものです。「果」があれば当然、「因」があるはずなのに、その「因」が何なのか分かりません。「因」とは何かと考えてみれば、「果」を作っているものであり、「果」を「苦」とイコールにすれば、「苦」を作り出している「矢」があるはずです。「矢」が「因」になります。 つまり、自分に突き刺さっている矢が何であるかと分かれば、矢は自然に解(ほど)け、抜けてゆき、「矢」が、「苦」が、自分(と思っていた架空の存在)という人間を形造っていたことに気がつきます。 「矢」「苦」が抜けた自分は、ターボーさんが禅で言われた「忘我」の話と似ていて、何者でもない名前さえもない自分がそこにいるのです。 ターボーさんの「あれがあって、これがある」というお話は、ターボーさんが自分に突き刺さっている「矢」の正体が分かりかけていて、「因」と「果」の構図が分かりかけているのかも知れないと思ってみてました。 戻るところは、個々であり、それぞれのDNAの中に「自分とは何か」という延々たる答えが隠れているのでしょうが、現実に現れている「果」の部分ばかりを見つめていても答えは出ずに、「因果」の「因」の部分に目を向けることに気がつけば、「果(今の自分)」も綺麗さっぱりと底が抜けるんだと思います。話そうと思っていたことが話せているのかも自信がなく、うまく説明できなくてすみません。
 
 
これは、自費出版の中でのみ書こうと思っていたことですが、夜半に嵐が吹くかもしれませんので書いておきます。
 
『矢』とは何か。
自分に矢が刺さって痛い、その矢を抜かなくてはいけない、誰もがそう思います。
しかし、自分に矢が刺さっているのではない、『自分』こそが『矢』なのだ、それがわかったとき、仏陀が言おうとしたことがはっきりわかりました。
顛倒夢想。私たちは顛倒しているのです。仏陀の見方と私たちの見方は180度違うのです。それが顛倒ということです。
自分という存在基盤、様々に作り上げてきた『自分』という中心。
クリシュナムルティが言った、『思考者が思考しているのではない。思考が思考者を作ったのだ。』という言葉。
 
因果といいますが、歴史上の仏陀は因と言う言葉はあまり使っていません。
仏陀は、縁といいました。縁起です。
後世になれば、因というのは直接的な原因、縁というのは間接的な原因、などという解説が横行しています。
全く違います。
目覚めの偈にありますように、仏陀は『縁の滅を知ったので』目覚めたのです。
縁起とは苦の縁って起こる原因です。間接的な原因などではありません。
それが滅すれば苦が滅するとされる根本原因です。
縁起とは十二縁起です。
そして、根本原因は無明です。
無明とは何か、四諦を知らないことです。苦であることを知らず、苦の集起するありさまも知らず、苦の滅するありさまも知らず、苦を滅する道も知らない、つまり『苦』そのものを知らないことです。
それが『苦』であることを知らないから、『行』すなわち能動的な衝動というか形成せんとする意思というか、それが生じる。苦でなく好ましいことと思うから形成せんとする能動が生まれるのです。
それが五蘊を集合させ、感覚が生まれ、感覚の記憶が生まれ、記憶の反応としての思考が生まれ、思考が集まって観念となり、記憶の束・観念の束である『私』『自分という中心』が生まれる。
 
盤珪は『明徳』を知りたくて何年も何十年も死に物狂いで坐禅しました。
これは『明徳』でなくとも『無位の真人』でも『本来の面目』でも同じく悟っただろうと思います。
 
しかし、それが本当にわかるためには、ため込んでいる記憶データをクリアにしていかなければいけないでしょう。
仏陀は、それをクリアにするために、四念処や四正勤を説いたのだとはっきりわかりました。
盤珪は本当に悟った人だと思いますが、残念ながら『不生の仏心でござれ』とだけ言って筏を与えなければ誰も何も変わらないでしょう。
 
 
 

中部経典『布喩経』

中部経典『布喩経』には、歴史上の仏陀の教説を理解するために非常に重要な鍵が多くあるように思えます。

特に、三宝や五根・五力、七覚支、そして四無量心の関係が解読できるので、本当に貴重な経だと思います。

 

五根・五力は

信⇒精進⇒念⇒定⇒慧

です。

いわゆる信仰を説かなかったのが仏陀ですので、五根・五力の最初に『信』がきていることに違和感がありました。

 

『布喩経』によると、欲張り、物ほしがり、悪意、怒り、妬み、偽善、冷酷、嫉み、吝嗇、偽り騙し、裏切り、頑なさ、性急さ、驕り、怠慢、これらの心の汚れを捨離していけば(心の浄化

 

仏陀に対して絶対の信を持つに至る。

仏陀の説く法に対して絶対の信を持つに至る。

③サンガに対して絶対の信を持つに至る。(仏法僧の三宝帰依

 

すると、法にともなって、歓喜が湧いてくる。歓喜する者には喜悦が湧いてくる。喜ぶものは身体が軽安となる。軽安となれば楽しみを受ける。楽しみを受けたものは自然と定が生じる。(七覚支のうち、喜⇒軽安⇒定

 

そうなったときに、智慧を生じる。(五力・五根の

 

そのとき、彼は、

慈しみにつながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

悲  につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

喜  につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

捨  につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

       (四無量心

 

これこそ感覚の世界からの出離である。

そのように知る時、

欲望の惑わしから心が解脱し

存在の惑わしから心が解脱し

無智の惑わしから心が自由となって

彼はみずから自由であるとの自覚を生じ

『わが迷いの生はすでに尽きた』と知るに至る。

        (解脱

 

この経により、三十七菩提分法がすべてつながりました。

そして、後世には色界の最下層の境地として、解脱までには至らないとされた四無量心が、慧であり、解脱に至るとされていたことがわかりました。

 

現実遊離が悟り?

あるブログにこういう文章がありました。禅やノンデュアリティに関して書いてありましたので挙げてみます。

 

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今流行のノンデュアリティ(非二元論)。

らくちんこ道♡じゅんころさんや溝口あゆかさんなどのお話を聞いていると、全ての事象が「起こることが、ただ起こっている」ということに集約されるようだ。

確かに「起こっている」といわれればその通りな訳で、「以上終わり!」なのだが、要はこれに対してその個人が本当に腑に落ち納得できるのかが問題なのである。

3次元的な考え方だと、「その境地に達するにはどうすれば良いか?」という方法論を求めたくなるところだが、起こることと起こらないことが起こることは誰もコントロール出来ないようで、これだとノンデュアリティを語る先生達のお話を直接聞いて学んで理解しようとすることは無意味になる(皆さん魅力的でお話は面白いけど…)。

半年前ぐらいに読んだブログに「全ては自分の考えである。自分が捕まえている考えをひたすら観察自覚し手放すことが悟りや覚醒や解脱や涅槃への道である」みたいなことが書いてあり、悟りの階梯が詳しく説明されていた。

しかし、「全ては自分の考えである。」と答えが出ているのであれば「以上終わり!」で、悟りや覚醒や解脱や涅槃などの階梯もその人がつくった考えなのだから、ひたすら自己を観察自覚し手放し続けても更に先の真理が現れてくることはないと思う。


私の知人で、若い時に悟る事を目指し瞑想や禅などの修行を一時期集中徹底して行った結果、頓悟(段階を踏まずに一気に悟る事)してしまった方がいる。

禅などでは「人の悩みは過去の後悔と未来への不安がほとんどだから、“いまここ”に生きることが出来れば悩みはなくなって楽になる」ようなことが語られる。

しかし、彼は頓悟して正に“いまここ”だけになった結果に実生活が出来なくなり、社会復帰するのに10年以上も掛かってしまった。

この3次元世界で普通の生活を送るためには、過去の経験から現状認識して未来への予想を立てることによって成立するのだから、常に“いまここ”だけになったら生活は出来ないのは当たり前だと思った。

彼は言う「実は、悟った人は脳が壊れているんですよ!」

それを聞いて「ああ成程ね・・・脳が壊れているのなら、彼らの境地を普通の人が理解できないのはわかる」と納得してしまった。

まあ、伝統があるお寺とかで経験がある先生だったら、人の上手な壊し方を知っているのだと思う。
覚醒した後に講演会を開いたり本を書いたり出来る人は、たまたま巧い具合に壊れただけで、そのまま狂ってしまった人も多くいるのかもしれない。

彼からは「瞑想とか座禅とか気軽に行う人が多いけど、壊れる時は一瞬だから森坂さんも気を付けてくださいね!!」と念を押された。


少し前に東京に住む別の友人に連絡を取ったところ、彼は先日ノンデュアリティのアイドル(?)大和田菜穂さんの講演会に知人に誘われて行ったと言っていた。

彼は若い時インドでグルの元で熱心に修業し、いわゆるワンネス体験やいくつかのシッディ(超能力)も使えるようになったのだが、帰国して暫く経ったら見事に競争好きの相対界の普通の人に戻ってしまったようだ。

講演会の感想を聞いたところ、「〝ここにはあなたも、私もいない、ただそれが起きているだけ……”ばかりで質問者と噛み合っていなかったのが面白かったけど、まぁそれだけ……でした」と言っていた。

大和田さんのことは、スピリチュアル界では悟った人と同様に語られる事が多いようだが、覚醒し悟った後に講演会等で商売熱心になることも「ただ起きているだけ」なのが何とも奇妙で面白いと思う。

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出典は忘れましたが、ずっと前に、ある禅師が『社会人の人は、あまり禅を熱心にしないほうがいいと思います。リクレーションくらいのつもりがいいでしょう。』と言っているのを読んだことがあります。

その時はその意味が分かりませんでしたが、やはり経験上、現実遊離してしまう人が多かったのだと思います。

『自由意思はない』などと主張するノンデュアリティは禅よりももっと現実から遊離していますし、人間にとって最も大切である意思や主体を失わせていってしまいます。

上のブログの文章は4年前くらいで、そのころはノンデュアリティが流行っていたのでしょうけど、いまはそうでもないようです。ノンデュアリティYouTubeの多くにはコメントができないようになっています。多分、どの動画も批判のコメントが殺到したのだと思います。

ここにはあなたも、私もいない、ただそれが起きているだけ』、これは非常に危険なメッセージです。

私は、このアドヴァイタの元祖であるシャンカラはよく知っていますからアドヴァイタの真髄はわかっていますし、シャンカラは好きな覚者の一人です。

シャンカラはワンネスを徹底した人ですが、多様性を説明するのに、『錯覚』と『付託』という概念を用います。

シャンカラは深く洞察した覚者ですが、その表面だけを借りてきて極めて浅薄な理論を展開しているのが現代のノンデュアリティだと思います。

 

 

『底が抜ける』

id:kougenn  

出版は難行だとは思いますが、ぜひとも成し遂げてください。
こないだのターボーさんの話で、もうひとつ話しておきたいと思う話があって、大事な話なのでショーシャンクさんも一緒に考えてみてもらえませんか?
以前、ターボーさんが哲学者の池田晶子が好きだと言ってた記憶がありますが、その池田晶子の話です。ぼくは池田晶子は好きでも嫌いでもなく、文庫になっている本は読んだことがある程度ですが。 「私は自分とは何かを考え過ぎて底が抜けてしまった」という言葉を彼女は残しています。「自分とは何か」というテーマは彼女が生涯、追い続けた問題であり、ソクラテスを主人公にしたシリーズの本を書いているのもソクラテスが「汝自身を知れ」という同じテーマをライフワークにしていたからだと思います。
「自分とは何か」とネット検索をかけてみても、アイデンティティがどうのとか、ややっこしい言い回しで一向に出口のない論理を展開してみたりと読むに耐えないものばかりで、「汝自身を知れ」という言葉もアテネデルフォイの神殿の入り口に彫られていた言葉で、大辞林によれば「自分が無知であることを自覚し、その自覚に立って真の知を得て正しく行為せよ」と「無知の知」と「汝自身」が一緒になって答えになってないようにも思えます。
池田晶子が言った「底が抜けた」とは禅語です。盤珪が十代の頃、儒学の「大学」にあった「明徳」の意味が分からず、十五年考え続け、ある日、突然、ハッと分かり大悟し、盤珪はその時のことを「古桶の底抜け果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」と歌っています。
「底が抜けた」とは、池田晶子が「自分とは何か」の答えを得たということです。ぼくも、ずっと「自分とは何か」を考えてきて、ぼくなりの答えを得て、ぼくの答えは間違っているかもしれないし、池田晶子の得た答えも正解かどうかは分かりません。しかし、おそらく、彼女の答えと、ぼくの答えは、彼女の書いた他の本を読む限り、たぶん、同じであるような気がしています。 先の投稿で、ターボーさんの「あれがあって、これがある」というのを、ぼくは「それは十二縁起のことですよ」と言いましたが、別の側面では、ターボーさんの言ってるいる意味が分かる自分もいました。
ターボーさんは「自分とは何か」と考えたことがありますか?
ショーシャンクさんは「自分とは何か」をどう考えていらっしゃいますか?
 
 
『底が抜けた』という言葉は好きです。
『底が抜ける』とは、『私という中心』が実は幻想であったんだということにはっきり気づき、今まで確固とした存在基盤と信じ込んでいたものが崩れ落ちること、です。
その崩れ落ちたところ、底と思い大地と思っていた存在基盤がなくなったところに開ける空間こそ『自分』でしょう。
時々はそう思えるときはありますが、しかし、人間は感覚を持っています。
感覚を持っているために、瞬間瞬間、五官の感覚の記憶を溜め続けています。
そしてその記憶の束を『自分』と思い込んでいます。
もちろん、そう思わなければ、日常生活は一瞬たりともできません。
赤信号で止まるのも記憶があり思考があるからです。
自分の家、自分の財産、という記憶がないと、見知らぬ家に入り込んでしまうでしょう。誰かに会った記憶がないと、人間関係は崩壊してしまいます。
 
『私はない』とか『無我』だとか、よく仏教の人やノンデュアルティの人は軽々しく言いますが、それは頭の上っ面だけで言ってることなので何も心に響かないのです。とことん突き詰めることがない。頭の片隅だけで『自分はない』などと言ってるノンデュアリティ(似非アドヴァイタ)の人は、自分の家に見知らぬ人がどんどん入ってきて勝手に冷蔵庫を開けて食べても『自分はないから自分の家と言うこともない。ただ起っているだけ。』と平然としているでしょうか。
 
記憶や思考は必ず必要なものです。1年前にした借金は返さなければいけないのです。『自分などない』とか『細胞はすべて入れ替わってるからその当時の自分などはいない』と言って借金を返さなくていいのであれば楽でしょうけど。
 
記憶や思考の必要性ははっきりとわかって、なおかつ、記憶の束という中心ができて苦を受けていること、無量を見失っていること、に気づくことが大切です。
 
『本当の自分とは何か』ですが、存在基盤と思い込んでいる記憶の束が抜け落ちたときに開ける無限の空間でしょうね。それにふと気づくことはありますが、やはり四念処や十二縁起で徹底しなければと思っています。

仏陀の真意

大乗仏教に長年親しんできた私が、いったん仏教なるものの常識をすべて白紙にして、最古層のパーリ語仏典から『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか』だけを突き詰めてきました。

積もりに積もった仏教の知識、常識を捨てることは抵抗もありましたが、そのアプローチをして本当に良かったです。

私は、大乗仏教にも上座部仏教(いわゆる小乗仏教)も仏陀の真意とはかけ離れているという直感がありましたが、突き詰めていくと本当にそれを確信しました。

四諦も十二縁起も八正道も四念処も七覚支もつまり三十七菩提分法も戒律も、今までに解釈されていたものとは全く違いました。

最も大事なこと、記憶データの消去、つまり浄化とか懺悔といわれるものが仏教の核からすっぽり抜け落ちていました。

これではどんなに坐禅しても瞑想しても念仏しても、絶対に無量には行き着かない。

記憶の束に気づきそれが苦であることに気づかなければ、精神の変革など絶対にできないのです。

 

例えば、私の好きな仏教者に法然がいます。ある日、泥棒を生業としている男が法然の説法を聞いていたく感激しその場で法然の信者になりました。法然の影響力は非常に大きいと言えるでしょう。しかし、この話には続きがあります。法然に弟子入りしたその泥棒は死ぬまで泥棒をやめることはできなかったのです。念仏の熱心な信者にはなりましたが、泥棒は続けていました。何も変わらなかったのです。

禅の盤珪も優しい人でした。自分は死ぬ思いをして厳しい修行をしましたが、悟ってからは『不生の仏心でござれ』と非常に易しい言葉で説き続けました。確かにその説法を聞いたときには感激するでしょうけど、しかし誰も何も変わらない。

玉城康四郎氏がいうように、何度見性し、印可を受け、数多くの公案を通っても、いつも数日で元の木阿弥に戻ったといいます。

何が抜けているのか、これは本当に謎でした。

仏陀は『教師に握り拳はない』といいました。

すべては秘密にされることもなく後世に伝えられているはずです。

 

なぜ仏陀は、四念処を一乗道と呼んだのか。

なぜ仏陀は、八正道を過去のすべての覚者が辿った古城に至る古道と呼んだのか。

菩提樹下での目覚めの詩偈でなぜ『縁の滅を知って疑いが消滅した』と言ったのか。

『矢』とは何か。

『激流』とは何か。

そして『十二縁起』とは何か。

 

それらのことがはっきりとわかりました。

 

誰一人理解してくれなくてもそれはそれでいいのです。仏陀の真意はこれだという確信が強くなってきましたので、遅れに遅れている自費出版に取り掛かります。

映画『レディ イン ザ ウォーター』にあるように、生きているうちは誰も読まない本であっても物質として残しておけば死んで何十年か後に誰かが見る可能性もあるので。

たーぼーさんの投稿

ターボー (126.193.83.95)  

高原さんこんばんは。
>禅僧の人が座禅をしていると「周りの景色が次第に消えて、何もない空間に自分一人が宙に浮かんでいる」という言い方をされていて、禅というのは「自分が消えるのではなくて自分があるんだな」と思っていました。
それはそういうふうにも言えますよ。 ただこの場合の自分1人が宙に浮かんでいるっていうのは、我々凡夫が思っているこの2メートル弱の体じゃないですよ。 体は消えるんです。 そこがショーシャンクさんが言われる主体があるってとこになるんですけど、ただこの主体ってのは掴めないんですよ。 何故なら忘我だから。
 
続きです。
>ところで、「カルマ(業)を消化しきらなければならない」とありますが、あなたは「消化しきる」ために、どんなことをしているのですか?そこを、どう考えているかが肝心な所であり、あなたが言わなければならない所です。「消化」という意味が、分解処理して綺麗さっぱりと消すという意味で言っているのなら良いのですが、あなたの言い方が、「宿業」というような意味の、悪い宿業を持って生まれた人間は、その悪いことをし尽して消化させるという意味で言っているようで、嫌な感じが少し残りました
 
そんな風には思ってないです。
いことをし尽くして消化させるっていうのでは、またカルマを増やすだけで、それは自我の作用ですよ。 私の場合は受け止めるって事ですよ。
信じてもらえないかもしれませんが、私最近分かるんですよ。
仏陀の「あれ有りてこれ有り」っていうが。 例えば何か理不尽な事があって腹が立った時に思い返してみると、あああの出来事が原因だなとか、あの時のあの想念が原因だなとか分かるようになってきたんです。 もちろんただの自分の勝手な思い込みって可能性もあるんですが。 そうすると、この世に理不尽な事って無いんだなと、おぼろげながら分かるようになってきました。 そうすると今までなら理不尽な事で腹を立てて、また反発したりして恨みに思って何かの反発行動をしたり、悪い想念を妄想したりって事がなくなってくるんです。カルマが原因で起きた出来事から新しいカルマを作らなくなってくるんです。 そういう事をカルマを消化したと私は思っています。 ただ完璧に出来ているわけではなくて、頭で分かっていても腹が立ってしまう時もあります。 以前よりは、腹が立つって事は、圧倒的に少なくなりました。
 
 
 
id:kougenn  
「あれ有りてこれ有り」とは十二縁起のことですよ、「識に縁って名色あり、名色に縁って六処あり」。
ターボーさんは「あれ有りてこれ有り」と、ショーシャンクさんの「アインシュタインの石」が混同混乱しているんではないでしょうか?
「あのことがあったから、このことが起こった」と分かるとありますが、因果応報とは我々に簡単に分かる出来ることではないと思います。我々に起こることは、「煙草を飲み過ぎで癌になった」とか原因と結果が明らかな場合もありますが、ほとんどは意味もなく起こります。 京都アニメーションの放火で、33人の人が亡くなりましたが、あのような身元も分からなくなるような悲惨な亡くなり方をしなければならない因果があったかどうかは、何人かの人は過去にこんなことをしたからと結び付けられるかも知れませんが、中には「こんな人がなぜこんな亡くなり方を」と説明のつかない人もいらっしゃると思います。 浦島太郎が竜宮城にいけたのは苛められている亀を助けたからですが、誰もが亀を助ければ竜宮城に行ける訳ではありません。因果応報の物語として「里見八犬伝」があり、「因果の糸に手繰り寄せられて」英雄たちが巡り合い様々な困難を乗り越えていくのが面白いのは物語だからです。
「この世に理不尽なことはないとおぼろげながら分かるようになってきました」とターボーさんはおっしゃっていますが、ぼくに言わせれば、この世は理不尽なことだらけです。京都アニメーションの火事などは、その理不尽の典型ではないでしょうか?あの火事は道理で説明できますか? 仏陀はこの世の理不尽、無常に深く絶望して出家したんではないでしょうか。
こないだ「葉隠」の「死ぬこととと見つけたり」の話をしましたね。仏陀も、家族も財産もすべてを捨てて出家した時に一度死んでいるのです。