『捨』の発見
相応部経典第3篇「四つの専念の確立」に関する集成第1章第10節にこうありました。
『四つの専念の確立(四念処)に心をつなぎとめている者には、前後の広大な階梯についての知識が期待される。』として
『身体において、身体を観察しているが、対象としての身体を持っている。身体に対する執着を持っている。心の退縮がある。あるいは、心を外に放つ。』
『アーナンダよ。その修行者は、浄心を起こすべき何かに心を置くべきである。彼が、浄心を起こすべき何かに心を置けば、喜びが生じる。喜びが生じると、喜悦が生じる。心が喜ぶと、身体が軽くなる。軽い身体は安楽を感じる。安楽から、心が安定する。』
『彼はこのように深慮する。「わたしは、わたしが心に置いたものは、その目的を獲得した。さあ。ここで、それを心から取り去ろう」』
これは大変なことに気がつきました。
四念処と七覚支は合わせて説明されていることが非常に多く、
そのため七覚支の「念」が四念処であることはわかっていました。
七覚支は
念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨
です。
念は四念処、精進は四正勤ですから
四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨
となります。
私は今まで、七覚支の最後「捨」は四無量心の「捨」だと思っていました。
パーリ語も同じupekkha です。
しかし、相応部経典のこの箇所からは、
四念処⇒心に何かを置く⇒喜悦が生じる⇒身体が軽くなる⇒安楽を感じる⇒心が安定する⇒心に置いたものを心から取り去る
という流れであることが分かります。
つまり
択法とは、心に何か置くということ、真理の観念を選択しその真理を心に置くこと、なのです。
軽安は、文字通り、身体が軽くなり安楽を感じること。
定は心が安定すること。
そして、捨は、心に置いたものを捨てることだったのです。
浄心を起こすべき何かに心を置くべきであること
定に至ったら、つまり目的を獲得したら、それを捨てること
これは『筏』の考え方ですね。
自己こそ自分の主
一つの樹を伐るのではなく林を伐れ
ダンマパダ283にこうあります。
一つの樹を伐るのではなくて、林を伐れ。
危険は林から生じる。
林とその下生えとを切って、林から脱れた者となれ。
修行者らよ。
これは非常に重要な言葉です。
ここに仏陀の教説を解くカギがあります。
『一つの樹』とは何でしょうか。
『林』とは何でしょうか。
『下生え』とは何でしょうか。
『林』というのが『樹』の集合体であることは確かです。
この文章は、林とその下生えを伐らなければ一つの樹を伐っても意味がないということです。
一つの樹を伐っても、林とその下生えからまた樹は生えてくるのです。
『一つの樹』とは、一つ一つの想念、思考、思い。
『林と下生え』とは、私という中心を形成している記憶の束、思考の束、観念の束のことです。
坐禅などで、ひとつひとつの思考を切っていったとして、その果てに無思考な状態が現れたとします。思考がないので限定もなく自由な感覚です。
しかし、一時的に思考がなくなっても、思考はどうしても日常生活をしていくには必要なものですから、坐禅をやめて日常生活に戻ったら途端に思考が湧いて出ます。
玉城康四郎氏がその著作の中で言っているように、何度見性しても印可をいくら受けても『数日で元の木阿弥に戻った』ということです。
それは一つ一つの樹を伐っていただけで、その根本である『林と下生え』はそのままだからです。
ゆえに『林と下生え』を切る方法が必要となります。
それは『ただ見る』だけでも、『ただ気づく』だけでも、『林と下生え』を根本から壊すことはできないと思います。