たーぼーさんの投稿

ターボー (126.193.83.95)  

高原さんこんばんは。
>禅僧の人が座禅をしていると「周りの景色が次第に消えて、何もない空間に自分一人が宙に浮かんでいる」という言い方をされていて、禅というのは「自分が消えるのではなくて自分があるんだな」と思っていました。
それはそういうふうにも言えますよ。 ただこの場合の自分1人が宙に浮かんでいるっていうのは、我々凡夫が思っているこの2メートル弱の体じゃないですよ。 体は消えるんです。 そこがショーシャンクさんが言われる主体があるってとこになるんですけど、ただこの主体ってのは掴めないんですよ。 何故なら忘我だから。
 
続きです。
>ところで、「カルマ(業)を消化しきらなければならない」とありますが、あなたは「消化しきる」ために、どんなことをしているのですか?そこを、どう考えているかが肝心な所であり、あなたが言わなければならない所です。「消化」という意味が、分解処理して綺麗さっぱりと消すという意味で言っているのなら良いのですが、あなたの言い方が、「宿業」というような意味の、悪い宿業を持って生まれた人間は、その悪いことをし尽して消化させるという意味で言っているようで、嫌な感じが少し残りました
 
そんな風には思ってないです。
いことをし尽くして消化させるっていうのでは、またカルマを増やすだけで、それは自我の作用ですよ。 私の場合は受け止めるって事ですよ。
信じてもらえないかもしれませんが、私最近分かるんですよ。
仏陀の「あれ有りてこれ有り」っていうが。 例えば何か理不尽な事があって腹が立った時に思い返してみると、あああの出来事が原因だなとか、あの時のあの想念が原因だなとか分かるようになってきたんです。 もちろんただの自分の勝手な思い込みって可能性もあるんですが。 そうすると、この世に理不尽な事って無いんだなと、おぼろげながら分かるようになってきました。 そうすると今までなら理不尽な事で腹を立てて、また反発したりして恨みに思って何かの反発行動をしたり、悪い想念を妄想したりって事がなくなってくるんです。カルマが原因で起きた出来事から新しいカルマを作らなくなってくるんです。 そういう事をカルマを消化したと私は思っています。 ただ完璧に出来ているわけではなくて、頭で分かっていても腹が立ってしまう時もあります。 以前よりは、腹が立つって事は、圧倒的に少なくなりました。
 
 
 
id:kougenn  
「あれ有りてこれ有り」とは十二縁起のことですよ、「識に縁って名色あり、名色に縁って六処あり」。
ターボーさんは「あれ有りてこれ有り」と、ショーシャンクさんの「アインシュタインの石」が混同混乱しているんではないでしょうか?
「あのことがあったから、このことが起こった」と分かるとありますが、因果応報とは我々に簡単に分かる出来ることではないと思います。我々に起こることは、「煙草を飲み過ぎで癌になった」とか原因と結果が明らかな場合もありますが、ほとんどは意味もなく起こります。 京都アニメーションの放火で、33人の人が亡くなりましたが、あのような身元も分からなくなるような悲惨な亡くなり方をしなければならない因果があったかどうかは、何人かの人は過去にこんなことをしたからと結び付けられるかも知れませんが、中には「こんな人がなぜこんな亡くなり方を」と説明のつかない人もいらっしゃると思います。 浦島太郎が竜宮城にいけたのは苛められている亀を助けたからですが、誰もが亀を助ければ竜宮城に行ける訳ではありません。因果応報の物語として「里見八犬伝」があり、「因果の糸に手繰り寄せられて」英雄たちが巡り合い様々な困難を乗り越えていくのが面白いのは物語だからです。
「この世に理不尽なことはないとおぼろげながら分かるようになってきました」とターボーさんはおっしゃっていますが、ぼくに言わせれば、この世は理不尽なことだらけです。京都アニメーションの火事などは、その理不尽の典型ではないでしょうか?あの火事は道理で説明できますか? 仏陀はこの世の理不尽、無常に深く絶望して出家したんではないでしょうか。
こないだ「葉隠」の「死ぬこととと見つけたり」の話をしましたね。仏陀も、家族も財産もすべてを捨てて出家した時に一度死んでいるのです。

『捨』の発見

相応部経典第3篇「四つの専念の確立」に関する集成第1章第10節にこうありました。

 

四つの専念の確立(四念処)に心をつなぎとめている者には、前後の広大な階梯についての知識が期待される。』として

 

身体において、身体を観察しているが、対象としての身体を持っている。身体に対する執着を持っている。心の退縮がある。あるいは、心を外に放つ。』

アーナンダよ。その修行者は、浄心を起こすべき何かに心を置くべきである。彼が、浄心を起こすべき何かに心を置けば、喜びが生じる。喜びが生じると、喜悦が生じる。心が喜ぶと、身体が軽くなる。軽い身体は安楽を感じる。安楽から、心が安定する。』

彼はこのように深慮する。「わたしは、わたしが心に置いたものは、その目的を獲得した。さあ。ここで、それを心から取り去ろう」』

 

 

これは大変なことに気がつきました。

四念処と七覚支は合わせて説明されていることが非常に多く、

そのため七覚支の「念」が四念処であることはわかっていました。

七覚支は

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

です。

念は四念処、精進は四正勤ですから

四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

となります。

 

私は今まで、七覚支の最後「捨」は四無量心の「捨」だと思っていました。

パーリ語も同じupekkha です。

 

しかし、相応部経典のこの箇所からは、

四念処⇒心に何かを置く⇒喜悦が生じる⇒身体が軽くなる⇒安楽を感じる⇒心が安定する⇒心に置いたものを心から取り去る

 

という流れであることが分かります。

 

つまり

択法とは、心に何か置くということ、真理の観念を選択しその真理を心に置くこと、なのです。

軽安は、文字通り、身体が軽くなり安楽を感じること。

定は心が安定すること。

そして、捨は、心に置いたものを捨てることだったのです。

 

 

浄心を起こすべき何かに心を置くべきであること

定に至ったら、つまり目的を獲得したら、それを捨てること

 

これは『筏』の考え方ですね。

 

 

 

自己こそ自分の主

ターボー (126.182.13.4)  

高原さんこんにちは。 私も葉隠は大好きでよく読んでいましたよ。 武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉も自分なりに分かっているつもりです。 ただカルマを切る為には、カルマを全て消化しきらないといけないと思います。 何故なら私たちは、本来は主体がなく(自分という塊はどこにもなく)カルマ(因縁)そのものだからです。
 
 
少し気になる部分があったので、たーぼーさんのコメントをこちらでも上げておきますね。
『自分という塊はどこにもなく』はその通りです。
気になったのは、『私たちは本来は主体がなく』の部分です。
 
ここに今までの仏教解釈の過ちがあります。
 
『私たちは主体がなく』どころではなく、私たちは絶対の主体そのものです。
無限の大海そのもの、無量心そのものです。
それ以外になったことはないのですが、感覚を持ったために記憶の束という中心があると思い込んでいます。そのために無量を見失ってしまったのです。
長者窮子なのです。
 
人類は仏陀が言った『諸法非我』を『諸法無我』としました。
非我といい、無我と言っても、『私という中心がない』と言う意味であればいいのです。同じ意味です。
しかし、『無我』という言葉が、『私たちには主体がなく因縁そのもの』と言う意味になってしまった。
つまり、最も大事な『主体』をなくしてしまったのです。
後世に作り上げられた仏教なるものがそのようにねじ曲げてしまった。
 
真実は、『私という限定がなく』『ただ無限の主体がある』のです。
 
自己こそ自分の主である(ダンマパダ160)
実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。(ダンマパダ380)
 
 
歴史上の仏陀は、自己などというものはない、とは一言も言っていません。
自己こそ自分の主、主体なのです。
 
 
 
id:kougenn  
NHKの「心の時代」で「禅に学ぶ」という番組をやっていたので、録画して見ていました。ターボーさんも禅をやっていたんですよね。禅僧の人が座禅をしていると「周りの景色が次第に消えて、何もない空間に自分一人が宙に浮かんでいる」という言い方をされていて、禅というのは「自分が消えるのではなくて自分があるんだな」と思っていました。 ところで、「カルマ(業)を消化しきらなければならない」とありますが、あなたは「消化しきる」ために、どんなことをしているのですか?そこを、どう考えているかが肝心な所であり、あなたが言わなければならない所です。「消化」という意味が、分解処理して綺麗さっぱりと消すという意味で言っているのなら良いのですが、あなたの言い方が、「宿業」というような意味の、悪い宿業を持って生まれた人間は、その悪いことをし尽して消化させるという意味で言っているようで、嫌な感じが少し残りました。 あなたは「主体がない」と言ってますが、ショーシャンクさんは「主体はある」とおっしゃっていて、要は、ターボーさんはショーシャンクさんと根本の所で仏教とカルマの理解が全く違っていて、今までショーシャンクさんに賛同する発言をしてきたのも、どこまでが本当の気持ちだったのしょうか?
 
 
 
 
 

一つの樹を伐るのではなく林を伐れ

ダンマパダ283にこうあります。

 

一つの樹を伐るのではなくて、林を伐れ。

危険は林から生じる。

林とその下生えとを切って、林から脱れた者となれ。

修行者らよ。

 

 

これは非常に重要な言葉です。

ここに仏陀の教説を解くカギがあります。

 

『一つの樹』とは何でしょうか。

『林』とは何でしょうか。

『下生え』とは何でしょうか。

『林』というのが『樹』の集合体であることは確かです。

 

この文章は、林とその下生えを伐らなければ一つの樹を伐っても意味がないということです。

一つの樹を伐っても、林とその下生えからまた樹は生えてくるのです。

 

『一つの樹』とは、一つ一つの想念、思考、思い。

『林と下生え』とは、私という中心を形成している記憶の束、思考の束、観念の束のことです。

 

坐禅などで、ひとつひとつの思考を切っていったとして、その果てに無思考な状態が現れたとします。思考がないので限定もなく自由な感覚です。

しかし、一時的に思考がなくなっても、思考はどうしても日常生活をしていくには必要なものですから、坐禅をやめて日常生活に戻ったら途端に思考が湧いて出ます。

玉城康四郎氏がその著作の中で言っているように、何度見性しても印可をいくら受けても『数日で元の木阿弥に戻った』ということです。

 

それは一つ一つの樹を伐っていただけで、その根本である『林と下生え』はそのままだからです。

 

ゆえに『林と下生え』を切る方法が必要となります。

それは『ただ見る』だけでも、『ただ気づく』だけでも、『林と下生え』を根本から壊すことはできないと思います。

 

 

id:kougenn  

下生えとは根っ子のことですよね。おっしゃる通り、根っ子の部分まではなかなか取り切れないんでしょうし、確かに、日常生活は刺激的で、嫌が応にも様々なことで振り回されたりもします。 ショーシャンクさんの投稿で「思考」ということを考えていて、ここ最近、ぼくはろくに「思考」してないんではないんだろうかと考えていました。以前、何人かの女性との会話の途中「私、何も考えていないよ」と同じことを言われ、それは「難しいことは考えない」という意味だったんでしょうけど、今のぼくは彼女たち以上に何も考えていないと思って、いよいよ馬鹿になったんじゃないかと思うくらいです。これはスッパニパータにある「怠惰」ということなのかとも思い、ぼくは、ショーシャンクさんのようにはなかなか難しいので、とりあえず様子見かなとは思ってます。 先週、テレビの「情熱大陸」という番組に社会学者で東大教授の上野千鶴子が出てて「家族のような、っていうのが、すごく嫌なんだ。凄く抵抗がある」と言って「みんな、家族is,bestという呪縛に縛られてる。大学に入ったのも、家族から離れたい一心からだった」と言い、そして「生まれ変わっても女(の方)が楽しいと思うけどね、人生は一回でたくさん。二回も三回も繰り返したくないです」と、仏教徒とも思えない普通の人の上野千鶴子が、家を出て輪廻から解脱したいと言った仏陀と同じことを言ってると思って、数千年の時間は流れても、そういう悩みとか願いは変わらないのかなと面白かったです。 「家族」という言葉で、ぼくがいつも思うのは、アニメの「ちびまる子ちゃん」の、さくらももこです。 アニメで、ほほえましい暖かい家庭を描いたさくらももこでしたが、実際の、さくらももこの家庭は、家族構成はアニメの通りでしたが、家族は悲惨な出来事が重なり崩壊した家庭で、さくらさんは夢の家庭をアニメで描いたのでした。 どんな家庭に生まれてどんな親を持つかはサイコロを振るようなもので、ぼくの子供 の頃の自分の家庭も、慈しみ合うどころか、憎しみ合っていた家族で、家の中でずっと自分の居場所はありませんでした。 大人になってからも、自分が家族という共同体に入るのが怖くて、結婚する時も妻とは「子供は持たない」ということを同意で結婚しました。
 
 
まず、思考、想念というものは絶対に必要なものですね。主体的な想念と他動的というか従属的な想念があり、私を含めほとんどすべての人は他動的な想念しか出していません。
他動的というのは、何か見たり聞いたりしたことに対して反応してしまう想念です。
自分がこの想念を出そうと意図したのではなく、機械的に沸き上がってくる想念です。
 
無思考型の瞑想や『ただ見る』『ただ気づく』ということだけでは、最も大事な主体を失ってしまうことになります。
クリシュナムルティは天才的で、真理に至るいかなる方法もいかなる道もないと断言し、マントラなどの伝統的な方法を全否定しました。
しかし、方法もなく『ただ見る』ことに徹していても、その下生えを壊していないと機械的な思考、外界の反応である思考は延々と湧いて出るでしょう。
例えば、部屋の真ん中に腐った食べ物が置いてあるとします。そのせいで部屋中が臭いのですが、その部屋にいる人は臭いを感知するたびにうちわで消していきます。それで臭いは一時的には鼻につかなくなりますが、また自然と湧いて出ます。
部屋の中心に腐ったものがある限りは無駄なことです。
同じく、強固に『私』と思い込んでいる観念の束がある限り、その中心から分離の思い、限定の思い、欠乏の思いが湧き出ます。
 
仏教と言うものが仏陀の本当に言ったことを捻じ曲げてしまって、結局、中心たる『矢』を抜く方法を捨ててしまったので、仏教はどこにも行き着かない教えになったように思えます。

高原さんからターボーさんへの投稿

id:kougenn  

ターボーさん、返事、ありがとうございました。
葉隠」はご存知でしょうか?「(武士道とは)死ぬことと見つけたり」というやつです。 ターボーさんの「座布団の上で死に切ってこい」という意味は「神仏にすべてを委ねよ」というターボーさんの解釈とは違う意味だと思います。たぶん「死ぬことと見つけたり」と似た意味だと思います。 「葉隠」の「死ぬこと」とは実際に死ぬことと違います。「自分が既に死んだと思え」という意味です。 自分が死んでいると思えば、自分の義を貫くのに例え自分の仕える殿様にだって、正しいことは正しい、間違っていることは間違ってると遠慮したり臆することもなく意見することが出来るし、戦場でも既に自分は死んでいるのだから死を怖れたり臆病になったりもせず、勇敢に自分の使命を果たすために戦うことができる。本来のあるべき自分として「死んだ(つもり)」ということで生ききるができる。 自分が「死んだつもり」とはそういうことです。この世で何も怖れることもなく、自分というものの正義、信念を曲げることなく貫くことです。 「主体がなくカルマによって操られている」というのは、ある意味、本当だと思います。我々は、自分の中から起こるカルマ、欲望、煩悩の声を、自分の真の声、願望だと錯覚しながら一生を終える人がほとんどだと思います。それはカルマの奴隷の人生ですよね。 でも、そんな奴隷の人生を例え何度送ったとしても意味があるんですか? 仏陀はそれを切れと言ったんです。矢を抜き、激流を渡れと。仏陀は、それが我々人間には出来ると言ったんです。
 
 
ターボー (126.182.13.4)  
高原さんこんにちは。 私も葉隠は大好きでよく読んでいましたよ。 武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉も自分なりに分かっているつもりです。 ただカルマを切る為には、カルマを全て消化しきらないといけないと思います。 何故なら私たちは、本来は主体がなく(自分という塊はどこにもなく)カルマ(因縁)そのものだからです。

運命なんてない

ターボー (126.182.82.5)  

>>自分の他に頼るものはない、絶対の主体性を確立せよ、というのが歴史上の仏陀のメッセージです。他力を頼るとか、自力なんて無効だとか、は歴史上の仏陀は全く説いたことがありません。 自らの主体性を失わせるような教えには気をつけてください。 そういう安易な教えが世の中には満ちています。 仮城の喩えのように、そういうものをリラックスする道具に使うことはいいのですが、最終的には絶対の主体、無限の大海へと流れつかないといけないでしょう。>>
 
ショーシャンクさんこんばんは。
確かに主体性は大事ですね。私も痛感しています。
ただ禅の方達が言われるような、我々は主体がなくカルマによって操られているだけの操り人形である。 実を言うと私は、この発言も分からなくはないのです。 これだと主体性がなく、運命論になってしまい主体的な元気が出ないのですが(笑) 主体性がある方は、我は神なり=創造主なりといくのでしょうけれど、今現在の私を正直に話すならば、両方わかるよという感じなんです。
もっとはっきり言うと、自分では主体的に考えて行動しているつもりなんですが、それも含めて全て織り込み済みで運命論になっているように最近思ってます。 例えて言うと孫悟空が暴れまわっているつもりでも、実はお釈迦様の手の平で転がされてる感じといいますか(笑) 煩悩に負けて神の意志に反する行動をとると、頭がキンキン痛む感じです。 現時点では私の場合ですが、主体性と運命論は相反しないと思ってます。それは自分の未熟さがあるからかもしれませんが。
 
 
 
たーぼーさん、こんばんは。
もし禅の人に『我々は主体がなくカルマによって操られているだけの操り人形である』などという人がいれば、それは全くのニセモノです。
現代にはそのようなふわふわした思想が蔓延してますね。
大乗仏教の中で、歴史上の仏陀の考えに最も近いのは臨済だと思っています。臨済は絶対の主体性を説きました。
自らの中に絶対の主体性を見いだして自由の大海へと到達することができるかどうかです。
宇宙といい現象界といい、すべての形成されたものは泡のようなもの、我なる大海に浮かんでは消える波です。
自らが創造の主体であることを見極めること、これが究極だと思います。
 
 
 
ショーシャンクさんおはようございます。
私なりに考えたんですが、どうして禅の方に運命論的な考えが蔓延するかというと、禅でよく言われる「座布団の上で死に切ってこい」私はこの発言が関係しているのではないかと思っています。 最初から自分より大きな者(神仏)に委ねて死にきれという結論が老師によって決められている。 自分(自我)の主体など幻想であるから、自分より大きな者に委ね切ってしまえば楽ちんだとなると、自然と操り人形みたいな運命論になってしまうと思います。 これはまた私のトラウマになった抵抗と関係してくるかのですが、私の場合はそういった師匠がなく抵抗してしまったが為に主体性という発想も失わなかったとも言えるのではないかと最近思っています。 しかしこれは鏡に写った自分の姿と喧嘩するようなもので不毛だと思ってもいますが。犬がよく鏡に映る自分の姿に吠えてるシーンがありますけど、私はあれを見ると自分はこれをやってしまったんだなと思ってしまいます(笑) いずれにせよ、このような発想になるという事は、まだ極めてないという事なんでしょうね。
 
 
運命なんてないです。あらわれたもの、形成されたもの、現象といわれるもの、はすべて泡のようなもので、現れては消えてゆくものです。そしてその泡は自らの影です。定まった運命などないからこそ、世界の大予言者と言われる人たちもその予言の的中率は20%を遥かに下回っていて、その予言のほとんどが外れています。それくらいの的中率なら予想屋の方が確率は高いです。
いかに定まった運命などないか、そして勢いがそういう方向に向かっていても自分の意思でいくらでも変えられるということです。
 
すべては縁起によって起こっている、自分の意思などない、自分の主体などない、というような教えが蔓延っています。
その考えで心が落ち着くのであればそうしたらいいとは思います。
ただ、私は絶対にそんな考えは拒否しますね。
 
自らの尊厳の最も大切な部分、自分が創造の主体だということを破壊してしまえば、その人はやる気を失い環境の奴隷になって『ああ、これも仕方ないですね』『ああ、それも運命だから仕方ないですね』『世間様がいいように』となるだけです。
 
 
ターボー (126.182.82.5)  
まぁ元々仏教とは運命論ではなく、因果論ですよね。 一口に仏教といっても色々あって混乱してます。 結局は自分の好きにやるしかないなと思ってますが。 戒律であれはダメ、これはダメっていうのは息苦しくて好きではないです。 もうメチャクチャ自己流でやってます。
最近、ショーシャンクさんのおかげなのか分かりませんが、無駄な想念がかなり少なくなってきて楽になりました。 ただ考え事をしてないから、トラックの運転中に眠いです(笑) 交感神経と副交感神経で、仕事中でも睡眠モードの副交感神経になってるのかなと思ってます。
 
 
戒律というのは、サンガという集団生活において自堕落な者が出て熱心な修行者に迷惑をかけないように規律を決めたもので、何ら本質的なものではありません。随犯随制といって、修行者の誰かが問題を起こしたときにそれを禁止する戒律を作っていったのです。
ですから、サンガという修行者の集団がないときは戒律はありませんでした。
校則のようなもので、校則を完璧に守ったからといっていい大学に入れるわけではなく、ただその学校の風紀が乱れないように定めただけのことです。
 
その校則が守れないのであればその学校に入らなければいいのであって、親鸞やそれに続く後世のほとんどの僧がそうであるように戒律を堂々と破るのであれば僧なんかになって信者のお布施でのうのうと生きようと思わず、在家として世俗の仕事を一生懸命して自分でお金を稼ぎそのお金で自分の欲望を満たせばいいのです。
頭を剃って僧衣のいいのを着て信者からお布施をもらって生きてるくせに『非僧非俗』などとごまかす精神は好きになれません。
 
 
 

応供

id:tomatomatan  

お久しぶりです。 ヤフー掲示板でしまとりという名前で書き込みしておりました。
求法者を菩薩として、なにか利他の気持ちの強い人物像とする、とか、仏教の流れは面白いですね。 声聞と縁覚という、本来は求法の大道を歩いていたはずの者たちを、成仏できない自己中心的な人物像として後世に貶したのもどうかとは感じますが、上部座仏教が広がっていく中で、求法しているから庶民より偉いというような差別心や、庶民は来世来来世で悟ればよい。自分たちの悟りが先だ、と喜捨して当然という態度だったかもしれませんからね。 人と人との間のことは、いろいろ考えられます。 実際に今でも宗教は、庶民からお金を巻き上げるシステムとして機能してしまう面もありますから。 無我については、悟ると、この世の現象のすべてが幻想のようなものであったとわかるようですね。ならば、自我や我執が強くなるはずはないので、つまり中途半端な見性なのでしょう。
ショーシャンクさんの求法を、こうしてブログで読めること、大変ありがたいです。 ありがとうございます。m(_ _)m
 
 
しまとりさん、お久しぶりです。
そうですね。プロの宗教家、つまり宗教でお金をもらったり、食べていっている人たちはもう一度それがどういうことなのか考えてほしいですね。
私たちのような商売人が人様から100円もらおうとすれば、その人に100円以上の価値がある商品なりサービスなりを提供しなければなりません。50円の価値しかないものを100円で売ろうとしても買ってくれる人はいないでしょう。
 
仏の別称を応供といいます。供養を受けるのに相応しい者という意味です。仏になって初めて供養を受けるのに相応しい人になれるのですから、プロの僧侶はそれこそ必死に悟って仏となるように修行に打ち込まなければいけないはずです。
しかし現状の宗教は、おっしゃるように、庶民からお金を巻き上げるシステムになっていますね。
これからはお寺もどんどん発信していって、多くの人に価値のあるものを提供していくところだけが生き残る時代にはなっていくでしょうけど。

ととのえられた自己が主

ターボー (126.182.82.5)  

>声聞というのは、文字通り、『声を聞いた人』です。誰の声でしょうか。歴史上の仏陀すなわち釈尊です。 声聞とは釈尊の声を直接聞いた直弟子のことです。仏教があまりにも変てこりんなのは、十大弟子などの仏陀の直弟子をエゴイストと呼んで貶しまくった考えが中国や日本では主流となったことです。
 
ショーシャンクさんおはようございます。
私はこの声を聞いた人とは、無知の知に気づいた人だと思ってますが、今はこの「声を聞いた」という解釈が間違いの元だったと思っています。 「声を聞いた」=自分ではない別の人格としての神の声を聞いた。という解釈をしてしまい、分からない事は神に問えば良いという神に対する依存になってしまったと思っています。 神に問うという発想ではなく、自分一個で完結して「考える」という発想であるべきだったと思います。 神に問うという発想だったから、自分の主体性がなく、依存になってしまい、その私自身の心の影が現象に投影されて彼女との付き合い方に反映されたと今は思っています。 ですから神にも依存しない。これは大事な事だと思います。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
声聞とは、釈尊の肉声を聞いた弟子のこと、すなわち直弟子のことを指しています。
仏陀の教えの他と際立っているところは、自らを拠り所として他を拠り所としないことです。
自己こそ自分の主なのです。ととのえられた自己こそ得難き主なのです。(ダンマパダ160)
仏伝には、神も悪魔も出てきますが、神とはととのえられた心から出てくる思い、悪魔とはととのえられていないこころから出てくる思いつまり煩悩のことを指します。
仏陀が菩提樹下で悟ってでも教えは説かないでおこうと思ったときに、梵天が勧請します。梵天は後世には色界最下層の神となってしまいますが、仏陀の在世中には、梵天とはブラフマン、宇宙の根源のことです。それは自らの根源でもあるのですが、すなわち、仏陀は自分の心の根源からの声を聞いて教えを説く決心をしたということです。
 
自分の他に頼るものはない、絶対の主体性を確立せよ、というのが歴史上の仏陀のメッセージです。他力を頼るとか、自力なんて無効だとか、は歴史上の仏陀は全く説いたことがありません。
 
自らの主体性を失わせるような教えには気をつけてください。
そういう安易な教えが世の中には満ちています。
仮城の喩えのように、そういうものをリラックスする道具に使うことはいいのですが、最終的には絶対の主体、無限の大海へと流れつかないといけないでしょう。
 
 
 

たーぼーさんの返信

ターボー (126.182.82.5)  

<<最近、少し、ターボーさんのことが気になっています。ターボーさんの投稿が、とても断片的で、「二人を殺した報い」みたなことは書かれているのですが、ショーシャンクさんが「二人を殺したとはどういう意味ですか?」と質問してもスルーで、自分の感情と感傷のままに、誰も意味が分からないことを、自分さえ分かっていればいいとでも言うように勝手放題に書き散らしているのに、ぼくは少しイラッとして、ほとんど意味もないようなコメをターボーさんに書いただけに、それもあって。 ターボーさんは、ショーシャンクさんの人柄を頼って、あのような投稿をしたんだと思います。 ターボーさんだけでなく、蜘蛛の巣に捕まったように、どんなにジタバタと足掻いても、どうしてもそこに捕らえられたままで逃げられなくて苦しんでいる人は多いと思います。 ショーシャンクさんなら、ターボーさんだけでなく、そういう苦しみを訴える人たちに、どんな言葉を掛けてあげれますか?難しいでしょうか? >>
 
こんばんは。ターボーです。
心配して下さりありがとうございます。
ただこれは私にしか分からない問題なんです。 私は30年十字架を背負ってきたんです。 全てはあの時に抵抗した為に、周りの人を巻き込んでしまったからです。 クンダリーニ エネルギーが尾骶骨から上がってきた時に、私は自分(自我)の危機を感じて自分から攻撃に行ったのです。 例えて言うと、日本がアメリカに石油を断たれて自存自衛で真珠湾攻撃を敢行したようなもんです。 聖戦だったというつもりはありませんが、その当時の若すぎて宗教的な知識も全くない状態の私では、今から考えてもやらざるおえない戦争だったと思います。 何を言っているか分からないでしょうが、戯れ言として聞いておいてください。
だから、今のダラけた出家じゃなくて昔の仏教者がやった世俗との縁を完全に断ち切って仏道を志すっていうの、私は分かりますよ。その気持ちが。 そうしないと、周りの人を巻き込んでしまって、それが思い残す念になって、ニルバーナに安住出来ないです。 最も今の私は、出家してまで自分を極めようなどとは、今現在は思ってないですが、本当に仏道を極めよう自分を極めようとするならその選択肢しかないと思います。 だから仏陀が妻子を捨てて、地位も財産も捨てて出家したのも理解出来ます。凄い人だなぁと思います。 とても俺にはそこまで出来ないよって感じです。
 
 
おはようございます。
これは、高原さんの投稿へのたーぼーさんの返信です。
 

化城の喩え

id:kougenn  

仏陀の説いた筏とは、凄く深淵なものだと思っているので、それが「feel good」や「安心」くらい気持ちでは、ぼくの中ではそれが筏とは思いたくないです。イスラム教に入信したとしても白人女性が性の対象と見られなくなるとも思えないし、大乗の大船に乗った人が得る安心が、 ホッと煙草を一服やった程度の安心感とあまり違わない安心だったら意味がないと思います。 それと、もうひとつ。先の投稿でも書かれている「記憶の束」。 それが「矢」であるかどうかは、考えたことはありませんでしたが、「記憶の束」は、おっしゃる通りの「苦」であると思ってきて、実際にそうでした。 「記憶の束」という言い方を聞くと、PCのメモリーのような感じを受けますが、「記憶」とは自分の人生そのもので、自分そのもの、ずっと自分自身がそれに引きずられ束縛されているものです。それこそが「我執」です。 ショーシャンクさんの言葉を借りれば、記憶をクリアになって行くにつれ、自分という存在に対する重要感も次第に薄れて行きます。 自分のことが、あんなに好きで、大切でたまらなかったのが、別に「好きでも嫌いでもない」ようになって行きます。 「あれが欲しい」「これがしたい」と自分の中から起こってくる声が聞こえなくなって、例え、おねだりが聞こえても気にならなくなっていったりします。
 
 
確かにその通りではあるのです。
ただ、最近思うのは、人はそれぞれ目指すところや望みが違うのです。またそれぞれの薬も違うのです。
例えば殺人を犯した人がいてその人が罪悪感に苛まされて自殺しようと思い詰めていた時に『阿弥陀仏はあなたのような悪人こそ救ってくださる』と言われたら心底ほっとするでしょう。また例えば小さい時から神経が過敏で人の悪いところが気になって許せなくて精神が強迫観念に囚われている人が、『私なんてない。相手もない。すべてはただ起こっているだけ。』という言説を聞いて心が軽くなったとしたら、それはそれで有効だったということでしょう。
法華経に化城喩品というのがあります。お釈迦様が長い旅路を歩む修行者に、幻のお城を化作して、そこで疲れた旅人を休ませるという喩え話です。
どの教説も筏であり、薬であり、幻の城であるのです。
向こう岸に着けば筏はもう要らず、病が治れば薬は不要です。
せっかく城で安らいでいる人を、『こんな城で安らいでるのは間違いだ。こんな城は壊して早く出ていけ。』とは私は言いたくないですね。
ヤフー掲示板のアラシという人たちはみな、自分の教説と違うことを言えば、押しかけてきてはその城を壊そうとしてましたが、そういう精神自体本当につまらないものです。
 
それはさておき、探求すればするほど、歴史上の仏陀が言いたかったことは、素晴らしい高みにあり、これこそ人類を救ってくれるのではないかと思うくらい貴重なものであることが最近ひしひしとわかってきました。
 
仏陀の残してくれた筏の全貌に迫りたいとますます思います。
 
『記憶の束』を私ではないと、クリアにしていくこと、deleteしていくこと、これは今までの仏教が全く説いていなかったことです。
仏陀が本当に言ったことを探求していくにつれて、とんでもないことがわかってきました。
仏陀の真意は全く伝わってこなかったのではないか、本当にそんな気がします。
 
数々の謎だったこと、例えば、禅で見性し印可を受けた人の人格が普通の人より悪くなることがあるのはなぜか、『無我』『無我』と連呼する人に限って普通の人より自我や我執が強いのはなぜか、他力本願自力無効と声高に言う人に限って攻撃的なのはなぜか、『自分は目覚めている』『自分はいつも気づいている』という人に限って癇癪を起しやすかったり感情のコントロールも出来ないのはなぜか・・・・
その謎に迫れるような気がします。

筏とは

id:kougenn  

それでは、まず素朴な疑問をひとつ。 「筏」です。龍樹は「筏」を否定してますよね。「筏」によって自分一人で助かろうとする人を声聞と呼び、自分のことしか考えない卑怯者と蔑み、大乗という皆で乗れる大船があると言いました。 ショーシャンクさんの示された浄土系、法華系は、明らかに龍樹の大船に乗るための教えで、禅系はどうか分かりませんが、禅も大乗仏教である以上、たぶん同じなのでしょう。 「筏」という観念は、大乗の日本では既に失われていると考えざるを得ず、その中で「自分に合った筏を見つけるべき」というショーシャンクさんのお話は、ある種の、方便にしか過ぎないようにも思えるのですが、いかがでしょうか?
 
筏であっても、大船であっても同じことです。つまり『方法』という意味で言っています。大乗仏教では、小乗仏教は一人悟ろうとするエゴイスト、自分たちは多くの人を乗せる大船だと主張しました。
それを信じられてそれで自分が救われたり気が楽になるのであれば、それはその人に合っているということです。同じように、キリスト教であってもイスラム教であっても信仰することで本当に安心感を得られるのであれば、それはそれでいいではないですか。キリスト教徒の白人女性がイスラム教に改宗することも増えているような記事を前に見たことがあります。女性は顔を覆わなくてはいけないなどとかなり制限がある教えになぜ?と思いましたが、その白人女性は化粧やおしゃれを性の対象としての魅力を高めなければいけないという束縛に感じて、西洋文化よりイスラム教を選んだというようなことが書かれてありました。
その女性にとってはイスラム教が『feel good』だったのでしょう。
ですから、人は、自分に合う筏、船を見つけるべきだと思うのです。
私も、自分に合う筏を見つけようと思っています。
そして、それを歴史上の仏陀が言ったこと、歴史上の仏陀が残してくれた筏とは何なのかを探求しています。
ヤフー掲示板でも何度も言いましたが、私は歴史上の仏陀が本当は何を言ったのかが知りたいだけであり、だから『それは仏陀が言ったことではない』というように言ってきましたが、歴史上の仏陀が言ってるから正しいとか仏陀が言ったことと違うから間違いだと言ってるわけではありません。
そのことも何度も言ってきました。
 
『龍樹は「筏」を否定してますよね。「筏」によって自分一人で助かろうとする人を声聞と呼び、自分のことしか考えない卑怯者と蔑み、大乗という皆で乗れる大船があると言いました。』
 
声聞というのは、文字通り、『声を聞いた人』です。誰の声でしょうか。歴史上の仏陀すなわち釈尊です。
声聞とは釈尊の声を直接聞いた直弟子のことです。仏教があまりにも変てこりんなのは、十大弟子などの仏陀の直弟子をエゴイストと呼んで貶しまくった考えが中国や日本では主流となったことです。
舎利弗などは仏陀が最も信頼していた弟子です。
声聞の代表は舎利弗です。仏陀が最も信頼している直弟子たちを罵倒する龍樹とは何者なのでしょう。
キリスト教で言えば、ペテロなどの十二使徒を全否定する教えが主流となったようなもので、いかに変なことであるかわかります。
 
 
ただ、私は歴史上の仏陀が本当に言いたかったことは何か、仏陀が残してくれた筏は何かを探求しているだけなので、龍樹が『feel good』な人がいればその教えを進んでいけばいいと思います。私には興味がないというだけです。
 
世界には、『筏』=方法 がない教えも数多く存在します。
クリシュナムルティが代表的ですね。
彼は『真理に至る道はない』と断言しました。
すべての方法は、精神を縛るものだとしました。
筏を完全否定しました。
そして『ただ見る』ことを説きました。
そして世の中には、そのような教えは数多くあります。
『ただ見る』『ただ気づく』それだけでよく、それ以外は自我だという考えです。
それで悟った気分になっている人もごまんといます。
しかし、クリシュナムルティはその最晩年に『誰も変わらなかった』と漏らします。
世界各地を教えて回って教えを聞いた人は膨大な数になりますが、その中の誰も何も変わらなかったのです。
 
ノンデュアリティも同じく方法論がありません。
つまり筏がないのです。
 
方法がない場合、本を読んだり講演を聞いたりしたときは、悟った気分になったり一時的に気が楽になったりするかもしれませんが、それだけです。
何も変わらないですし、最も悪いことは日常生活で主体性が失われていってしまうことです。
 
私は普通の人はやはり『筏』は必要だと思いますし
自分に合った筏を探すべきだと思います。
 
大乗仏教仏陀が残してくれた筏を捨て去ったため、替わりの方法論として、経典を読誦することや仏の姿をありありと瞑想することなどを真理に至る道としてきました。それが一般大衆には難しかったので、口で唱える念仏こそ正行とする教えが生まれたりしました。
それも方法という意味で筏、船だと思います。
 
 
『龍樹は「筏」を否定してますよね。「筏」によって自分一人で助かろうとする人を声聞と呼び、自分のことしか考えない卑怯者と蔑み、大乗という皆で乗れる大船があると言いました。』
 
もし龍樹の言うように、自らの悟りを求めることがエゴイストで卑怯者であるなら、釈尊はそうなりますよ。
最古層のスッタニパータの中でも更に最古層である箇所に釈尊が出家し悟りを求めた動機が赤裸々に書かれています。
それによると
『人々がふるえているのを見て、また人々が相互に抗争をしているのを見て、わたくしに恐怖が起こった。』
『世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。』
『わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、見つけなかった』
 
このように書かれています。
およそ、原始仏典のどこにも、釈尊が世界の人々を救おうと決心して出家した、などという言葉はありません。
釈尊は、自ら恐怖が起こり、苦を自覚して、その恐怖や苦から逃れたいと思って、この世のすべてを捨てて出家したのです。
奥さんと生まれたばかりの息子を捨てて。
王である父を捨てて。皇太子の責任も放棄して。家臣も捨てて、領民も捨てたのです。
父が死んだときに国王の後継者はいなくなるのです。生まれたばかりの赤ん坊は国王の仕事はできません。
この世で最も放棄してはいけない地位を放棄して家を出たのです。周囲の人全部に迷惑をかけたのです。
もし龍樹が、自らの悟りを求めることがエゴイストだというなら、釈尊は史上最大のエゴイストでしょうね。
その証拠に、悟ったときに、釈尊はこの教えは説かないでおこうと思ったではないですか。それを梵天が頼みに来てやっと説くことにしたのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

自分に合った筏を

id:kougenn  

ぼくは原典で読んだことがないので、サンスクリット語パーリ語の違いも関心はありませんでした。玄奘三浄の漢訳がサンスクリット語を訳したことは知っていたので、パーリ語よりもサンスクリット語という言葉の方が普通に耳に残っています。パーリ語はpipitさんが詳しくてネット辞書のサイトの情報を提供してくださっていたのは覚えています。 今あらたに調べてみると南伝仏教はすべてパーリ語で書かれていたということで、サンスクリット語(文語)とパーリ語(口語)の違いも初めて知りました。 そう言えば、日本に南伝仏教が入ってきたのはヨーロッパから英語訳で入ってきたのが最初だとかで、考えてみれば、日本は東の果ての最後の仏教国で、仏教寺院数から言えば世界一の仏教国かと思っていましたが、ヨーロッパから仏典を輸入してる実は仏教後進国だったのだなあと思ったりしています。 最近、少し、ターボーさんのことが気になっています。ターボーさんの投稿が、とても断片的で、「二人を殺した報い」みたなことは書かれているのですが、ショーシャンクさんが「二人を殺したとはどういう意味ですか?」と質問してもスルーで、自分の感情と感傷のままに、誰も意味が分からないことを、自分さえ分かっていればいいとでも言うように勝手放題に書き散らしているのに、ぼくは少しイラッとして、ほとんど意味もないようなコメをターボーさんに書いただけに、それもあって。 ターボーさんは、ショーシャンクさんの人柄を頼って、あのような投稿をしたんだと思います。 ターボーさんだけでなく、蜘蛛の巣に捕まったように、どんなにジタバタと足掻いても、どうしてもそこに捕らえられたままで逃げられなくて苦しんでいる人は多いと思います。 ショーシャンクさんなら、ターボーさんだけでなく、そういう苦しみを訴える人たちに、どんな言葉を掛けてあげれますか?難しいでしょうか?
 
 
まず、人は誰も、自分自身に合った筏を見つけるしかありません。
これは一番最初にたーぼーさんにも言ったことです。
私が探求している筏が他の人に合うかどうかは分かりませんし、私は今、仏陀が本当に言ったことは何であったかを探求している途中です。つまり、筏を探している途中にしか過ぎません。
Yahoo掲示板の東哲カテに『自分は悟った』『自分は目覚めている』と言っていた人は多くいますが、私は一度も悟ったなどと言っていません。
また、人に教えたくてウズウズしている人も数多くいました。
まずは、『自分は悟った』『自分は目覚めている』と言っている人に、その人の筏を教えてもらって自分に合うかどうか試してみるのもいいことです。
いろいろいましたね、禅系、浄土系、法華系、龍樹系、原始仏教系、アドヴァイタ(ノンデュアル)系。
それぞれ自分に合った筏を見つけるべきですね。
 
ただ、私が最近強く思うのは、人は生まれてからこれまでの潜在意識の中の記憶やデータをクリアにしていかなくてはいけないということです。
そのように溜まりに溜まった記憶の束こそが『矢』であり『私』であり『苦』なのです。
それを『苦』と本当に実感を込めて認識できるまではその束はクリアにはできません。
愛おしいものだからです。自分の存在基盤だからです。
無理やりに記憶を消去しようとすると逆に強く執着して離せなくなります。
『苦』と見極めるしかありません。
 
たーぼーさんも、自らの筏を探すと言われていましたから、今はその途中でしょう。
自分に合った筏が見つかることを祈ってます。
 
 

歴史上の仏陀が本当に言ったことがわかってくる時代

id:kougenn  

ぼくは、仏陀が生きていた初期の頃の仏教は、仏陀は我々が手を伸ばせば手の届く存在だったのだと思います。それが、次第に、大乗仏教になってからの仏陀は、我々がどんなに手を伸ばしても届かない神とか仏とかの遠い存在へと変わって行ったのだと思います。手の届く存在にあった仏陀と、永遠に手が届かない仏陀が、同じ存在であるはずはありません。ぼくは、そんなふうに考えています。
 
 
そうですね。
例えば、仏教の言語と言えばサンスクリット語だとほとんどの人は思っています。
しかし、歴史上の仏陀は、自分の教えをサンスクリット語で説くことを禁止したのをご存知ですか?
 
引用したものを貼ります。
釈尊の時代の正統バラモンの言語はサンスクリット語でした。西のギリシャ語に似たア-リア民族の言語で文法の整備された格式高い言語でした。インドエリ-トに相応しい言語でした。もとバラモン教徒から釈尊の弟子となった兄弟の仏弟子が居ました、釈尊の高尚なさとりの内容を卑俗な言語で説くことは仏教の冒涜になると考え、釈尊サンスクリット語で説法するように願いました。釈尊はその要求を却け、だれでも理解できる一般民衆の言語で説くと宣言し、サンスクリット語の採用を禁止しました。この言語方針はのちに仏弟子の幹部に継承されて南伝の上座部系仏教となり、スリランカ・ミャンマ-及びタイ国ら東南アジア仏教となります。』
 
 
サンスクリット語は古代インドのヴェーダなどで使われた聖典専用の言語、バラモン専用の言語です。古代のインド哲学の基礎であるために哲学用語や抽象的な言葉、形而上学の用語などが完璧に備わっている言語です。
しかし、歴史上の仏陀は、サンスクリット語で仏の教えを説くことを禁止しました。
あくまでも、マガダ語やパーリ語など、その地方の大衆が日常会話で使っている言語で説きなさいと命じたのです。
 
これを見ても、後世になればなるほど、仏陀の真意から大きく乖離していったことがわかります。後世の仏教者はサンスクリット語を使って哲学的な思弁に耽るようになりました。
 
 
仏陀の真意は、長い歴史の中で、歴史の堆積物に深く埋もれてしまいました。
 
やっと今になって初めて、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかが分かるようになりました。
ごく最近になるまで、仏陀の肉声に一番近いものはどれか、さえ全くわからなかったのです。
明治以前は、最古層で仏陀の肉声に最も近いスッタニパータは阿含経典群にも入っていないため日本に入って来てなく日本人が読むことはできませんでした。
 
 
パーリ語仏典やパーリ語辞典がどんな地方でも入手できるようになったのは、ネットができ、Amazonができてからずっとあと、ごく最近のことです。
今までは、パーリ語原典は専門の仏教学者の独占物であり、一般の大衆はその仏教学者の解釈、フィルター、色眼鏡を通してしか知り得ませんでした。
 
歴史上の仏陀が言ったことを誰でも簡単に調べることができるようになった今から、仏教は様変わりするでしょう。
歴史上の仏陀が言いたかったことは本当は何なのか、それを探求する人も多くなるはずです。
 
今までの仏教者や仏教学者が解説してきたことをいったん白紙にして、最古層の仏典、仏陀の肉声に一番近い仏典のパーリ語原典から見ていけば、いかに仏教が仏陀の真意からかけ離れたものになっているか愕然とするはずです。
 
 
 
 

無量心

id:kougenn  

「喜捨」は、世間で、寄付、お布施という意味の方が一般的になってますね。 確かに、最初に「慈」があって、一対として「悲・喜」があって、最後に「捨」があると読む方が繋がりと座りが良いように思います。 七覚支の最後にも「捨」があって、ショーシャンクさんが捨が一番大切と言うことが分かる気がします。 龍樹が大智度論の中で「捨とは、衆生を憎みもせず、愛しもせずにただ念じ、(慈・悲・喜)の三種の心を捨てることである」と面白いことを言っています。 七覚支の「喜」も「快」と読むと確かに意味が繋がってきます。
 
 
 
 upekkhā(捨)は、慈悲喜捨の中で最も理解しづらい語です。
私は、今までの解説書で、upekkhā(捨)について納得できる解説を読んだことがありません。
 
「捨とは、衆生を憎みもせず、愛しもせずにただ念じ、(慈・悲・喜)の三種の心を捨てることである」という解釈はとんでもないですね。
慈・悲・喜の3種の心を捨ててどうするのですか。
 
四無量心とは4つの心に分かれているわけではありません。
無量心はひとつです。
無量心とは無量の大海のようなもの。
そして多様性=現象はその大海の上に浮かんでは消える波のようなものです。
慈悲喜捨とは大海の性質です。
あるいは、大海と波の関係の性質を表したものといった方がいいかもしれない。
 
仏教の最初期には無量心は究極の境地とされていました。
しかし、仏陀の死後、どんどん低い境地と見なされるようになりました。
仏陀の真意は失われていったのです。
 
そこで仏陀の真意の復興運動として興ったのが大乗仏教です。
大乗仏典を貫く大きなテーマは慈悲、特に『悲』です。
生きとし生けるものを救おうとする宇宙の働き、これを大乗仏典では解き明かそうとしました。
これは初期大乗の法華経から後期大乗の大日経まで一貫してます。
 
ただ、それも、自分の他に仏があり、その仏の慈悲にすがるというような方向にどんどん流されていき、せっかくの仏陀の真意の復興運動も失われていきました。
 
 
 

慈悲喜捨の『喜』と七覚支の『喜』

id:kougenn  

「慈悲喜捨」にも「七覚支」にも「喜」が出てきます。文字通り「喜ぶ」という意味なんでしょうが、何かしっくり納得できません。何を喜ぶんでしょうか?
 
 
 
 
慈悲喜捨の『喜』と七覚支の『喜』は漢字では同じ『喜』ですが
 
慈悲喜捨の『喜』は
muditā
 
七覚支の『喜』は
pīti
 
です。
 
慈悲喜捨の四無量心は、今までは、慈悲と喜捨というように解釈されていますが
私は、慈はスッタニパータにそれだけが出てくることからもわかるように、無量心の原型、最初期には慈無量心が説かれていたと考えます。
『生きとし生けるものが幸せであれ』ということです。すべてを生かす宇宙の働きです。
私はむしろ、悲と喜が対照しているように思えます。
『悲』は苦しんでいるものを救いたいという宇宙の働き
『喜』は真理によって喜びに復帰したものを喜ぶ働き
だと思っています。
 
七覚支は念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨です。
その中の『喜』pīti は身体的感覚に関する快です。
念⇒択法⇒精進 
つまり
四念処⇒択法⇒四正勤 
をすることによって
身体も心も軽くなり安定して身体的な快=喜を感じることです。
 
 
ですから、慈悲喜捨の『喜』と七覚支の『喜』は同じ漢字でも全く意味が違います。