新時代の到来

令和になって今日は2日目(2019年5月2日)ですが、ますます新時代の到来を感じつつあります。

この新時代には、おおきく2つのタイプに分かれるでしょう。

『feel good』で生きる人と、『feel bad』で生きる人です。

人のことばかり気にしていて自分のいい気分を損ない続けている人は、環境にも『feel bad』が現れやすくなっていくでしょう。

 

人類にとってやっと、決意をすれば誰もが好きに生きられる時代になりつつあるのかもしれません。そのためにはとらわれをどんどんなくしていくべきです。すべて自分の精神を縛るものはほどいていって自由の境地である人だけが『feel good』になれるはずです。

精神を縛る最たるものは宗教団体です。次にテレビによる刷り込みです。

そんなものはほどいていって、本当に自分が『feel good』なものの時間を少しずつ多くしていくこと、これが重要だと思います。決して自分の精神より他人の目を優先しないことです。

 

私の『feel good』は、仏陀の真意を残して置きたいということですから、いま令和になってそれに全力を傾けようと思います。

 

ここで、私の他のブログも貼っておきます。

 

 

人生についてのひとりごと  

https://shawshank-blog.hatenablog.jp/

 

 

今まで絶対に書けなかったこと

https://shawshank-blog.hatenadiary.jp/

 

 

株についてのひとりごと

https://shawshank-blog.hatenadiary.com/

 

 

法律についてのひとりごと

https://shawshank-blog.hateblo.jp/

 

 

 

確信の強まり

ブログは、あまり気を使わないでも、ショーシャンクさんの好きな時に更新すればよいと思います。 玉城宏四郎の「仏教の根底にあるもの」は読み終わっていますが、その玉城氏もショーシャンクさんに教わらなければ、全く名前も知らない学者さんでしたが、少し、玉城氏はショーシャンクさんに似たところのある人ですね。 「仏教の根底にあるもの」の「仏教の未来」という項で「最近わたしは、仏教の中心的立場は無あるいは空であるという一般的見解に対して、基本資料の上から疑念を持ち始めており」と玉城氏は書いていて、玉城氏が原始仏典調べているうち「仏陀によって説かれている業異熟という想念に出会ったとき、長いあいだ悶え煩っていた探しものが不意に目の前に現れた思いで、私は小躍りして歓喜した」と語っています。 「そうした業異熟の実質は何であろうか。それは、まさしく我執と煩悩の底知れない渦である。個体的であるばかりではなく、共同体そのもの、世界そのものの、絶えるこtpなく噴き出してくる我執である。いわば、密林の山中深い値の底より、掘り上げたばかりの、みずみずしいどす黒い鉱物である。仏陀によってそれは無明と呼ばれた。しかるに、その後の仏教思想史は、この無明の課題に徹底して立ち向かわなかった」と玉城氏は言っています。 「業異熟」とは母親の胎内に宿った瞬間に凝結するものともとらえていて「生まれ変わり死にかわり、死に変わり生まれ変わりして輪廻転生しつつ、今、ここに現れている存在の統括体である」とも書いており、最終的な課題として自らに課してはいるものの、玉城氏も真摯に仏教、あるいは人の心の問題に立ち向かってきた人だと思います。

 

仏陀の真意に関しては、かなり考えがまとまってきました。

そして、仏陀の真意が全く伝わっていないという確信もますます強まっています。

仏陀が残してくれた『筏』を復活させること、これは本当に重要なことだと思っています。いま、その筏を具体的なものとして復活させそれを自分で試してみること、それに注力しています。

玉城氏は、大学入学した年の夏休みに、先輩のアドバイスにより、華厳経を読むことに没頭します。書き下し文をわからないままに読んでいると何か大きな力を感じたといいます。

それに倣って、最近、また、国訳大蔵経の『華厳経』(書き下し文)を最初から読んでいます。

確かに、華厳経には大きなものを感じますね。

大乗仏典のツートップは、法華経華厳経でしょうね。中国ではずっと、この2つの流れで、性具説と性起説に分かれて争っていました。

大乗仏教仏陀の真意の復興運動であったとすると、やはり仏陀の真意がわからないと大乗仏教もわからないということです。

 

仏陀によってそれは無明と呼ばれた。しかるに、その後の仏教思想史は、この無明の課題に徹底して立ち向かわなかった』これは本当にその通りですね。

すべて、安易に安易に流されて行って、とうとう天台本覚思想やその影響を受けた安易な思想に仏教全部がなっていきました。

 

『ただ見ればいいだけ』『ただ気づいていればいい』『自分なんてないんだからそのままでいいんだよ』『すでに救われているのだからありのままでいい』

このような言葉がいかに人類を仏陀の真意から遠ざけてきたか、です。

 

とにかく、自分で実証してから自費出版に残したいと思っています。いつになるかはわかりませんが。

 

 

 

夢ということ

高原です。 「与太郎と猫」の落語は、座布団二枚という感じで面白いです。 こないだ、仏教書を二冊、古本屋で買ってきました。その一冊が玉城康四郎の「仏教の根底にあるもの」という本でした。 仏教書は、例えば玉城氏の文でも「十界互具」とか「自受用三昧」など難しい言葉で止まり度々、難渋させられることも多いですが、読んでいて気持ちが落ち着くし、とても読んでいて楽しいです。 玉城氏は法然を高く評価していて往年、一日(木曾義仲が入京した日)を除き仏典を読まなかったことのないほどの勉強家で、比叡山での出色の天才であったことが書かれ、その法然の夢に紫雲たなびく中に善導(中国の高僧)が現れ、告げ、その夢によって自分の思想の問題を解決し、確立したり、晩年には、これも夢かと思いますが「自分(法然)はもと天竺(インド)の声聞僧にまじって頭陀行をしていた」と語ったりしています。 弟子の親鸞も六角夢告を重要なターニングポイントとして夢を思想の確信へと据えてゆきました。 ぼくも、首を吊って自死した幼なじみの秀才の友人がずっと繰り返し夢に現れ、彼の部屋に招かれたり、一緒に歩いたりする夢を見て、(ここ二年くらいはぱったり出なくなりましたが)ぼくも、現実の生活も生と死の瀬戸際を生きてきた感もあって、これほど自死した友人に付きまとわれるということは、ぼくに前生があったらそこで自死していたのかも知れないと思ったり。 ぼくのことは、ともかく、法然親鸞など昔の人たちは、それほど、夢に意味を見て、自らの人生を方向付けていったことを、ショーシャンクさんはどう考えますか?

 

高原さん、おはようございます。

夢といえば、明恵上人が自分の夢の記録を『夢記』として残しています。夢のほとんどは、日常生活の雑多な想念が浮かんだようなものが多いのですが、死んだ人を夢に見てそれが全然生前の記憶とかではないこともありますね。霊的なものだろうと思います。

法然に関しては、夢ではないですね。この人は霊覚があって、仏の姿も夢や幻想や観念ではなくて実際にありありと見ていたようです。闇の中でもわかるくらい光を発していたり読経しているのをそっと覗いてみると体が浮き上がっていたりしたこともあったとか。病を治す神通力もあったようです。

そして本物は、そういう神通力を求めることは一切しないし、神通力があったとしてもそれをひけらかすことは絶対にありません。そういう意味で法然は本物でした。

そして臨終のときにはじめて『私は極楽から来たのでそこに帰るだけだ』と明かします。

それに対し、親鸞は、六角堂で夢に聖徳太子が現れ

『行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽』と言ったそうです。聖徳太子が『あなたが宿業で女性を犯さなければならないなら、私が美女となって犯されましょう』なんて言うかな、というのが正直な気持ちです。親鸞の願望が夢になったような気がします。

 

夢の99%以上は日常生活のとりとめもない思いが沸き上がっただけのものです。夢が自分の願望や欲望を表したものである以上、寝ているときに見る夢を重要視してはいけないと思います。ごくごく稀に、本当に霊界に行ったような夢を見ることはあるでしょうけど、霊界と言えどもしょせん現象にしかすぎません。物質界と同じ、泡のようなものですので霊夢であっても重要視すべきではないと思っています。

 

夢に関する私の考えはそういうものですが、今回の質問をきっかけに久しぶりに『仏教の根底にあるもの』を読んでみると面白いですね。

玉城康四郎は、やはり親鸞道元が最も関心事のようで、私が書くと批判的になってしまいますが、久々に書いていこうと思います。

 

 

「仏教の根底にあるもの」は、他の本も読んでいるので、まだ途中までしか読んでません。前書きで玉城氏が書いていますが「仏教の根底」とは原始仏教の意味なんですね。玉城氏は性見してきたものを原始仏教の経典の中に発見したと言ってます。答え合わせをしたんです。 法然の神通力の話は、言われても俄かにはそのまま信じることは難しい不思議な話ですが、不思議と言えば、玉城氏が「心の時代」に出演した時、祖父の臨死体験の話をしてます。お坊さんがお経まであげた後、祖父が息を吹き返し「あのとき死んでおったら地獄に行ってたとこだった」と、その時のことを言い、それから人が変わったように信仰深くなって猛烈に聞法し、玉城氏は「あのとき、祖父は地獄に落ちて見てきたとしか思えない」と言っています。 ぼくも若い頃、夢であの世に行ったことがあるんですが、それが夢とも思えない不思議な夢で、海か大きな湖か分からない波ひとつない水辺の大きな窓のある館に自分がいるのですが、これまで経験したことのないほど心が穏やかで心地良いのです。 館には机に座った年配の女性がいて、ぼくにノートを広げて見せて何やら話しているのですが何を言っているのかあまり聞き取れませんでした。館の中で、また、ぼくはあるものを見て、目が覚めてから「こういう意味では?」と解釈して、何を見たかは話せませんが、偶然かも知れませんが、そのとき解釈いたことが、それからの人生でそのまま現実になりました。それは普通の人ではあまり得られない(世俗的な)幸福というか幸運なことでしたが。

 

それは霊夢でしょうね。霊夢や予知夢というものは普通にあるのだと思います。しかし、夢の大部分は日常生活の雑多な念が混ざっていますから、起きた時にわけのわからないストーリーとして思い起こされることが多いのでしょう。

聖人には、神通力を隠そうとしない人とそうでない人がいますね。

空海日蓮は、仏法の力でこの世を密厳浄土や仏国土に変えてみせるという信念がありましたから、多くの神通力を発揮してそれを隠そうとはしませんでした。

しかし、法然は数多くの不思議なことがありながらそういうことにとらわれないように言います。クリシュナムルティもそのタイプで、友人の見舞いに病室に入ったらその病室の全員の病が治ったというような不思議な出来事が数多くあります。しかし、それを絶対に公にすることはありませんでした。

 

 

 

 

 

 

与太郎と猫

落語にこういう噺があります。

熊吉が長屋の自分の家の前で、七輪で魚を焼いていました。

そこに与太郎が通りかかったので、熊吉は

『ちょうどよかった、与太郎。ちょっと用事があってここを離れるからその間この魚を見ておいてくれないか?』

与太郎は『ああ、いいよ。』と答えました。

与太郎は七輪で焼かれている魚を見ていました。

熊吉が用事を済ませて戻ってみると、魚がありません。

与太郎、魚はどうした?』

『猫が咥えて持って行った。』

『お前、どうしてたんだ?』

『見てろと言われたから、ただ見てた。』

 

『ただ見る』『ただ気づく』という言葉を聞くたびに、この話を思い出します。というのも、さかんに『いつも気づいている』という人に限って、我塊、自我が強いようにしか見えないからです。

与太郎には魚を盗られてはいけないという意識はないし、魚を盗る猫が悪いという判断もありません。

与太郎が見ていたところで、猫が魚を盗るのを阻止することはできない、まさに『すべてはただ起きている。自分に何もできることはない』という言葉のようです。

はたして、『ただ見る』ことで無限の大海へと到達できるのでしょうか。

四念処観についてのレス

<<ショーシャンクさん。仏教についてのひとりごとで、お返事ありがとうございました。あちらのコメントを書くボタンを押してもなにも開かないので、こちらにコメント書かせてもらいます。 「イメージによって」「イメージをフルに使って」というのが、どういうことなのか、をできれば教えていただきたいです。 それは自分を外から客観視するようなイメージでしょうか。自分の内部から見ているようなイメージでしょうか。 そのイメージによって、非我であることを腑に落とす、納得する、という感じでしょうか。 ヴィパッサナーでは、思考やイメージはたんに手放す対象なのだと思います。そうした瞑想法とは違うイメージの使い方について、教えていただけないでしょうか>>

 

瞑想には、無思考型瞑想と徹底思考型瞑想があると思います。

今まで、仏教もほとんどが無思考型であったと思います。

思考をなくすこと、想いをなくすこと、イメージをなくすことが究極の瞑想と思われてきました。または、想いにいつも気づいていること、これも思考を使わない瞑想で、想いというのはただ浮かんでは消えるあぶくのようなものなのでそれを掴まずにただ見ていれば消えてしまう、というものです。

道元曹洞宗は黙照禅ともいわれ、何も考えずに只管打坐することが仏そのままだとされています。

臨済宗公案禅は、理屈では解けない公案を徹底的に考えますから、徹底思考型瞑想といえなくもないですが、要はいくら考えても無駄なことを考えて無思考に到達するものでしょう。

 

歴史上の仏陀は、最初、2人の仙人に無思考型瞑想を教わりすぐ師の境地には達しましたが『これは涅槃には至らない』と考え、そこを離れて、自分なりの瞑想を探求しました。そして、四諦、十二縁起の瞑想や三十七菩提分法のやり方を編みだし、涅槃へと至ります。

 

さて、ヴィッパサナーでは、sati (念)を『気づき』と訳しています。

私は、sati を『憶念』『記憶』と訳します。

雲井著『パーリ語佛教辞典』では、sati は、念、憶念、正念、注意 という4つの訳語にしています。

 

sati(念)とは、選択して記憶したイメージ、観念を意識的に繰り返し念じることだと思っています。

私たちが生まれてからこれまで積み上げてきた記憶の束、観念の束は、ほとんどすべて『私という中心』から見たものです。私という中心が主体となって積み上げてきたものです。そこに私たちは閉じ込められています。

本来は無量である私たちの精神は、『私という中心』によって限定され固定化され分離され無量感を感じられないようになっているのです。

この記憶の束、観念の束は、身、受、心、法によって形成されています。

それこそが私が『私』と呼ぶコアです。

そこにとんでもなく感情移入、自己同化しているのです。

そこをイメージと自己洞察によって打ち壊そうとするのが四念処観だと思っています。

身が不浄なのはイメージによるものが大部分です。仏陀の時代は、白骨観といって本当に墓地などで目の前の死体を観察していたようです。今の日本でそんなことはできませんし、できたとしても私はしません(笑)その代わり、イメージによって、肉体というものは劣化し老い、朽ち果てるものだというイメージをして、肉体への過剰な愛着を少しずつ剥がしていきます。

受(感覚)が苦というのも、イメージによります。無思考型の瞑想では思考も感覚もなくなりますから束縛されることもないですが、瞑想からさめると感覚は戻り一点に固定されていることがわかるでしょう。その感覚による束縛を束縛すなわち苦だなという理解に進みます。

心は無常というのは、とりとめもなく湧き上がる思考がどれも意識的でなく湧き上がっては消えるもの、無常だと理解します。ほとんどの人は、一日の間でほとんど意識的に想いを出さず、外境つまり環境に引き摺られて反応した想いしか出しません。そのようなふわふわした想いが泡のようなもので無常だと観察します。これはイメージというよりは心の観察といったほうがいい感じのものです。

法は非我というのは、記憶の束、観念の束、それは過去のいろいろな記憶ですが、それらこそ私そのもの、私が生きた証、大切な思い出として誰もが愛着しているのですが、それらの記憶の束も『無量である私ではない』としてクリーニングしていく作業です。懺悔に近いものです。いかに、肉体の五官の記憶というものが自分の精神を制限していったかを理解し、それらは『私ではない』と理解しようと努力します。

以上です。

 

 

<<ぷしゅけーさんの質問に答えての瞑想のお話。
ぼくもショーシャンクさんがどんなふうに瞑想なさっているのか興味がありました。
ぼくの疑問は、例えば、四念処なら、四念処を理解して本当にそう思っていない人が、どんなに教え通りにイメージして心に焼き付けたとしても、それはただの教科書の文言を自己暗示してるに過ぎないということはないのでしょうか?id:kougenn>>

 

もちろん、そうですね。圧倒的な実感を伴っていないと、徹底思考型の瞑想には何の意味もありません。頭の上っ面だけで観念することは、かえって現実社会から遊離した精神を生み出すだけです。

ここが最重要なところですが、どの瞑想法にしても、無量に達するための筏です。無量を感じない瞑想であれば、百害あって一利なし、です。筏はその人その人に合う筏でないと転覆します。ですから、質問されたから答えましたが、上記の四念処観は私独自の解釈であり、私だけの筏です。人は自分が圧倒的に『いい気分』になる筏を見つけるべきで、自分に合う筏は自分が見つけるしかありません。

精神世界やスピリチュアルを頭の上っ面だけでかじるのは非常な害毒になります。現実から遊離した人格となります。それなら、精神世界など一切忘れて、現実に取り組み仕事や金儲けに邁進したほうがよほどましです。

無量に向かわないのであれば、その方法はその人にとっては間違っています。

白隠は何度も何度も、虚無に陥ることを黒暗と呼んで最も怖れるべきものと警告してます。

『枯坐黙照をもって足れりとせば、まげて一生を錯まり、大いに仏道に違せん。仏道に違するのみに非ず、大いに世諦もまた廃せん。』

『いたずらに日々、盲亀の空谷に入るがごとし。これ、天竺の自然外道の所見なり。』

 

仏教に限らず、スピリチュアルは虚無思想に陥りやすいので、気をつけて自分を無量に向かわせる筏を見つけるべきですね。

 

 

 

四念処観について

<<ぷしゅけー (id:Push_key)

ショーシャンクさんこんにちは。四念処を瞑想するとありますが「観じること」というのは、どういうことを指すのでしょうか。受は苦であることを「実感する」みたいな感じでしょうか。それとも唱えるとかでしょうか。
もし教えていただけると幸いです。>>

 

ぷしゅけーさん、こんにちは。

『今まで絶対に書けなかったこと』にコメントいただきました。こちらに回答いたしますね。

四念処は、私の解釈では

【四念処】

1、身念処  身は不浄であると観じること

2、受念処  受は苦であると観じること

3、心念処  心は無常であると観じること

4、法念処  法は非我であると観じること

です。

これの解釈として、こう書きました。

 

身とは肉体です。受とは肉体の感覚です。心とは思考です。法とは、観念です。

眼耳鼻舌身意の対象物を色声香味触法といいます。眼耳鼻舌身意を六根、色声香味触法を六境といいます。眼という感覚器官の対象は色(形)です。耳は声を、鼻は香を、舌は味を、身体の触覚は触れるものを、そして意識は考える対象を、その対象としてます。ですから、法とは、イメージ、記憶ということです。

四念処は、肉体を不浄と観じ、感覚を苦と観じ、湧き上がる思考を無常と観じ、イメージ・記憶を非我と観じます。

自分の美しい肉体をなぜ不浄と観じなければならないかと思う人もいるでしょう。しかし、肉体が美しいというのは人類の幻想です。それは異性の気を惹くため、あるいは対外的に良く扱われたいため起きた幻想です。その幻想を維持するために夥しい化粧品や香水、衣服などが作られました。

しかし、ありのままに見ると、身体のあらゆるところから排せつ物が出ています。どんなに頑張っても、年を取るたびに劣化していきます。死体になると、どんどん腐っていきます。それがありのままの肉体です。

 

肉体の感覚が苦であるというのはどういうことでしょうか。感覚には、苦もあれば楽(快感)もあり、苦でも楽でもない感覚もあります。苦受(苦痛の感覚)が苦であることは当然分かります。棒で強く殴られたら痛いですし苦ですね。これを苦苦といいます。楽受(快感の感覚)は心地よいですね。美味しいものを食べたり、異性に触れたりする楽受は望ましいものでしょう。しかし、楽受の対象は永久ではなく、壊れたり、離れたりします。愛着する対象が壊れるとき苦に変じます。これを壊苦といいます。それ以前に美味しいものを食べて楽受なのはほんの一瞬です。ある量を超えると苦しみに変じます。苦でも楽でもない非苦非楽受も、感覚器官の衰え老化によって苦に変じます。これを行苦といいます。

このような説明よりも、受(感覚)が苦であるもっと直接的な理由は、感覚が束縛だからです。否応なく感覚しなければならないのです。強く殴られたらどんなに感じないようにしようと思っても痛みを感じてしまいます。一点に固定化されてしまう。束縛であり苦しみです。

心は無常であること。これは、湧き上がる思考を見ればわかりますね。とりとめのない思いが次々に湧いて出ます。外部からの刺激によって記憶の束が反応することが多いです。連想であったり、前にその人から受けた良いあるいは悪い経験であったり、です。眼で見るもの、耳で聞くものは次々に入ってきますから、思考も瞬瞬その都度反応していき、とめどもない思いが毎日大量に湧き上がるままになっています。外部からの刺激が変わればまた違う思考が出てきますから、コロコロ変わって無常です。

法が非我であること。つまり、これまで積み上げてきた記憶の束や、積み上げてきた観念、イメージを私ではないと観じること、これは、四念処観で最も難しい観法なので一番最後に来ています。この観法を実感するためには、十二縁起を理解する必要が出てくるかもしれません。これは後で説明します。

 

四念処は、身、受、心、法につき、不浄、苦、無常、非我をそれぞれ観じる瞑想法ですが、つまるところは、非我を観じていくのです。不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して、それらへの執着、愛着、自己同化から離れ、厭離の心を生じさせ、身・受・心・法につきどれも私ではないということを徹底させるのです。

 

私の解釈では、四念処観とは、イメージによって、身、受、心、法 が不浄であり、苦であり、無常であり、非我であることを洞察することです。

私たちは、身、受、心、法 すなわち、肉体、感覚、心、観念によって『私という中心』を形成しています。

そして、その『私という中心』はとんでもなく愛しいものです。守るべきものと思っています。本当の自分と思っています。

これこそが、私たちを『無量』から離れさせているものです。圧倒的な無量感を持つことができないのは、『私という中心』から離れることができないからです。

自己同化しています。感情移入してます。

この自己同化、感情移入を打ち砕くために、イメージをフルに使って、中心を厭離し、無量へと向かわしめるもの・・・それを四念処観と、私は解釈してます。

この説明で不明なところがあれば、ここに質問コメントしてください。

 

大法と小法

よく法華経などに『大法』と『小法』という言葉が出てきます。

『今、仏世尊は大法を説き、大法の雨をふらし、大法の螺を吹き、大法の鼓を撃ち、大法の義を演べんと欲するならん。』(序品)

『少智は小法を楽(ねが)って自ら作仏せんことを信じず』(方便品)

 

さて、大法と小法とは何でしょうか。

私は極めて単純明快にこう考えています。

 

人を無量感、無限感、一体感に導くものが 大法

人を限定感、無力感、分離感に導くものが 小法

 

ですから、どの仏典が大法、どの仏典が小法、ということはありません。同じ法華経でも、その人その人の解釈によって、無量に導かれればその人にとって大法であり、独善的な解釈をして分離感に導かれればその人にとっては小法だということです。

 

仏典であっても聖書であっても祝詞であっても、どのようなものであっても、『その人を人を無量感、無限感、一体感に導くものが大法、その人を限定感、無力感、分離感に導くものが小法』と考えています。

経典でなくても、名もない十歳の子が書いた詩がその人を無量感に導くならその詩はその人にとって大法だということです。

 

想いは雲にしか過ぎないのか?

こういう喩えを聞いたことがあると思います。

青空と雲の喩えです。

われわれは本来、青空なのであり、雲によって青空が隠れているだけである。雲がなければ青空だけの状態である。雲とは想念のことで、青空とは空(くう)または観照意識のこと。

似たような喩えに、太陽と雲、月と雲、などがあります。

確かに自我は思考からできています。思考者が思考するのではなく、思考が思考者を作ったのだという言説は正しいものです。

ゆえに、思考をなくしてしまえば、自我はなくなる、青空だけの境地になる、というわけです。

もちろん、日常生活する上で最低限の思考は仕方ないとしても、必要最小限にとどめることがよいとされています。

想念は雲であり煩悩なので、なくせばなくすほどいいというわけです。

この考えによって、無念無想になることが悟りとされてきて、無思考型の瞑想、座禅が主流となっていきました。

または、想い、想念にいつも気づいていること、想いをただ見ている観照意識でいること、が重要視されてきました。

青空と雲の喩えでいうと、青空でいるためには、雲を断ち切っていくか、雲は現れては消えるものなのでそれにとらわれずに観照していくか、という2つあるものの、雲は無価値なもの、あるいは邪魔なもの、青空を妨げるものという認識は同じです。

あるいは、自分は青空だと分かったのだから、雲があろうがなかろうが青空であることは変わらない、だから雲はいくらあってもいい、という考えも生まれました。

 

さて、29歳で家を出て一介の修行者となった仏陀が、最初に行ったのは、アーラーラ・カーラーマ仙人のところです。そこで最高の瞑想の境地とされた無所有処定に、仏陀は簡単に到達します。しかし、仏陀は『これは涅槃に至るものではない』としてそこを離れます。

次に行ったのが、非想非非想処定を教えるウッダカ・ラーマプッタ仙人のところでした。この瞑想もすぐに到達しますが、やはり仏陀はそれは涅槃や解脱に至らないとして離れていきます。

無所有処定も非想非非想処定も思考の停止を目指すものです。

仏陀がそこを離れたのは、思考停止型瞑想が涅槃に至らないと思ったからです。

 

学者でありながら真摯な修行者であった玉城康四郎はその著書『ダンマの顕現』の中で、学生の時から熱心に参禅し、『大爆発』つまり見性も数多く体験し、公案も次々に解いていったということですが、いつも数日で元の木阿弥になり、79歳の執筆時にも我塊はそのままだと記されています。

 

日本の仏教は想いをなくすことが悟りだという方向に行きました。無心といわれるもの、それは無思考状態でしょう。しかし、想いは波動であり、根本的なもので、座禅の時に強制的になくすことはできたとしても日常生活でなくすことはできません。顛倒妄想の状態のまま、思考を無理矢理なくそうとするとむしろ非常に悪い方向に行くことがあります。禅病といわれるもので、人格が破たんすることもあります。

仏陀は最初に入門した無思考型の瞑想を捨てて、独自に十二縁起の瞑想をして悟りへと到達しました。これを見ると、真理の観念を徹底思考して顛倒した見方を正しい見方(智慧)に大転換しなくてはいけないことがわかります。大転換して智慧が生じてから無思考型の禅定はするべきなのだと考えます。

最終的には、真理の観念も筏に過ぎす、捨て去るものではあるかもしれませんが、必ず必要なものでしょう。

いまは時代なのかもしれませんが、方法論も筏もなく、何気に『私はない』と気づいたという人がYouTubeなどでノンデュアリティとして何人も出ています。非二元をシャンカラから知っている私にはネオアドヴァイタ=ノンデュアリティという今の風潮は非常に危険なものに思えます。

あるブログに次のような記事がありました。

サットサンは、まず彼女の言葉は「先ほどの、たまちゃんの料理はどこに行ったのでしょうか?」という問いかけで始まりました。

「それはどこにもないのです。何も起こっていないのです」という言葉でした。

それを聞いた瞬間、さっきまでのたまちゃんの料理によって

感じていた暖かな優しい感覚を、まるで打ち消されたかのような

虚しさが一瞬起こりましたが、もちろん、彼女が伝えているのは

「体験したと思っていることも、実際は起こっていない

なぜなら、それを体験する個人がいないから」ということであるし

その言葉自体にも意味はないわけです。

彼女は、「私はいない」「何も起きていない」「体験している人がいない」

「ただ湧いているだけ」という、メッセージを繰り返し、伝えられていて

メッセージそのものには、違和感はなかったのですが

ただ違和感を感じたのはその場にいると、ハートがどんどん閉じていくと’いう私の感覚の方でした。(中略)

 

そして、2日間のサットサン&サウンドヒーリングが終了しその翌々日、おさむが

「俺、ノンデュアリティ・シンドロームにでもなったのかな?

何だか、すべてが虚しくて、何もやる気がしない。

いつもはセッションも楽しいのに全く楽しいという感覚が湧いてこない何もかもが虚しい感覚なんだよね」

と言い出したので

「ぶぶ、きっとサットサンの会場で、他の人のエネルギーから

何かもらってきたんじゃないの?」などと言いつつ、では、さっとセッションして浄化しとく?と

おさむのセッションをスタートしたわけです。

ところが、セッションをスタートしてみると、何やらいつもとは様子が違います。

何か強烈なエネルギーがそこにはありました。(中略)

 

そのエネルギー体が一体、何であるかも、はっきりと出てきたのですが

(ここで言わなくてもわかる人にはわかるかも)それらのエネルギー体は

「ピュアさ」「人を見下す」「人を愛せない」「冷酷さ」「特別意識」

という性質のものでした。

そうして、私が菜穂さんに会って漠然と感じたものが何だったのかも次第にわかってきました。

 

菜穂さんが、もともと、つまりノンデユアリティの意識になる前から

人との共鳴力が低く、自分の感覚を受け取りにくい性質や脳であることは

これまでたくさんん方の脳や性質を見てきたので、何となく気づいていました。

だから、何も質問する気が起こらなかったのだなあと。

質問しても、この人は言葉の真意を受け取らない、理解できないという感が半端なくあったからです。

ノンデュアリティの意識だから、彼女のような答え方になるのではなく、もともとそういう性質や脳なので

参加者の質問に関しても、それぞれの意識に合わせてわかりやすく話をすることはできないわけです。

というよりは、彼女は発信している、という意識にはいないのでわかりやすく話をしようという気もないわけですね。

 

例えば、菜穂さんが「たくさん批判のメールが届くのよね~」と言って、ケラケラ笑った後に

参加者の一人が「それでは菜穂さんは、批判のメールが来た時にそれをどう捉えるのですか?」

という質問をしました。

 

「ふ~ん、という感じかな」と菜穂さん。

 

その方は「それじゃあ、そういうメールが来ても

ふ~んと捉えておけばいいってことですね?」

 

「実際は、ふ~んとも思っていないかな。何も感じない」と菜穂さん。

 

きっと、これでは伝わらないなあ~と

漠然と感じていました。

 

そもそも批判されている、ということ自体が個人としての意識であり

菜穂さんは、私という感覚がないので

批判されている、という認識そのものがない、ということなんですよね。

でも、もし、批判された〜と感じているのにも関わらず

それを頭でコントロールして、何も感じないようにしようとしても

それは、自然な感覚や感情が抑圧されるだけだなあと。

 

「批判する人は、何か人のせいにしたいのよね」と菜穂さん。

 

それで、気づいたのは、菜穂さんは「私はいない」という感覚でいるのですが

だからといって、ワンネスや一体感の中にいるわけではないということでした。

 菜穂さんが、感受性が強く、繊細で臆病な子供だったというのも

今の彼女を見ていてよくわかるのです。 

人との共鳴力やつながり感がなければ、世界は怖いものにしかないからです。

 

この記事を読んで、よくわかりました。この菜穂さんという人はノンデュアリティでは、最も有名な人のようです。非二元に気づいているという触れ込みで、禅僧とも講演をしていたりしてます。

しかし、ノンデュアリティという人たちをYouTubeで見る限り、どうしても愛や慈悲や優しさの波動を感じないのです。自分の気づきや感覚をただ延々と述べているだけのような印象です。不思議に思っていましたが、この記事によってはっきりわかりました。『私はない』と気づいていても一体感、無量感の中にはいないということですね。

つまり記事の中にある、

「ピュアさ」「人を見下す」「人を愛せない」

「冷酷さ」「特別意識」

ということなのだと思います。

 

やはり、筏、つまり想いは、絶対に必要ということでしょう。

 

対人恐怖症や強迫観念が苦しすぎて、別の自分が自分の想念を見ている感覚になったときに、救われたような感じになったということではないでしょうか。

湧き出る想いをいくら観察しても、その元がそのままですから、想いのレベルは変わらずに湧き出ます。限定はそのままですから、限定=自我観念からの想いはそのまま出ていて、無量からの想いは出ていません。そして『気にしない自分』『私などない』ということを自我を持ったまま自分に強制することになりますから、またまた自我は深く意識の底に潜り込むようになるのではないかと思われます。

 

 

 

 

 

 

庭前の柏樹子

禅のスーパースターといえば、臨済と趙州でしょう。

『 口唇皮上 に光を放つ』と言われた趙州は、ひとつひとつの言葉が光彩を放っています。

趙州といえば、無字の公案とともに有名なのが『庭前の柏樹子』です。無門関にもありますが、趙州録のほうが詳しいのでそちらから。

 

ある僧、趙州に問う「如何なるか是れ祖師西来意」
州曰く、「庭前の柏樹子」
僧曰く、「境をもって人に示すことなかれ」
州曰く、「吾、境をもって人に示さず」
僧曰く、「如何なるか是れ祖師西来意」
州曰く、「庭前の柏樹子」

 

ある僧が趙州に問うた。

達磨大師がインドからはるばる中国へ来られた真意とは何か』

『庭の柏の樹だ』

『心の外のもので答えないでください』

『心の外のもので答えていない』

達磨大師がインドからはるばる中国へ来られた真意とは何か』

『庭の柏の樹だ』

 

 

趙州が住んでいた観音院には、柏の樹が多くありました。

 

しかし、それにしても、なぜ、達磨が中国に来た真意が、そこの庭の柏の樹なのでしょうか。

前に十牛図の奥の解釈を書きました。第八第九第十一体だという解釈です。それが参考になるかも知れません。

 

 

 

 

戒律について

最初期の仏教においては、戒律はたったひとつだけでした。

少なくとも、仏陀の弟子が1250人を超えるまでは、具足戒はひとつでした。

舎利弗と目連が250人を引き連れてやってきて弟子入りしたときも、仏陀に『尊いお方よ、私たちは幸あるお方のもとで出家して、具足戒を得たいと存じます。』というと、仏陀

『来なさい。比丘たちよ。真理は善く説かれた。清浄な行を修して、正しく苦を滅ぼしなさい。』と言いました。

これが、具足戒となったと最古の仏伝には書かれています。

 

すなわち、最初期の仏教には、

清浄な行を修して、正しく苦を滅ぼしなさい

というたったひとつの戒律だけでした。

 

最初期のサンガは、意識レベルの高い人たちばかりでしたが、弟子の数が膨大に増えてくると、当然意識レベルや生活態度がなっていない人も出てきました。

そこで、仏陀は、サンガと言う集団生活する際の規律として、問題が起こった都度、新しく戒律を作っていきます。

これを、随犯随制といいます。つまり、戒律と言うのは、弟子が増えていった頃から、誰かが問題や不祥事を起こす都度、作っていたもので、学校による校則のようなものです。校則を守れば東大に入れるということがないように、戒律を守ったから悟れるということではなく、戒律は何ら本質的なものではありませんでした。集団生活において、熱心に精進している人たちの迷惑にならないように規律を決めていったというだけのことです。

しかし、後世においては、戒律が非常に重要視されていきます。その反動として、戒律を守れない者の救済というような思想も出てきます。末法無戒という思想も出てきます。日本には最初からサンガは存在しなかったので、サンガを維持するためである戒律も意味をなさないはずですが、面白いことに、戒律を巡って大騒ぎとなっていきます。

 

しかし、仏陀具足戒として初期の人たちに授けたのは

清浄な行を修して、正しく苦を滅ぼしなさい

という戒律だけです。

 

むしろ、提婆達多は、厳格な戒律を求めました。

食事は托鉢によるものだけだったのに、長者や富裕層の支持者が増え、その邸宅に招かれて食事を取ることも多くなってきました。

それを最初期のような厳格な戒律に戻したいというのが提婆達多で、そのために教団を割って出ていきました。

仏陀は精神中心主義、提婆達多は戒律中心主義だったとも言えるでしょう。

 

 

 

 

英国王であっても

強い欠如感は恵まれない環境で育った人が抱くものと考える人もいますがそうではありません。

映画『英国王のスピーチ』では、国王の息子でのちに国王ジョージ6世になる人は吃音だったのですが、生まれつきではなく、5歳くらいの時の体験、例えば、左利きを右利きに強制的に直させられたとか、乳母のいじわるとかによって、強いストレスを抱え、吃音になったことが明かされていきます。

当時の英国は、オーストラリアやニュージーランド、カナダ、インドなどを属国にしていた大英帝国の時代ですから、世界でもトップクラスの極めて恵まれた環境です。自己重要感の欠如など体験しそうにもない環境ですが、この例を見ても、人間は誰でも、欠如感を抱えて生きるということです。

虐待事件について

親の子供に対する虐待事件が多いですね。

虐待は何故起こるのでしょうか。

根源的な問題としては、人間の欠如感があります。

すべての人間は多かれ少なかれ自己重要感の欠如の感覚を抱えています。

胎内にいた時は全能感、一体感は保たれていますが

生まれた瞬間からかすかな分離感が芽生えます。

それは成長する従って増大していきます。

誰かに馬鹿にされたり強制されたり束縛されたりする都度、限定感、欠如感は大きくなっていくのです。

人間は自分の中の欠如感が痛くてたまらず、絶えず全能感を取り戻そうとします。

子供が遊びで虫を殺したり小動物をいじめたりするとき、その対象の命、運命を自分が支配している感覚になり、つかの間、全能感を取り戻します。それは偽りの感覚ですが、他に欠如感を忘れさせてくれるものがなかった場合、そのことに依存していきます。

大人になっても、自己重要感の欠如をうまくコントロールできない場合、自分より弱いものに対するいじめをして、つかの間の全能感を取り戻そうとします。

欠如感の痛みを忘れさせてくれるものに人間は依存し執着していきます。

子供への虐待は、外の世界で自己重要感が満たされない者が、弱い家族のものを支配し力の感覚を得ようとするところから起きます。力の感覚は快楽になりますから、それを毎日繰り返してしまいます。

人間は、自らの自己重要感の欠如の痛みを一瞬でも忘れさせてくれるものに依存していきます。

それが、アルコール依存症セックス依存症などです。

しかし、依存すること自体、自らの主体の感覚を失わせるものですから、ますます欠如感、無力感が強まっていくばかりです。

ネット依存症もそうです。ネット弁慶と言われる人たちがいます。リアルの社会ではおとなしく生きているのに、ネットとなると急に上から目線で偉そうにしたり、罵詈雑言を浴びせたりする人です。ネットで中傷していた人が逮捕されたら、ほとんどが、普段は非常におとなしいサラリーマンか主婦だったということです。それは、普段、言いたいことも言えなくて抑圧された感覚を持っている人がネットで発散して、つかの間の力の感覚を取り戻そうとした結果です。ネットには非常に多い現象です。

暴力、虐待、いじめ、誹謗中傷による偽りの力の感覚の方向に行かないためには、意識して無量の方向性へと向かう必要があります。そして、もし、そういう偽りの力の感覚に依存している人が周囲にいたら、一目散にその人からは離れるべきです。それが親であれば難しい問題になりますが、誰か気がついた人が離れさせるようにしてあげるべきです。

 

 

十牛図について

禅の門外漢である私が十牛図について語っても意味はないとは思いますが、禅の伝統的な見方と違った解釈をしてみます。

 

十牛図

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  1. 尋牛
  2. 見跡
  3. 見牛
  4. 得牛
  5. 牧牛
  6. 騎牛帰家
  7. 忘牛存人
  8. 人牛倶忘
  9. 返本還源
  10. 入鄽垂手

 

十牛図は、牛飼いの童子が逃げた牛を捕まえにいく物語です。

牛飼いの童子とは求道者を指します。

牛とは、禅で言う本来の面目、諸仏の真源、森羅万象の本源、臨済の言う一無位の真人のことです。

 

第一尋牛から第七忘牛存人までは、童子が描かれています。

しかし、第八人牛倶忘・第九返本還源・第十入鄽垂手には童子は描かれていません。

私は、童子つまり求道者の修行段階を示したのは第七までで、

第八人牛倶忘・第九返本還源・第十入鄽垂手は、その三枚で真理そのものを表したものと考えています。

 

第八人牛倶忘 は 真空   です。

第九返本還源 は、真空妙有 です。

第十入鄽垂手 は、真空妙用 です。

 

第八人牛倶忘 は 本来の面目の  です。

第九返本還源 は、本来の面目の  です。

第十入鄽垂手 は、本来の面目の  です。

 

ですから、第八・第九・第十の三枚の図は、修行段階ではなく

真理そのもの本体と相と働きを描いたもので

三枚は同時であると私は解釈しています。

 

さらにその奥の解釈を

ブログ『今まで絶対に書けなかったこと』に書いています。

https://shawshank-blog.hatenadiary.jp/

ネオ・アドヴァイタ(ノンデュアリティ)の人のブログから

YouTubeなどで最近人気があるらしいノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)の人のブログに、その参加者とみられる人の批判コメントがありましたので、貼ってみます。

アドヴァイタはシャンカラが起源で、ネオ・アドヴァイタはシャンカラからの正統アドヴァイタからすればどうしても似非アドヴァイタと呼ばれることが多いのですが、その参加者のコメントでもその理由の一つはわかる気がします。

 

ブログの題名【Escape – 逃げ】ブログ本文『幻想のわたしは、常に何かを手に入れることと、苦しみを避ける二つの動きをしている。人生は、この二つ動きの繰り返し。しかし、普通は、よくなることが良いことで、もっと自分の望みを叶えることが人生の目的だから、一般的には、普通のことかもしれない。わたしは、苦しみから逃れるのに、ストーリーを一生懸命良くしようとする。ただ、ストーリーをよくすることでは、苦しみから逃れられない。なぜなら、ストーリーの中には、みんなが求めている避難場所はないから。喜びの感情も、ワクワクの感情も永遠の避難所にはなりきれない。どこまでいっても、ストーリーの中には、永遠に続く満足はない。なぜなら、ストーリーの現実=分離の現実 つまり、完成じゃない現実だから。みんなが求めているのは、完成だよ。それは、これからの完成じゃなくて、すでにある完成。これからどこまでいっても出会えない完成。だって、すでに完成しかないから。so much love from love』

 

批判コメント『私はもう、20年弱、仏教や瞑想、禅、ヨガなどを探究してきているので、「幸せとは何か?」と問われたら、「涅槃」と答えますね。一般社会がくだらなく見えます。別に菜穂さんの話を聴く前から、(無常については)もう既に聞いてきていることです。あなたの2冊目の本。これこそ、すべて、「個人的アイデア」単なる個人的な体験談であって、どこまで信用出来るのか分かったものではありません。自分以外の「何か」が見たとありますが、その説明も不十分。ヨーガ・スートラも読んだことがないのでしょう。私、私という想念はアスミタというのですよ。ブッダの話を聴いただけで、それが落ちて預流果に悟った在家の話がありますが、トニー・パーソンズ自体、
信用できる人物ではない。彼は伝統派からは似非アドヴァイタと批判されています。グレッグ・グッドのインタビューを読むと分かりますが、50年代から70年代にかけて著作活動をしていた心理学者B・F・スキナーの原理的な決定論、行動主義の教えとそう違わないそうです。言葉に惑わされて、「凄い!」と思わされてしまう。いくら、被害者はいないと強弁しても「被害」がないわけではありません。各地の震災の被災者の前で、あなたが話をすれば、もう非難囂々でしょう。私はもう、二度とあなたの話は聞きませんが、お願いしたいのはお父様がお亡くなりになっても、同じことをいって欲しいですし、将来、ご自分が病気になっても同じことをいって欲しいと思います。私は晩年、皮膚ガンになる可能性が高く、この冬は特に痒みで苦しんでいます。あなたの発言は許せるものではありません。他のみなさんも目を覚ませて欲しい。楽園の様子だけを語られて、肝心の地図がない。方法論がない。

先生「もう、既に楽園にいるよ。」
生徒「その実感がないんですよ!」 

このやり取りが一生、サットサンで続くのですよ。
時間の無駄だと思いませんか?

もう、コメントもこれで投稿するの、終わりにしますし、もう二度とサットサンには参加することはありません。ちなみに、ノンデュアリティというのは伝統派からの批判を避けるため、アドヴァイタという言葉を使わなくなっただけで、それまでは「ネオ・アドヴァイタ」と呼ばれていました。何も新しいことじゃない。』

 

 

この批判コメントをしている、サットサン(集会のことですかね?)に出入りしていたと思われる人も『一般社会がくだらなく見えます』と書いていることからすると現実社会から遊離している方向性で、ネオ・アドヴァイタに惹かれたのでしょう。

この人の批判の要点は2つですかね。

『楽園の様子だけを語られて、肝心の地図がない。方法論がない。』『生徒「その実感がないんですよ!」』・・・・・方法論がなく筏がなくつまりどこにも行き着けないということ。

『いくら、被害者はいないと強弁しても「被害」がないわけではありません』・・・・・私はいない、誰もいない、大災害があっても被害者はいない、ストーリーだけがあって、ここからここを自分だと思っているだけ、などというまやかしを批判してます。

 

この2点、どちらもそうですね。

 

前に、自分の息子を地震で亡くした人にあてた手紙で、良寛が『災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候』と書いたことを批判したら、ある人が飛んできて文句を言ってきたことがあります。最愛の息子を大地震で亡くしてしまった人に対して、その言葉は無量心からは出てこない言葉だと思います。良寛の最愛の貞心尼が大地震に遭って亡くなりそうなときに、良寛は苦しんでいる貞心尼に向かって『災難に遭う時節には災難に遭うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候』とは絶対に言えない。自分ができもしないことを人に説教してはいけない。その言葉は上っ面だけの言葉で、無量心から出る言葉ではない。それを言っていいのは、自分に対してだけです。

 

私はいない、だれもいない、被害を受けている人もいない、といくら頭の上っ面で言ったとしても、そんな悟りすましている人が、刃物を持った男に襲われそうになったら当然必死で戦うか、逃げるかするでしょう。ストーリーがあるだけ、被害者はいない、すべてはただ起こっているだけ、観照意識でいなさい、観照者でいなさい、などと言ってることはできないでしょうね。守るべき自分もなければ、何も起こってもいない、のであれば、なぜ、棒をもって戦うか、必死で逃げるか、するのでしょう。

ネオ・アドヴァイタは、正統のアドヴァイタからすれば似非アドヴァイタと呼ばれているように、現実から遊離したまやかしです。

 

ゆえに、正統的なアドヴァイタ例えば、フランシス・ベネットというアドヴァイタの人もネオ・アドヴァイタに関して危惧の念を抱いています。この記事のように。

『フランシス・ベネットという非二元についての本も出している元修道士が最近こんな感じのことを書いていた。現代の西洋でのアドヴァイタ・ヴェーダーンタに対するアプローチは抽象的で虚無主義的で粗暴で現実離れしている。個人、身体と心、現象世界、貧困や飢えや戦争や環境等の社会問題といった現実を否定することが多い。そうしたアプローチは無意味さや無気力の感覚につながることが多い。リトリートや個人セッションを繰り返してきたなかで、そういう教えによって落ち込んだり、人生に意味を見いだせなくなった人たちにたくさん出会った。』

 

 

 

 

自由(主体性)はすべて楽しみ

他に従属することはすべて苦しみであり

自由(主体性)はすべて楽しみである

                   (出典 Udana  Ⅱ,9)(中村元訳)

 

 

これは仏陀が言った言葉です。

 

パーリ語原典では

Sabbam   paravasam   dukkha.

Sabbam   issariyam   sukham.    

 

sabbam は『すべての』

paravasam は『他人の意志にたよる。追従する。従属する。』

dukkha は『苦しみ』

issariyam は『統治者の主権。支配管轄。』

sukham は『楽しみ』

 

パーリ語原典を直訳すると、次のような言葉となります。

 

他への従属はすべて苦しみであり、主体の確立はすべて楽しみである。

 

今までの仏教のイメージからは程遠い言葉です。

日本仏教の『わたしたちはすべて他の存在によって生かされているの。他の存在がなければ自分なんか存在しない。あらゆるものの関係性によっている。それを縁起というの。人は皆、縁起によって生かされている。ありがたいありがたい。』という言説とは、真逆のように感じます。

どちらが仏陀の真意でしょうか。

仏陀は、王族の皇太子、ひとり息子でした。妻との間には生まれたばかりの息子がいました。しかし、妻を捨て、生まれたばかりの子供を捨て、王である父を捨て、継ぐべき王位を捨て、家臣を捨て、領民を捨て、宮殿を捨てて、一介の修行者となりました。

これは、王である父親が最も怖れていたことでした。しかし、すべてを捨ててしまいました。国の統治者となるべき責任を放棄しました。父親としての責任、夫としての責任もすべて放棄しました。仏陀の弟子たちもそうでした。家族などすべての関係性を断ち切って出家しました。子孫が絶えるということで、両親が子孫を残してくれと泣いて頼んだために捨てた妻と性交した弟子を仏陀はサンガから追い出しました。

すべての関係性に何の価値も見出さなかったのです。自由への希求こそ、仏陀が望んだことでした。すべての関係性を捨てた人の教えが日本ではなぜか『あらゆるものの関係性によって生かされている』ということに変化していきました。

仏陀が選んだ出家とはあらゆる関係性をすべて断ち切ることでした。仏陀の弟子たちもそうしてきました。捨てられた、王である父親、妻であるヤショーダラー、息子であるラーフラはそれはショックだったはずです。

あらゆる関係性を断ち切り、自分の弟子にも関係性を断ち切らせた人が、『あらゆるものの関係性によって生かされている。ありがたいありがたい。』というような教えを説くはずがありません。もしそんなことを説いたらヤショーダラーは『どの口が言ってる?』と怒るでしょうね。実際、原始仏典には関係性によって生かされているという言説はありません。むしろ『愛する人をつくるな』と説きます。

 

さきほど、『日本ではなぜかあらゆるものの関係性によって生かされていると変化した』と書きましたが、龍樹から縁起の意味が仏陀とは変化したからです。

 

他に従属することはすべて苦しみであり、自由(主体性)はすべて楽しみである

これが仏陀が言ったことなのです。