自由(主体性)はすべて楽しみ

他に従属することはすべて苦しみであり

自由(主体性)はすべて楽しみである

                   (出典 Udana  Ⅱ,9)(中村元訳)

 

 

これは仏陀が言った言葉です。

 

パーリ語原典では

Sabbam   paravasam   dukkha.

Sabbam   issariyam   sukham.    

 

sabbam は『すべての』

paravasam は『他人の意志にたよる。追従する。従属する。』

dukkha は『苦しみ』

issariyam は『統治者の主権。支配管轄。』

sukham は『楽しみ』

 

パーリ語原典を直訳すると、次のような言葉となります。

 

他への従属はすべて苦しみであり、主体の確立はすべて楽しみである。

 

今までの仏教のイメージからは程遠い言葉です。

日本仏教の『わたしたちはすべて他の存在によって生かされているの。他の存在がなければ自分なんか存在しない。あらゆるものの関係性によっている。それを縁起というの。人は皆、縁起によって生かされている。ありがたいありがたい。』という言説とは、真逆のように感じます。

どちらが仏陀の真意でしょうか。

仏陀は、王族の皇太子、ひとり息子でした。妻との間には生まれたばかりの息子がいました。しかし、妻を捨て、生まれたばかりの子供を捨て、王である父を捨て、継ぐべき王位を捨て、家臣を捨て、領民を捨て、宮殿を捨てて、一介の修行者となりました。

これは、王である父親が最も怖れていたことでした。しかし、すべてを捨ててしまいました。国の統治者となるべき責任を放棄しました。父親としての責任、夫としての責任もすべて放棄しました。仏陀の弟子たちもそうでした。家族などすべての関係性を断ち切って出家しました。子孫が絶えるということで、両親が子孫を残してくれと泣いて頼んだために捨てた妻と性交した弟子を仏陀はサンガから追い出しました。

すべての関係性に何の価値も見出さなかったのです。自由への希求こそ、仏陀が望んだことでした。すべての関係性を捨てた人の教えが日本ではなぜか『あらゆるものの関係性によって生かされている』ということに変化していきました。

仏陀が選んだ出家とはあらゆる関係性をすべて断ち切ることでした。仏陀の弟子たちもそうしてきました。捨てられた、王である父親、妻であるヤショーダラー、息子であるラーフラはそれはショックだったはずです。

あらゆる関係性を断ち切り、自分の弟子にも関係性を断ち切らせた人が、『あらゆるものの関係性によって生かされている。ありがたいありがたい。』というような教えを説くはずがありません。もしそんなことを説いたらヤショーダラーは『どの口が言ってる?』と怒るでしょうね。実際、原始仏典には関係性によって生かされているという言説はありません。むしろ『愛する人をつくるな』と説きます。

 

さきほど、『日本ではなぜかあらゆるものの関係性によって生かされていると変化した』と書きましたが、龍樹から縁起の意味が仏陀とは変化したからです。

 

他に従属することはすべて苦しみであり、自由(主体性)はすべて楽しみである

これが仏陀が言ったことなのです。

 

 

 

 

 

長沙

臨済は、禅の歴史の中に聳え立つ大雄峰ですが、その臨済を超えた人物ではないかと私がひそかに思っているのが、普化長沙です。

 

数ある禅問答の中で私が最も好きなのは、長沙の『南泉遷化』の公案です。

 

長沙因三聖令秀上座問師曰、南泉遷化向甚麼處去。

師曰、石頭作沙弥時参見六祖。

秀曰、不問石頭見六祖。南泉遷化向甚麼處去。

師曰、教伊尋思去。

秀曰、和尚雖有千尺寒松。且無抽條石筍。

師黙然。

秀曰、謝和尚答話。

師亦黙然。

秀回挙似三聖。 聖曰。若恁麼猶勝臨済七歩。然雖如此、得我更験看。

至明日三聖上問、承問和尚昨日答南泉遷化一則語。

可謂光前絶後今古空聞。

師亦黙然。

 

 

秀上座は三聖の命を受け、

長沙に『南泉は遷化してどこに行ったのか』と問うた。

 

長沙『石頭和尚は沙弥のとき六祖慧能に参見した。』

 

秀 『石頭が六祖に会ったことを聞いているのではありません。

   南泉は遷化してどこに行ったのですか?』

 

長沙『彼に考えさせよう。』

 

秀 『和尚には、寒さに聳え立つ千尺の松はあっても、

   石を割って伸びる筍の働きがありませんね。』

 

長沙は黙っていた。

 

秀 『和尚のお答えに感謝します。』

 

長沙はまた黙っていた。

 

秀上座は帰って三聖に報告した。

 

三聖『もしそうなら、長沙和尚は臨済に七歩も勝っている。

   そうはいっても、わたしが確かめてみよう。』

 

次の日、三聖は長沙を訪ねて言った。

三聖『昨日の南泉遷化のお話、全く空前絶後で、

          古今に聞いたためしがありません。』

 

長沙はまた黙っていた。

 

 

素晴らしい話ですね。

長沙はもちろん、それを見抜いた三聖も凄いですし、秀上座も長沙に向かって『和尚雖有千尺寒松。且無抽條石筍』と言えるのは凄いことです。

 

この話に先だって、六祖と石頭には次のような伝があります。

 

六祖が遷化されるとき、石頭が六祖に聞いた。

石頭『百年後、某甲依什摩人』

六祖『尋思去』

 

 

徳山なら秀上座を棒で叩いていたでしょうし、臨済なら喝をするか、拳で殴るかしているかもしれません。普化ならお膳を足で蹴飛ばしたかも知れません。

長沙は黙っていた。

 

長沙は、まさしく光前絶後ですね。擦り切れています。ここは空前絶後でなく原文どおり光前絶後という言葉がぴったりきます。

 

 

 

 

臨済

歴史上の仏陀の真意は無量心であったこと、そして仏陀の死後、部派仏教の時代になるとその『大いなる境地』は失われていって灰身滅智の考えに支配されていったこと、そのアンチテーゼとして大乗仏教が生まれたこと、大乗仏教は失われた主体の復興運動であったこと、しかし、仏陀の真意の復興運動であった大乗仏教も、小乗仏教を論破していった天才龍樹独自の理論へと大きく変貌したこと、が、私独自の仏教史観です。

 

さて、原始仏典ばかりを引用してきた私には珍しいことではありますが、大乗仏教の肯定的な面も心のままに書いていきます。

大乗仏教の人の中で、仏陀の真意に非常に近い人の一人は臨済だと思います。

 

随所に主となれば、立処みななり

 

長い大乗仏教の歴史の中で、臨済ほど、主体や自由を高らかに獅子吼した人はいないでしょう。

 

境に転ぜられず、処処に境を用いん

東湧西没、南湧北没、中湧辺没、辺湧中没

水を履むこと地の如く、地を履むこと水の如くならん

何に縁ってか此の如くなる

四大の如夢如幻に達するが為の故なり

道流、汝が祇だ今聴法するは、

是れ汝が四大にあらずして、能く汝が四大を用う

若し能く是の如く見得せば、便乃ち去住自由ならん

 

ここで臨済は、自らの絶対の主体を掲げると同時に、外境(環境)に支配されず、外境を意のままに用いることを説きます。現象=外境=環境 は、如夢如幻であること、それは固定化されたものでは全くないのに、固く動かないものと考えて外境に支配されているのが人間です。

 

我れ見るに、諸法は空相にして、

変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無

三界唯心、万法唯識なり

所以に夢幻空花、何ぞ把握を労せん

 

すべての現象は、夢幻空花のようなもの、心が化作したものです。

すべて、心が、意識が作ったものです。それが三界唯心万法唯識です。

 

道流、汝如法に見解せんと欲すれば、但だ人惑を受くること莫れ

 

臨済のキーワードのひとつは、『人惑を受けざれ』です。

他人に惑わされてはいけない、他人に惑わない主体を確立せよ、ということです。

これは仏陀の真意に近いものです。

 

 

 

 

 

これだけは言っておきたいこと

歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかがわかるようになってきて、愕然としたことがあります。

これだけは言っておきたいことを書いておきます。もちろん、人は自分の信じたいものしか信じませんから、これを書いたところで分かってもらえる人はごく少数でしょうけど、真剣な人であれば今は難しくても遠い将来に気がついてくれる人もいるでしょう。

結論から先に言いますと、この世には意志をなくしてしまう方向へ向かわせる考え方が蔓延しているということです。特に日本にはその傾向が非常に強いです。

無力感の方向に行く考え方、限定感を強める考え方、意志をなくしてしまう考え方、そのようなものから決然と離れ、全能感、無限感、無量感の方向に舵取りしないと、苦の集積に押し流されてしまうということです。

 

仏陀の真意がわかりはじめて愕然としたのは、人間は毎瞬毎瞬、肉体の感覚、記憶にどうしようもなく引き摺り込まれているということです。

これは善人悪人関係なく、肉体の感覚を持ち、日常生活している限り、無量とは反対の限定、分離、欠乏の方へ激流によって押し流されているということです。

無量に気がつけば気がつくほど、その激流の凄まじさも見ることになりました。

それはスッタニパータで仏陀が言っているように、牽引するもの、貪欲、ものすごい激流、吸い込む欲求、はからい、捕捉、超えがたい欲望の汚泥なのです。その牽引する力を万力に譬えた仏典もあります。

このとんでもない激流に気がついたとき、はじめて、仏陀が何故あれほど、『怠るな』『精進しなさい』と生涯言い続けたのかがわかりました。

そして、その激流を渡るには『絶対に』筏が必要なのもわかりました。『筏』とは具体的な方法のことです。

明確な意志を持って筏を漕ぎ、激流と正反対の『無量』に向かわなくては、そのままでは苦の集積に流されて行ってしまう・・・これが実感を持ってはっきりとわかったことでした。

 

ところが、世の中は、安易な言葉が蔓延しており、悟りの大安売り状態です。

 精神世界の本を読む人なら必ず目にする言葉たちがあります。私も20歳の頃には、これらの言葉を読んで悟った気、無我である気分になっていました。しかし、それはとんでもない勘違いだったのです。

『そのままでいい』『ありのままでいなさい』『すでに救われている』『すべてのことはただ起こっているだけ』『ただ見ていなさい』『気づいているだけでいい』『何も起こってはいない』『全てはただ起きているだけで、私がするべきことは何もない』『自由意志はない』『信じるだけでいい』『我はないのだから我をなくそうとするのも自我』『私などない』というような言葉たち。

これらの言葉を読むことによって悟った気分や一時的に救われた気分になれるかもしれませんが、『私という中心、限定、へこみ』という感覚は強固としてそのままなのです。

『私という中心がある』という根強い妄想を抱えたまま、頭の中で『私はない』『自由意志はない』という言葉に酔ってしまうことの危険性、それは洪水に流されていってる人が『すでに救われている』と妄想していることに似ています。

いくら救われている気分に浸っても、苦の集積に向かって激流に押し流されていることには変わりがなく、むしろ、意志をなくそうとしているだけに最悪の状態になります。

 

例えば、こんな記事があります。

『フランシス・ベネットという非二元についての本も出している元修道士が最近こんな感じのことを書いていた。現代の西洋でのアドヴァイタ・ヴェーダーンタに対するアプローチは抽象的で虚無主義的で粗暴で現実離れしている。個人、身体と心、現象世界、貧困や飢えや戦争や環境等の社会問題といった現実を否定することが多い。そうしたアプローチは無意味さや無気力の感覚につながることが多い。リトリートや個人セッションを繰り返してきたなかで、そういう教えによって落ち込んだり、人生に意味を見いだせなくなった人たちにたくさん出会った。』

 

 フランシス・ベネットという元修道士はアドヴァイタの立場から語っています。いま世界で流行しているネオ・アドヴァイタの現状はこういうものだと言っています。人がそういう教えで無気力になったり虚無感に陥ったり人生を無意味に思ったりすることは最も怖ろしいことです。それは人間にとって最も大事な自由意志を否定することが起こしたものです。

『全てはただ起きているだけ。私がするべきことは何もない。』というメッセージは間違いです。人間の最も重要な意志を否定していけば、人間は意志を持たず環境の奴隷になるだけです。

自分の一瞬一瞬の想いが環境を作り出しているのであり、どのような環境であれ、自分が作りだしたものなのです。想い=身口意の行為 がすべてを作り出すというのは、仏陀のメッセージです。

しかし、仏教は、特に、日本仏教はむしろ、主体や意志をなくしてしまう方向に大きくぶれていきました。

 

最古層の仏典『スッタニパータ』や『ダンマパダ』を調べていけば、歴史上の仏陀の真意が、主体を失わせることではなく真逆の自己の確立であることがわかるはずです。

 

実は、日本に仏陀の肉声に最も近い最古層の仏典が入ってきたのはごく最近のことです。『スッタニパータ』は4つの阿含経典に入ってなく、また、五時教判により、それが仏陀の肉声に近いものとは日本の歴史上思われたことはなかったのです。明治以前の仏教者は読んだこともなかったでしょう。

最近になって初めて、仏陀の真意はどういうものであるかが明らかになろうとしてます。

仏陀の真意を探求する気運が新しい時代に高まってくることを期待します。 

 

仏陀の真意について(ヤフー掲示板『仏教についてのひとりごと』の総括として)

今までの仏教知識を白紙にして、最古層の仏典から歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求する、というのがヤフー掲示板の私のスレッド『仏教についてのひとりごと』の主旨でした。

ヤフー掲示板が消滅するまであと3日となりましたので、ここで長文にはなりますが、ここまでで到達した結論を書きます。その結論に到達した経緯や文献などはまた、このブログや自費出版で詳しく書くことになろうと思いますが、いまはなるべく結論部分だけを書いていきます。

最初期、仏陀がいう究極の境地、不死の境地、ニルヴァーナ(涅槃)は、無量心でした。

しかし、ある理由により、無量心は、仏陀の死後時間が経つにつれてどんどん低い境地とされていきます。解脱にまでは達せない、色界最下層の境地という解釈にまで落とされていきます。

替わって仏教の中心概念となったのが無我でした。仏陀の真意は諸法非我であったのですが、すでに初期段階において諸法無我としてすべての存在には実体がない、主体がないという考えになっていきました。

第二結集からの根本分裂で部派仏教時代になってからは、無我であるならば何が因果を受けるのかという論争に明け暮れるようになります。極めて煩瑣な思弁に耽るようになります。

その部派仏教への批判勢力として同時多発的に出現したのが大乗仏教です。仏陀の真意を本当に知り大いなる境地まで到達した人々が、各地で様々な大乗仏典を生み出していきます。そして、自分たちを大乗(大きく優れた乗り物)、部派仏教を小乗(自分だけの小さな劣った乗り物)と呼びました。

大乗仏教は、失われた仏陀の真意、失われた主体、失われた無量心の復興運動でした。

しかし、部派仏教の人たちからは、『そんなものは釈尊の教えではない。仏説ではない。』『第一結集で確定した教えに基づかず勝手に創作したものだ。』という強い非難を受けます。

そのままでは、大乗仏教はマイナーな思想のままでいたでしょう。

仏陀が生前説いたことを仏陀の死後2か月後に直弟子500人を集めてひとつひとつそれが仏陀が説いた言葉で間違いがないかお互いに確かめていった第一結集は、生前の仏陀が説いたものか違うのかの絶対の拠り所であり、はるか後世に第一結集と関係なく勝手に創作したものが認められるわけがないのですから、論争をすれば『それは仏説ではない』で終わりでした。

そこに登場したのが龍樹です。龍樹は『言葉は世俗諦であり究極の真理をあらわすものではない』『真理は言葉を超えたもの』『言葉は例えば長いという言葉は短いものによって成立しているだけの相対的なもの』という持ち前の論理を駆使し、その言葉が生前の仏陀が言った言葉かどうか以前に、言葉そのものの虚妄性を強調することで、小乗仏教の人たちを論破していきました。

これにより、大乗仏教は興隆することになり、龍樹は大乗仏教の祖とされていきました。

龍樹は、般若経典の『空』を、自らが創作した理論で解釈して、それが仏教の根本教理となっていきました。

すなわち、

すべてのものは他のものに依存してある⇒自性がない⇒実体がない⇒空である

このようにして、すべてのものは他のすべてに縁起して成り立っているものだから無自性であり実体がなく空である・・・というのが仏教の根本とされるようになりました。

大乗仏典創作運動が、部派仏教のアンチテーゼとして生まれたことは確かです。仏陀の真意は、論争に赴かず、形而上的な議論をせず、究極の境地を目指すことでした。しかし部派仏教時代には煩瑣な形而上学に耽り、他部派との論争に明け暮れるようになっていました。大乗仏教は、在家中心で煩瑣な形而上学を排し極めてシンプルに『大いなる境地』を称賛するものでした。しかし、龍樹によって出家中心そして煩瑣な哲学にまた赴いてしまいました。それに、これを機に、仏陀の本当に言いたかったことは龍樹独自の理論に変貌していくこととなりました。

歴史上の仏陀はほとんど『空』を説いていません。

スッタニパータで出てくるのは『つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は見ることがない。』という箇所です。

これは、世界を、泡沫や陽炎のように、生じてははかなく消えていくものと観なさい、という意味です。『空』の意味は、極めてシンプルな、『滅していくはかないもの』というだけの意味です。

『縁起』も原始仏典では必ず、十二縁起(五支縁起や十支縁起など短縮形はあったとしても)のことで、苦の縁って起こる原因のことです。

 縁起とは苦の縁って起る原因のことですから、仏陀は、菩提樹下で目覚めて7日後の初夜中夜後夜に縁起を瞑想し、『縁の滅を知って』 すべての疑問を消滅させ成道したのです。

しかし、龍樹は独自に、縁起を『あるものは他のすべてに相依してなり立っているもので、その自体の性質つまり自性はなく、実体がなく、空である』という理論に作り上げました。

龍樹が解釈した『縁起』『空』『無我』によって、日本仏教は形作られます。

 

すなわち、現在、日本のお坊さんが宗派を問わずに共通して言ってること、

瀬戸内寂聴の言葉で言えば

『私たちは他のすべての存在に生かされているの。だってそうでしょ、食べているお米も農家の人が作ったものだし、作るには水や空気や日の光や土やいろいろなものが縁となってはじめてできるの。いま着ている服でもそう。いろんなものが縁となってできているの。人は一人では生きていけない。それを縁起というの。縁というのはありがたいものですべての縁に感謝して生きていくの。人は縁によって生かされている。ありがたいありがたい。』

感謝の念を出すことはいいことで、欠乏の方向に向くのではなく、充足の方向に向いているのですからそれ自体は望ましいことです。ですから、日本のほとんどの仏教宗派でこれが仏教だと考えています。

しかし、歴史上の仏陀の教えとは全然違います。今の仏教が言っている、お米によって生かされている、服によって生かされている、というのは肉体です。

しかし、仏陀は、肉体も心も『私ではない』と言います。これを五蘊非我といい、最も基本的な四念処観は、身(肉体)・受(感覚)・心(心)・法(観念)は私ではない、非我であると観想するものです。

非常に多くの要素によってお米などの食料ができ自分の口まで届くのは事実です。肉体が多くの要素によって存続できているのは当然その通りでしょう。

しかし、仏陀の教えとは明らかに違うものです。

仏陀は『他者に従属しないこと』『自己を確立すること』を説きました。『他との関係性によって生かされている。ありがたい。』というようなことは仏陀は言いませんでした。

 

 

レス

アドヴァイタはシャンカラから始まります。シャンカラは私も本を読んでいますが、今ネットで大流行しているのは、ネオ・アドヴァイタというやつです。伝統的なアドヴァイタからはしばしば、似非アドヴァイタなどと否定的に書かれることがあるものです。
YouTubeにいっぱい出てきますよ。若い女性が『すべては起っているだけ』『起っているなかのここからここが自分だと思い込んでいるだけ』『自由意志などない』『私はいない』『誰もいない』などとしゃべっています

私が、ネオ・アドヴァイタの思想を危険だと思うのは、聞いた多くの人が本質でないところにいって意志を軽視して原動力をなくして無気力な方、悪い方にいってしまうだろうと思うからです。

現に、ネオ・アドヴァイタのルパートスパイラという人の講演会でこんな質疑応答をしてます。

『全てはただ起きているだけで、私がするべきことは何もないことは分かっているのですが…
癒したい、癒されたいという衝動が起こるんです。でも、「私はただ観察しているだけだ」とも思います。この二つの考えを行ったり来たりして悩んでしまいます』

この質問者は正直です。この質問に対し、ルパートスパイラはこう答えます。

『ネオアドヴァイタの「何も起きていない」といったビリーフを鵜呑みにしないでくださいね。』

そう。それは危険なことです。本質がわからず鵜呑みにすると、とんでもないことが起きるからです。

ネオアドヴァイタとは、トニーパーソンズやネイサンギルなどを筆頭にした新しいアドヴァイタの概念で、ネオアドヴァイタと言われるティーチャー達は、人間的なストーリーに巻き込まれる事無く、「何も起きていない」と語りかけます。

天台本覚思想が、非常な退廃を招いたような、そのような危険性を感じています。

 

 

 

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 pipitさん、こんにちは。

歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを最古層の仏典から探求するというのがこのスレッドの主旨でした。
小乗大乗問わず、今までの仏教理解をいったん白紙にして、直接仏陀の真意を探ろうとしました。
そのため、スマナサーラ長老に対しても厳しいことを言ってしまって、pipitさんにはお叱りを受けましたね。申し訳ないことをいたしました。

教えていただいたパーリ語仏典サイト、本当に助かりました。

お蔭さまで、私なりに、心が震えるような発見をすることができました。
仏陀の真意とは何か?大乗仏教は何故出現したのか?
そのキーワードは、brahmam vihara にありました。
その位置がどうして下がっていったのか、に謎解きの鍵がありました。

これで小乗大乗の統一ができるかもしれません。

私もpipitさんとお話しする時が一番充実出来て楽しかったですよ。

今まで本当にありがとうございました。

お元気で活躍してください。

 

 

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今、このスレを見ることができました。
言葉と違ってまた来られているのですね。
赤い実さんは、ご自分の心を洞察できていますか?

赤い実さんは、自分はいつも気づいている、反応することはない、感情を起こすこともない、いつも無量であることに気づいている、という自己イメージを持っていて、それが強固なプライド、自我になっているのです。
ですから、他人から何か嫌なことを言われても『何とも思ってない』というポーズをして嫌なことにも一切反応しない自分を披露しようとするのです。
また、自分は目覚めている、いつも気づいている、いつも洞察している、という自己イメージを持っていますから、そのイメージを担ぎまわって、この人は気づいていないと判断した人がいれば飛んで行って注意したり責めたりするのです。
それは、見性した人が人に自分の悟りを自慢したくて自分の悟りを担ぎまわっている姿に似てます。
赤い実さんが、口ではいくら『私なんてないんだよ』『名前も身体も想念も全部自分ではない』『自我の反応はしない』といっていても、実際がどうか洞察してください。

私がブログで家族の食事がバラバラということを書いた文章は、名前は『A』としてます。
それにこれは本人がネットに書いたことを書いています。
ネットの書くことは世界に公開することです。どこで引用されどこで批判されるかわからないことは覚悟でなければ、ネットには書いてはいけません。
私が書いた文章も、どこで引用されているかどこで批判されているかなどは把握しようもありません。実際に強く批判をしている文章はあちこちでありました。それは覚悟の上です。赤い実さん、甘すぎますよ。

私がmicの大量投稿を止めてほしかったのは、明らかにこのスレを潰そうとする明確な意図をもって大量投稿し続けたからです。
micが、他のスレッドで私のことをどう書こうが全くどうでもいいのです。
このスレッドの閲覧者の邪魔になってほしくなかったし、私にはスレ主としてこのスレッドを高いレベルに維持したい、多くの優良スレのようにアラシに潰されたくないという希望があったのです。


赤い実さんは、自分の『いつも気づいていて嫌なことがあっても何とも思わない』『反応しない目覚めた自分』という自己イメージに縛られて、『どんなことを言われても平気。何の感情も起きない』と無理してしまっているのです。

 

自分の『いつも目覚めていて嫌なことにも平気な自分』の自己イメージを担ぎすぎていて
そこの洞察ができてないので、平気だというポーズをしてもそれがふつふつと負担になって来るのです。

名前をただの『A』としても、そういう嫌な気はされたのですし、このように大きく反応されてますよね。
ダブハン疑惑まで言って、自分の正当性を主張し始めたのは、我慢していたのに耐えられなくなったからです。

ですから、悟りや目覚めや『反応しない』『私などない』などというのは、口で言うのは簡単ですが、実際には非常に難しいことです。
あまりにも安易に目覚めていると思い込んでいる人が多すぎるのです。

私の20歳の時のようなものです。

それに気づいていただけたら、ブログの赤い実さんに関するものは消しますよ。

最初から、『嫌な気持ちだから消してくれ』と言われればよかったのです。


赤い実さんは、わざわざ、ブログのアドレスを貼ってまで、『自分は平気』アピールしてましたよね。

 

 

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私がこの私のスレを見たのは1日ぶりですから、昨日の昼から今朝までの投稿を初めて見たのですよ。
で、昨日の夕方に赤い実さんが誰へのレスでもなく『疑問。』と書かれていて、スレ主の私に向けての内容であったので、返信しました。

それで『赤い実さんが不快に思われているならブログの赤い実さんの部分は削除しますよ』と書いたのです。
何と書かれても無視しろ、と人には言うけど、自分は無視できないのかな、とは思いましたが
嫌な気になっているなら、削除はしますよ。

その答えは削除しなくてもいい、削除しなくても自分は全く気にしない、ということだったと思いますが。

それでは終わらせていただきますね。

 

 

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 <<東洋哲学とそれに関連するトピというのは、以前から揉め事がとても多かったのです。私もかなり至らない者で、そうしたところによく加わってよくおりました。
そうした中で苦しむわけですよね。 (馬鹿な話なんです。)でも、気づいたことがあり・・ それは、「皆、相手だけに非があり自分(たち)は悪いところはない、というふうに思い派閥抗争しているかのようだ」、ということなのです。私も以前はそうだったのです。 でも、そのことがわかってから、揉めている人たちに、「揉め事は、相手だけが悪いということはないでしょう。」というのを知ってほしくて言いにいくようになったんです。するとそこでさらに揉める(笑) ということがよくありました。そうした中で、さらに自分の至らない部分(胆力のなさ、要領の悪さ など)を知ることにもなったのですが・・・>>

 

そこが不思議だったんです。赤い実さんの原動力が、揉め事をなくしたいという気持ちなのはわかりました。しかし、赤い実さんが飛んで行って「揉め事は、相手だけが悪いということはないでしょう。」と言っても、さらに揉めるということもわかっておられるのですね。それがわかっていて、なぜ、頼まれもしないのに飛んで行って揉め事の中に入ろうとするのか、これが未だにわからない謎です。

私は今まで相談を受けてトラブルを解決してきた経験がありますから言うのですが、赤い実さんのやり方や考え方では揉め事は大きくなるだけです。赤い実さんの公正さは、中学生の風紀委員が自分勝手に公正だと思っているレベルにしか過ぎません。もっと現実の社会を知り、人の心を知らないと、揉め事にわざわざ口を出しても逆効果です。

迷惑をかけている者と迷惑をかけられている者の間に揉め事があった場合、迷惑をかけられている者に「揉め事は、相手だけが悪いということはないでしょう。」としたり顔で言っても、迷惑をかけられている方からすれば「こいつ、何言ってんだ?何もわかっていない。」となるだけです。痴漢されている女性に向かって「相手も悪いけどあなたも悪い」と言うのは最低です。

私は迷惑をかけられている者の味方であり続けたいと思っていますし、今も、トラブル相談のボランティアはしてます。しかし、相談もされてないのに積極的にトラブルに嘴を突っ込むことはしたことがありません。してはいけないのです。それはただ、自分を認めてほしいだけの行動です。

この世は繊細な人ほど生きにくいのです。今年からますます生きにくくなります。もう少し時間に余裕ができるようになったらそういうボランティアを生きがいにしたいと思っています。そして、相談されたトラブルを解決するためにはこの世のスキルを磨き続けなければ役には立ちませんのでまだまだ磨いていくつもりです。

 

 

 

<<また、hanaさんへのレスをされる、と自ら書かれていたのに(昨日の夕方)、していませんよね。>>

まだやってるのですか。事実を確認しないで、自分の思い込みだけで人を責めるのはもうやめませんか?しつこいですよ。
私は、hanaさんに『2,3時間後にレスしますね』と16時8分に書き、3時間後の19時2分に実際にレスしてます。


<<ショーシャンクさんは、なんとかして自分には悪いところはないのだ、と、表面的にだけごまかそうとされているようにも感じます。 現に、「ベトナムの赤ちゃんの話」は、どうされました?誰でもがすんなりと閲覧できるような方法で、ブログに載せていらっしゃいますか?>>

私のブログにいつどのように載せるのかはブログ主の私の判断です。そこにまで、いちゃもんをつけて、私に非があると言うのですね。赤い実さん、ちょっと異常ですよ。ご自分の人を責めたい心を直視されたらいかがでしょう。本当にいつも無量であるかどうか。
なぞなぞ認証しているのは、micのような悪質な者から防御するためです。このスレでとことん懲りましたから、ブログは本当に快適なのです。自分が書きたいときに嫌がらせを受けずに自由に書ける、これだけで本当に私は幸せなのです。それまで責めないでください。あなたも、アラシのような嫌がらせが嫌ならヤフー掲示板でなく他の形式のものにいけばいいじゃないと書かれてましたよね。

 


<<終わらせていただきますよ。>>

 

今度は本当に言葉通り終わってくださいね。(笑)

 

私は、赤い実さんが言われるように、非常に小さい人間です。主体性もありません。
いつも想念に気づいていたり、いつも無量に気づいていたりすることは全くできていません。
ですから、私はずっと、自分は卑小な精神、卑小な人格だと最初から言ってきました。それが本当ですから。

赤い実さんが、自分はいつも目覚めている、無量にあると私のスレに書いてきたとき、私はいつも気づいていることはできてないと正直に言いました。

無量にいつもあることなどできてないですし、悟ってもなく目覚めてもいません。
そして、自分のスレッドが悪意によって荒らされてきたのを本当につらく思っていました。無視しようと何度も思いましたが、抗議してしまうことも幾度もありました。

そのような卑小な精神の人間でも、この世で生きづらい人たちを少しでも生きやすいようにしてあげたいです。
赤い実さんも、ヤフー掲示板を見回して、自分の価値判断に合わないものに注意しに行くということでなく、hanaさんのような苦しんでいる方に気づきを教えて救ってあげてください。

ずっと『自分は気づいていない』『自分は卑小な精神、卑小な人格です。』『自分はずっと無量であることはできていない。』と繰り返し言っている人に対し、赤い実さんはなぜわざわざ『あなたは気づいていない』と非難しに来なければならないのでしょうか。『自分は悟っている』と一言でも言ったなら、『悟ってなんかない』と否定しに来る気はわかりますが、私はずっと『卑小な精神だ』と言って来ているのですよ。

そんな非難の衝動は無量心から出るものでは決してありません。

非難すると自我の優越感は満たされるかも知れませんが、あるいはずっと溜まっていた不満は解消するかも知れませんが、それは偽りの感覚です。

本当に自分がいつも目覚めていると考えているのであれば、その目覚めで苦しんでいる人をたくさん救ってあげてください。ネットでも日常生活でも。

 

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hanaさん、おはようございます。

あまり気に病まないでください。
自分のスレッドがあるヤフー掲示板が消滅したら、自分のスレッドに気を取られることがなくなりますから、ブログに時間をかけることができます。

いつでもいいですが、映画『ショーシャンクの空に』は人生のどこかで見られた方がいいですよ。
あのなぞなぞ認証は、ちょっと本質的な部分なので、あれが分かるとブログの内容が理解しやすいのです。

また、hanaさんには、テレビドラマ『すいか』をお薦めします。
かなり前のドラマで視聴率も悪かったですが、癒し系映画、ドラマの先駆けになりました。
『いてよし』、どんな人でもどんな生き方でもいいんだという気になれると思います。

また、最後、こんな形にはなりましたが、赤い実さんは、ご自分の心の苦しみを気づきによって改善された経験がおありのようですから、気づきのやり方を赤い実さんから教わるのは大変お薦めです。
ヴィッパサナーはうつ病や対人恐怖症には絶大な効果があると思います。

 

こういったからと言って
私がhanaさんを見捨てて赤い実さんに押し付けようとしているなんて思わないでくださいね。
hanaさんの思考回路だとそう思ってしまうのが心配です。

micのような悪意のある者を防御して、本当に読みたいと希望する人全部に見せることができる仕組みを考えている最中なのです。

hanaさんは妄想を膨らませて苦しまれることが多いので、私は何とか伝えたいと思っていることは分かってください。

ただ、気づき、ヴィッパサナーはhanaさんにはいいと思いますよ。
赤い実さんか、pipitさんにお聞きになると親切に教えていただけると思います。
このお2人はいい人ですから。

 

 

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自分が完璧にできてないのに人に説教してはいけない、これは私の信念です。ですから私はリアルでも人に説教などしない。人に説教するというのはそういうことです。
このカテゴリーには、自分ができてないのに人に説教したがる人が多すぎるのです。
頼まれもしないのに人に教えてやろうとする人が多すぎるのです。うんざりしてます。
私は聞かれたことにはなるべく答えようとしてきましたが、頼まれもしないのにこちらから他のスレにまでいって教えようとしたことは一度もありません。
人に説教したり人を責めたりしたがる人は、本当に自分で完璧にできてますか、それを見るべきです。

また、ネットで発信するということは世界中に公開するということです。自分で書いた情報はそれにつき意見を言われることはあります。
ただ、そうはいえ、こういうことは今までしたことはありませんでしたが、自分のことは棚に上げていきなり人を責めるその精神が本当に無量であるといつも気づいている状態ですか、と言いたかったのです。
失礼は詫びています

 

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ある集団とある集団の対立というのは全く知りませんが、赤い実さんが仲介に入ったことで解決に向かったと考えていいのですか?

それは、迷惑をかけられている方と迷惑をかけている方ということではなかったのではないですか?
私の場合は、私のスレッドで一方的にスレッドを潰すために大量投稿され続けているのです。
「本人がそれを言いましたか?」なんて赤い実さんは聞きましたが
本人は初めから今に至るまで何十度も「ここは小さいうちに潰しておかないとだめなんだ」ということを書き続けてますよ。
それにもかかわらず、私はmicに対し、「浄土真宗という木になった果実がmicですからね(笑)」という全く感情的でも衝動的でもない穏やかなレスをしただけですが、それも「無視すると言ったのに無視しない」と他の人に責められる謂れなど全くないはずです。
迷惑かけられている方も「悪くないとは言えない」というのは、痴漢やストーカーの被害に遭ってる人に言うのと同じだと言っているのです。

  

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私の、花まつりさんに対する態度とmicに対する態度が違う、ということで赤い実さんは怒っているのだそうですが、何を言ってるんでしょうね。
micはこのスレッドを潰そうとして大量投稿しているのです。
花まつりさんは、そんな行為はしてないですね。

 

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公平というあなたのmicに対するこのスレの行為への注意はありましたか?

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それはあなたが花まつりさんの投稿を不快に思ったからでしょう?
自分が私に求めるように、なぜ、無視しないのですか?

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赤い実さんは完全に勘違いしていますね。

自分の心が全く洞察できていない。

花まつりさんに言われた言葉は非常に不快で、それに何も言わない私へ不満があった。
一方、micには何年も前からシンパシーを感じていたことは投稿からも明らかで
それに対して反撃する私の態度は不快であった。
だからスレが消滅する今にその不満を爆発させたのです。

あの時の投稿は非常に感情的なものでした。

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ちょっとパソコンから離れて、映画を観てました。

なるほど、このカテゴリーでの、ローカルルールがあるのですね。

喧嘩相手に無視リストに入れると言ったら、入れ続けないといけない・・・・ですか。
笑えますね。
そもそも、micは喧嘩や論争の相手ではないですね。
議論や対話が成立しないですから。

喧嘩相手ではなくて、このスレッドを潰そうとしているストーカーなのですから
ときどき無視せずに抗議することが何が悪いのか、本当にわからないです。

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結局、あなたが言いたいのは
私が「無視する」と書いた直後に、言を翻して、また大量投稿者にレスしたこと・・
これがいけないということですね。

何度非難されても、私にはさっぱり、どこが悪いのかが分からないのです。

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うーん(笑)、どうもあなたは自分の独善的な価値観で人を責めているとしか思えません。

無視していこうと言ったから、無視しなさい・・・・・
これがあなたの主張のほとんどなのでしょうけど、私にはそれのどこが悪いのかが分からないのです。

それに「スレッドに関係なく自分の主張ばかりしてくる人は議論に巻き込まれることなく無視していこうと思います。」は、かなりの部分、sanさんなどの議論の対象とできる人のことではないですか。micと議論に巻き込まれたことは一度もないですから。議論していくスタイルではないですよね。ただただ罵詈雑言を30連続投稿するスタイルです。まともに答える気は一切なく、ただ私が投稿したら他の人に読ませないように大量投稿するスタイルです。
大量投稿者にスレ主が抗議することで、こんなに非難されるのは本当によくわからないのです。

 

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すみません。
何度言われても、迷惑投稿者に返事することが私の「非」だとは思わないです。
それが例え、直前に「無視しよう」と書いたとしても。

 

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ですから、何度も言いますが
「無視しよう」と何度も書いたことはそうです。
無視リストには入れてないですから、全部micの投稿も読んでいます。
レスしたい言葉が思い浮かんだらレスすることがあります。

それだけのことです。
それをここまでしつこく言おうとするあなたの精神状態が心配になります。

~~~~~~

本当に申し分けないですが
あなたに何度言われても
迷惑投稿者にレスしたことが私の非とは全く思えないのです。
私のスレッドです。
私が書きたいことを書きたいときに書きます。
それがたとえ、無視すると言っていた投稿者に対してでも。

私はあなたを観ていて、ご自分が掲示板で書いたにもかかわらずそうしなかったことはあったように思えます。
ここまでそれを問い詰めるのであれば、ご自分は完璧にしてきたのでしょうか?

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赤い実さん、あなたは前に
和弘さんが『自分は真理を言うから人に嫌われる』と書いたときに
『逆だと思いますよ。真理に近くなると人からは好かれると思います。』という意味のことを書かれていましたね。
そして、最近の投稿で『自分は嫌われていることが多い』という意味のことを書いてました。

そうであれば、あなたは目覚め、真理、無量であることの気づきからは遠いのではないですか?


無量や大海とは真逆の、自分の狭い価値基準が絶対の潔癖症強迫症のように感じるのです。
率直に言って悪いですが。

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赤い実さんが他の人に感情のままにガンガン言っている姿を何度も見てます。

いつも無量であるとご自分では思っているようですが、その自己イメージを捨てて
心を洞察してみればいいのにとは思いますよ。

あれだけ怒りがあって、自分では怒りが全くないと思い込んでいるのはちょっと滑稽ですよ。

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今回の赤い実さんの行動は非常に残念な結果に終わりました。

赤い実さんは、hanaさんの『最後の独り言』スレにおいても

『もうこのスレには投稿しません』『これで最後です』と言いながら

自己弁護の投稿を止められなかったことで、他の人との喧嘩、揉め事がどんどん拡大していくという最悪の事態で終わってしまいました。

スレ主のhanaさんは、赤い実さんと他の人とのその争いで心を痛め、ついには自分が許せないという気持ちにまで追い詰められてしまいました。

その経緯を見ていて、私も本当に残念で、hanaさんがかわいそうで、そのような結果にしてしまった赤い実さんに憤りを感じました。

赤い実さんが、自らの口で言っていたように『反応しない』『無視する』『気にしない』を実行できていれば、こういう最悪の事態にはならなかったのです。何度も『これで最後の投稿です』『全く気にもならないし』と言いながら、自己保身自己弁護の投稿をまたしてしまう、それは全く自分の心に気づいていない人間のすることです。

 

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新しいブログ『今まで絶対に書けなかったこと』を更新しました

新しいブログ『今まで絶対に書けなかったこと』

https://shawshank-blog.hatenadiary.jp/

 

 ①『ベトナムの赤ん坊は自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作った』という言葉の真意

 ②映画『ショーシャンクの空に』の奥の奥に潜む究極のメッセージを知れば人生が一変すること

 ③十二縁起の本当の意味とは

 ④三十七菩提分法が究極の瞑想システムであったこと

 ⑤仏陀の真意から見た法華経の真義

 

の、5つのテーマのうち、⑤を少し書き始めました。

 

ブログ『今まで絶対に書けなかったこと』は、今は、なぞなぞ認証にしてます(笑)

 

 

 

 

今回、はっきりわかったこと

  ヤフー掲示板『仏教についてのひとりごと』スレッドを立ち上げる前からずっと考えていたのは、仏教には様々な瞑想法や修行法があるけど、どれも私が目指す無限の大海、無量心にまでは行き着かないのではないかということでした。

  坐禅の数息観にしても、ヴィッパサナーのsatiにしても、雑念を少なくするには非常に有効な手段だと思います。それで、対人恐怖症やうつ病が改善したという話もあります。それらの神経症は雑念の繁殖により起こりますから、最も基礎的なこととしてまず雑念を少なくすることはいいことです。

 しかし、そのようなことをしたところで、想念は絶対にゼロにはなりません。日常生活をするには想念は必要なものなのです。記憶があり知識があり思考がないと、赤信号でも渡ってしまうでしょう。瞑想を離れ現実生活に戻ってきた途端、思考は必要となります。

 坐禅をする40分間だけ無念無想になったとしても、坐禅から立ち上がったらすぐに元の木阿弥です。坐禅をしている間、想念がなくなり自我の枠が取れますから、限定されないものを感じることはあるでしょう。それでその体験を悟りとしてしまうと、実際には自分があるという観念の束はそのままなのに悟っているという強い自負心が生じ、それが今までより一層強固な自我の囲いとなるのです。

 この10年、ヴィッパサナー瞑想が大流行なのは知っています。satiという、想念や感覚にいつも気づいているという瞑想です。しかし、いろいろ複雑な交渉事をこなしていく日常では想念はフル回転させなければならないことも多く、いつも想念に気づいているというのは無理でした。また、想念にいつも気づいているからといって、妄念が生じてくる元である『思い込み』『自我』『我塊』がなくなるとは思えませんでした。

だから、歴史上の仏陀は本当はどんな瞑想をして悟ったのかを知ろうと思ったのです。

 

私のヤフー掲示板スレッド『仏教についてのひとりごと』には、数多くの投稿者が訪れましたが、その中で2人、興味が湧いた投稿者がいます。

  一人はKという人で、なぜ関心が生まれたかというと、自分が描いた絵を塗りつぶしたという話を投稿していて、少し心の闇の部分を感じたからです。その絵の話を投稿した後から、少しその人の他のスレでの投稿も見るようになりました。

  もう一人はAという人で、自分はいつも完璧に自分の心、想念に気づいていると私のスレッドに投稿してからです。その時に、私は、自分は交渉事など思考をフル稼働しなければならない時が多く気づけてないときが多い、と書きました。そして、本当にいつも気づいている人などいるのだろうか、本当に気づいているとしたら、その完璧な気付きによって無限の大海、無量心に達しているのだろうか、ということに強い関心を持ちました。で、この人の他のスレでの投稿も見るようになりました。

  いつも完璧に自分の想念に気づいていて、いつも無量の状態にあるなら、感情や衝動に流されることは一切ないはずです。また、いつも無量の状態にあるなら、文章にもそれが現れ現象にも人間関係にも家庭にもそれが現れるはずですから、その興味はありました。

 結論からいうと、私が求めているものはそこにはありませんでした。

 私の求める無量ではありませんでした。

  いつも気づくことによって、雑念が少なくなり、うつや対人恐怖症が改善するようなことはあるのでしょう。そういう人にとってはかなりの効果があるような気がします。またそういう体験も確かにあったのだとは思いますが、残念ながら私が求めている無限の大海とは全く違うものです。無量にある時、優しさや暖かな調和が生まれ現実生活にも暖かさが生まれるはずです。

  しかし、その人が語っている自分の家庭の状況はとても暖かく調和に満ちたものではないように思えます。その人の語ることによれば、三人家族なのにご主人はいつも一人で夕食をとるそうです。息子さんが一緒に食べるのを避けるので自分は息子さんと一緒に後で食べるそうです。本人はご主人はそれで平気な人なんだ、家庭それぞれで幸せの形はあるのだと考えているようですが、本当にそうでしょうか。一生懸命に仕事をして3人暮らしの家に帰ってきてもいつも避けられてひとりでぽつんと食べなければならない人の気持ちをその人は察することができていないようです。

 『わたしはただの主婦ですよ』とその人は言いました。専業主婦であるならなおさら、暖かい家庭を実現できてから、はじめて人に『私はいつも無量に気づいている。自分の心も他人の心も洞察できている。他の人も皆そうするべきだ。』と説教できるのです。

  人に説教すると言うことは、自分が完璧にできてからでしかしてはいけないし、自分がそうすることによって暖かい家庭を実現できてからでしかしてはいけません。私は自分ができないことを人に説教しようと思ったことは一度もありません。人に説教するというのはそういうことです。本当に無量にあるならば、自分が完璧にできていないのに人を責めようという気は絶対に起きません。

 その人のいう気づきで自分の心が軽くなったのはわかりますが、それを絶対視して、そうでないと自分が断罪する人のところにわざわざ行って説教したい、自分の尺度価値観に当て嵌めたい、という衝動は無量、慈悲ではなく、明らかに自我の衝動です。

 ですから、私にとっては、それは求めるものではないとはっきりしましたので、これはよかったと思っています。

 数息観や気づきは、雑念を少なくする初期段階では非常な力があるのでしょうけど、その人を見ると無限の大海までには行き着いていないように思えます。

 

  掲示板でも実社会でも、うつや対人恐怖の人は非常に多いです。そういう人たちのために、気づきを広めてあげて救ってあげれば本当にいいと思います。鬱病や対人恐怖症の人たちが、掲示板でも実生活でもその人にどんどん相談しにいく状況になれば、その人からは無量に伴う優しさ、暖かさが出ているということが言えると思います。

 

  私は、仏陀が言ったsati(念) は『気づき』と言う意味ではないと思っています。パーリ語からひもとけば明白なのですが、sati(念)とは元々の意味は記憶のことです。具体的に言えば、仏陀の説いた真理を記憶しそれを意識的に繰り返し思うことです。

  八正道の七番目、sammā-sati (正念)にしても、もしそれが『気づき』と言う意味であれば、一番の基礎でしょうから八正道の一番目に来るはずです。それが七番目という最後の段階に位置しているのは最初の段階では生じていないものだからです。八正道の六番目は正精進です。正精進の前は、正見⇒正思⇒正語⇒正業⇒正命 です。正精進の後は、正念⇒正定 です。正精進は『正しい努力』というような漠然としたことではありません。四正勤のことです。八正道の本当の意味に関しては、またこのブログ、または『今まで絶対に書けなかったこと』または、自費出版で書いていきます。

  四念処観というものがあります。非常に重要な仏教の瞑想法です。身・受・心・法の4つが自分ではないと観じる方法です。その四念処観の最初のほうに白骨観が出てきます。この身体も墓地に捨てられた白骨のようなものと観じる方法です。ありのままの今の身体は白骨ではありませんし白骨が出ている箇所もありませんから、つまり、自分の体も墓地の白骨死体のようなものという無常の観念を繰り返す、ということです。

 

sati(念)を、気づきではなく、記憶、憶念と解釈した時に

原始仏典に『唯一つの真理(=仏陀の教え)を念じて修行せよ』『仏の教えを憶念して』という言葉がよく出てくる意味がわかります。

 

  

 

レス

<<ショーシャンクさん こんにちは お久し振りです。私は仏教のことはさっぱり分からず出来の悪い者ですが、ショーシャンクさんがこのたび書かれているトピ投稿とブログ内容は理解することはできます。
>今まで、既存の仏教全部を批判したことによって気分を害された方にはお詫びいたします。申し訳ありませんでした
どこが悪いのですか! 全否定することは悪いことでしょうか。
それをすることにより議論が活発になり改めて核心部分について洗い直しができる良い面が大きいと私は思っています 初めから肯定的な意見からだと、きっと前には進まないと思うのですが。
特に私のような仏教初心者は、活発な議論を読むことにより恩恵を受けることが大きいです。
否定から始まる手法は大歓迎であり また正攻法でもあると私は思っています。

それと皆さん個人が信じている考えに批判的な意見を云ったからといって、それについてもお詫びするのもおかしいですよ。
そりゃ道理を逸脱した無茶苦茶な意見でしたらダメでしょうが それぞれ互いの思っている範囲内の違いでしたらそれも正当なことだと思いますし、またショーシャンクさんに批判された方もそれを克服する良識的な意見を構築すれば良いことで それができれば批判を受けた方も また一歩大きくなられるのと違いますか。私の個人的なことですが・・。
以前にショーシャンクさんに教えて頂いた自分に合った「筏」 自分が気持ちよく乗れる「筏」 この考え方を大切にしています。>>

 

oyaさん、こんにちは。ありがとうございます。

そうなんですよね。自分のスレに迷惑投稿があったって無視すればいいじゃない、と説教する人が、あれほど迷惑投稿する人に対しては『ショーシャンクの投稿が気に入らなくても無視すればいいじゃない』とは言わないですからね。おかしな話です。迷惑を受けているものにだけ大らかさを求めて、迷惑投稿しているものには大らかさをもとめないのですからあきれます。

私が申し訳ないなと思っているのは、pipitさんですね。pipitさんは本当に真摯な人で、私にもパーリ語仏典のサイトを教えてくれた人ですが、私はpipitさんが尊敬しているスマナサーラ長老を悪く言ったりしてましたからかなり不快に思われただろうなとそれは反省しているのです。

『筏』の考え、いいですよね。この考えでいけば、気が楽になりますよね。筏で渡ることができますように祈っていますよ。

 

 

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<<ショーシャンクさんのこの投稿を読んで、先程ブログを読みました。アインシュタインロマンの記事は削除されてしまったのでしょうか?ベトナムの赤ちゃんの件を別のブログに書いてくださるとのこと楽しみにしています。

私は仏教のことも何もかも勉強不足な人間です。なのでこちらで書かれている沢山の方たちの投稿の一部は結局理解できなかったりもしました。

ですがショーシャンクさんの投稿は私にもとても分かりやすく心に入ってくるものでした。そしてその時々のやり取り(自分とのやり取りも他人との遣り取りも)の中から感じるものが沢山ありました。とても勉強になりました。

私のように宗教を嫌っていても、ショーシャンクさんがこのスレッドで試みておられた、<学問としての仏陀>は、とても興味深く感じました。

以前しまとりさんに質問したことがあります。

私がアラシ行為に悩んでいたころにした質問です。
しまとりさんから頂いた言葉は確か・・・
「人は未熟」といった言葉だったと記憶しています。
その時私の中で何かがスッと軽くなる思いがしたのです。

人は皆未熟なんだ。だから争いもするし、人を傷つけもする。私も誰でも、みんな未熟なんだ。

未熟な心が正誤を決めようとするから、ややこしくなるのかなと思いました。
それは私自身の事です。。

ショーシャンクさんの思い描く物が形になりますように。それを心から願っています。

私のような理解力の鈍いものにも親切に接していただき本当にありがとうございました。もっと冷静にもっとロムに徹しておけばと今更遅いのですがとても後悔しています。>>

 

hanaさん、こんにちは。

しまとりさん、いい人ですよね。接していて心が軽くなるのはいい人ですよ。これはこれから生きていくうえでも覚えておいてください。

どんなに正しいこと、いいこと、正義を語っても、いっしょにいて心が重くなる人とは離れたほうがいいです。

また、もうひとつの見分け方は、自分ができないことを人に強要する人、これは最悪です。これも簡単な人間の見分け方です。

人を裁いてばかりの人、人を責めてばかりの人は、ほっとできないですね。

hanaさんは発想を変えて、『ロムに徹しておけばと』考えるのではなく、自分が勇気をもって投稿したから、12月のいろいろな文章を引き出せて、その文章を多くの人も読むことができた、とプラスに考えるようにしてください。それが本当ですから。

<<ショーシャンクさんの思い描く物が形になりますように。それを心から願っています。>>

ありがとうございます。本当にうれしいですよ。

 

 

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<<私から言えることは、ショーシャンクさんは20代で、なにか気づいた体験はあったように書かれていた。
その後には、ご神仏に助けられたのかしら?というような経済的な救いの手もいただいてる。
そして、今は法律関係で困ってる人たちへの助けにもなるような活動もボランティア的になさっている。

つまり、あなたのおっしゃっている無量への気付きみたいなことはすでに経験された上で、それで、悟ったつもりになってしまったことに対して違うのではないか、と省みて、釈尊の残された古い経典を素直に読み砕いてみよう、ということをされているところ、というように感じています。

そして、どうも釈尊の伝えたかったことはこれこれではないか。ということにはショーシャンクさんはお気づきになったので、それを開示すべき相手には開示することを考えて下さってる。
そんな感じに受け止めています。

付け加えるなら、釈尊の教えを、まっすぐに伝えてくださったとしても、それで、ショーシャンクさんは自分が悟ってる、とは言われない方ではないかな。
教えがこれこれではないか、と言うことと、教えをそのまま実践することとはまた違いますから、ショーシャンクさんが、自分は無量ではない、とおっしゃっているのは、なにもおかしくないと感じます。

私からすれば、赤い実さんが、無量が本質だと気づいた、と、さも悟ってるかのように言われてることが、悟りのディスカウント、大安売りに感じています。
が、それが悟りだと思って、以前より生きやすくなったと言われてたから、そのことに気づかなかった頃より良かったのだろう、とは感じますが。
でも、気をつけてもらいたいかな。驕らないように。>>

 

しまとりさん、おひさしぶりです。

ありがとうございます。

本当におっしゃる通りです。

自分が悟っている、目覚めている、気づいている、ということを大上段に振りかざして人を断罪しているのが赤い実さんだと思います。

赤い実さんは常時、無量の状態にあるそうですが、私がほんの一瞬無量の状態である時にはただただすべてが愛しくすべてに優しくなれて、決して人を責めようとは思わないですね。それが殺人犯であってもその時には責めようという気になれない、それが無量の状態だと思います。

私は常時無量の状態にはないです。だから卑小な精神、卑小な人格だと認識してます。肉体の感覚があってそれが生まれた時からの『私』という思い込みと強固に結びついているのですから、『私などないと気づくだけ』なんてそんなに簡単なものではないのです。20歳の時には簡単だと思ってましたが。

私が知る限り、自分が悟っている、自分は仏陀だ、という人は100%、すべてニセモノでした。

本当に精神が無量にあり、意識が無辺に拡大しているのであれば、最上のクラシック音楽はすべて理解できるはずです。そして法華経も読んだだけでその真実が分かって泣けてくるはずです。そうならないうちはまだまだだと私は思っています。

 

 

 

ヤフー掲示板の仏教スレッドを終了するにあたって

ヤフー掲示板はあと10日くらいで消滅します。ヤフー掲示板『仏教についてのひとりごと』スレッドもこの辺で終了したいと思います。

 

ヤフー掲示板『仏教についてのひとりごと』スレッドを立ち上げた時は、正直言って、こんなにも多くの人に見ていただけるとは思いませんでした。

今まで仏教と言われてきたものをいったん白紙にして歴史上の仏陀の真意を最古層の仏典から探求したいという主旨でしたから、今までの仏教の全否定から入ったのです。

ですから、大きな反感を買うか、全く無視されるか、だと思っていましたので、投稿を重ねていくごとにアクセスランキングも上がりよい反響も多かったのはうれしい誤算でした。

ただ、今思えば、仏教の全否定、つまり大乗小乗問わず、すべての仏教を白紙から捉えるということで、仏教の各宗派や宗祖の否定的なコメントも多くしてしまったので、気分を大きく害された方も多いでしょう。

特に龍樹や親鸞を否定的に書きましたので、信仰している人にとっては許せないものでしたでしょうし、赤い実さんのようにずっと前から親鸞や龍樹、またはmicさんにシンパシーを強く感じていた人にはかなり不快なものだったと思います。

上座部仏教スマナサーラを悪く書いたこともあり、pipitさんにも非常に不快な思いをさせてしまったと申し訳なく思っています。

 

やはり今までの仏教ではないものを書いていくのは、ヤフー掲示板のようなオープンな掲示板ではそれを不快に思う人の目にも入りますから、限界があるものでした。

 

今まで、既存の仏教全部を批判したことによって気分を害された方にはお詫びいたします。申し訳ありませんでした。

 

今後、どうしても書きたいことは自費出版で書いていきます。

また、ブログを書くにも、希望される方のみ読める形にしていきたいと思います。

 

これまで、仏教の全否定から入っていった無謀な振る舞いに対して、暖かく声援していただいた方が数多くおられ、今思い返すと本当に有難いものに感じます。

本当にありがとうございました。

ヤフー掲示板『仏教についてのひとりごと』を今まで見ていただいた閲覧者の方、投稿いただいた方(micさんも含みます(笑))、本当にありがとうございました。

 

 

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ちょうどいい公案ですので、赤い実さんの言われていることに関して思ったことを書きますね。

赤い実さんの今の状況はちょうど私が20歳の時に悟ったと思い込んでいた状況と似ているような気がします。

目覚めた、悟った、無量に気づいた、いつも自分の心に気づいている、という体験があり、それがうれしくてその体験を人に言いたくて仕方ない状況ですね。

そして、自分から見て、気づいていないと判断した人のところに飛んで行って自分の気づきの体験を知らせたくて仕方ないのです。

そして、それが全体性、慈悲の働きだと思っているのです。

 

よく禅で見性した人にある、自分の目覚め体験を担ぎまわっている状況です。

 

しかし、困ったことに、そのような自分の目覚め体験そのものが自我を形成し、自己イメージとなっているのです。

 

例えば、今回、mic に対する私の投稿を見て、『無視すると言ったくせに無視してない』と飛んできました。

本人はそれが全体性の働き、慈悲の働きだと思い込んでいます。

思考や自我の怖ろしさです。思考や自我はいつも自分の心をごまかそうとします。

 

実際のところを言いましょう。

昨日、micの過去投稿を初めて見ました。一番古い時期のを見てみました。

そこには赤い実さんの、シンパシーを感じるというような投稿がありました。

最初の段階から、mic が言っていることに強いシンパシーを感じており

そのあとも、親鸞や龍樹の教えにも相当惹かれているようでした。

ですから、私が最初からmicの迷惑投稿に対し反撃してmicや親鸞などを悪く言ったことにはかなり不快なものを感じていたと思います。

ですから、私が親鸞の教えを悪く言うとよく赤い実さんがきて『それはちがうのではないか』と言われることが多くありました。

自分が信奉する教えを悪く言われる不満がどんどん蓄積していったのと、花まつりさんの言動への不満が重なり合って、mic だけに反撃して、花まつりさんには何も言わない私に対する不満も蓄積されていったのです。

そして、スレッドが消滅する間際の今だから今までの不満の全部をぶちまけたのです。

それには、micばかりが反撃されているという同情もあったでしょう。特にそのときは私が『【悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。】浄土真宗という木になった果実が mic ですからね(笑)悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない。』という投稿をした直後でした。赤い実さんは、その投稿を見て、私がmicをおちょくっているとカチンと来たようです。明らかに感情的になっていました。

本当に自分の心をいつも洞察している人であれば、その心の動きはわかるはずです。

その行動の原因である衝動はわかるはずです。

しかし、『自分は目覚めている、いつも気づきがある』という自己イメージによって

蓄積された今までの不満をぶちまけたいという衝動は、自我の思考によって全体性の働き、慈悲の発動によるものと美化されているのです。

 

スレ主として私が興味あるのは、自分のスレッドをいかにみんなに見ていただける、このスレッドがあってよかった、と言われるようなスレッドにすることです。

それだけでした。

他のスレで、micや花まつりさんが何を投稿しても、何の興味もないです。

私はこのカテゴリーの他のスレのスレ主でもないし、ヤフー掲示板の運営会社の人間でもないのですから。

 

私はそのような、悟りや目覚めや気づきを担ぎまわっている人も見てきました。

しかし、それは、自我を強めるだけだとわかったのです。

それが自我を形成してますから始末に悪いのです。

まだ、お金や家や車といった物質であればはっきりと外から分かりますが

宗教がらみは外からは全く判断できませんから、それが本人の思い込みであっても直すことができないのです。

クルマであれば自分はロールスロイスに乗ってると思い込んでいても、外から見て『それは軽自動車じゃん』とわかりますからいいのですが。

もちろん、目覚め体験、気づき体験があったことは確かでしょう。しかし、すべてのスレッドを見まわしては、自分が気づいていないと判断した人にいちゃもんをつけにわざわざいくという衝動が本当に慈悲から来ているのか、これは見ないといけません。

 

20歳の悟った気分になっただけのときに分かったのは、いくら自分で一元を悟った気分になっても、『私という中心がある』という観念は強固にそのまま根を張っていたということです。肉体の感覚と結びついているのですから、その観念は強固なのです。

いくら、『私なんかないんだよ』と分かっていても、限定に向かう激流はそのままなのです。

 

禅で悟ったと思っている、印可も受けた人が、人格的にとんでもない人であることも実際あるのです。

 

私はだから、無念無想の瞑想もsatiもそこに行き着かず、仏陀の本来の瞑想である徹底思考型でなければ強固なその思い込み、感覚と結びついた思い込みは消滅できず、むしろ目覚め体験、悟り体験が強固な自我になることがわかったのです。

徹底思考型に使う観念は筏として最後には捨てるものではあるのですが。

 

もう一つ書くと、赤い実さんが『無量になるのではなく、無量であることに気づくのです』とよく言います。

それはその通りで、無量になるといういい方は不完全です。

ただ、無量に気づく、というのも、気づく自分と無量とがまだ分離しています。

正確な言葉であれば、無量感そのままである、とでもいったほうがいいでしょうか。

そしてどれも言葉ですから正確ではありません。

 

 

本当にその人が無量であるならば、その人から発する温かさ、優しさによって、多くの人が集まってくるでしょう。

別に、他のスレッドを見まわして、気づいていない人のところに飛んで行っていろいろ言わなくても、自分のスレッドに次から次に新しい人が集まってくるでしょうね。

そうなっていないのであれば、それは、その人の文章からは、温かさ、優しさの波動が出ていないということです。

 

無限の大海だと思っていても実は滝のように魚の住めないもので、のびやかさがないのかもしれません。

人がほっとする空間でないのかもしれません。

人が窮屈に感じずに、のびのびする、何か心が軽くなったような感じがする・・・そのような人が本物の無量だと思います。

 

もちろん、私はまだ無量ではありませんから温かい波動が出ているとは全く思ってません。

 

 ~~~~~

 

いつも誰かを裁いている心、これは無量とは真逆です。

 

いつも目を光らせてヤフー掲示板全体を見渡し、どこかに不公平なところはないか監視している心、これも無量とは真逆です。

 

 

~~~~~~

 

私に、いい雰囲気に保ちたいという自分のスレッドがある時に限り、迷惑投稿お断りしようと思いますが、他のすべてのスレッドではどのような投稿があろうと気にはかけません。

それはどうでもいいことだからです。

 

すべては自然に起きているだけ、とか、すべてはあるがままでそこに自由意志はない、という人が、人を裁こうとする心の動きはそれとは真逆だということは気づいてほしいですね。

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 142

三宝】とは
【仏】苦を滅する理法を説いた人(ゴータマ・シッダッタ)に絶対の信頼を置く
【法】ゴータマ・シッダッタが説いた理法が苦を滅するということに絶対の信頼を置く
【僧】サンガにゴータマ・シッダッタの理法が正しく伝わっていることに絶対の信頼を置く
という意味です。


ところが、日本仏教においては、三宝は全く形骸化して、無意味なものとなっています。
そもそも、日本には最初からサンガ自体が存在しません。
僧侶は最初から国家公務員として政府に雇われたものでした。

ただの言葉としては日本仏教の人も『三宝』『三宝』と言いますが、その内容を聞いたら
すべて曖昧にしてごまかします。
三宝の仏とは何か』と聞いたら、『仏たち全部』などと答えるしかなく、『それでは、阿弥陀仏大日如来もですか?』と聞いたら答えられず逃げてごまかすしかないのです。
三宝の法とは何ですか?』と聞いても曖昧に逃げるしかないのです。三法印が法だという人もいますが、本人が本気でそう思っているとは思えません。大乗仏教の場合は、宗派によって、法とは法華経だったり、大無量寿経だったり、華厳経大日経、般若心経だったりバラバラです。

三宝の僧』に関しては、僧侶つまり坊さんのことだと思っている人が大半ですし、大乗仏教の場合、他宗派の僧侶が三宝の僧に入るのか、それも答えられないでしょうね。

 

 

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そうですね。
このスレッドを立ち上げた最初から
『歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのか、今までの仏教の知識を白紙にして、最古層のパーリ語仏典から探求していきたい』と何度も何度も書いてきたことですが
ほとんどの人が、自分の信仰、信心、ドグマ、悟り、を主張したい人でした。

もし、自分の主張を多くの人に知ってもらいたいというのであれば
自分のスレッドにひたすら書き込めばいいのです。
自分のスレッドに訪問者も閲覧者もなく閑散としているのであれば、内容に魅力がないのだと反省し自分のスレッドの内容を多くの人が見てくれる魅力のあるものに高めていく努力、精進をすべきなのです。

それを安易に、自分のスレッドは見向きもされないからといって、閲覧者の多い、アクセスランキングの高いスレッドに寄生し大量投稿するのは、今まで見ていて本当に情けない姿だと見ていました。

ここは、あくまで、歴史上の仏陀が本当は何を言ったのか、何を言いたかったのか、をパーリ語仏典から探求していこうというスレです。

こういっても無駄のようですから、これからは重要なことはブログに書いていきます。
真摯な質問であれば、ブログにて答えます。

 

 

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ヤフー掲示板が終了するとのお知らせを昨年10月に見てから、いい機会なので投稿を止めていましたが、切実な質問者があり、それにこたえる形で、投稿してきました。

私は、株の掲示板(プラズマの銘柄掲示板が最初ですが)から映画の掲示板など、今まではどの掲示板でも、投稿があれば必ず真摯に答えることをしてきました。
しかし、このカテゴリーのこのスレッドだけは、妨害だけを目的とした大量投稿や何度答えても同じことを聞いてくる者など、いちいちに答えていたら時間がいくらあっても足りないものでした。


これからはブログに自分のペースで書いていき、このスレで真摯に質問があればそれもブログで答えていきます。

そして、今年こそ、自費出版の原稿を書きたいと思っています。

 

 

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今までは、ヤフー掲示板の私のスレッド『仏教についてのひとりごと』の過去投稿をコピーしてきましたが、これからは、ヤフー掲示板を離れ、このブログに書きたいことを書いていきます。

 

仏教についてのひとりごと 141

<<これは道徳上の善悪とか、善因善果とか、そのようなこととは違います。道徳というものは人間の頭が作り出したことで、道徳上の善悪で宇宙の法則を説明することはできません。善とか悪とかではなく、人はすべて自分が出した想いや気分を受け取っているのです。私の中では徹底していて、自らに起こることはすべて自分の意識が作り出したものだと確信してます。
と書かれていましたよね。
この意味をもう少しだけかみ砕いて書いていただけたら嬉しいです。>>


ただ無量の精神のみあるのが本来です。
現象は心が現れたものですから、精神が無量にあるとき、現象にも無量が現れます。
しかし、人間は、肉体を持ち感覚を持ったために、限定され欠乏感、分離感を持ってしまいました。
それは経験を経ていくごとに強まっていくため、欠乏感は人間を支配していきます。
現象にも欠乏感、分離感、不調和が現れてきます。
この方向性を『苦の集積に向かっている』と言います。

誰からも愛されるいい人、善人がいます。
親の言うことをよく聞き、他人の言うこともよく聞いて、他者の望みや他者がしてほしいことを自分の気分を犠牲にしてもしてあげる人です。
いつも他者の顔色を気にして、いつもニコニコしてて、『あなたは悩みがなくていいわね』とよく言われる人です。
実社会でもこういう人を見てきました。
しかし、その人は実はうつ病でとても苦しんでいました。
私はこういう例を実社会で何人か実際に見てきたのです。

誰から見ても好かれるいい人、善人が実は非常に苦しんでいる。
それは、他者ばかり気にすることによって自分の気分を損ない続け、心の中に欠乏感が蔓延したからです。
そうすると環境、現象にも不調和なことが現れてきます。
唯心所現だからです。

善人悪人関係なく、すべての人は無量から放り出され、欠乏感を増幅しながら生きています。
その欠乏感を現象で日々受け取り続けているのです。
だから人はすぐにでも無量の方向へ舵取りしないととんでもないことが起きてしまいます。

 

 

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人は誰も、無量感から離れた不調和感を受け取ってしまう、ということです。

善悪ではなく、人は、依存せず従属せず精神が自由であることが本来であって
主体性をなくしそれから外れてしまうと、その不調和が環境に現れることになるということです。

 

 

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<<今回、ショーシャンクさんから学んだことは
まさにその探していたことだったのだと思います。
自分の中の疑問が氷解してどこか清々しい気分になりました。
本当にありがとうございましたm(__)m>>


そうですか。そう言っていただければうれしいです。

自分の想いで精神を制限していかないこと、これが大切です。
他人に好かれなくてはいけない、他人に気に入られなくてはいけない、そういう強迫観念をいったん外してみてください。
そして、ゆっくりとリラックスできる時間をだんだんと多くするようにしてください。
他人から気に入られなくても全く関係なく、自分はいい気分でいられるのだということをわかっていってください。

 

 

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『スッタニパータ』第四章と第五章が、最古層の仏典であることは仏教界の常識です。
これを否定する仏教学者はいないでしょうね。
最も歴史上の仏陀の肉声に近いものです。

その『スッタニパータ』第四章と第五章では、『信じることなく』と書かれています。
注解によれば『みずから体験したことがらを信じ、いかなる人も信じない』
ブッダゴーサによると『自分の確かめたことだけを信じるのである。いかなる権威者をも信じず、神々をさえも信じない。』と言う意味としています。
『汝もまた信仰を捨て去れ』とも仏陀は言っています。

仏陀本来の教えでは、自分以外の対象を想像、想定して、それに帰依しそれを信仰するという考えは一切ありませんでした。
握った手の中に石があるとして、石があると信じるのではなく、手を開いて石があることを実際に観るのが仏陀本来の教えです。
神仏への信仰や帰依は、ヒンズー教のバクティ、シヴァ神信仰から来たものですね。

 

 

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『これからは、投稿したいけど出来ないロム専門の人たちに向けて、このスレ消滅まで、ひとりごとを言っていこうと思います。
hanaさんからの質問であった、ベトナムの赤ん坊の講演のことも触れると思います。』
と書きました。

ひとりごとですから、28日のこのスレッド消滅までに自分のペースでぼちぼち書いていきます。

ただ、説明は長くなりますし、それを理解するには必ず知らなければいけないものも多いです。

さっき、その前提として、アインシュタインロマンのことを貼ろうとしましたが、投稿できませんでした。

まずは、その記事をじっくり読んで気づきがあることが必要になると思います。

 

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仏教についてのひとりごと 140

<<あの時 子供ながらに思ったことは もう友達はつくらない。 友達との別れがこんなに苦しむのであったら もう友達なんかつくらない。お釈迦さまの苦しみからの脱却は この「もう友達なんかつくらない」に当てはまるのかな? と以前から思っているところなんです。そのようなスタンスで考えることがお釈迦さまの教えなのでしょうか?。この私の境遇で友達が欲しいと思うことは「欲望」になるのでしょうか?。>>

 


人間は肉体を持ち感覚を持ったために、限定感、分離感、孤立感、欠乏感を持っています。
人生の経験を経るごとに記憶の束が積み重ねられていき、ますます限定感を強めていきます。
限定されている感覚から強い欠乏感が生まれます。
そして、人はこの欠乏感を一瞬でも紛らわしてくれるもの、対象物に執着し依存していきます。

欠乏感を埋めるために追い求め、執着したものは、すべて悲嘆に終わります。
その対象物は滅するものだからです。
欠乏感を埋めるために執着した対象物がなくなると、より一層深く欠乏感に襲われる結果となります。

あなたの例ですと、寂しかった家庭環境でその寂しさを埋めてくれる友達が見つかったために、その友達に執着し精神的に依存していきました。
それは善とか悪とかではありません。
人間の行いを宗教や道徳はすべて善とか悪とかに分けて裁いてきました。
人間は哀しいもので、すべての人間はやり場のない欠乏感・孤立感を抱えているのです。

限定感、欠乏感は無量感の欠如によって起こります。
精神の無量性こそが人間の本来の姿です。

依存は欠乏感から生まれます。
精神が無量にあるとき、依存は生まれません。
欠乏感からは依存ばかりの人間関係が出来ます。
精神が無量になったとき、依存から解き放たれたときには、全く新しい人間関係が生まれるはずです。
同じ人でも、寂しさを埋めるための対象物ではなく、大きな優しさをもって接することができ、その人を失うことの恐怖もなくなり、関係性は全く新しい次元に入るでしょうね。

精神の無量性こそはニルヴァーナであり、仏陀の境地です。
それは至福なのでしょう。

 

 

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<<ショーシャンクさんも云われています 『今の価値観とは真逆です』
通常云われる「人生の喜び」 その言葉の中には欲望を達成した結果もありますよね それが生きる糧になる生き甲斐になったり・・。勿論 高望みの欲望ではありません 日々の生活で感じる程度の喜びです。それが どうも お釈迦さんが言われているのは その幸せ感も「捨てようよ」と云われているよな気がして・・。>>

仏教と言われているものの根本的な問題がここにあります。
このスレッドの初めの方で、何人かの人に『あなたのいう煩悩、欲望とは何か?』と問いかけました。10以上の具体例を挙げて。
例えば、医者になりたくて医学部を目指して勉強することは煩悩なのか、主婦の人で夫に喜んでもらおうと思って夫が好きな料理を作るのは煩悩か、など、その人が煩悩という言葉をどういう意味で使っているかを聞きました。
しかし、ただの一人も答えませんでした。

仏教を知っているという人も、誰も自分が使っている煩悩という言葉をどういう意味で使っているかもわかっていませんでした。なのに、煩悩を捨てろとか、あるいは煩悩はなくならないとか、煩悩即菩提とかの決まり文句だけはよく使うのです。

今までの仏教解釈ではどこにも行き着かないな、という確信を持ったひとつのきっかけではありました。

 

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<<やっと棘が取れ仏陀に繋がりました。何んかほっとした気持ちになりました。>>

そうですか。
そう言っていただけると、私も書き込んだ意味がありました。

このスレッドも今月で終わりのようですので、質問があれば遠慮なくいってください。

 

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<<仏陀の説いた究極の幸せとは、「悩み無き生」のことなのですか?
 悩みの根源となるものはすべて断ち切るということなのですか?
 仏陀の説かれる幸せとはどんなものなのでしょうか?>>

 

仏陀は究極の幸せの境地をニルヴァーナ(涅槃)と呼びました。
最高の境地のことです。

『ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう』(ダンマパダ)
『ニルヴァーナは最上の楽しみである』(ダンマパダ)

悩みの根源は限定感、欠乏感ですから、全き無量感に達したときには悩みはなくなります。
限定感こそが根源です。
限定感がなくなったとき、『広大なる楽しみを見ることができる』のです。
それは圧倒的な無量感ですね。
音楽でもごく少ない最上の曲がほんの少しだけ垣間見させてくれるものでしょう。

 

 

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この掲示板もあと少しで消滅しますから
実社会の練習と思ってください。

自分の想いを犠牲にして他者の想いを気にしすぎる傾向を変えて
自分が思ったことを他者の目関係なく表現してみる、練習台だと思ってください。

他者の目を気にしすぎる傾向は自分を苦しめてしまいますよ。

 

 

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マーラーは、特にマラ9は、モーツァルトやベートーヴェン、ブラームス、シューベルト、チャイコフスキー、ワーグナーなどの音楽が深く理解できるようになった後でないと
そのよさはわからないと思います。
クラシック音楽に関しては、意識が広がる段階ごとに、薄皮というか膜が破れてより上位の音楽を心の底から理解できるようになりましたから
現在の意識レベルを測るには最適なものだと思っています。
精神的に疲れているときには、シューベルトの第9番交響曲『グレート』あたりがぴったりして
『意識状態が落ちてるな』と思うことがあります。
音楽には波動の高低が歴然とありますね。

 

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欲望を滅したところが涅槃だとか、煩悩があってはいけないとか、いや煩悩は生きるために必要でなくなることはないとか、煩悩即菩提だとか、わいわいくだらないことを言ってきたのが、いわゆる仏教なるものです。
仏陀の真意とは全く違う。
煩悩・欲望・渇望・渇愛・無明・本能~~~~
何を指しているかも考えることなしに、煩悩はあっていいとか、煩悩は滅しなければいけないとか、決めつけることに何の意味があるのでしょう。

煩悩とは、raga・dosa・mohaの三毒のこと。

raga・dosa・moha とは何かがわからなければ、煩悩の意味など分からない。

欲望をなくせとか、少欲になりなさい、などというひからびた言葉は百害あるだけです。

精神が無量であれば、現象も無量が流れ込む。
私はまだ無量の富が流れ込んでいないので、まだまだ無量になっていないと思ってますよ。

 

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<<あなたにとっては富はまだ足りてない、財富ですか?>>

足りてないとは言ってない。
精神が無量であれば、現象にも無量が現れる、と言っている。
現象に無量そのものがまだ現れていないうちは、精神が無量になっていないと私は思っているだけですよ。
晴れてほしい日に雨が降っても、自分の保有株が大暴落しても、自分の精神が無量になってない証拠だと私はそう思っていますよ。


私は何度も言っているように、小乗大乗問わず今までの仏教は歴史上の仏陀の真意からはかけ離れていると思っていますよ。
だから、それらの知識を白紙にして、最古層の仏典を探求したのですから。
あなたはいくら回答しても何度もまた同じことを言ってくるのでわずらわしいのです。
自分の主張だけをがなりまわしたいなら自分のスレッドに投稿していればいいでしょう。
自分のスレッドがあるならそのスレをもっと多くの人に見てもらえる魅力ある内容にするのが先決ですね。


あなたはよく『少欲であれ』『足るを知れ』『命をつなげる食があれば十分』と言っているようですが、そのような上っ面の決まり文句は現実社会ではマイナスになることが多いですね。

オリンピックで金メダルをどうしても欲しいと思って過酷な練習に耐えている人は素晴らしいと思いますよ。
『少欲であれ』『足るを知れ』『銅メダルでもいい』『6位入賞でもいいと思いなさい』などと言っていたら、それはマイナスに作用します。
会社も最大限の利益追求が使命です。


あなたは法華経行者とのことですが、それであれば、ドグマや教学を通さず、魂の目で法華経を読むべきですね。
長者窮子の喩えを本当に読めば、自分を限定することこそが最も真理から離れていることだとわかるでしょうね。

 

 

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本質的なことがわかってなく、極めて矮小化した世界観ですね。
法華経を心から読めばもっと意識は広がるはずです。

まず世界のすべての人が『命をつなげる食があれば十分』として、宮澤賢治のように一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べるだけになったら、世界で最も多い農業従事者はことごとく失業し貧困化になってしまうでしょうね。
果物を輸出して暮らしている新興国の農家は成り立たなくなります。
米と大豆以外の農家はすべて破産しますから、世界は今よりとんでもなく貧困層が増えることになります。


金メダルをどうしても欲しいと頑張っている選手を例えに出しましたが
金メダルがどうしても欲しいというのは大欲ですね。欲望そのものです。
そうでないと厳しい練習にも耐えられないでしょう。
ですから、大欲は必要だと言っているのです。
あなたのように『少欲であれ』『足るを知れ』、『銅メダルで満足せよ』『6位入賞で足るを知れ』などと言っていたら、ダメなことは多いのですよ。

貧困撲滅、飢餓撲滅、は私もその通りだと思っていますよ。
人を助けたいと思う人が多くのお金を稼いで、税金をおさめ、世界中の貧しい人に寄付すべきですし
富の再分配のシステムを一億総中流の時代まで戻した方がいいと思います。

私はもともと、消費税を全廃して、高級品にかける物品税を復活させるべきと思っていますよ。
消費税は貧富の差を大きくしますから。

飢餓に関しては、日本が廃棄する食糧1年分で、世界中の飢餓で死ぬ人が助かるのです。
食べ物は残さず食べる、賞味期限を気にし過ぎない、などを日本人が徹底するべきでしょうね。

 

 

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hanaさん、こんにちは。

<<私もショーシャンクさんが書いていらした
「仏陀は本当は何を言おうとしたのか」を知りたいなと思いました。>>

 

それはいいことだと思います。
私は仏陀は世界最大の教師だと思っています。
そして『私は矢を抜く最上の者だ』と言っています。
歴史の堆積物に埋もれている仏陀の真意を探求していきたいものです。


<<私が感じたのは、己の中で己を見よということなのかなと思いました。
それは誰それの言っていることは間違っていると思うことを一旦封印し、
己と向き合うこと、他人を見ないことなのかなと。。>>

 

そうですね。それは非常に核心に近いと思いますよ。
他人に振り回されず、従属しないこと。
本当の自己、自らの無量性に気づくことかなと思います。


<<ですが、誰かが間違っているとか
自分の方が正しいとかという議論を超えた批判合戦は
仏陀が悟りの際に観たものとは違うような気がしました。>>

 

確かにその通りです。
歴史上の仏陀の言葉と関係なく、自分のドグマばかり宣伝してくる人があまりにも多く
なるべく無視はしていたのですが、仏陀の言葉で間違っていることを言われると正したくなるのでまた時間を取られてしまっています。
これからはまた、無視していきたいと思います。

 

 

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nosさん、おはようございます。

そうですね。前にもこのようなことを書きました。
若くてかわいい女性が、ほとんど接点のない男に一目ぼれされてストーカーされ殺された事件がありました。20歳の誕生日に両親に産んでくれてありがとうというメッセージも送っていた女性です。
とてもいい子で、惨殺されるようなことをこの人生でしたことはありません。

善因善果、悪因悪果、因果応報、自業自得と言っている仏教者であれば、このような理不尽極まりない出来事に対し、こういうでしょう。
つまり、人間は今世だけではない。前世など過去世があり、その行いが今世でそのような報いになったのだと。自業自得と言ってのける仏教者もいるでしょう。

しかし、そうだとすると、この世でほとんど見知らぬ男に20歳で惨殺されるような悲惨な報いを受けるに相応しい、前世では極めてひどい悪行の数々をでした大悪人だったということになります。そんな大悪人が、今世に生まれ変わって、美人で親孝行な女性になったというわけです。
どう考えてもおかしいし納得できませんよね。
そもそも過去世の行状など誰にもわかりませんし、悪因悪果、自業自得の考え方では、不幸な境遇にある人に対し『お前が過去に悪い行いをした報いだ』と突き放してしまって慈悲の心が生まれないのです。

ここは、いわゆる仏教といわれてきたものの最大の弱点です。

キリスト教がボランティア精神に溢れているのは、キリストが目の見えない人に対しても『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。』と言ったからです。

もし、キリストが『生れつき目が見えないのは自業自得だ』と言っていたなら、ボランティア精神は生まれなかったでしょうね。

 

 

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若くて美しい女性が、若くて美しいということで一目ぼれされストーカーされて惨殺されました。親想い、友達想いの女性のようでした。
若くして惨殺されるというような悲惨な結果を、悪因悪果、因果応報でいえば、その酷い結果に見合うようなとんでもない悪行の数々をした大悪人ということになってしまいます。
そういうふうに捉えますか?

 

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リッチポンタさん
おはようございます。

マーラーの交響曲第7番は、難解といわれるマーラーの中でも支離滅裂で難解とされ最も不人気な曲です。
確かに、『夜の歌』というように第4楽章までは暗い夜のような曲ですが、第5楽章になっていきなり真昼間になったような騒ぎとなります。
誰もが支離滅裂と思うでしょう。

わたしはここにマーラーの秘密を見ます。
私は交響曲第7番の第4楽章までのマーラーの曲と
第7番第5楽章から最後の第10番までのマーラーの曲は全く違うと考えています。
宇宙的覚醒があったのだと思います。
直後の第8番『千人交響曲』は、マーラー自身が最も好きな曲で
『宇宙が鳴り響いているさま』だとマーラーが友人に書き送っています。

ブラームスは私も好きですよ。ヴァイオリン協奏曲は本当にいいです。
私も交響曲では第4番が最も好きでしたが、最近は第2番をよく聴きます。
ブラームスの『田園』と言われることも多いですが、
私はブラームスにおける『ベートーヴェン第7交響曲』だなと思います。
最終楽章の躍動感がそう思わせます。

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 139

人間は肉体を持ち感覚を持ち記憶を持ち思考を持ってしまったために限定され分離されそのままでは欠乏感が増幅していって苦の集積に流されて行くのです。
仏陀がなぜあれほど『怠るな』と言い続けたか、今になってはっきりとわかりました。

残念ながら、日本の仏教は仏陀の本当の真意と真逆に進んでいます。

他者に従属するな。他者の目、他者の言葉、他者の評価から成り立っている『自我』=『私という中心』ではなく、真に主体的であれ。
これが仏陀の究極のメッセージです。
真の主体こそ『島』です。

 

 

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仏陀のメッセージ、『従属するな』は、日本の仏教とは真逆です。

いわゆる日本仏教は『縁起によって生かされている、ありがたいありがたい。人はみな一人では生きられないの、だってそうでしょ。いま食べているお米はお百姓さんが苦労して作ったものだしいま着ている服も大勢の人たちのおかげでできているの。この世はすべて関係性でできているの。それが縁起。世間様のおかげで生きていられるの。』ですね。

このようなことが仏教だと思い込まされたために、日本人にとって『世間様』は絶対的な存在になり、世間様に恥ずかしくないように、世間様に笑われないように、世間様に嫌われないように、ビクビクしながら生きることが当たり前になっていきましたね。

 

 

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私が投稿すると必ず妨害しに出てきますね(笑)
大乗仏教を否定なんてしてませんよ。
大乗仏教ヒンズー教の影響があることは悪いことではなく、仏教学者の間では否定する人はいないくらい事実です。大乗仏教ヒンズー教の影響を受けてないとする仏教学者が一人でもいたら紹介してください。
大乗仏教の神々はヒンズー教の神々そのものですし、数珠は原始仏教にはなくヒンズー教から来たものです。
ヒンズー教では108個の珠の数珠を使いますが、それはシヴァ神の名前が108つあるからです。それを仏教が取り入れ、後付けで煩悩の数が108つとしたのです。煩悩の数は6万4千ともいわれ、108の計算方法は後付けです。

特に浄土教の教えはゴータマ・シッダッタの教え本来のものではなく、ヒンズー教から来たものですね。
ゴータマ・シッダッタは、想像上の神仏への信仰などは一切説きませんでしたし
なにより自燈明を説いたので他力を説いたことはありませんでした。

歴史上の仏陀が説いたことと違うから正しいとか間違ってると言ってるわけではありません。
それが事実だから言っています。

阿弥陀仏の師はヒンズー教シヴァ神ですから、浄土教がいかにヒンズー教の影響を強く受けて誕生したかがわかりますね。
私はヒンズー教にもジャイナ教にも偏見はありませんから影響を受けたからと言って貶しているわけではありません。

 

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無量寿経では、法蔵菩薩は世自在王仏(ローケーシュヴァラ・ラージャ如来)について修行する。その結果法蔵菩薩阿弥陀如来になった。

サンスクリット名ローケーシュヴァラ・ラージャとはシヴァ神の別名である。

また、法蔵菩薩の第二六願にナーラーヤナ神のような力をえたいと発願しているが、このナーラーヤナ神とはヴィシュヌ神の別名である。

 

 

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浄土教徒の人もこういう記事を書いてますね。
 ↓↓↓
私は浄土教徒なので、阿弥陀如来の話から始めたい。阿弥陀仏は古くから仏教と習合された仏様(神様?)の一人で、アーキタイプゾロアスター教の光明神アフラ・マズダとも、さらに古いミスラ神とも言われる。

浄土三部経のうち『無量寿経』によると、往古、阿弥陀仏法蔵菩薩という名の修行者で、世自在王(ローケーシヴァラ・ラージャ)如来という仏さまを師匠として修業していたという。

浄土真宗で読誦される「正信偈」の初めの方に、次のような箇所がある。
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

この世自在王如来というのが、実はヒンズー教の破壊神シヴァなのだという。ガネーシャの首を吹っ飛ばした物騒きわまりないお父さんである。

中村・早島・紀野訳註『浄土三部経〈上〉無量寿経 (岩波文庫)』P252の「ロケーシヴァラ・ラージャ」に対する訳注には、次のようなことが書かれている。

ローケーシヴァラ・ラージャ ― Lokeśvararāja. 「世自在王仏〔せじざいおうぶつ〕」と訳され、無量寿仏の師として重要である。この仏に対する信仰も独立に行われていたもののごとく、『ローケーシヴァラ讃』(Lokeśvarastava)という書も残っている。また碑文にはローケーシヴァラがアヴァローキテーシヴァラ(観世音菩薩)を意味して使われている例もある。しかしローケーシヴァラとはヒンドゥー教ではシヴァ神の別名であるから、この点で何らかの連絡があるのかもしれない。

 

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歴史上の仏陀ゴータマ・シッダッタ)は、その長い生涯で、阿弥陀仏について言及したことは一度もありません。
他力信心を説いたことも一切ありませんでした。
自燈明を説いた仏陀において、他力を頼むという考えはまさしく真逆なものでした。

いま、大乗仏教がどうして興ったかを調べています。
大乗仏教仏陀の真意の復興運動だったと思い始めていますが
浄土教だけは仏陀の教えと異質な、むしろ真逆なものなので疑問に思っていました。
浄土教仏陀発祥ではなく、ヒンドゥー教バクティシヴァ神信仰、ヴィシュヌ神信仰が仏教に取り入れられたものだと知ったので長年の疑問が解けました。

浄土教が発生する前から、インドでは神の名前を繰り返し唱え続ければ死後よいところに生まれるという信仰が民衆の間に熱狂的に広まり流行っていました。
そのような民衆に圧倒的な支持を受けている考えが仏教に入ってきたのは必然とも言えるでしょうね。

 

 

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無量寿経によると、法蔵菩薩は、世自在王仏(ローケーシヴァラ)を師として阿弥陀仏となりました。
ローケーシヴァラとはヒンドゥー教シヴァ神の別名です。

これを見ても、浄土教ヒンドゥー教発祥であることは明白です

 

 

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リッチポンタさん、
仏陀の真意の探求を終えて、いまは、大乗仏教がなぜ、どのようにして興ったのかを調べています。
明治時代には、大乗仏教は大衆部が発展して興ったとされていましたが、いまは否定されています。
昭和時代には、仏塔を管理していた在家が中心となって大乗仏教を興したという説が有力でした。
そしていまは、そうではなく、辺境の仏教教団から部派仏教のアンチテーゼとして興ったという説が有力になりつつあります。

私は、同時多発的に、部派仏教に批判的な人たちが、出家在家含め、大乗仏教を興していったと考えます。そこには浄土教のように、ヒンドゥー教バクティ思想などを取り入れながら興ったものもあるでしょうし、様々だったと思います。
大乗仏教の多様性はそういうことだと思います。

仏陀の真意がわかってから、大乗仏典を読むと感動できると思います。
いま残っている大乗仏典は、夥しい数の仏典の中でも、特に意識の高い人たちが作ったものだと思います。
それは感動できる芸術作品でしょうね。

 

 

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<<いつか言ってらした「いつも何度でも」もそうですけど、クラシックだけでなく、そういう感じの歌も聞かれるんですね。>>

 

音楽を聴く時間の99.9%はクラシックですね。
クラシック以外の音楽は、YouTubeで年に何度か聴くくらいです。

20歳くらいのときに悟ったような気分になったことがあり、それは悟りとしては本物ではありませんでしたが、なぜかそれを機にクラシック音楽のほとんどが『本当に』魂からわかるようになりました。
それまでも、モーツァルトベートーヴェンなどのいくつかの曲は聴いていて、『いい音楽だ』と表面的に思うことはありましたが、ある時に、薄皮が剥がれた感じというか、殻が破れた感じというか、音楽が雪崩れ込んでくるというか、そのような圧倒的な感情で魂の奥から本当にわかった瞬間がありました。


その夏は、ベートーヴェンの『運命』とベルリオーズの『幻想交響曲』ばかり聴いて過ごしました。


それから後というもの、ベートーヴェン以降のブラームスシューベルトショパンなどのロマン派の音楽はすべて心の底から『わかる』ようになりました。
それは圧倒的な体験でした。

 

ただ、マーラーだけは『巨人』と『大地の歌』くらいしか聴かず、マラ9は理解できませんでした。

 

それが、数年前、たまたまYouTubeでマラ7の最終楽章の出だしが鳴ったときにマーラーとの間の膜が破れ音楽で初めて号泣しました。それで、マーラーの第7、第8、第9、第10がすべてわかるようになりました。
それからは、ほとんどの時間、マーラーの7,8,9,10を聴いています。

 

今現在、音楽との間に『膜』があって魂の底から理解できてないのはバッハの『マタイ受難曲』ですね。
マーラーの上にはバッハしかいないと思っています。
マタイ受難曲』は人類史上最高の音楽ですが、その理解にはもっと意識の拡大が必要ですし、聖書の理解も必要でしょうね。
死ぬまでに『マタイ受難曲』を心の底からわかるようになりたいものです。

仏教についてのひとりごと 138

肉体を持ち、感覚を持ったために
わたしたちは無量からの分離感、限定感、欠乏感を持ってしまってます。
さらに、成長していくうえで、様々な人たちと交流していくにしたがい
他者(自分以外のものという意味で親も含む)の評価や言葉をかき集めていき
自我観念、自己イメージを作り上げていきます。
その自己イメージがますます分離感、限定感、欠乏感を強めていきます。

自己イメージは、他者に褒められればいい気分になり、貶されれば攻撃的になり
人生の経験を経ていくうちにどんどん強まっていきます。

他者が喜ぶことをすれば褒められ、他者の意に沿わないことをすれば怒られるので
人間はひたすら他者の気に入るように行動しようとし始めます。
自我は他者の注目から成り立っていますから、褒められることに絶望的な者は社会への攻撃という形で他者の注目を集めようとします。
どちらにせよ、自我の働きです。

自我と主体性を混同している人が非常に多いですが
自我=自己イメージは、他者の目から成り立っていて、主体的ではありません。

 

 

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例を挙げると
欠乏感が大きな人は、他者からの評価を上げたいために自慢をします。
自慢は他者に認めてもらいたい一心の行動です。
しかし、どんな人も自慢ばかりする人を嫌います。
自慢ばかりする人はますます周囲から孤立化していきます。
さらに、分離感、限定感、欠乏感、孤立感が増大していきます。

わたしたちは、日常、このようにして、孤立への道へ押し流されているのです。


誰も、本当の主体性を持たないために、他者の目を怖れビクビクしながら生きているのです。

想いが現象のすべてをつくります。
ゆえに、欠乏感、分離感に押し流されている現状では、すべての人は苦の集積に向かっているのです。
欠乏感が現象に現れてきます。

決然として、苦の連鎖を断ち切り、真に主体的になることが仏陀の本当のメッセージだと考えています。

 

 

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精神が無量であることがすべてです。
しかし、わたしたちは、中心を持っているために、
分離感、欠乏感にまみれて生きており、日々の経験の中でその分離感、欠乏感は増大しているのです。
無量なるものが少しでも感じ取れれば、仏陀が言った『苦』の本当の意味がわかります。
『矢』の本当の意味も分かります。


同調圧力も激流です。
人はみな自らの『いい気分であること』よりも、他者によく見られたいほうを選択します。
この選択をし続けることによって、『世間様』は圧倒的な存在となり、自らの無力感が心に蔓延っていきます。

毎瞬毎瞬、人は、限定感の方向か、無限感の方向か、を選択しています。
しかし、限定感への激流に押し流されていますから、そのままでは限定感への方向を変えることはできません。
ゆえに、少しでも無限の方向を感じられるものに焦点を合わせる必要があります。
それはどんなことでもいいのですが、特に音楽は思考をはさまず直接精神に訴えかけますから最高です。ただし、無限を感じられる音楽に限りますが。
映画でも本でもそれはいいのです。
ですから、私は、人生の一冊の本、人生の一作の映画、人生の一曲の音楽を持っている人は幸せで持ってない人はどんなに富を築いても精神的には意味がないと思っているのです。

 

 

 

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hanaさんの一番最初の質問に戻ります。

<<自分にとって理不尽で不条理に思える事象も、
全ては自分が原因しているということなのでしょうか?>>

 

私はそう思っています。
これは道徳上の善悪とか、善因善果とか、そのようなこととは違います。
道徳というものは人間の頭が作り出したことで、道徳上の善悪で宇宙の法則を説明することはできません。
善とか悪とかではなく、人はすべて自分が出した想いや気分を受け取っているのです。
私の中では徹底していて、自らに起こることはすべて自分の意識が作り出したものだと確信してます。
どうしても晴れてほしい日に雨が降りかかる状況も、健康状態も、人間関係も、交通渋滞に巻き込まれるのも、自分の保有株が下落するのも、どのような環境であれ、自分に起きてくることはすべて自分の心が作り出したものだと思っています。

ゆえに仏陀は『ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。』と言ったのです。


わたしたちは、無量であることを忘れてしまって、欠乏感の激流に押し流されているので
欠乏感そのままの状況が作り出されているのです。
善人悪人関係なく欠乏感を抱えています。善因善果というものではなく、どんなに人のいい善人でも、自らの欠乏感分離感に従って環境が作り出されます。
むしろ、他人の目、他人の顔色ばかり考えている善人は、無力感を抱き鬱になる人も多いのです。


hanaさん、何か質問があればしてください。
hanaさんのご質問の答えになったかどうかはわかりませんが、私が勝手に思っていることを述べました。
それが正しいか間違っているかはわかりません。
私の中では確信があるということです。


何度も言いますが、これはhanaさんの質問に答えたものですので、横から質問されても、答える気はありません。
もともとこのスレッドにはもう書き込まないつもりでしたから。

 

 

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hanaさん、おはようございます。

<<どこかに属する、属したいという思いはありません>>

それは最も大切なことです。どこかに属したり、誰かに従属した精神は、どんよりとしてしまいます。人はただひとりあらねばならない、のです。私も、誰かに属したりすることはこれからもなく、賛同者なども一切不要です。

 

<<そして自身が主体的に生きていないために起こる苦しさを
他人の圧力によるものだと他人へ責任を転嫁して
自己を憐れんでいたようにも思います。>>


人間にとって自我にとって自己イメージにとって「他人にいい人に見られたい」という欲求が如何に大きなものか、です。
怖ろしいことに、生命の存続、つまり生存欲求より大きくなることがあるくらいです。
いい人に見られたい欲求と自分のいい気分が共存すればその行動をとるべきですが
人間はしばしば、あるいはいつも、自分のいい気分を犠牲にして他人にいい人に見られる方を選択してしまいます。
しかし、いきなり他人の期待を裏切ってばかりだと極端すぎますから
まずは、自分のそのような心の動きに気がつくことです。
自分以外の「世間様」の目をいかに怖れているか、です。
この怖れに囚われたとき、世間というものはその人にとってとんでもなく大きな圧力、壁に思えます。
ところが人間洞察が進んでくると、すべての人間が自分と同じように怖れているのだとわかってきます。
そのとき「世間」というものが強固な壁に見えていたのは幻想だと悟ります。

 

 

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<<この十二縁起の1番目の無明には、始まりがあったのですか?
輪廻には最初があるということなのでしょうか?>>
<<>『すべては自分の想いでできている』としても、純粋無垢な赤ん坊の想いがなぜ?とどうしても理解できませんでした。
こちらの答えはも、自分の意識からなのですか? 何も考えることも出来ない赤ちゃんもですか?>>

 

掲示板終了まであと1週間を切るくらい残り少なくなりました。その1週間のうちでもスレッドに書き込める時間はほんの少しです。
残されたわずかな時間では十二縁起と【ベトナムの赤ん坊は自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作った】という極めて怖ろしい言葉の本当の意味を説明することは難しいです。
私もかなりの年月をかけて取り組みましたので初めから説明するとかなり長くなります。

ただ、肉体を作ったのも(仏教では五蘊を仮合させたといいますが)想いというか想いの原型、潜在的形成力です。

また、十二縁起の無明と行を過去生の行ないとする解説はかなり多いですが、すでに決定された過去生では『滅する』ことができないので、私は過去生とは思っていません。


<<今回ショーシャンクさんから教えていただいたことで、
何故自分が苦しいのかの根源的な意味が分かったような気がしています。>>

それであれば、よかったです。
少しでも役に立てればうれしい限りです。


十二縁起など根源的な部分までは説明できませんでしたが
私の説明はこれで終わらせていただきます。
年末でかなり忙しいのですみません。

お元気でよい年をお迎えください。