仏教についてのひとりごと 129

仏教の根本教理と見なされ最も重要視されている【空】ですが、
歴史上の仏陀はあまり説いていません。

 

最古層の仏典『スッタニパータ』で【空】が説かれているのは
【つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を〈死の王〉は見ることがない。】の箇所くらいです。いかに仏陀は【空】を説かなかったか、です。


さて、それでは、仏陀がスッタニパータで説いた【世界を空なりと観ぜよ】の【空】とはどういう意味でしょうか。


それを解明するには、『ダンマパダ』の

【世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。】の言葉が参考になります。

 

ほとんど同じことを説いているからです。

さらに【この身は泡沫のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであるとさとったならば、死王の見られないところに行くであろう。】とあります。


仏陀は、泡沫やかげろうをはかないという例えで使っているのです。

つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、

【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。
非常に単純明快ですね。


『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です。これが、仏教の根本教理とされていきました。


しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。

 

 

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<<空は何もない空っぽという事ではありません。 絶えず縁によって、変化している。 私たちの身心も絶えず縁により、変化している存在だととらえるべきでしょうね。  なにか、変わらない存在がありますか?>>

すべての存在は変滅している。これが歴史上の仏陀のメッセージです。
変わらない存在はありませんよ。
すべては変滅するものですから。

しかし、【縁起】と言う言葉は、仏陀と龍樹では全く違います。
<<私たちの身心も絶えず縁により、変化している存在だ>>??
そんなことを歴史上の仏陀は言いましたか?
それは龍樹が言い始めたことではないですか?
歴史上の仏陀が『私たちの身心も絶えず縁により、変化している存在だ』と言った原始仏典は存在しません。
あるとするなら、典拠を示してください。

 

 

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『私たちの身心も絶えず縁により変化している』と仏陀は説いたのではありません。

縁起とはそういう意味で仏陀は言っていません。

私たちの身心も含めすべての形成された存在は、『生じれば必ず滅する』存在であるから
【泡沫のように生じては滅するはかないもの】なのです。

 

 

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仏陀の死後直後(2,3ヶ月後)の第一結集で、仏陀の生前の説法がこういうものであったと内容を直弟子500人で確認し合いました。
第一結集でそのように確定した教えをサンガにてすべての比丘比丘尼が正確に伝達していきました。
第一結集で確定した教えかそうでないかは、決定的な違いです。

第一結集で確定した教えを文字に残し始めたのはそれから何百年か後からですが
最古層の仏典は、後世の夾雑物が少ないものと考えられています。

 

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<<釈尊の意志に出遭ったかぎりは>>

あなたが、釈尊の意志と思っているものは、釈尊ではなくてはるか後世の龍樹の意志ではないですか?(笑)

『生と死を比較対立させることのない観』なんて、歴史上の仏陀がどこで言っているのですか?
龍樹が言い始めただけではないのですか?

 

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そうですね。
最も古いものは、詩句、韻文の形で伝えられたというのが文献学の通説になっていますね。
私は散文の形でも古いものはあると考えていますが、比丘比丘尼たちが記憶するために韻文にしたというのは説得力はありますね。

 

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逆ですね。
私は龍樹の筏ではどこにも行き着かない、我塊も強まるだけだと考えて、歴史上の仏陀が本当は何を説いたかを探求し始めたのです。
龍樹から始まる大乗仏教で、激流が渡れる人はその筏が合っているということでその筏で渡ればいいと思っていますよ。
しかし、我空法空や諸法無我を毎日さかんに叫んで回っている和弘氏や春間氏に私は普通以上の自我、我執を感じますけどね。

私は大乗仏教を知らないわけではありません。この掲示板で大乗仏教の人も数多く訪れましたが、私が知らないことを書いてきた人はいませんでした。
といって、部派仏教、上座部仏教の立場に立っているわけではなく、いったん『仏教』と言われている歴史上の堆積物を全部取り除いて、白紙の状態から仏陀の言葉を捉えようとしたのです。

ですから、正しい正しくないを言っているのではなく、それは歴史上の仏陀が言ったことかそうでないか、を探求しているのです。
これを繰り返していくと、今まで『仏教』と言われてきたものとは全く違う全貌が見えてきた感じです。
2000年以上積もりに積もってきた堆積物が膨大にありますから、本当に仏陀はこういうことを言っていると言ってもまずわかってもらえないでしょう。仏教徒はこういうものだという強固な観念がありますから。

大乗仏典も素晴らしいものですし、正しい正しくないを言うつもりはありません。
歴史上の仏陀が言ったことかどうかだけ言うようにしてます。

前の投稿【つまり、歴史上の仏陀が【空】というときは、【泡沫のように生じては滅するはかないもの】と言う意味です。非常に単純明快ですね。『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です。これが、仏教の根本教理とされていきました。しかし、歴史上の仏陀が『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』と説いている原始仏典はありません。】も事実に基づいて書いているつもりです。

もし、そうではないと言われるのであれば、典拠を示して、指摘してください。

 

 

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<<これに関して、ショーシャンク さんは空は【泡沫のように生じては滅するはかないもの】とされた。 ならば自我は無常ではなく、常という形成された実体だという見解ですか?>>

なぜ、そういう結論になるのかがわかりません。
無常の法とは生滅の法です。
生じたものは必ず滅する、ということです。
自我を構成する五蘊=色受想行識 は泡沫のように滅していくものです。
無常で苦であるものは非我なのです。
自我は無常であり幻想なのです。
『私という中心』が幻想であることにはっきりと気づくことが大切です。

しかし、玉城康四郎の『ダンマの顕現』を読んでも、
玉城氏は禅の印可も数多く受け徹底的に禅の修行をした人で親鸞浄土門にも精通していましたが
どうしても我塊がなくならなかったようです。
そして、宮元氏によると、最晩年の玉城氏は『自分がやってきた修行方法ないし仏教解釈には重大な誤りがあった』と述懐していたそうです。
何かが足らないのではないかという感じがします。

仏陀は最初の目覚めのあと、十二縁起を観じて、すべての疑いをなくします。
なぜ、仏陀は、悟った後で、十二縁起を観じなければならなかったのか、です。

 

 

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<<『すべての存在は縁起によって成り立っているから自性がない、実体がない、空である。』というのは、遙か後世に龍樹が現れて勝手に創り上げた教理です といわれても、非我でも無我であっても、私という中心は妄想ですよね。だから私という中心は(有)でない。しかし実際に私達は多くの因縁起によって、生起している。だから(無)ではない。ようするにまずは空と観る。龍樹菩薩の空は仏陀の教えに反していない>>


何度も言いますが、私は龍樹の創り上げた教理が正しい正しくないを言っているのではありません。それは歴史上の仏陀が言ったことではない、ということを言っています。
龍樹の教理で救われる人はその道を進んでいけばいいだけのことです。
歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか、が探求目的ですから、そこは理解してください。
イエス・キリストが説いた教えが正しい正しくないは私にはわかりません。しかし一つだけはっきりしているのは、それは歴史上の仏陀が説いた教えではない、ということです。当然ですね。それと同じように、龍樹が作り上げた教理は歴史上の仏陀が説いたものではないと言っているのです。

龍樹出現からもう2000年も経っています。その間も様々な仏典が作られてきました。仏典の数も膨大なのに、それに関する論書も更に膨大にでき、さらに様々な宗祖が現れて様々な教えを説いてきたわけですから、堆積物の量は凄まじく、歴史上の仏陀の真意はその堆積物に隠れてしまっているのが現状です。
特に、龍樹出現からは、仏教の根本教理は龍樹の縁起と空となっていますので、いくら仏陀の真意は龍樹の説いたものとは全く違うと言っても、このようなネット掲示板でわかってもらえるわけがありません。もう、『仏教とはこういうものだ』という固定観念が出来上がっていますから、理解してもらえるとは思ってません。
自費出版しても、わかってもらえる人はまずいないと思ってますよ。
私の生きている間は無理でしょう。
ただ、私が死んだあと、本という形にしておけば、何十年か後に分かってもらえる人がでてきたらいいなというほぼ可能性のない自己満足です。

あなたの龍樹に関する考えを変えたい欲望も私にはないのです。そのまま龍樹の説く縁起や空が仏陀の教えそのものと思われていたらいいと思います。

どの原始仏典でも、縁起が出てくる仏典を読めばわかるかもしれません。

 

 

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龍樹について、ネットで解説しているものがありましたので2つ転載します。
※※※※

 西暦紀元前後ごろから、『般若経』『無量寿経』『維摩経』『法華経』といった大乗経典が次々と世に現れた。その中でも特に影響力をもった経典が『般若経』である。
 この経は、般若波羅蜜(極限まで智慧を高める修行)、具体的には無執着の徹底的な実践を説いたが、その実践を支える理論の一つに、すべてのものは「空」である、つまり固有の性質をもたないという考えがあった。
 固有の性質をもたず、恒常のものでないとすれば、そのものへの執着は虚しいものになるというわけだ。

 この「空」を、伝統教説である縁起と関連づけたのが龍樹(ナーガールジュナ。一五〇~二五〇年頃)である。
 原始仏教では、縁起(依って生じること)は、「無明に依って……老死あり」「無明の滅に依って……老死の滅あり」というように、輪廻生存の原因をたどり、その原因の消滅が輪廻生存の消滅に至るという因果関係を表す言葉であった。

 それに対して龍樹は縁起を、一方向の因果関係ではなく、あらゆるものが相依・相関的な関係にあること、つまり他の様々なものに依って成り立っていることを示す言葉として捉えなおした。
 たとえば、「長いもの」と言った場合、確かに短いものと比べれば長い。しかし、より長いものと比べれば「短いもの」になる。
 このように「長いもの」は他との関係によって成り立っており、常に「長いもの」と呼ばれるような固有の性質を持つわけではない。
 このように考えた龍樹は、すべてのものは縁起するのであるから、固有の性質をもたず、空であると主張したのである。

 さらに、龍樹は、空思想が理解され難いのは人々が言語表現に基づいて物事を区別立てるからだと考えた。
 しかし、空を理解するためには、それを説く言葉も必要である。
 そこで、空思想を勝義諦(最高の真理)、伝統教説や言語表現を世俗諦(慣習的な真理)とする二諦説をとなえ、言葉によりつつも、最終的には言葉から離れるという態度を促した。

 

 

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龍樹に関してもう一つ転載します。
※※※※※


 龍樹は西暦150~250年頃の人で、ナーガールジュナといいます。
 初期般若経典の空をもって大乗仏教の地位を確立した大論師です。
 
 龍樹の功績はなんといっても、大乗仏教を体系づけ、理論武装して伝統的な部派仏教(小乗)に比肩するに値するものとならしめたことにあります。
 龍樹の出現がなければ、大乗仏教はただの異端な在俗信徒による俗信に留まっていたかもしれません。

 龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、般若経の「空」の解釈により深め体系化しました。
 その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼします。龍樹以後の大乗仏教は多かれ少なかれ彼の影響下にあり、龍樹は八宗の祖とたたえられます。

 ただし、その仏教は在俗信徒をも含めた在家仏教的な初期大乗を、出家仏教にならしめてしまったという面があります。
 さらには、上座部仏教の煩瑣な教理に対峙していた大衆的で平易な初期大乗を、煩瑣で難解なものにしてしまったかも知れません。

 「空」のサンスクリットの原語は sunya であり、欠如という意味です。
 また、インド人が発見した0(ゼロ)という数字を表します。
 当初の仏教経典では単に「空虚」や「欠如」という意味に用いられていたようです。
 紀元前後に『般若経』が成立する以前には、「空」が仏教の中心思想であるような主張はないそうです。

 初期大乗の『般若経』が成立しだすと、『般若経』は部派仏教(小乗)を批判します。
 上座部仏教の固定化した型に対して、「空」の立場から批判するのです。
 また、『般若経』では何ものにもとらわれない「空」の立場に立ち、またその境地に至るための菩醍の行(六波羅蜜)の実践を説きます。その中でも般若波羅蜜の体得が強調されます。

 龍樹はこれを受けて、空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの部派仏教の思想がその原理を固定化・実体化すると矛盾に陥ることを示して論破しています。
 すべてのものは実体がなく空である(無自性)という立場を表明しています。

 

 

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仏教についてのひとりごと 128

掲示板から離れたい理由の一つは、ある人へのレスにいろいろな人が横から割り込んできて一つの言葉だけを捉えて質問してくるので、時間がいくらあっても足らなくなってくることです。

話には相手とのやり取りの流れがあってその言葉を使っているのですから
前後の文脈をちゃんと読めば、その言葉がどういう意味で使われたかははっきりとわかるはずです。
文脈を読まないで、その言葉だけを取り上げて、それに対して質問され、それに答えることがいかに時間の膨大な浪費になることか。

例えば、あなたが質問してきた『わたしにも強固な自我が厳然としてあり』という文の中の『自我』という言葉だけを取り上げて質問されても困ります。
言葉には様々な意味があり、自我という言葉も我執という意味やアートマンという意味もあるでしょう。しかし、前後の文脈をちゃんと読めば簡単に判断できるものです。

あなたは私のその前からの文脈を読んでから質問していますか?

前から続くやり取りの中で、私は『五蘊(色・受・想・行・識)が『わたし』ではない、つまり非我であることは、仏陀が繰り返し言っていることです。これは認めますか?認めませんか?
そして、私は、五蘊の集まりを『わたし』だと強烈に思い込んでいる事実があります。
五蘊の集まりがあり、名前があります。それを『わたし』と思い込んでいます。あなたもそうでしょう?そうでないと生活できないですね?』と書いています。

仏陀が非我と言われている五蘊の集まりを、私は『わたし』としてそう思い込んで生活してます。その流れがあり、そういう意味で『わたしにも強固な自我が厳然としてあり』と書いているのがわかりませんか?

それを『自我』という言葉だけを取り上げて、アートマンかどうか、という質問は、全く投稿を読んでいないということです。

どうか、他の人にもお願いしたいですが、もし質問してくるのであれば、ちゃんと投稿を読んでから質問してください。
質問にはすべて真摯に答えることを信条としてきましたが、全く投稿を読まずに言葉だけをピックアップして質問してくる人があまりにも多く、それに真摯に答えようとすると時間を膨大に浪費してしまいます。

最低限、ちゃんと文章を読んでからにしてください。

 

 

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大乗仏教一辺倒の日本に生まれ、仏教に関心があるものであれば、まずは大乗仏教を研究するでしょう。私もそうでした。
ですから、大乗仏教の考えはわかっています。
もし、あなたが、大乗仏教をすることで人生が自分の理想的な方向に向かうのであれば、それは素晴らしいことで応援します。

このスレにもいろいろ書いてきたことを読んでいただければわかりますが、私は大乗仏教に物足りなさを感じて、いったんそれまでの知識をすべて捨て去って、白紙の状態から、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを探求し始めたのです。
その『物足りなさ』は何かは多く書いてきましたので読んでください。

大乗仏教を素晴らしいという人は多く、それはそれでいいことです。私も大乗仏典のすばらしさは身に沁みてわかっていますよ。
ただ、大乗仏教は観念的になりすぎて、そのような観念論で本当に人間が、人生が、変わるものだろうか、と思っただけです。

仏陀は人類最大の教師だと私は思っています。
そして、現代になって文献学が発達してやっと、仏陀の肉声に近い経典がどの経典かがはっきりとわかってきました。
人類最大の教師の肉声に迫りたいというのが私の希望なのです。

ですから、他の人が大乗仏教を信仰しようと、キリスト教を信仰しようと、イスラム教を信仰しようとそれはそれでその人に合った人生を送ればいいと思っていますよ。

私は歴史上の仏陀が言っていないから間違いだとは言ったことはないのです。
『それは歴史上の仏陀が言ったことでない』ということはあります。
それが事実だから。
間違いか正しいかを言っているわけではありません。
歴史上の仏陀が言っていなくとも正しいことはごまんとあるでしょう。そういうことです。

 

 

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こちらの質問に正面から答えず、言葉遊びではぐらかす行為が真摯ですか?
答えてください。

例えばあなたは私の質問、
【<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>はどういう意味なのですか?】
に答えていません。

あなたが本当に真摯で、他人に自分が言うことを理解してもらおうとする思いがあるのであれば
自分が書いた文章の意味を聞かれたら答えるはずです。

あなたの書いた文章、
<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>
は、仏陀の説いた教えからするととんでもない文章のように思えます。

第一、自分の無明は自分でしか滅することはできないのが仏教の根本です。
あなたの文章は仏教の根本に反していると感じられたので、書いた意味を聞いているのです。
答えてください。

この質問に答えないようであれば、今後、あなたは真摯でないただの時間つぶしの人として無視しまうので、必ず答えてください。

 

 

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<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました その魔女は バチカンで 聖人として並んでいます>>

ジャンヌダルクの裁判が正しい裁判?
ジャンヌダルクの裁判は違法だらけであったのは常識です。
教会法に規定する弁護士もつけてもらえませんでした。完全な法律違反です。
女囚に男性の監視員をつけるのは禁止されていますが、それも法律違反です。
宗教裁判は教会の牢に入れられなければいけませんが、そうされず、法律違反です。

あなたは何をもって、<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました>>と書いたのですか?
その根拠を答えてください。

 

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<<今の裁判制度は正しい裁判制度ですか  今における正しさは これから変わることはありませんか ?>>

何を馬鹿なことを言ってるのですか?
裁判はその時の法律に基づき行われないならば、正しい裁判でないことはあなたにもわかりませんか?
ジャンヌダルクの裁判は、裁判とは名ばかりの違法そのものでした。
裁判長自体がその資格を有してなかったのです。
ジャンヌダルクが火あぶりにされたのは、何故か知ってますか?
男装したという理由だけです。
とてもではないけど、まともな裁判ではありません。
だから復権裁判が行われたのです。

あなたは何をもって、ジャンヌダルクの裁判が正しい裁判だと書いたのですか?
答えてください。

これから出ますので、必ずはぐらかさずに答えておいてください。

 

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<<弥陀に賜る 信心が 無明を滅します  「 仏法の大海へは 信より入る 」(  仏法の大海は信を能入とする  「 大知度論 」 )>>


龍樹の『大智度論』の言葉は『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』です。

あなたは勝手に言葉を切り取っては自分の都合のいいように解釈しているだけです。

龍樹は、入るのは信で入るが、渡るのは智がなければならない、と言っているのです。

弥陀の信心が無明を滅するなどという意味ではありません。

 

 

~~~~~~

 

 

春間氏と和弘氏は何から何までよく似ていますね。
人の話は聞かず人の質問には答えず自説を他人のスレッドに大量投稿。

龍樹、道元親鸞の3人に心酔しているところもそっくりです。

何もかもがごちゃまぜで、自力の禅の話をしているかと思ったら他力の親鸞のことばかり言い出したり。
龍樹、道元親鸞の教えをすべて中途半端に切り貼りしているので、曹洞宗の人から見てもまがい物だし、浄土真宗の人から見てもまがい物なのですが、本人は気がついていないようです。

親鸞の教えをかたくなにしているmicの方が格段にマシですね。

 

 

~~~~~~

 

いいですか?
ジャンヌダルクの裁判が正しい裁判と判断したのはあなたですよ?

そして、歴史上の事実として、ジャンヌダルクの裁判は教会法で決められた弁護士もつけられず、すべての処遇が当時の法律からしても違法そのものでした。
この史実をあなたは否定するのですか?

史実からすると、正しい裁判ではないことは明白なのです。
ここで『正しい裁判』とは『法律に基づいた裁判』のことです。

なのに、あなたはジャンヌダルクの裁判が正しい裁判だと断定しています。
ですから、その理由を聞いたのです。

 

~~~~~

 

<<あなたはそう切りとる>>

 

あなたが勝手に切り取っているのですよ。

本当は『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』なのに
『仏法の大海へは 信より入る 』だけを切り取って、<<信心が 無明を滅します>>という結論を勝手に出している。
しかし、原文はその後に『智を能度と為す』があって、智を重要視しているのです。

あなたが自分勝手に切り貼りしているだけです。

 

 

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<<原文には 『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』とはなってはいません
 鳩摩羅什 漢訳 の 翻訳文を 切り取ると「佛法大海信為能入智為能度如是義者即是信」 です  義者即是信  と  知りなさい>>

 

う~ん(笑)
私は龍樹には何の興味もありませんが、あなたの文を見ていると、本当に龍樹の言っていることを把握しているかどうか疑問です。
あなたは、意気揚々と『『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』とはなってはいません』と書いていますが
『佛法大海信為能入智為能度如是義者即是信』を読み下すと、『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す。如是の義とは、即ち是れ信なり。』です。
『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』が一つの文です。
一つの文をあなたは『仏法の大海は、信を能入と為す』とだけ切り取ったのです。
次が『如是の義とは、即ち是れ信なり。』という一文です。
あなたのように『義者即是信』と切り取ったら意味がなくなります。

ここで龍樹が言っている『如是』とは、摩訶般若波羅蜜経の最初の『如是我聞』の『如是』を解説したものです。

『如是』が信だと言っているのです。
そして、その前の一文『仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す』では
仏法の大海に入るのに信をもってして、大海を渡って彼岸に至るのは智によるということを言っているのです。

あなたは龍樹の書いている意味を把握していないように思えます。

 

 

~~~~~~

 

今回はあなたがしつこく自説を展開するので、これを機に、あなたの論理の欺瞞性を証明してみようと思ったのです。

あなたは、龍樹に関しても、ジャンヌ・ダルクに関しても、中途半端な知識、思い込みで断定を下しているのです。
あなたは、『ジャンヌ・ダルクは正しい裁判によって魔女とされた。その魔女はバチカンで聖女とされた。バチカンがどう扱おうと殺せ殺せと言った者です。』と書きました。
あなたは、ジャンヌ・ダルクが『正しい裁判』によって決められた『魔女』と断定しているのです。

それに対し、ジャンヌ・ダルクの裁判は法律違反満載であったことは誰もが知る歴史上の事実なので、私はあなたに『正しい裁判と判断する根拠は何ですか?』と聞きました。

そうすると、また、いつものように、『正しいことは正しいことと判断される その場所において正しいこととされる』『それは正当ではないという正しい判断を(あなたが)不当化する根拠はその場所においてはない』などと支離滅裂なことを書いて煙に巻くのです。
他人に対しては『正しい』『正しくない』の判断はできないという論理を繰り出すのに、自分は勝手に『正しい裁判』などと断定を下すのです。

この論理の欺瞞性は、あなたと和弘氏に共通です。
他人は断定してはいけない、自分は勝手に断定する、のです。
あなたと和弘氏に共通なのは、龍樹に毒されていることです。
私は、龍樹の本質は相手を言い負かすための論理だと思っています。
龍樹は説一切有部などと生涯、論争に明け暮れました。
相手が『本当の仏陀が言ったことによるとこれが正しい』と言うと、『正しい』『正しくない』の判断はできないという論理を繰り出すのです。

また今度もそうなることはわかっていましたから、『ジャンヌ・ダルクの裁判の正当性』『龍樹の大智度論最初の文言』という具体例に絞ったのです。

そうすると、『あなたには今は機にない それだけです』という捨て台詞を残して逃げました。
あなたの論理によると、『あなたは今は機にない』という断定、判断は下せないはずですよね。

あなたの論理はすべて、相手を言い負かすためだけのものです。
龍樹の最期を知っていますか?
相手を言い負かすために論争に明け暮れていてはいけないということです。

 

 

~~~~~~

 

 

<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>

あなたが『ジャンヌダルクは正しい裁判で決められた魔女だ。バチカンが何と言おうとも。』と断定したのですよ。
あなたの論理であれば、歴史上起きた『魔女狩り裁判』はすべて正しいということですね?

 

~~~~~~

 

ごまかさないで、ちゃんと答えてください。

<<その裁きで魔女とする>>のはあなたですよ。
あなたは『ジャンヌダルクは正しい裁判で決められた魔女だ。バチカンが何と言おうとも。』と書きましたね?それは認めますか?

あなたの言葉<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>であれば
あなたは、すべての魔女狩り裁判を正しいと言っているのですよね?

 

~~~~~~

 

<<あなたはいつも 当事者として 歴史のどこへでも 登場する>>
<<わたしが間違っていてあなたの裁きが正しいとあなたは裁く>>

いいですか?
あなたが最初に『ジャンヌダルクは正しい裁判で決められた魔女だ。バチカンが何と言おうとも。』と書いたのですよ。
あなたがジャンヌダルクが魔女だと裁いたのですよ。

復権裁判も開かれて、ジャンヌダルクの裁判は間違いだったと証明されたにもかかわらず。

あなたの<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>という言葉だと、すべての魔女裁判も正しいことを基準にして為されたということですよね?
逃げないで、ごまかさないで、ちゃんと答えてください。

 

~~~~~~

 

<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました
  その魔女は バチカンで 聖人として並んでいます
  その聖人はイギリス人を殺せと 先頭に立って 民衆を奮い立たせました
  バチカンがどう扱おうと 殺せ殺せと 言った者です >>

この言葉を読みますと
ジャンヌダルクは正しき裁判によって魔女とされた
②その魔女はバチカンでは聖人とされたが、バチカンがどう扱おうと殺せ殺せと言った者だ

ということですね?
この文章からは、あなたは、ジャンヌダルクを魔女として火あぶりにした裁判を『正しき裁判』と断定していること、あなたはバチカンで聖人とされていようともジャンヌダルクを魔女とした裁判を肯定していること、の2つはその通りですね?
それ以外の解釈があるのであれば、ちゃんとした日本語で説明してください。

 

~~~~~~

 

私が聞いているのはあなたが最初に書いた、<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました >>の中の【正しき裁判】という言葉です。

これにつき、何を根拠に【正しき裁判】というのですか?と聞いたのです。

ですから、要約した文章との差は何も関係ありません。
答えられなくなるとそういう本質でない些末なことにいちゃもんをつけて言い負かそうとするのがあなたのやり方です。

私は最初からあなたの文章の【正しき裁判】という言葉に関して聞いているだけです。

それに対するあなたの答えが
<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>
でした。

そうであれば、今までのすべての魔女裁判も正しいことを基準として為されたということですか?
と聞いているのです。

 

~~~~~

 

<<魔女とする裁判は そうする裁判において 正当なる 理由を付されています>>

バチカンが聖人に列したことに関しては聞いていません。
あなたが『正しき裁判』と断定したことについてだけです。

ジャンヌ・ダルクの裁判において、彼女が生まれ育った小さな村に聞き取りにまで行きましたが
敬虔なキリスト信者という評判ばかりで魔女という証拠はまるで出てきませんでした。
身体検査までされましたがクリアーしていますし、どこをどう調べても魔女ではありませんでした。
彼女は性的な被害から身を守るため男装していましたが、男装をしないと無理やり誓約させられました。しかし、貴族の男が牢獄の彼女を襲おうとしたため身を守るためにふたたび男装したのです。
裁判所は彼女が男装したため魔女とみなし火あぶりにしたのです。
あなたはジャンヌ・ダルクの裁判の経緯を少しでも知っているのですか?
復権裁判の記録を少しでも読んだことがあるのですか?

もし、ジャンヌ・ダルクの裁判を少しでも知っていて、他の魔女裁判を少しでも知っていてなお、<<魔女とする裁判は そうする裁判において 正当なる 理由を付されています>>とあなたが言ってのけるのであれば、私はあなたを軽蔑します。

 

~~~~~~

 

<<わたしが正当としたのではなく 裁判を取り仕切る者が 正当としたのです>>

つまり、こういうことですね。

<<ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました >>
<<どこで どのように 行われようと 裁きは 常に そこに於いてのみ 正しいことを基準として 為されます>>
<<正当な判決を下す その下す権威をその場においてもつ者の 正当とする理由です>>
<<魔女とする裁判は そうする裁判において 正当なる 理由を付されています>>

とあなたが書いているのは結局、
【裁判を取り仕切る者が正当としたのだから、正しき裁判なのだ!】ということなのですね。

びっくりです。
頭の悪い小学生でも言わないような論理ですね。

ということは歴史上存在したどのような冤罪裁判でも誤審裁判でも、『正しき裁判』とあなたは言うのですね。


あなたと和弘という人の文章には内容がないのです。
中身を探して皮を剥いていったら結局皮だけだったという玉ねぎのような感じです。

そう言うと、必ずあなたと和弘という人はお決まりのように
『断定するな』『判断するな』『裁くな』と言うでしょうね。

あなたがたのすべては
【他の人は断定してはいけない。自分は勝手に断定する。】
なのです。

今回のことでそれが鮮明にわかりました。
『あなたに正しいか正しくないかは判断できない』といいながら
自分は『ジャンヌダルク は 正しき裁判によって 魔女とされました』と正しいと判断しているのです。

あなたがたの文章は
【他の人は断定してはいけない。自分は勝手に断定する。】
で、すべて説明できます。

 

~~~~~~

 

> 春間さんのような「話を広げていくタイプ」とやりとりする際は、広げてきた部分については触れないで、もともとの話にあった部分についてだけやりとりしていく、というのがいいのだと思います。
> (今の例で言うなら、春間さんは自分の話をさておいてジャンヌダルクを出し、話を広げていますよね。)

確かにおっしゃる通りだと思います。
ジャンヌ・ダルクに関しては、本や映画などで思い入れもあり、ジャンヌ・ダルクの処刑裁判に関してはいろいろな想いもありますので、あの処刑裁判を【正しき裁判】と言ったのには反応してしまったところがあります。
この人は後の文章で書いていたように「民衆を扇動した」ということでジャンヌ・ダルクを非難する考えを持っているんだということがわかり、それであればそれについて話し合いたかったのですが
どこまで行っても、【正しい】という言葉の弄びだけに終始した感じです。
もっとお互いの歴史観まで深く掘り下げる会話ができることが希望でしたが、無理でした。

 

 

~~~~~~

 

【主観】と【客観】
【正しい】と【正しくない】
【天動説】と【地動説】
あなたはいつもこのように、二元対立の図式に持っていき
その二元対立の図式が虚妄だということに持っていこうとしているのです。
龍樹のやり方がそうですから。

私は、一般論での【正しい】と【正しくない】とはどういうことかを論じているわけではなく
具体的な歴史の事実としてのジャンヌ・ダルクの裁判をあなたがどう見ているかを論じたいのですよ。
ジャンヌ・ダルクが民衆を扇動してイギリス人を殺せ殺せと言ったことであなたはジャンヌ・ダルクが魔女とされても仕方ないという感情を持っているのではないですか?
そのような歴史上の具体例に関しての考えを聞きたかったのですが、いつものように延々と【正しい】【正しくない】の構図の虚妄性の問題に持って行ってしまうので、会話が深まらないのです。

ジャンヌ・ダルクに関して、あなたがどう思っているかを聞かせてください。

 

 

~~~~~~

 

 

> 「民衆を扇動した」という文言は、たしかに春間さんの投稿中にありますよね。
> でも、春間さん的には、それは事実を書いただけであって、そこに春間さんの「思い」を付加しているつもりはない、というふうになっているのじゃないかな、と私は感じます。
> おそらく、「非難」するつもりなどないですよ、というところじゃないかな、と。

赤い実さん、こんにちは。
確かにそう言いそうですね。
人に対しては『あなたの 客観 では そうなる そういうことを 主観 という』と言うのですが、自分は主観を交えずに事実を書けるみたいです(笑)


> なにせ春間さんは、「自分の思い」というところを超越した形で語っているというテイなんだと、私は思っています。(笑)
> ですので、「私は個人的にこう思います。」なんてことは言わないでしょうね。 
> あくまで自分は「空」である、ところから離れない語りがなにより春間さんにとっては大切なのだと思います。
> 和弘さんと春間さんはやはり似ているところがありますね。
> お二人は自分は「すごい」と思っているのに、誰かが「そう思っているだろう?」と匂わせると否定します。
> 凡夫だ、みたいに言います。
> でも、貶されたと感じると、自らを高める投稿をはじめます。

何とも疲れる二人ですね。
『唯仏与仏』とか『開示悟入』とか言って自分を仏、悟っていると言いたくて仕方ないくせに
自分で仏と言ってしまうと傲慢と言われるので凡夫と言って最大限謙遜するのですが
悟ってないと言われると自分で凡夫と言ってるはずなのに怒り出してこれだけの本を読んでるとか知識自慢を始めたりします。
困った人たちです。

私はいつも思うのですが、春間氏と和弘氏が仲良くなって二人で自分のスレで会話できるようになったら周囲の人は本当に助かりますよね。
しかし、この二人の会話が成り立つ様子がどうしても想像できません(笑)

 

 

~~~~~~

 

 

>>具体的な歴史の事実としてのジャンヌ・ダルクの裁判をあなたがどう見ているかを論じたいのですよ。
>具体的な事実 などと言うモノは論じて 勝論にあるのみ なんら 具体性の根拠 を 持ってはいない( 持っているという “思い” に “のみ”  存在する )
具体的な 動かぬ事実を 提示してみてください( わたしが、動かして見せますがあなたどう受けとめるかは あなた次第 )


いいですか?
こういうところが、あなたとの会話が成り立たず、ただの言葉遊びになってしまうところなのです。
私が『一般論での【正しい】と【正しくない】とはどういうことかを論じているわけではなく
具体的な歴史の事実としてのジャンヌ・ダルクの裁判をあなたがどう見ているかを論じたいのですよ』と書いたときに、その文章の意味を理解する気があるのであれば『ジャンヌ・ダルクの裁判をどう見ているか?』と素直に受け止めるでしょう。
そして、自分が把握している範囲でジャンヌダルクの裁判についての感想を答えるでしょう。

しかし、あなたは本質でない周辺の言葉の一つ一つにイチャモンを付けて回るので本質部分がいつまでたっても始まらないのです。
それはわざとですか?
あなたの知識の範囲内、あなたの把握しているジャンヌダルク裁判についてあなたがどう思っているか、と聞いているのです。
あなたが知らない範囲のことを聞いてもあなたは答えようがないですよね。
ですから、あなたが知っている範囲のジャンヌダルク裁判についてどのような感想なのかを聞いているだけです。
【具体的な 動かぬ事実】は何か?などを論じようとしているのではありません。

ジャンヌダルクについて知らないのであれば、知らないと素直に言ってくれればそれでもうそれ以上は聞きません。
あるいは、ジャンヌダルクに関して何の感想も持たない、ということであれば、それでもう聞きません。

またまたいつものように【具体的な動かぬ事実があるかないか】という抽象論に付き合いたくはないのです。
あなたはどうしても、抽象論に持っていきたいようですが。

ジャンヌダルクの裁判について感想を言いたくないのであればそう言ってくれれば、もう聞くことはないですよ。

 

~~~~~~

 

結局、あなたは
ジャンヌダルクの裁判について感想を言いたいのですか?言いたくないのですか?

言いたいのであれば言ってください。
言いたくないのであれば言わなくて結構です。

はっきりとしてください。
グダグダ抽象論に付き合うのは時間の無駄です。

 

~~~~~~

 

私と誰かとの対話中に私のスレに勝手に割り込んできて自説を語り始めたのはあなたです。
それに対してレスしているのに<<もう放かっておいてください>><<あなたに付き合いたいけれど付き合いきれない>>はないでしょう。

<<あなたは それで 十分だと 思う わたしには 何も伝わってこない>>

伝わってこないのではなく、人のレスをちゃんと読んでいないだけですよ。
あなたがジャンヌダルクのことをいきなり出してきたのです。【正しき裁判】と言って。
私はそれに対して、いろいろな史実を挙げて、裁判が正当でないことを指摘しましたよね?それも読んでいないのですか?
あきれた人ですね。


あなたも和弘という人もそうですが、結局自分の抽象論を他人のスレッドでまくし立てていい気分になりたいだけの人なのではないですか?
こちらが具体的に質問したものには一切答えられないのも二人共通です。


とりあえず、私はジャンヌダルクの裁判に関しては理由を複数個挙げて、それが正当でないことを指摘しています。過去投稿を見ればわかります。
あなたがジャンヌダルクを知らない、または意見を持たないのであれば、あなたの意見を言う必要はありませんよ。
ただ、私の意見を先に言わないからだとか、変な言いがかりをするのだけはやめてくださいね。
私は既に意見を言っていますから。

 

~~~~~~

 

>春間さんは、ジャンヌダルクのことを戦犯だと言っているんじゃないですか。

そうなんですよね。春間氏のあの文からすると、そして後の投稿からすると、春間氏はジャンヌ・ダルクを戦争の煽動者と考えていますよね。
春間氏本人は否定しますが。
もう少し素直になってほしいですね。

 

~~~~~~

 

そうですね。
春間氏のいう『ジャンヌ・ダルクが民衆を煽動した』事実はないですね。
ジャンヌ・ダルクは兵士を鼓舞したのです。
イングランドという他国に占領されていたフランスを解放するために。

ジャンヌ・ダルク復権裁判の記録は中世では稀な非常に詳細で正確な資料と言われています。
それを読むと、ジャンヌ・ダルクの処刑裁判を正当化するのは、信じられないほどにものを知らない人だな、と思います。

 

~~~~~~

 

あなたが最初にジャンヌ・ダルクの話を持ち出したのです。

しかし、あなたはごく表面的にしか、ジャンヌ・ダルクのことを知りません。

あなたはジャンヌ・ダルクの映画を1作も見てないでしょう?
ジャンヌ・ダルク復権裁判の記録も1回も読んだことはないでしょう?

もし、ジャンヌ・ダルクのことをよく知っていて、あなたのような感想しか持てないような者は、私には軽蔑の念しか持てないですね。
はっきり言いますが、あなたはモノを知らなさすぎる。

 

 

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仏教についてのひとりごと 127

<<『十二支縁起説』は、最も整備された形のもので、おそらく後代における経典編纂の過程の中で、徐々に現在のような形になったものだと思われます。これに関してはいかがですか?>>

 

私は、宮元啓一氏が書いているように、成道時には無明を始めとする十二支縁起の原型はできていたと思っています。
その理由は、最古層のスッタニパータで、苦の原因として、無明・行・識・触・受・愛・取・生存という順番で記載されていることが挙げられます。
十二縁起そのままではないですが、苦の原因として無明が挙げられ、重要な項目についてはほぼ同じ形となっていることから、最初期から十二縁起の原型はあったものと見ています。
原始仏典には、識から始まる十支縁起や渇愛から始まる五支縁起など、短いものも多く出てきますが、それは短縮形であり、やはり無明を智慧によって滅ぼして縁の滅に至ったとありますので、最初が無明であるのは根本だと考えています。

 

 

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輪廻からの解脱が難しいからといって
歴史上の仏陀が説いたことを探求しないのはどうでしょうか。

仏陀の説いたことで無明を克服することが難しいのであれば
他の誰が説いたら簡単になるのでしょうか。

仏教徒であれば、まず、歴史上の仏陀が本当は何を説いたかを探求すべきではないですか。

世界の主である梵天が頼み込んだほどの真理ですから、探究しなければもったいないのではないですか。

 

 

~~~~~~

 

 

> ですから、大乗仏教も含めて仏教は多くの手立てをもって、真理に至らしめようとしているのでは?

 

基本的な問いですが、仏教の開祖は釈尊ですよね?
それなのに、なぜ、釈尊が説いた四諦十二縁起を実践しないのでしょうか?
不思議です。

 

 

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pipitさん
こんばんは。

ダーナヴァルガ(感興のことば)に
『四念処を楽しみ、またさとりを得るための七つのよすが(七覚支)を楽しみ』
『四神足と八つの部分よりなる道(八正道)を楽しむならば』
とわざわざ、
【四念処】【七覚支】【四神足】【八正道】の4つが挙げられています。

【八正道】【四念処】【七覚支】については、自分なりに納得できるようになって
特に【七覚支】は、意外と究極なのではないかとひそかに思ったりしてます。
仏陀は【四念処観】を一乗道としていますので、【四念処観】が極めて重要な法であることは確かですが。

これから残りの【四神足】の解明に取りかかりたいのですが
欲神足、心神足と欲・心という仏教では否定的なニュアンスの語が使われていて
面食らいます。
解明が非常に難しそうです。

pipitさんは、【四神足】についてはどんな解釈をされていますか?

 

 

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pipitさん、ありがとうございます。

《意欲主、精進主、心主、観主》の四主や
『神足』はiddhi-pAdaで『成就の基礎』という解釈をすると
とたんにわかりやすくなりますね。

そして、pipitさんの『この四主がめちゃ強力になった状態を『四神足』とよんでるかんじ』というのは素晴らしくよくわかる解釈です。

ただ、意欲主、精進主、観(智慧)主というのはぴったりきますが
いまいち、心citta主がぴったりきません。

心は四念処観で、身、受、心、法とある中で心無常と観じるものなので
その心=cittaを強力にするということがどういうことか、これから探求してみます。

とてもわかりやすい解釈、ありがとうございます。

 

 

~~~~~~

 

 

ケロッグさん、わかりました。
まだまだ先になるとは思いますが、本ができましたらこのスレッドで『本が完成しました』と書きますから
本の題名とネームが知りたい人はそう書き込んでいただければ、Yahoo!メールか何かで題名とネームをお知らせします。(Yahoo!メールのやり方はよく知りませんがその時は何とか送ります)
しまとりさんとは約束しているのでそうしようと思っていましたが。(もちろん、その時になったら興味をなくされているかもしれませんのであらためて言っていただいたほうがいいですね)

 

 

~~~~~~

 

<<この事(この言及 こそ)は 観念論ではないとどう明かしますか ?>>

話し合うためには言葉の定義がそれぞれで違っていては話し合いは成り立ちませんね。
ですから、私は『観念論』という言葉を『頭の中で組み立てた考え』という意味で使っていますよ、と最初に自分の定義を述べただけです。投稿してきた相手の人が、『観念論はカントが言う意味なのかどうか』と書いてきたので、私が使った『観念論』という言葉を私がどういう意味で使ったかをレスしただけです。


<<仏教でどうあろうと、わたしには関係がないのではありませんか ?>>

言っている意味が分かりません。
私は『表象作用は、仏教では五蘊(色・受・想・行・識)の想です。つまり非我であるものです。』と言っただけです。
仏陀が原始仏典でそう言っていますよね?違いますか?その書いてあることを述べただけですよ。


<<言葉を発する あなたが 非我 なら 言葉を受ける わたしも 非我 に 住処を置かざるを得ない そうでなければ あなたは  「 有 」 我  です これこそ非我でなくて どうしますか ?>>
<<我が非我 ではないから 非我が説かれます  我は 我か 非我 か  はっきりさせてください>>

これも言っている意味が全く分かりません。
五蘊(色・受・想・行・識)が『わたし』ではない、つまり非我であることは、仏陀が繰り返し言っていることです。これは認めますか?認めませんか?
そして、私は、五蘊の集まりを『わたし』だと強烈に思い込んでいる事実があります。
五蘊の集まりがあり、名前があります。
それを『わたし』と思い込んでいます。あなたもそうでしょう?そうでないと生活できないですね?
自分の名前を呼ばれて『わたしではない』と思っていたら日常生活が成り立たないですね?
仏陀五蘊は非我というけど、私は『わたし』だと深く思い込んでいるわけです。
あなたは違うのですか?


<<部品 こそ 「我」です 「我」は常に部品に投影されて「我」を形成する  「我」こそ実体です (我が非我なら 非我は実体です)>>

『「我」こそ実体です』というのは、あなたの考えですか?
あなたの言っている言葉の意味が全く分かりません。

 

ところで、いつまで、そのような言葉遊びをするつもりですか?
その言葉遊びはあなたに何をもたらせましたか?

 

 

~~~~~~~

 

 

<<自我が あなたに あって あなたは 記述していますか あなたに自我はないのですか>>

あなたはさっきの私の投稿を読んでいないのですか?
仏陀五蘊は非我というけど、私は『わたし』だと深く思い込んでいるわけです。』と書いているのが分かりませんか。
『わたし』だと深く思い込んでいるのが自我です。

 

~~~~~~~

 

 

あなたは私が書いたことを理解していない。
私はそもそも仏教で『諸法無我』と言われているのは実は『諸法非我』だと思っているのです。
また、龍樹が言ったような、『すべての存在は縁起によって成り立っているから、自性がない、空である、無我である、実体がない』というのは歴史上の仏陀が言ったことではないと批判しているのです。
その上で
『すべての存在は縁起によって生じているから自性がない、実体がない、空である、無我である、つまり諸法無我だ、という龍樹から始まった理論をどんなに振りかざしても、その観念自体は表象=五蘊の中の想 にしか過ぎず、自我を構成するだけです。諸法無我を声高に叫んでいる人に限って、我塊や我執が非常に強固であったりします。』
と書いたのです。

つまり、龍樹仏教を振りかざして、無我だ、空だ、どんなものも実体がない、と声高に言っている人が果たして自我がないだろうか?と言っているのですよ。

投稿するならちゃんと読んでほしいものです。

 

~~~~~~~

 

 

<<それでもわたしの記述が悪いとするならどこが悪くて、分からないかを明らかにする気はありますか ?>>

では、一例として、あなたの次の文章を見てみましょう。
<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>

わたしには、この文章を何度読んでも意味が分からないのです。
<<わたしの無明を晴らすことがあなたにどう関係するかで、仏説も成り立つ>>
この文章に何の意味があるのでしょうか?
春間氏の無明を晴らす(無明を晴らすという言葉は私は使いませんので、無明を滅すると理解します)ことは、春間氏自身の問題であり、私には何の関係もありません。
仮にどのように関係したとしても、それと関係なく、仏説は仏説ですよ。

まずは、<<あなたの無明を 晴らすことではなく  わたしの無明を 晴らすことが あなたにどう関係するかで  仏説も成り立ちます>>はどういう意味なのですか?

 

~~~~~~

 

あなたと和弘氏は、こちらの質問には一切答えず
ただの自分独自の言葉遊び、観念の遊びでごまかすだけなので
会話が成り立たないのです。

今回も私はあなたに真摯に質問をしました。
しかし、どうしても正面から答えませんね。

童子のたわむれに  砂をあつめて仏塔とせる』のは、砂浜か公園の砂場でやってください。
砂で仏塔をつくっても皆仏道を成じるということですから。

 

~~~~~~

 

<<これは、春間氏が「大乗仏教は利他であるから、ショーシャンクさんの自分の無明を晴らす前に、春間氏の無明を晴らして春間氏を仏の極楽を渡してみなさい。それが、菩薩業、菩薩行だ」と言っているのでは、ないでしょうか?>>

 

なるほど。そうであれば、春間氏本人の口からそう説明すればいいと思いますね。
ただ、自分の無明を晴らせない者が、他人の無明を晴らせるわけないですね。
私は強固な自我があると言っているのですが。
それに、春間氏と和弘氏の思考パターンでは、自分はすでに悟っていると思っていて、悟っている自分がこの掲示板で他人の無明を取り除こうと菩薩業に邁進しているみたいなので、まさか春間氏が自分の無明を晴らしてみなさいとは言わないでしょうね(笑)

和弘氏も『衆生を開示悟入させるために掲示板に投稿している』らしいです。『開示悟入』は仏の出世の本懐で、衆生をして仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめることを言います。仏がそのためにこの世に生まれた一大目的です。

このカテゴリーには菩薩たちがいっぱい跋扈してますから凄いですね。

 

 

~~~~~~

 

 

あなたはさかんに『唯仏与仏 乃能究尽』という言葉を使い、和弘氏は『開示悟入』という言葉を使います。
どちらも、自分が仏であるという強い思いがなければ使えない言葉です。

私が『このカテゴリーには菩薩たちがいっぱい跋扈してますから凄いですね。』と言ったときの『菩薩』は自称、菩薩です。でないと、『跋扈』なんて言葉は使いません(笑)

しかし、それにしても、龍樹や道元に心酔しているところなど春間氏と和弘氏は共通点が多いですね。
お互いに研鑽し合ったらいいのではないでしょうか。

私は龍樹にも道元にも興味はないので、興味分野が共通のお二人で切磋琢磨しあったらどうですか?

 

 

~~~~~~

 

<<あなたにだけ は 自我(の行使)は 許されているのですか ?>>

またまた意味のないことを。
わたしにも強固な自我が厳然としてあり、他の人にも自我があります。
許されるも何も、みんな自我があって生活してますね。

前に書いたのは、『諸法無我』と声高に主張する人は、本当に自我がないのですか?と問うたのです。
無我だ、空だ、と表象で考えても『わたしという中心』は厳然としてありますね?
そのことを言ったのです。
中心を消滅させるためには、表象では無理なのではないかということです。

 

 

~~~~~~

 

 

確かに、龍樹の後世への影響は凄まじく、龍樹独自の理論(縁起から無自性、空、無我を導いたこと)が仏教の根本教義となっていきました。
これにより、仏陀が説いた縁起の法などは龍樹の理論に取って替わられてしまいました。

仏陀は言いました。
『私の正しい法は500年しか続かない』
『贋金が現れた時に本物が滅びる。贋金が現れるまでは滅びない。』

 

 

~~~~~~~

 

<<自称ではない 菩薩 と 自称菩薩   と では どこが  どのように 違いますか ? どちらが 正しき 菩薩であるか が 確立できなければ確立する根拠が 菩薩としての 道になければ あなたの根拠は どこからきていますか>>

 

日本語では、本当かどうかわからないけど本人だけが言っている、ということを『自称』と言うのです。
それもわかりませんか?

あなたも和弘氏も、仏や菩薩かどうかはわかりませんが、自分では『唯仏与仏』とか『開示悟入』と言っているので、本人は自分が仏か菩薩だと思っている、ということで『自称』です。

 

 

~~~~~~

 

ちゃんと文章読んで投稿してますか?

『本当かどうかわからないけど本人だけが言っている』『あなたも和弘氏も、仏や菩薩かどうかはわかりませんが』
と書いているでしょう?

私は判断はしてないのですよ。
あなたが菩薩か菩薩でないか、という判断もしてないし、わからない、と言っています。
正直、私にとって、あなたが菩薩でもそうでなくてもどうでもいい話です。
自分の判断無しに、ただ、本人が言っていることを『自称』と言うのです。

ちょっと、もう馬鹿馬鹿しくて時間がもったいないので、言葉遊びはやめてほしいですね。
和弘氏と他のスレで言葉遊びしていたらいいではないですか。

それでは忙しいので、これで。

 

~~~~~~

 

 

根拠はすでに書いています。
あなたは相手にレスするとき『唯仏与仏 乃能究尽』という言葉を頻繁に使って諭しています。
和弘氏は自分が投稿するのは『開示悟入』のためと書いています。
『唯仏与仏 乃能究尽』も『開示悟入』も全面的に仏の立場に立って初めて言える言葉です。

いくら表面上、『自分は仏や菩薩とは自称していない』と言っても、あなたと和弘氏の投稿はすべて『自分は悟っていて衆生を教え導くために投稿している』という意識から出ているのです。
ですから、間違いの指摘も真摯に受け止めることはできないのですよ。
自分は悟っていて、他の人はすべて悟っていない、という大前提があるからです。
自分がまだまだ何もわかっていない、という意識があれば、他人が投稿したこともちゃんと受け止めてそれへの真摯な返信をするでしょう。
それがあなた方2人は全くできていないのです。

 

 

~~~~~~

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 126

<<自我に実体は有るのだろうか?>>

 

自我に実体などありません。
『私』とは、五官の経験の記憶の束であり、思考や観念を寄せ集めたものにしか過ぎず
それを『私』という中心だと思っているだけです。

ただ、その思い込みは極めて強固なもので、その中心を消滅させるには、自我の成り立ちを洞察する以外にはないというのが私の結論です。

すべての存在は縁起によって生じているから自性がない、実体がない、空である、無我である、つまり諸法無我だ、という龍樹から始まった理論をどんなに振りかざしても、その観念自体は表象=五蘊の中の想 にしか過ぎず、自我を構成するだけです。

諸法無我を声高に叫んでいる人に限って、我塊や我執が非常に強固であったりします。

 

 

~~~~~~

 

四無量心が原始仏典で説かれているところということでしょうか。

慈悲喜捨の四無量心がそのまま説かれている原始仏典は比較的少なく
慈無量心だけ説かれていることが多いですが、慈悲喜捨すべてが説かれる原始仏典もあります。


例えば
『中阿含経』巻廿一 長壽王品「説処経」第十五
『阿難よ、私はおまえのために四無量について説こう。比丘は心に慈しみを具え、一方(の生けるもの全て)に遍く満すことを成しつつ遊行する。このように、二方・三方・四方・四維・上下のあらゆる方向(の生けるもの全て)に遍く(慈心を)廻らす。心に慈を具え、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈しみを)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。同様に、悲・喜もまた、捨とを具えて、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈心を)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。阿難よ、この四無量について、汝は諸々の出家して間もない比丘達に以上のように説教するべきである。もし諸々の出家して間もない比丘たちの為に、この四無量を説教したならば、すなわち安穏を得、力を得、楽を得て。身心に悩み煩いないであろう、終生これを行うことは崇高な行いである、と。』


スッタニパータでは慈経と言われる第一章の八(慈しみ)で慈無量心が説かれます。
また、第一章の三にある73では『慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。』とあり
慈悲喜捨すべてと解脱が同格に語られています。

 

 

~~~~~~

 

四無量心が原始仏典に出てきている箇所としては、もっと適切なものとして
四無量心による無量心解脱を説いた、『中部経典第43経 大有明経』があります。

『友よ、ここに比丘が慈愛のこもったこころを一つの方向に広げて住みます。同じく第二の方向に、第三の方向に、第四の方向に、同じく上に、下に、横に、あらゆるところに、全体に、全世界に、慈愛のこもった、広く大きく無量で敵意のない怒りのないこころを広げて住みます。
悲しみのこもったこころを・・・・喜びのこもったこころを・・・・中庸なこころを・・・・』
とあります。
訳は、春秋社『原始仏典』中部経典Ⅱです。

律蔵大品に関してはいろいろ本がありますが、Amazonプライム会員のkindle読み放題で無料のものとして『大蔵経 律蔵・犍度部・大品1~24 アオキ靖訳』があって無料なのでおすすめです。

 

 

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<<「律蔵」を、なぜ、「最古の仏典」と位置づけられるのですか?>>

 

律蔵大品が、『仏伝』の中で最古のものということで、『最古の仏伝』と言いました。
仏伝には後世、脚色されたものが多く、前世譚なども創作されました。
その中で、『仏伝』つまり仏陀の生涯を記述したものとしては、最古なのが律蔵大品だろうと思っています。

『最古の仏典』は、『スッタニパータ』第四章第五章であることは定説ですので
最古のスッタニパータよりは古層ではないですが、仏伝としては最古という意味です。

 

 

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華厳宗の宗密が書いた『註華嚴法界觀門 』に釈尊が明けの明星を見て悟ったときに発した言葉として『歎曰。奇哉。我今普見一切衆生。具有如來智慧徳相。但以妄想執著。』というのがあります。

中国の華厳宗が禅になっていきましたから、この言葉が禅宗で広まったものと思われます。
明けの明星を見て悟ったというのも、『歎曰。奇哉。我今普見一切衆生。具有如來智慧徳相。但以妄想執著。』と言ったというのも、歴史上の事実ではありません。

実際は、初夜・中夜・後夜、つまり夜の3つの時間帯に、仏陀は十二縁起を観じて、『すべての疑いがなくなった』としたのです。

 

~~~~~~

 

 

<<「前世譚」というのは、「ジャータカ」のことでしょう?!そうだとしますと、第一に、「真理のことば・感興のことば」に良く引用されている「”重要な教え”が、多々、含まれている”貴重な仏典”」と言えませんか?>>

 

『ジャータカ』は、『散文と韻文とで構成され、紀元前3世紀ごろの古代インドで伝承されていた説話などが元になっており、そこに仏教的な内容が付加されて成立したものと考えられている。』とされていますように、古代インドの伝承説話がベースになって後世できたものですので、仏教の要素はあるにしても仏陀の歴史的事実を扱った純粋な仏伝とは言えないとは思います。仏教の教えを盛り込んだ説話という意味では貴重な仏典であるかもしれませんが、歴史上の仏陀が本当は何を言ったか、という視点では、まずは純粋な仏伝を見たほうがいいかもしれません。

 

 

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<<F漢文部分」を訳していただけましたら、幸い至極です。>>

華厳経における『一切衆生皆有如来智慧徳相 但以妄想執著而不能證得』は
『一切衆生は皆如来智慧・徳相を具えている。ただ妄想・執著によって証得することができない』ということだと思います。


<<出典は、「ウダーナである旨」記載され>>

私は、仏陀成道のシーンは、ウダーナではなく、律蔵大品によっています。

 

~~~~~~

 

律蔵大品には、菩提樹下での仏陀の悟りから、様々な人たちが弟子になる場面までが書かれています。
どの訳で読んでも(訳の上手下手はあるにしても)同じです。

あなたが持っているという『ブッダが考えたこと』という本にも、律蔵大品=マハーヴァッガの成道場面はほとんどすべて引用されていますよ。
第二章の五(成道の過程)からは特に律蔵大品=マハーヴァッガの成道場面が記載されています。

大蔵経 律蔵・犍度部・大品1~24 アオキ靖訳』の成道場面では
十二縁起を、無知⇒行い⇒意識⇒名と形⇒六の国⇒接触⇒渇き⇒執着⇒存在⇒出生⇒老い・死・絶望など と訳してます。

訳に若干の違いはあっても、原典は同じですから、十二縁起を順逆観じたことも当然同じです。

これでいいでしょうか。

 

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仏教についてのひとりごと 125

<<仏教で言われている「悟り」と、菩薩の「悟り」とは同じ意味なのでしょうか?>>

 

菩薩とは、本来は、悟るため、仏になるために努力している修行者を意味しています。
古くは、修行の身であった前世の仏陀のことを菩薩と呼んだりしています。
悟るために修行しているのですから菩薩に悟りはありません。悟ったら仏と言われるからです。
これが本来的な意味での菩薩です。
あくまでも仏の前段階の修行者にしか過ぎません。

ところが、大乗仏教では、法蔵菩薩四十八願を立ててそれが成就するまで仏とならないと誓ったとする経典などの影響があり、『いつでも仏になれる境地に至っているけれども、あえて仏とならないで菩薩としてとどまる』というものが菩薩とされるようになってきました。
自分が悟る前に、すべての衆生を悟りに導く、
自分が彼岸に渡る前に、すべての衆生を彼岸に渡す、
という人格を菩薩というようになりました。

これは、自分の悟りだけを追求する小乗仏教のアンチテーゼとして生まれた大乗仏教ならではの考えで、『自分の悟りだけを考えるのはエゴイスト』『大乗仏教は自分より先に他人の悟りを考える』としたのです。

まあ、こんな考えに従えば、歴史上の仏陀は、自分の悟りだけのために、妻も生まれたばかり息子も捨て、国王である父も捨て、家臣団も数多くの国民も捨てたのですから、史上まれにみるエゴイストとなってしまいます。
そのため、大乗仏教では釈尊衆生を救うために出家したということになっていますが、事実としては、自らの苦の消滅、悟りのためにすべてを捨てたのです。

『すべての衆生を救うために、なれるのに仏とならずに菩薩のまま衆生を彼岸に渡す』
『人をのみ 渡し渡して おのが身は岸に渡らぬ 渡し守かな』なんていう思想、『自分の悟りだけを考えるのはエゴイスト』なんていう思想は、真理からほど遠いものです。

本当に悟ったら『自分』『私という中心』はなくなるのであって『自分の悟り』などというものがあるわけではありません。
私という中心がなくなってはじめて無量なのですから、悟らないままで他人を彼岸に導こうというのはあり得ないことなのです。
迷ったものが人を導いたら迷路に入ってしまうだけです。
大乗仏教はあまりにも観念的になりすぎましたね。

 

 

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確かにそうかもしれませんね。
ただ、日本では『悟り』というのは一般語になっているくらいポピュラーな仏教語なので
逆に他の言葉で替えがきかない感じもありますね。

『悟りというのは日本だけの言葉だ』と言っている上座部仏教スマナサーラ
ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第7巻〉瞑想と悟りの分析』『小さな「悟り」を積み重ねる』という本を出していますし、共著も多い藤本晃という人も『悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』『悟りの階梯―テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』という本を出していますから
上座部仏教であってもやはり『悟り』という言葉は使ってしまうのでしょうね。

 

 

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あなたの前に、釈尊の示す『不死の門』が開かれたのなら素晴らしいことです。
『感謝の意を称して、これにて失礼いたします。』とのことですから、
別れに際し、禅の造詣が深いあなたに禅の公案をはなむけとさせていただきます。

長沙の『南泉遷化』です。

長沙因三聖令秀上座問師曰、南泉遷化向甚麼處去。
師曰、石頭作沙弥時参見六祖。
秀曰、不問石頭見六祖。南泉遷化向甚麼處去。
師曰、教伊尋思去。
秀曰、和尚雖有千尺寒松。且無抽條石筍。
師黙然。
秀曰、謝和尚答話。
師亦黙然。
秀回挙似三聖。
聖曰。若恁麼猶勝臨済七歩。然雖如此、得我更験看。
至明日三聖上問、承問和尚昨日答南泉遷化一則語。可謂光前絶後今古空聞。
師亦黙然。


長沙の黙然の境地にぜひ到達して、釈尊の『不死の門』に入られるように願っています。

 

 

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私が言っている『観念』というのは、『人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。表象。』のことです。
そして『観念論』と言っているのは『頭の中で組み立てた考え』『表象の組み合わせで出来た考え』のことです。

表象作用は、仏教では五蘊(色・受・想・行・識)の想です。
つまり非我であるものです。

また、四念処観の身・受・心・法の法です。
眼耳鼻舌身意の対象は色声香味触法ですが、その、意識の対象たる法です。


五蘊は非我であり、五蘊の一つ『想』=観念・表象をいかに積み上げても自我を構成するだけです。

さて、仏教者のほとんどすべてが、仏教とは無我の教えで、すべての存在は縁起によって生じているので自性がない、実体がない、空である、無我である、というのが仏教の根本だと思っています。
車は車輪やハンドルや様々な部品によって組み立てられているもので、車という実体はない、空である、車という名前だけのものである、と言います。

これを本気で考察したことがありますか?
そしてその結果自我がなくなり空になりましたか?

 

 

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<<例えば大乗仏教では慚愧が重視されていますが>>

そうですか。懺悔文を唱えることは知っていますが、大乗仏教で特に慚愧や懺悔が重要視されているようには見えませんでした。
具体的にはどのようなやり方でしているのでしょうか。

 

 

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仏教についてのひとりごと 124

<<「仏法の本義」って「ひと組ずつ」でしょう。最澄と徳一も“ひと組ずつ”です。
それを勝ち負けの論争すると、神に成り下がり仏道から落ちる。論争したのがまずかった。>>

 

あなたが拠り所にする龍樹なんかは、さかんに説一切有部などと論争に明け暮れましたよね。あなたの説では論争ばかりの龍樹は神なのですか?

 

<<私は車に「ジュンくん」と名前をつけて「ジュンくん今日もよろしく」と乗り込みます。南無車観世音菩薩です。また、朝店で、商品に「おはようございます」と挨拶します。
南無商品観世音菩薩です。>>

 

車や商品やエレベーターやエスカレーターに名前を付けて拝むのはあなたの自由ですが
肝心なのは対人間ですよね。
あなたの過去投稿を見てみましたら、あなたがさかんに言っている『有情に生かされ、非情に生かされている。一切は、「おかげ様の存在」という諸法無我でしょう。』というふうには全く見えません。

 

pipitさんが『『如是我聞』は『えーわんめーすたん、という音』だなぁ』と書いただけで
あなたは『精進の意味さえ分かっていませ能天気です。能天気の貴女のでいいのですよ』
『貴女には中道が分からないから「真剣さ」がない。正精進が分からないということです。
仏教の言葉に縛られないで、ありがままに生きて下さいな。 頭が悪くて能天気の貴女でいいのです。』
『貴女は、自分は善人だと思っている悪人です。内省しましょうね。』

なぜあなたは他人の全く悪意のない投稿にここまで口汚く罵らないといけないのですか?

あなたこそ、自分のなかのドロドロした強固な自我を洞察しなければいけない。
はっきり言って、あなたの攻撃性は普通ではないですよ。

とりさんや水月さんにも随分とひどい言葉で罵っていますね。

あなたに真摯に禅を修行しているあの人たちを罵る資格はないですよ。
あなたは、朝5分だけ数息観をするだけであとは禅の解説書を読んで分かった気になっている、禅の人たちから言えば最も馬鹿にされる『本で分かった気になっているだけ』の人です。
とりさんや水月さんの投稿には真摯さを感じますよ。

あなたのそのドロドロしたねちっこい攻撃性がなくなってから『すべてはお蔭様で生かされている』などと言ってくださいね。

 

 

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ちょっと時間がないので、今まであなたにしてきた質問で答えていただけなかったものばかりですので、ここで答えてくださいね。

①あなたがさかんに振り回す仏教というのはあなたの定義は何ですか?私の仏教の定義は、歴史上の仏陀が説いた教えのことです。
②もし、歴史上の仏陀と龍樹が違う考えだった場合でも、仏陀と全く違う考えをあなたは仏教と認めるのですか?
③大乗涅槃経の仏性は原語は、buddha-dhatu です。
dhatuは基体、本体という意味です。原語からすると、buddha-dhatu (仏性)は仏の基体という意味です。これに異論はありますか?
④あなたのいう識が毒というのは誰が説いているのですか?全くの間違いですね?
阿頼耶識は蔵識で、真妄の種子を蒔かれる場所ですから善悪はないですね?違いますか?
⑤九識も毒というのがあなたの大間違いであることが分かりませんか?
間違ったら謝って訂正するのが本当の仏教徒の態度ではないですか?

 

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<<その基体(実体)に対して、非を唱えて、非基体(諸法無我)を唱えたのが釈尊です。>>

だから、あなたがさかんに引用する『大乗涅槃経』を調べればわかりますよ。
『大乗涅槃経』に出てくる『仏性』は、buddha-dhatu です。
『すべての衆生はbuddha-dhatu を持っている。』
dhatuは『基体』と訳されます。
非基体を唱えたのが仏教であれば、『大乗涅槃経』は仏教ではないとあなたは言うのですか?
如来蔵思想は仏教ではないという学者もいますから、大乗涅槃経が仏教ではないとあなたが言ってもかまいませんよ。

ただ、大乗仏教の歴史を知れば、中期大乗以降かなり実体化しているのは確かですね。
初期大乗の般若経華厳経法華経にたいし
中期大乗の大乗涅槃経を中心とした如来蔵経典。
後期大乗の密教経典。
どんどん実体化はしてますね。

ほとんどの仏教学者は大乗仏教ヒンドゥー教の大きな影響を認めています。
大乗仏教ヒンドゥー教の影響を認めない仏教学者っていますか?
原始仏教にもバラモン教ジャイナ教の大きな影響があります。

その影響を否定し排除してきたのが後世の凡庸な仏教者たちです。
しかし、古層の仏典になればなるほどバラモン教ジャイナ教の用語が肯定的に数多く使われています。

原始仏教におけるジャイナ教の影響、大乗仏教におけるヒンドゥー教の影響は、もの凄く大きいですよ。
あなたは一切認めたくないでしょうけど。

 

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別に、大乗仏教に興味があるわけではなく、唯識論にも九識論にも関心はないですが
あなたがあまりにも大乗仏教唯識論、九識論もデタラメを私のスレッドで垂れ流しているので見ていられなくなっただけですよ。
私は大乗仏教の限界を知って、歴史上の仏陀の教えを探求しているので、当然、大乗仏教は知っています。ですから、あなたが大乗仏教についてデタラメを披露し続けていると言いたくなってしまうのですよ。

仏教を全く知らない人があなたの垂れ流すデタラメを大乗仏教と思い込むのはちょっとつらいですからね。
それにしても、私のスレ以外で、特にあなた自身のスレッドでどんなトンデモ説を垂れ流そうが全くどうでもいいので、そうしてください。

私のスレッドは、やはりデタラメは禁止したいですね(笑)

 

 

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私は創価学会も大嫌いだし、あなたが会員の真如苑も嫌いですよ。
いかなる宗教団体も精神の牢獄だと思っていますから
ほんの少しでも関りになることはないですね。
新興、既成問わず好きな団体は一つもありません。

あなたの投稿を見ていて強く感じるのは、自分で書いていることと実際にやっていることが全く違うということです。
あなたは龍樹の考えによって、言葉によるレッテル貼りを嫌ってましたよね。
しかし、実際のあなたは、あなたの『九識も毒だ』というトンデモ説が間違いだと指摘しただけで
『九識を実体化するということは創価学会だ』などと極めて杜撰で幼稚なレッテル貼りばかりしています。
書いていることと全く違う行動ばかりなのです。

私は大乗仏教に見切りをつけて原始仏典を探求しているのですから
別に唯識論も九識論もどうでもいいのです。
ただ、仏教史を客観的に俯瞰して観ると、大乗仏教になって、初期から中期、後期となるに従ってかなり実体化の方向に行っているのは確かのようです。
私は大乗仏教を信じているわけではないので、大乗仏教史が実体化の方に行こうがどうしようがどうでもいいのですが、
縁起や空の思想から、如来蔵思想が仏教でないと主張する学者もいますから
仏性、真如、法身を実体として捉える見方もかなり多いのでしょう。

私は、仏性を実体として捉えることも仏性に実体がないと断言することにも反対です。
仏陀が言ったように、涅槃や如来に実体があるか無いかの論争など、解脱に、涅槃に赴かないからです。
あなたのような頑迷で観念的な人たちによって、『仏教は実体がないことを説く教え』という固定観念で語られてきましたが、それが仏教がどこにも行き着かない観念のお遊びになった原因です。

五蘊や自我が空であり実体がないのは仏陀も言っています。
一切の形成されたものは空であると言っています。
そして、形成されざるものは無記です。
これが仏陀の本当の教えです。

 

 

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また、答えられない質問はすべてスルーですか?(笑)

このスレに書き込むのであれば、きちんと聞かれたことくらいは逃げないで答えてくださいね。

①あなたがさかんに振りかざす仏教というのは何ですか?私の仏教の定義は、歴史上の仏陀が説いた教えのことです。あなたの仏教の定義を教えてください。

②歴史上の仏陀と全く違う考え、正反対の考えでも、仏教と言えますか?

③大乗涅槃経の仏性は原語は、buddha-dhatu です。
dhatuは基体、本体という意味です。原語からすると、buddha-dhatu (仏性)は仏の基体という意味です。これに異論はありますか?

阿頼耶識が毒とあなたは言いましたが、全くの間違いですね?
阿頼耶識は蔵識で、真妄の種子を蒔かれる場所ですから阿頼耶識自体には善悪はありません。違いますか?

⑤九識も毒というのがあなたの考えですが、阿摩羅識は清浄識です。間違いですね?

⑥あなたは『自分は仏教徒ではない』と書いたことがありますね。しかし、さかんに『仏教とはこうだ』『それは仏教ではない』と仏教にこだわっていますね。どちらが本当なのですか?

⑦あなたは『おかげ様の自己を自覚する』『縁起によって無数のものに生かされている。ありがたい。』が仏教の本質だと信じ込んでいるようですが
歴史上の仏陀が『縁起によって無数のものに生かされている。ありがたい。ありがたい。』などと言ったことは一度もありません。あるのであれば、典拠を示してください。
あなたが仏教と言っているものは日本独自の通俗仏教であって仏陀が説いたこととは全く関係ありません。むしろ、仏陀が説いたこととは真逆です。違いますか?

⑧あなたはさかんに『すべてに実体がない』のが仏教だと言います。
しかし、仏陀は、如来が死後も存続するかどうか、霊魂が存続するかどうか、世界が永遠か、無限か、このようなものはすべて無記としました。
そのような形而上の概念を弄ぶことを禁止しました。
『一切の形成されたもの』『五蘊の集まり』『現象』『自我』は当然、空であり、実体がありません。
しかし、形成されざるもの=涅槃 そして涅槃に至った如来に実体があるか実体がないかは仏陀は無記としました。
如来についてあなたのように実体がないと断言するのも、如来に実体があると断言するのも、仏陀の教えからすれば大間違いです。違いますか?

 

 

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<<枯れ木も山の賑わいくらいに思っておいた方が良いのかも知れませんね。しかし、何を聞いても、押し黙って答えが返ってこないのは解せませんね。>>

しかし、あまりにも程度が酷いですね。
他人のスレッドに、13連続投稿ですよ。
自分の投稿で埋め尽くす気のようです(笑)

あきれますね・・・

 

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仏教についてのひとりごと 123

<<無常と常住の対立和合したところの常。(断常中道)苦と楽の対立を和合したところの楽。(苦楽中道)我と無我の対立を和合したところの我。(有無中道)浄と不浄の対立を和合したところの浄。(浄穢中道)>>

仏陀はこう言っています。
『現れている以上、無とは言えない。
滅するものである以上、有とは言えない。』

非常にわかりやすいですね。

仏陀の言う『空』とは、『生じたものは必ず滅する。泡のようなものだ。』という意味で
誰が聞いても真実だと理解できるものです。

決して、『空とは有と無の二元対立を超越したもの』などという観念論ではないのです。

 

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卑弥呼さん、ありがとうございます。

この和弘という人は、他人のスレッドに自説を連続投稿するだけで
こちらの質問には正面から答えないので困っています。

せめて、ちゃんと質問や指摘には答える常識があれば対話が成り立つのですが
他人のスレも自説を披露する場としか考えていないのでしょう。
その自己中心性は、自ら主張している無我とは正反対なのに気がついていないようです。

 

 

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<<自分の思い通りにはならないのが苦諦でしょう。苦諦を覚っていただきたい。>>

ということは、あなたは他人に苦を与えると認識してわざと苦を与えているということですね。
無差別の殺傷犯と変わりないですね。
その自分の心の中のドロドロしたものを洞察していかないとあなたは悪い方向に行っていると思いますよ。


<<戦う只中に真理があります。戦いながら調和するものでしょう。>>

だんだん、言っていることが危ない人のようになってきていますね。
仏教の基本、仏陀の基本は「戦うな」ですけどね。
あなたの思想は危ないですよ。

 

 

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<<「平和」だけを取捨することを偏見といいまして、偏りは逆に危険なのです。>>

 

全くの間違いですね。
あなたは観念論の迷路に入り込んでいて、自らの心がドロドロになってしかもズタズタに引き裂かれていますね。

スッタニパータ
275 もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣のごとくであるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚れを増す。

276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行者は、ブッダの説きたもうた理法を、説明されても理解しない。

277 かれは無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。

 

 

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あなたは、自分のドグマを他人のスレで披露したいという自己中心的な欲望に駆られているだけなので、自分が答えられないもの、都合の悪いものはすべて無視するのです。
自分が答えられる箇所、得意な箇所だけには勢い込んで返答するのです。

これは求道の基本的な精神ではないということです。

あなたが答えられないのは、ただ仏教学者の解説書の中から自分が気に入ったことを切り貼りして自説にしているだけだからです。
ブッダがどう言ったのか、は調べようともしないし、典拠もあやふやなものばかりです。

本当に仏陀の教えに触れたいのであれば、仏陀の言葉の理解からです。
それなしに、釈尊の精神を直接体験するなどというのは、オウムのような怪しげな者たちがいう危ない考えです。

 

 

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<<「自他不二とはこういうことだ!」と言ってのけた方がいた。>>
<<人間の分別で自他不二という、対立する者の和合ができるわけはないのである。
それができると思うのは妄想である。その方の言ってのけたことも妄想である。>>

 

いや。卑弥呼さんの言われたことは正しいですよ。
あなたが本当に自他不二の境地にいるのであれば、他人が迷惑がっていること、他人が苦痛と思っていることはわざわざできない、ということを言われているのです。

あなたが、いくら、自分は釈尊の無我を直接経験した、自他不二になったと言ったところで
あなたが自分の止められない承認欲求・我執から投稿し続けていることがみんなからは見え見えなのです。
裸の王様は恥ずかしいので、そろそろやめて、私のように自分のスレッドだけに細々と書き込めばいいのではないですか。

 

 

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<<仏陀を真剣に考え抜いていけば人間の思惟の限界にいたり>>

今までの仏教学者の仏陀解説書を読んだだけで「直接経験」した気になっているのがあなたですから
仏陀を真剣に考え抜いたことなどないでしょうね。

あなたは、「仏陀を考え抜いたふりをすること」はやめたほうがいい。
あなたが行なっているのは、いろいろな遍歴の末に龍樹の解説書を読んで感激し
龍樹の思想を基に、原始仏典から「二元対立を超越するような文言」を目を皿にして探し求め
無理矢理、「仏陀の言っていることと龍樹の言っていることは同じ、不二中道だ」と結論付けたことだけです。

それは何ら「歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったか」という探求ではなく
最初から龍樹の哲学という結論があって、その観念を強めるためだけにスッタニパータなどの古層の仏典を読んだに過ぎません。

それをあなたは『釈尊の直接経験』と言っているのです。

あなたには最初から結論があるので、対話して修正することもしたくないのです。

 

 

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<<サーンキヤ派・ヴァイシェシカ派・順世派・ジャイナ教などあらゆる外道すなわち仏教以外の教えがひとしく仏への道となり得ることを説いている。これらはいずれも大乗仏教の起こったころインドで行われていた教派である。空の肯定の意味を徹底的に考えれば、そうならざるを得ないであろう。>>

 

それは素晴らしいことですよ。
それでは、バラモン教もそれが発展したヒンドゥー教も、仏の道と、あなたは考えているのですね?
あなたはいつも、バラモン教ヒンドゥー教を外道と貶していたのですが、そうではなく、ヒンドゥー教も解脱の道になり得るということですね?

 

 

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<<間違ったことを放って置いたら、私のようなおバカさんは、何でも本気にするし、間違った解釈が身について仕舞います。ソレを未然に食い止めようとする人が居ても良いじゃあありませんか。>>

その通りです。
もし、誰かの書いていることが間違いだと思っていて、その間違いの指摘をするのはいいと思いますよ。
和弘という人は、このスレに『スッタニパータ』や『大乗涅槃経』の自分の解釈を書いてきました。
それに対し、私は『スッタニパータ』や『大乗涅槃経』の典拠を示して、和弘氏の解釈の間違いをひとつひとつ指摘していきました。
もし、私のその指摘が間違いと思うのであれば、それに対し、ちゃんと典拠を示してその間違いを指摘してくれれば、どちらが正しいか間違いかが、このスレを読む人にもはっきりしますので
それは私も望むところです。
しかし、和弘という人は、私の指摘に対して一度も答えてくれませんし、その指摘と関係のない自説をまた貼り続けるだけなのです。
私は、原典を探求してますので、和弘という人の主張の間違いの点がよくわかりますし、それを何十となく指摘し続けていますが、それについての意見は一切してきません。
それでは対話は成り立ちませんし、あなたのいうようにどちらが間違った解釈なのかがわかりません。
他人のスレッドに自分の主張を大量に貼り続けるのであれば、私から原典を示しての間違いの指摘があった場合は真摯に説明するべきでしょう。
それを全くしないで、ただ自説を張り続けるのでは迷惑投稿以外ではなくなります。

 

 

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<<和さんばかりでなく、私までショーシャンク様には不愉快な思いをお掛けし、申し訳ありません。>>
<<「何が言いたくて何を訴えているのかな?」と言う姿勢で臨んで頂けたら少しは問題解決の方向へと向かうのではないかと思います。>>
<<また、分らないこと等ありましたらお教え頂きたく、ココを訪れるかも知れませんが、よろしくお願い致します。>>

 

和弘氏が勉強熱心で読書家であることは誰もが認めていると思います。大乗仏教に詳しいですので、ぜひあなたも和弘氏のスレッドで勉強されたらいいのではないかと思います。

私がこのスレッドを立てたのは、『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか』を探求するためです。
それには、いったん今までの仏教理解をすべて白紙にして、仏陀の肉声に近いものを読んでいくことから始めようと思ったのです。
仏教の全否定から入りましたので、仏教をあまり知らない人にはこのスレは全く役に立たないと思います。
今まで、仏教を深く探求してきて、どうしても今までの仏教では自分が変わらない、仏陀は本当は何を言ったのだろうかというところまで行った人のためと考えてください。
ですから、仏教をあまり知らない人には、他の大乗仏教に詳しい人に聞かれることをお薦めしています。

そして、仏教の全否定から白紙の状態で仏陀の肉声を聞こうとしたのはよかったと思います。
わたしなりに納得がいきましたし、あとは自費出版を書いて残せば私の人生は自己満足で終われるのです。
ですから、このスレもすでに必要ではありません。
気の向いたときに気の向いたことを書くようにしたいと思っています。
ヤフー掲示板は悪意のあるアラシには非常に脆弱で防御できません。ですから、数多くの優良なスレッドが閉鎖していきました。
やはりTwitterやブログに行った方がいいかもしれないとは考えています。
その前に自費出版を何としても残したいとは思っていますが。
読んでくれる人が生前は一人もいなくても私の死後にたまたま読んだ人が少しでもプラスになれば生きてきた甲斐があるというもので完全な自己満足です。

もし、あなたが和弘氏に恩義を感じておられるのであれば、和弘氏のスレッドに頻繁に投稿して盛り上げてあげるのが最もいいと思います。
親切に教えてくれるはずです。

 

 

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pipitさん、こんにちは。
ありがとうございます。

<<【忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は〈道の人〉ではない。】>>

その通りですね。

今月、オウム真理教事件の死刑囚が全員刑を執行されましたね。
哲学や宗教などの精神世界に関心のある人なら避けて通れないテーマかもしれませんので
いろいろ考えることがありました。
日本のトップともいえるくらい頭のいい人たちがなぜ大量殺人までしてしまったのか、です。
あの頃、日本の偏差値トップの東大医学部にも1学年に必ず1人以上はオウム真理教の信者がいたと言います。

彼らはのめり込むまでに引き返すことができなかったのか、あるいはどうすれば引き返すことができたのか、をいま考えている最中です。

一つ確実に言えることは、口で言うことと実際に行なっていることが違う人は、それが分かった時点で絶対に信用してはいけない、ということです。
麻原は信者には愛欲を断て、と強要していながら、自分は100人もの愛人がいたと言います。
もちろん、理屈は何とでもつけられるのです。少し精神世界をかじった人なら、他の学問と違いファジーな世界ですから、悟った人は煩悩があるように見えてもそれに捉われていないからいいのだ、とか、わざわざ慈愛のために自分のエネルギーを分け与えるとか、馬鹿みたいな理屈はいくらでもつけられます。
しかし、根本の根本、自分が実践してないものを他人に言う人間は信用してはいけないということだけは最低限、そうですね。

それだけでも心に留めておけば、あのように優秀な人たちが大量殺人などにまで至る前に引き返せたのではないかと思います。

口ではいくらでも綺麗ごとは言えますが、『他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は〈道の人〉ではない。』と仏陀が言われたように、
いくら口先で慈悲だとか慈愛だとか言っても、他人を害したり殺したりするものは到底、道の人ではないということでしょうね。
私も深く肝に銘じなければいけない言葉です。

 

 

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卑弥呼さん、ありがとうございます。

<<和弘さんの考えをショーシャンクさんのトピに書き連ねるのは仏心というよりも悪行になるかもしれません。阿修羅だとか戦いだとか遊びとか言ってますが、和弘さんはこの世で悪行を積んでいるのだとしたら、遊びでは済まされませんね。>>

この卑弥呼さんの投稿に対して、和弘という人はこう言っています。
『『法華経』は絶対肯定の世界ですね。しかし、人々をその絶対肯定の「一乗の菩薩道」に導く厳しさもある。導く方向性が違うとしても、SANさんがしている広宣流布ですよ。
開示悟入。私もそんなことで、悪行三昧と言われています。』

徐々に和弘という人の本音が出てきましたね。
自分の行為は【開示悟入】だそうです。
これには本当に驚きました。
私には、自分の行為を開示悟入などとは絶対に言えないですし言えるわけがないです。

【開示悟入】とは、法華経に出てくる【諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。】という経文のことです。

釈尊などの仏が、この世に出現する本懐、一大目的のことです。

衆生に、仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめん、というのは仏にしかできず
釈尊の出世の本懐であるのですが、和弘という人は、自分が掲示板に自説を大量投稿するのは、仏の本懐である開示悟入だと言っているのです。

だんだん、和弘という人の本音が出てきました。
自分を仏と同じ悟りに達していると思い込んでいるようです。
そう考えると、投稿の間違いの指摘にも全く答えない理由が分かりました。
この掲示板で歴史上の仏陀は本当には何を言ったのかを探求しようという気はなく
ただ、「仏と同じ悟りを得ている自分」の高説を大量に貼り続けることで
自分以外の迷いの衆生を仏知見に【開示悟入】させようとしているのだ、ということです。

最初から、教えてやる、救ってやる、悟らしてやるという立場で臨んでいますから、対話が成り立つはずもなく、自説の間違いをいくら指摘されても全く無視するはずです。

これが、和弘という人の本音でした。

 

 

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あなたの投稿を見ると、いろいろな意味で危うさを感じます。
まずは、自分の勤務先名などの個人情報は書かない方がいいですよ。
あなたは、他人が自分の個人情報を云々すると言いますが、すべて自分のことを語りたいというあなたの欲望、衝動から積極的に自らのことをアピールしている結果です。
あなたが自分語りをしてきたために、古くからいる人はみんなあなたの個人情報を知っているのです。
あなたが語らなければ知りようがありません。

契約更新になったことは祝したいですが、そのやりとりを見ても、ちょっと危うさを感じます。
あなたは日常生活でかなりクレーマーに近いことをしてませんか?
自分が接客を一生懸命している自負が人一倍あるので、それをしていない人を許せないのではないですか?

クレームをつけたい自分、説教をしたくてたまらない自分、自分語りしたくてたまらない自分、を一度きちんと洞察した方がいいですよ。

それがどこから来るか、です。

 

 

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ちょっと、どんどん酷くなっているので一言。

大乗仏教にしても唯識論にしても九識論にしてもこんなに間違いだらけを並べ立てるのはいい加減やめたほうがいい。
対話もせずに自分のドグマを一方的に披露するだけなら自分のスレでしてください。
それが大人というものです。

<<識は毒ですが、その毒を〈自性清浄心〉という薬に変えることができるというのが、如来蔵思想、すなわち〈仏性〉です。>>
阿頼耶識でさえ、『毒』ではないですよ。真妄どちらの種子も蒔かれますから阿頼耶識自体は善悪どちらにも属しません。
ですから、阿頼耶識も『毒』ではなく、ましてや阿摩羅識は清浄識です。

<<阿頼耶識が大円鏡智という仏智に変わるように、九識(阿摩羅識)も修行によって智慧に変えこそ仏智でしょう。>>
<<「九識は唱題という行によって仏性に変わる」のではないのでしょうか。>>

これも全く違います。
九識こそ仏性です。仏の基体です。
九識が唱題という行によって仏性に変わるのではなく、仏性である九識が唱題によって呼び覚まされるのです。隠れていた本質が輝いてくるというのが九識論です。

<<九識という毒を、仏の行のよって薬に変える>>

よく、ここまで唯識論、九識論についてデタラメが書けますね。
デタラメは自分のスレッドにだけ書いてくださいね。
<<九識という毒>>、よくそんなことが書けますね。
これはさすがにどんな馬鹿な仏教学者でも言わないでしょうね。
あなたの勝手なドグマです。

 

~~~~~~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏教についてのひとりごと 122

「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」がなぜ不可能なのですか?
たぶん、宮沢賢治はデクノボーとか役立たずとか言われていたことはあると思いますよ。

学校の先生を辞めてから農業指導の道を選びますが、しかし、1年ちょっとしか続きません。
その間も、農繁期に長期間東京に音楽を習いに行ったりです。
農業指導もアルカリ性にするため石灰を大量にばら撒いてしまったりして、石灰の会社と癒着しているのではないかと思われたりしました。
米作は酸性にも強いらしく極度にアルカリ性にしてはいけないようですが。
そんなこんなで、「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ」はそうだったと思います。
人は良くて、みんなのことをよく考えていたので嫌われたり苦にされることはなかったでしょうね。

ですから、「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」は、宮沢賢治その人だったと思いますよ。

何でもかんでも、達成するのは不可能で永遠にその道を完成することなく行くという観念にあなたは縛られているようですが(笑)

 

~~~~~~

 

どんな生き方を選択しようがあなたの自由です。

ただ、ここは歴史上の仏陀が本当は何を言ったかのスレッドです。

大乗仏教としても、あなたのいうように菩薩は永遠に菩薩として修行するというのはどの仏典にもない、あなただけのドグマです。
法蔵菩薩阿弥陀仏になったではありませんか?
あなたの言うことは、大乗仏教に照らしてもおかしいと思っています。
それはどうですか?

 

~~~~~~

 

いや、さっき書いたように、宮沢賢治は既に
「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ」だったと思いますし
「クニモサレズ」という感じだったと思いますよ。

人間は多かれ少なかれみんなそんな感じじゃないですかね。
誰からも無視されて、なんて一言も書いてないですよね。
みんな、そんなに褒められもせず、苦にもされないところで生きていませんか?

 

~~~~~

 

釈尊が歩いた道というのは、本当は釈尊が何を言ったのかがわからないとわかりませんよ。

釈尊の顔も知らないはるか後世の龍樹が、不二中道だと言ったところで
それが本当に釈尊が言ったことか歩いた道なのかどうかは調べないとわかりませんよね。

 

~~~~~~

 

 

<<>みんな、そんなに褒められもせず、苦にもされないところで生きていませんか?>>
<<誰が??欲は生きる力です。そういう生きる力が無くなったら死ですね。>>

全く意味不明ですね。

そんなにみんな褒められてばっかりの人なんていませんし
あなたのようにみんなに苦にされている人も現実社会ではそう多くはないでしょう。

みんな、「そんなに褒められもせず、苦にもされない」人たちが多いと思いますよ。

 

 

~~~~~~

 

あなたもそこまで禅定が重要だと思っているのであれば
少し禅定してみればどうですか?

あなたがここに書いたところでは、1日に5分しか坐禅(しかも数息観)してないというではないですか。
それでよく、禅の実践とか言えますね。
あなたは妄想が次から次と多く湧き出るので、長時間の瞑想や坐禅ができないのではないですか?
そんな感じがします。

注意力不足からの誤記も多いですし。

坐禅」トピのスレ主のとりさんや参加者の水月さんにどうしたらいいか、聞かれたらいいと思います。
私は禅は門外漢なので言えませんが。

 

~~~~~

 

<<それを感じて共に生きるのが愛でしょう。
人間の悲しみを見つめて下さいな。>>

口だけではなく、あなたがぜひ、それを実践してみてください。
人に説教するのは自分がちゃんとできてからにしましょうね。

 

~~~~~

 

<<日蓮宗浄土真宗禅宗真言宗天台宗キリスト教イスラム教も宇宙のはたらき、
ですから、互いを認め合って仲良くしなければいけません。>>

これはその通りだと思う。
すべての教えは向こう岸に渡る筏にしか過ぎない。
クリシュナムルティは筏を否定したが、人間は筏がないとどうしても激流は渡れない。
クリシュナムルティは天才だったので筏がなくても渡れたのかと思っていたが
晩年『誰一人変わらなかった』と言ったようにやはり筏がないと変われない。

歴史上の仏陀の真意を探求するために、仏教の全否定から始めたが、仏陀の真意がわかってくると、仏教の全肯定へと進む。また、仏教以外の教えの全肯定へと進む。

大乗仏教は失われた主体の復興運動だと思う。
法華経において久遠実成の釈迦が説かれ、大乗涅槃経においてついに常楽我浄が説かれるに至った。『無常・苦・無我・不浄』から『常・楽・我・浄』への大転換。

大乗仏教ヒンドゥー教の大きな影響があることは数多くの仏教学者が認めざるを得ないところ。
そしてヒンドゥー教大乗仏教の大きな影響を受けた。
これは否定しようにも否定できないところ。

あなたのような従来の仏教者、特に大乗仏教者は、キリスト教イスラム教を肯定しても、バラモン教ヒンドゥー教は頑なに否定する。また大乗仏教仏陀の教えを小乗仏教として蔑ろにする。
大乗仏教の功罪の中の悪い部分だ。
現代において、ここまで文献学が進み、歴史上の仏陀が本当に言ったことが相当に明らかになってきたのだから、仏教者であればそこに最大限の敬意を払わなければならない。

歴史上の仏陀の真意がわかってくると、かえって大乗仏教の本当の良さもわかってくる。
法華経は素晴らしく有り難いお経だし、禅の公案の良さも感じられてくる。

あなたも、小乗否定、ヒンドゥー教否定はそろそろ脱却した方がいい。
大乗仏教成立以来の根強い偏見は捨て去ることだ。
宇宙の全肯定というあなたの言っていることに反することとなる。

 

~~~~~~

 

<<>あなたも、小乗否定、ヒンドゥー教否定はそろそろ脱却した方がいい。>>
<<いつ否定しましたか?>>

釈尊の在世時、阿羅漢は最高位の悟りの境地に至った人をあらわしていました。
最高位の悟りに達した人ですから、阿羅漢とは何をおいてもまず釈尊その人をあらわしたのです。そののち、釈尊と同じくらいの最高の悟りに達した人も阿羅漢と呼びましたが、第一義的には阿羅漢とは釈尊その人です。
あなたは歴史上の釈尊を『阿羅漢は自我の執着が取れていないただの凡夫さ。ただの凡夫が恰好つけているだけ。』と罵り否定したではないですか。
忘れましたか?

現代になって、文献学が急速に進化し、どの仏典が釈尊の肉声に近いものかが明らかになってきています。
どの経典が本物かがわからなかった時代を引き摺って、歴史上の釈尊の言ったことを蔑ろにするのはそろそろやめませんか?

 

~~~~~~

 

<<違いを確認し習い合わせる「習合」で、自我でごちゃ混ぜにする「融合」に反対しています>>

それでは、あなたのいう【習合】では具体的にはどうなるのですか?
キリスト教イスラム教もヒンドゥー教もおよそ龍樹仏教以外の宗教はすべて神には実体があり実在すると信じています。
実体のない神を信じている宗教はありません。
神は実在すると信じているのです。

さて、あなたの信奉する龍樹仏教ではすべてに実体がなく神にも実体がないのでしたよね。
神にも実体のない龍樹仏教と実体のある神を信じているキリスト教イスラムヒンドゥー教などとどう『習合』するのですか?

 

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<<不二中道という二元対立の超越>>
<<無常と常住の対立和合したところの常。(断常中道)苦と楽の対立を和合したところの楽。(苦楽中道)我と無我の対立を和合したところの我。(有無中道)浄と不浄の対立を和合したところの浄。(浄穢中道)>>

仏陀は、龍樹が言うような二元対立の超越などという観念論を説いたわけではありません。

快楽を追い求め快楽に耽る生き方も、肉体の苦行によって解脱しようとする生き方も、
どちらも肉体に捉われた生き方であって真実の道ではなく、八正道という中道を行きなさい、と説いたのです。
つまり、肉体に捉われる生き方を離れ、智慧の道である八正道を選んだということです。

『苦』と『楽』という二元対立を超越するだとかという観念論にしてしまうのは間違いです。

 

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仏教についてのひとりごと 121

<<そして、仏教と言いながら、やれ漢訳はおかしい。中村元訳はおかしい。英訳したパーリー語訳こそが正しいというのは、経典の物神化(偶像崇拝)であり、「自覚の宗教」である仏教とは対極するものである。>>

 

わけわからないことを言い出しましたね。
仏陀の真意を正確に知ろうとすれば、翻訳家の様々な訳を参考にしつつ、自分でもパーリ語原典を調べないとわかりませんよね。

あなたのように、原典を読もうとせず、ただ仏教学者の解説書を読み漁って理解できたつもりになっているのでは、その仏教学者のフィルター、色眼鏡を読み込んでいるにすぎません。
あなたは仏陀から直接教えてほしいとは思わないのですか。

 

~~~~~~

 

自分の方が正しい、自分の方が悟っているのに
他の人ばかり褒められて・・・これはおかしい・・・
というところから嫉妬し粘着していくパターンを延々と続けているということでしょうね。

早く、自分の中のドロドロした我塊を見つめてほしいところですね。

 

~~~~~~

 

この和弘という人の卑怯なところは
自分からさんざん石を投げておいて
いざこちらが向かって行こうとしたとたん
『喧嘩するつもりはない。釈尊も争いはいけないと言ってる。』と言うところです。

それなら初めから石など投げなければいいだけです。

こちらは、和弘という人が他のスレで何を言おうが何を信じようが何の興味もないのですから。

 

~~~~~~

 

<<「無視リスト対象」というのが二つあった。一人の方は、無視リストの利用をさせていただいている。>>

あなたは、自分を批判するものは逆風で、逆風がなければ鳩も空を高く飛ぶことができない、高く飛ぶための揚力なのでありがたいことだ、自分を高く飛ばしてくれる逆風に感謝、とずっと言ってましたよね?
また、あなたは「排除の論理」ということばで排除をものすごく嫌ってますよね。

無視リストに入れて排除して、答えられないと逃げて逃げて、自分の自我が傷つくのをひたすら怖れている・・・・
言っていることと実際にしていることが真逆ですよね。

あなたは口ではいろいろなことを書きまくりますが、実際にはひとつも実践できていません。
自分で言ったこととあなたがしていることはいつも矛盾しているのです。

あなたの言説のすべては、自己正当化だけのためです。
だから、その時その時で言うことやることがコロコロ変わるのです。

 

~~~~~~

 

<<●離婚は悪いことではない●>>
<<離婚する奴はダメな奴と言わんばかりに>>
<<偏見の強い者は釈尊がまるで見えていない証拠である>>

 

そんなに自我を守ろうとしなくても大丈夫ですよ。
離婚した人が駄目なやつだとか全く思ってないですから(笑)

私はあなたの経歴を全く知りませんが、ただ、あなたが再婚ではないかとふと思い浮かんだだけです。
私は時に、その人の全体像とかストーリーとかが思い浮かぶときがあって
それは人に限らず物事に関してもそうなのですが、
例えば、最近の卑近な例では、W杯のフランスーアルゼンチンを何気に見たあと、今回はフランスが優勝するというヴィジョンが見えたので、掲示板に投稿しました。
サッカーはにわかもいいとこで、どこが強いかも知りませんでしたが。
株でもこのようなヴィジョンで成功したところもあります。

あなたが昨日このスレで、『和弘は元営業マンですので、人の褒められることを言うことなど簡単ですが』と書いてたので初めてあなたが営業マンであったことを知りました。
あなたには営業マンは全く合ってないですね。非常に苦労したのではないですか?あなたは人の話をちゃんと聞くことができないので、相当成績は悪かったと思います。自分が売り込む商品のことを滔々と述べて、相手に対して表面的なおべんちゃらと笑顔を作っておけば売れると思っていたでしょう。
苦労しましたね。
今の奥さんとはどうしてもいっしょになりたかったのでしょう。
そんな感じがします。
これ以上は控えますが、私は別にあなたが離婚経験者だからと言って偏見なんか持ちませんよ。
私は実社会でも相談されることが多いですが、別れた方がいい例というのはごまんとあります。
日本独特の仏教のせいで『私は私以外のすべての人たちのおかげ様で生かされている』『すべては周囲の人やもののおかげ様で生きている、ありがたいありがたい。』などという思想が蔓延っていますから、どんなDVでも耐え忍んでいる人も多いのです。
馬鹿馬鹿しいことです。

ですから、私は離婚した人に偏見なんか持っていませんよ。
安心してください(笑)

 

~~~~~~

 

<<阿羅漢の「宿命通」は、平等の智慧を欠いた無明による妄想、虚妄分別である。>>

何いつまでもいつまでもネチネチとついて回ってるのですか(笑)馬鹿馬鹿しい。
花まつりさんが『まさか三種の明智に目覚めたのでは? ( ^_^)/~~~』と言ったのは、いつものジョーク、軽口、ギャグですよ。
このスレを見る人の誰も、私があなたの再婚やフランス優勝を推測したからと言って阿羅漢の神通力なんて思ってもないですよ。花まつりさんのギャグだとわかっています。
それをあなた一人がいつまでも、阿羅漢は駄目だとか、阿羅漢の宿命通は無明だとか、必死で打ち消しているのです。

誰もが社会生活していると、予測したり推測したりしますね。その延長線に過ぎません。
当たるときもあれば外れる時もある、ただの推測ですよ。
人を採用するときは、たった10分かの面接でその人の本質を見るようにしないといけないですよね。重要な交渉の時は、初めて会う人の人となりや望んでいること望んでいないことなどを短時間で見抜かないと有利な交渉はできないですね。
そういう日常の訓練によって人や物事を推測する癖がついているというだけです。
当然、当たるときも外れる時もあるでしょう。

阿羅漢とは何の関係もないですよ(笑)

あなたは禅をやってると言ってましたが、禅の実地は全くできてないですね。
ここまで一つの言葉について回るとは、禅の境地とは真逆です。
それは、あなたの中の妄想、ドロドロした自我が何も見られることなく触れられることもなくどんどん溜まっていっているからです。
このスレに来た人の中で闇を感じる人は2人いますが、あなたはその一人です。
闇を持っている人の特徴はネチネチしていることです。さっぱりしていない。
いつまでも言われたことを根に持ってそれを反復増殖させていくのです。

禅をやっているのであれば、過去はスパスパ断ち切ることから始めないと闇は大きくなりますよ。

 

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<<終点のあるのが阿羅漢。終点がないのが菩薩。>>
<<菩薩という「終わりなき旅」>>

あなたは大乗仏教の本質も分かってないですね。
永遠に菩薩が菩薩のまま修行するというようなことが書かれている大乗仏典があるのですか?
菩薩は仏になるために修行しているのです。

法蔵菩薩法蔵菩薩のまま永遠に修行しているのですか?
違いますね。
法蔵菩薩阿弥陀仏になりましたね。

法蔵菩薩は、四十八願が成就されないうちは仏とならないという誓願を立てました。
そして、阿弥陀仏になりました。
法蔵菩薩阿弥陀仏になったということは四十八願が成就されている、衆生の往生は決定している、というのが浄土教の根本です。

あなたのいうように法蔵菩薩が永遠に法蔵菩薩のまま終わりのない旅をしていたら
浄土教は生まれてないですね。

 

~~~~~~

 

世親は『浄土論』(『無量寿経優婆提舎願生偈』)において、大乗仏教の根幹にあるのは「厭離穢土欣求浄土」の思想であることを明らかにしました。
中国浄土教の始祖である曇鸞は、『浄土論』の注釈書である『浄土論註』(『無量寿経優婆提舎願生偈註』)をあらわしました。

浄土教はその最初から、「厭離穢土欣求浄土」の二元論が基本になっています。

天台本覚思想の影響を受けた親鸞が、絶対一元論に傾いた感じはしますが
それまでの浄土教は二元論が基本ですね。

 

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<<縁という要因は無数(無量)であって、因果律を知り得ることはできないのである。因果不可得である。>>

この際だから、あなたの書いていることは歴史上の仏陀の言っていることと全く違うということを指摘しておくね。
今後、仏陀が言ったことでもないことを得々とこのスレで言わないように。
仏陀の法でない偽は、他のスレで思う存分してください。
このスレで言わなければ、あなたが何を言おうと何の興味もないので、他で書いてください。


縁起の根本的な方程式は
『これあればかれあり、これ生ずるが故にかれ生ず、これなければかれなし、これ滅するが故にかれ滅す』
です。
かれが縁りて生ずるもの、これが縁です。
『苦の消滅』を目指していた仏陀はこの方程式を発見しこの方程式を『苦』に当てはめて『苦の消滅』へと至ったのです。
それが十二縁起です。
ですから、仏陀の言った『縁起』とは苦の縁って起こる原因のこと。
その原因をなくせば『苦』がなくなるということを発見したのです。
縁起の法とは十二縁起のことです。

あなたのいうように「縁という要因は無数である」ならば、それを滅することはできなくなりますね。仏陀は『縁の滅を知った』ので解脱したのですよ。
あなたのいうように「因果律を知り得ることはできないのである。因果不可得である」のであるならば、苦の消滅を明らかにすることもできないし、仏陀が解脱に至ることもできなくなりますよ。

 

~~~~~~

 

 

あなた、自分の投稿の間違いをここまで指摘されて、それに対して一度も真摯に答えませんね。

今回はあなたの<<縁の要因は無数>><<因果律を知ることはできない>><<菩薩は菩薩として終点なく永遠に修行する>>という主張について、ちゃんと根拠を示してその間違いを指摘しました。

これまでも、大乗涅槃経の仏性はあなたのいうような仏になる可能性のことではなく、仏の基体、仏の本体という意味であることを原文の典拠を示して立証しました。
スッタニパータの中で仏陀が浄と穢という二元対立を説かず不二中道を説いたというあなたの自説につきその間違いを指摘しました。

真摯な求道者であれば、自説の間違いを指摘された場合、答えられなければ間違いを認めます。
もし、その指摘が違っているのであれば、それを説明します。

あなたは私の指摘に対してことごとく答えられていません。
それはあなたが、原典を読んでいないで、仏教学者の解説書から自分の気に入った個所を寄せ集めて理解したつもりになっているだけなので、原始仏典にしても大乗仏典にしても原典を示されると何も言えなくなってしまうのです。
普通の誠実な人であれば、自分が間違っていれば謝りますが、あなたは自我が傷つくので絶対に自分の間違いを認めないのです。

あなたには、仏教に限らず哲学や思想を語る資格はありません。

もう、ここのスレには投稿しないでください。
あなたのこのスレでの投稿だけから、私にはあなたのやってきたことや人となりがわかりましたから、禁止したにもかかわらずこれ以上投稿するとあまりうれしくないことになりますよ。

あなたが他のスレに投稿するのは私には全く興味がなく止めることもしません。
あなたが作ったスレだけに投稿すれば、みんなが幸せになるんじゃないですか。
私は私が作ったスレッドにしか投稿していません。

 

~~~~~~

 

 

<<その妄想をあるかのように装うのは、偉そうにしたい阿羅漢の権威付けだろう>>
<<阿羅漢は自我の執着が取れていないただの凡夫さ。ただの凡夫が恰好つけているだけ。>>
<<阿羅漢の天眼通が無量のゴミ>>
<<阿羅漢の天眼はなんとまあゴミみたいなことだろう>>

釈尊の在世時、阿羅漢とは釈尊のこと。

また、法華経などの大乗仏典でも頻繁に出る『仏の十号』のうち
応供は阿羅漢を漢訳した名号。
つまり、仏=応供=阿羅漢

釈尊をあらわす名号をここまで口汚く罵るとは・・・・

 

 

~~~~~~

 

別にあなたの思想やましてや経歴に対して何の興味もありませんでしたが
ある人が『どうして和弘さんはわざわざ奥さんと仲がいいことをアピールするんだろう』という意味のことを書いていたので、ふと思い当たることがあったのです。

それは、取引業者の男性社員で、前の奥さんと別れて10歳年下の女性と再婚したらしく、新しい奥さんと仲がいいことを周囲にさかんに言いふらしていたらしいのです。
自分よりずっと若い女性と結婚できたことが、その人にとっては自慢だったらしくて、新しい奥さんといっしょになれたことがうれしくて仕方ないようでした。
それを思い出したのです。

だから、ある人に私は唐突に『和弘さんは奥さんとは再婚ですか?なんとなくそういう気がするのですが。』と聞いたのです。
そうすると、前によくそういう投稿を自らしていたということでした。

あなたは、新しい若い女性といっしょになれたことがうれしくてたまらず、それを掲示板でさかんにアピールしていたのでしょう。

自分が知ってほしくて仕方なかっただけじゃないですか。

 

~~~~~~

 

<<二元対立の取捨分別の強い方で、真実を観察することできない 心の汚れた悲しい人だ。>>

そうそう。その通り。弱い善人なんかなる気は全くないので。

『法律についてのひとりごと』という私のスレでもさかんに言ってるように
私はずるくて人を騙す人間や搾取する人間、人を傷つける人間、人の幸せをぶち壊そうとする人間が大嫌いなので。

この世は、声の大きな奴や人を騙そうという連中によって、善良で法律に無知な人たちが虐げられているのが現状。

掲示板のアラシも大嫌い。
あなたの投稿歴を見てみたが
あなたは、このスレだけでなく『坐禅』というスレにも毎日いちゃもんをつけているね。

どうしてそういうことをする?
坐禅』というスレは、とりさんという方がスレ主のようで、スレ主も禅に真摯に取り組んでこられた方のようで、水月さんという穏やかな投稿者も、質の高い投稿をされていて
そういう人たちでそのスレのレベルが高く保たれているのに
なぜ、数少ない優良なスレッドに限って、あなたはぶち壊そうとする?

 

~~~~~

 

<<ここのトピ主さまが、これほどまでに低次元の方とは思わなかった。驚いている。>>

あなたのようなずるい人間、優良スレッドに対して敵愾心をもってぶっ壊そうとする人間に対しては、それを排除するためにどんな手段もとるよ。

善人は『善人に見られたい』という欲望があるのであなたのような悪に対してマナーのいいことしか言えない。
私は別に善人に見られたいとは思わない。
とにかく、あなたのような卑怯な人間が嫌い。

私は、株式の時からヤフー掲示板でスレ主が優秀でとてもいいスレッドが荒らされなくなってしまったのを無数に見ている。

あなたのような悪いのあるものが平気でのさばり、優良なスレッドは全滅してしまう。

株式の掲示板では、優秀な人はほとんどTwitterに行ってしまった。

ヤフー掲示板の一番の弱点はアラシに全く弱いこと、防御できないこと。

あなたのような人間がいる限り、優良なスレはなくなるよ。

 

~~~~~~

 

いや、この世は、善人が強くならなくてはいけない。

悪人がなぜのさばるか、というと道徳やマナーなどの縛りがないから。
善人は善人であろうとするので、悪人にいいように蹂躙される。

 

~~~~~~

 

いや、あなたはどんな本を読んでも何の意味もない。自分の勝手な観念を強めようとしているだけだから。

自分の心を洞察しなくてはいけない。

自分の過去も洞察して観なくてはいけない。

あなたのしてきたことを自分で見てみれば、あなたが他人のスレッドで説教しまくっている文章を自分が本当に書けるかどうか、すぐにわかるはず。
普通に自分を客観的に見ることができる人なら、恥ずかしくて書けないでしょうね。

 

~~~~~~

 

あなたの投稿歴を見てみたが、あなたは、このスレだけでなく『坐禅』というスレにも毎日いちゃもんをつけているね。
どうしてそういうことをする?

坐禅』というスレは、とりさんという方がスレ主のようで、スレ主は禅に真摯に取り組んでこられた方のようで、水月さんという穏やかな投稿者も、質の高い投稿をされていて
そういう人たちで『坐禅』スレのレベルが高く保たれているのに
なぜ、数少ない優良なスレッドに限って、あなたはぶち壊そうとする?

これについて、返答ください。

あなたがいちゃもんをつけていた、とりさんが書かれていた良寛さんの歌に関してとりさんは全く間違ってないですね。
間違いがないのに、あなたは強引に『間違っている』といちゃもんをつけたのですから
仏教者であればとりさんに謝ったらどうですか?

 

~~~~~~

 

また、間違ってますよ。
あなたは、異常に書き間違いが多い。
妄念が多すぎて注意力が散漫なのでは?
ちゃんと坐禅でもしたほうがいいですよ。

草の庵に 足さしのべて小山田の 山田のかはづ 聞くがたのしさ (良寛
という少し違った歌にもあるように
小山田が本当。
また、
草の庵に 足さしのべて小山田の かはづの声を聞かくしよしも
と、聞かくしよしも、が本当。

 

~~~~~

 

これも違っている。
なぜ、こんなに間違いが多い?

俳句や和歌などの短詩は特に、一語一語がとんでもなく大切なのに・・・

あなたには詩の心が欠けている。

心もよ言葉も遠く届かねば はしなくも御名をとなえこそすれ  (良寛

それを『はしなき御名を唱えこそすれ』とはひどすぎる。
どういう意味か分かっているのだろうか?

 

~~~~~

 

間違いを訂正してるのだから、ちゃんと謝って訂正しなさい。

草の庵に 足さしのべて小田山の かはづの声を聞かくしもよし
 ↓↓
草の庵に 足さしのべて小山田の かはづの声を聞かくしよしも

小田山でなく、小山田

聞かくしもよし ではなく、聞かくしよしも

2つも違う。

 

 

~~~~~~

 

これも言いたくないけど

窮々至無心    窮め窮めて無心に至り

が本当では?

 

~~~~~~

 

窮め窮めて無心に至り 

【窮々至無心】が本当です。

試しに【窮々至無心】と【窮々至無窮】で検索してみてください。

あなたの【窮々至無窮】の典拠は何ですか?

 

~~~~~~

 

あなたは詩が好きなようですが、
前に盛んに宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を出していて
「みんなにデクノボーと呼ばれ ほめられもせず」を「嫌われる勇気」と関連させていましたが
あの解釈はひどかったですよ。
「デクノボー」とは嫌われ者ではありません。
「役立たず」というほどの意味で、実務能力のないことをいうのでしょう。
あの「雨ニモマケズ」の詩は、宮沢賢治の人間像そのままを描いたものだと思いますね。

そんなに実務的には役に立たなかったかもしれませんが、本気で人の心配をするいい人で
あなたのいうような嫌われ者というものとは全く違います。
「苦にもされず」です。

あなたは自分があちこちで嫌われているのを正当化しようとして、「嫌われる勇気」だとか宮沢賢治の詩だとかを引っ張り出してきますが、本質が全く違います。
デクノボーをああいう解釈しては宮沢賢治に失礼かなと思いました。

仏教についてのひとりごと 120

Yahoo掲示板は、株式版以降、どんな投稿に対しても真摯に返信することを心掛けてきましたが
それに縛られていると時間がいくらあっても足りなくなり
そもそものライフワークが遅々として進まないことになってしまいました。
真摯でない迷惑投稿に対しても返信するという自分の中の縛りをなくしてしまったら
とても楽になって、時間も非常に有効に使えるようになりましたので
これからも投稿は時間がない時、相手が真摯でないと判断したときには返信はできないかもしれませんのでご了承ください。
知識があってもなくても本当に道を求めて探求する意志がある人なら歓迎しますが
知識もなく向上心もなくただ自分の考えと違うので攻撃したいという人との関わりは時間の無駄に終わってしまいます。

さて、あなたの投稿に関しては、前にあなたは一方的にスッタニパータのあなたの解釈を並べ立てて『ショーシャンクさんの解釈、認識が違っている。』とまで言ってきたのですが、
私がそのひとつひとつにつきあなたの解釈が間違っていることをすべて指摘しました。
それに対して、あなたから何の回答もありませんでした。
『大乗涅槃経』に関してもそうでした。
あなたは、一方的に私に対して論戦を仕掛けてくるのですが、私があなたの間違いを典拠を示して指摘するとそれに対して答えないのです。
答えられなくなると、スルーしてしまい、やっと間違いを認めて投稿しなくなるだろうと喜んでいたら
しらっと全く別のことで自説を展開していく、というあなたのその姿勢、精神に失望しているのです。

毎回、他人のスレッドに喧嘩腰で投稿してきますが、それであれば、こちらの指摘に逃げずにちゃんと正面から答えていくことはできますか?

あなたの過去投稿を今見てみましたが、どうもあなたは、会話のキャッチボールができないのではないかと思える節があります。
ひょっとすると、日常生活でも、会話や対話がスムースにいかないタイプではないですか?

 

~~~~~~

 

<<「お釈迦さま」とは「釈迦族さま」となってよろしくない。仏教徒ならば、釈迦族の尊者「釈尊」でというべきはなかろうか。>>

前にしまとりさんに対して、私は『こだわりはありませんが、属性を離れた仏陀に対して、釈迦も釈尊釈迦族という属性の呼び方は違和感があるので、私は仏陀と言うことが多いです』と答えています。
釈尊釈迦族の尊者ということですから属性で呼ぶことには変わりなく、仏陀というのが最も適切でしょうね。それほどこだわりませんが。


<<仏教徒ならば、釈迦族の尊者「釈尊」でというべきはなかろうか。>>

あなたは自分の過去投稿で『わたしは仏教徒ではありません』と言ってますね。
そういいながら仏教徒はこうあらねばならぬというのはどうなのですか?
整合性がないですね。


<<その「お釈迦さま」大好きのショーシャンクさんが、「龍樹の空仮中など仏教ではない」
「無我も仏教ではない」と仰せだが、仏教の旗印とは何か?>>

あなたのその独特な嫌味な言い方が本当に慈悲から来ていると思っていますか?
誰かが私を褒めた時に、あなたは不快になるはずです。その不快感が嫌らしい言い方をさせるのです。
あなたは、その心の動きを如実に見なければ、いくら龍樹の観念を強めたところで何にもなりませんよ。ただ、ドロドロした自我がより強まっているだけです。

 

 

~~~~~~

 

 

<<「龍樹の空仮中など仏教ではない」「無我も仏教ではない」と仰せだが>>

私が言っているのはこうです。
仏教は仏陀の真意を伝えていない。仏陀の真意からかけ離れている。
歴史上の堆積物で埋もれている。
仏陀が言ったのは諸法無我ではなくて、諸法非我である。
『無常』『苦』『無我』が仏教の根幹だと言われてきたが
仏陀が繰り返し言ったのは
『無常であり苦であるものを、われ、わがもの、わが本体と言っていいであろうか』です。
この言葉は原始仏典に繰り返し数多く出てきます。
この言葉が根幹です。

<<「縁起であるところのものを、すべてわれわれは空と説く」(中論)。>>

縁起だから空、などとは仏陀は一言も言っていません。
縁起だから空、縁起だから実体がない、と言ったのは龍樹です。
仏陀が言ったのであれば、どこで言ってるか示してくださいと私は何度もあなたに言いましたが
今に至るまで答えがありません。
答えられないのに、あなたはまた同じ主張をするのです。

日本仏教は龍樹が基になっています。八宗の祖ですから。
あなたが龍樹を信じるのはいいことです。
龍樹を信じることで救われるのであれば大いに信じてください。
私は、龍樹が正しいとか間違っていると言っているわけではないのです。
歴史上の仏陀の言ったこととは全く違うということを言っているだけです。
仏陀が正しくて龍樹が間違いと言うことを言っているわけではありません。
歴史上の仏陀は本当は何を言ったかが探求テーマですから
縁起だから空、とか、縁起だから中道、などとは仏陀は言っていないということだけです。
仏陀の言った中道とは八正道のことです。

 

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<<戒・定・慧の三学は仏教の旗印(たてまえ)であり「修道方法」である。
「戒より始めよ」であり、戒は三学にはなくてはならないものである。>>

あなたの主張は支離滅裂なのです。
あなたは親鸞をよく肯定的に引用しますね。
法然親鸞も『末法無戒』、つまり末法においては戒律は意味をなさない、という考えが基本です。
そして、親鸞は肉食妻帯しましたね。
親鸞を尊敬するのであれば『戒律なんて無意味』という前提に立たなければいけません。
また、阿弥陀仏を信じればどのような破戒も許されるということです。
法然はここにおいて改革者だったのです。
あなたはどういう立場なのですか?戒律を少しは意味あると思ってますか、無意味と思ってますか?
<<戒を前提とした「凡夫の自覚」であり、旗印の戒を蔑ろのしていないのである。>>というのであれば、法然親鸞は受け入れられないはずです。
あなたの論理はぐちゃぐちゃなのです。

あと、どうでもいいことですが、『戒より始めよ』はジョークですよね?この質問を見てすぐウィキペディアを見そうですが、さすがにジョークと言ってほしいですね(笑)

 

~~~~~

 

私も別に、ゴータマ・シッダッタとわかればいいと思ってますよ。

ただ『仏教徒釈尊と呼ぶべきだ』という人がいて困るのですが。

仏陀自身は、『目覚めた人=仏陀』と呼ぶべきとは言ったような気がしますが
釈迦族の尊者』と呼べとは絶対言わなかったですね。
釈迦族』を出すこと自体、仏陀の本質が分かってないと思います。

 

~~~~~~

 

<<若い頃、絵画において、自分の深層を探っていて、ドロドロしたものに堪えられなくなり逃げた。
そして、ドロドロした自分を覆い隠すように、50号のカンバスを青一色に塗りつぶし、ただ、同系色の球体を五つ描いた。その絵は装飾品となり居間の壁にかけてある。>>

 

これ読んでぞっとしました。そして心配になっています。
自分が描く絵は、自分の心象風景です。
高校のとき、美術の授業で、とても絵の上手な同級生がいました。
その絵は上手ではあったのですが、とんでもなく暗かったのです。
なぜそんな暗い絵を描くのか不思議でした。
その同級生は10年後に自殺しました。
実生活で同じような事例をもう1件知っています。
自分が描く絵はその人の心象風景だと私はそういう体験から思っています。
ネットで知る情報でも、その人の精神状態とその人の描く絵は密接に関連していることがわかります。

口で言う言葉や、文章などはいくらでも綺麗ごとは言えるのですが
描く絵や共鳴する音楽などは、かなり正確にその人の精神を表わすと思っています。

私が見る限りでは、あなたはちょっと危うい感じがします。
自分のドロドロした自我を見ることなくして、ただ龍樹の観念論で
『自我を粉骨解体する』と言って、敵対視しているからです。
何もわからずやみくもに自我を否定していけば、その自我は悲鳴を上げて自己主張し出します。
あなたにとって、龍樹の哲学が本当に為になるのか非常に疑問です。

 

~~~~~~

 

赤い実さん、こんばんは。

前にも、たしかaokさんでしたかの投稿にそういうことが書いてあり、レスしました。
私は、仏教徒が他の宗教を外道というのには反対で、それこそ、仏教が仏陀の真意からかけ離れた原因の一つだと思っています。
バラモン教仏陀の関係は、ユダヤ教とキリストの関係と似ています。
仏陀バラモン教を否定しておらず、キリストはユダヤ教を否定していません。
というより、ほとんどその影響下にあります。

仏教なら仏教という一つの派閥を作ってしまうとそれは人間の精神にとって牢獄となります。
これが世界中に宗教戦争を引き起こしている原因です。

私は、仏陀を人類の教師の一人と思っており、仏教の開祖として崇めているわけではありません。
キリストも人類の教師の一人です。

ですから、このカテのどの人とも立場が違います。

私が今まで宗祖などを否定していたのは、歴史上の仏陀の教えと違うということを知ってほしかったからです。
いまは、仏陀の真意がわかってきたので、仏教の全否定から仏教の全肯定に進みつつあります。
親鸞の教えも仏陀とは違うものですが、その教えで救われるのであればどんどん信じればいいと思います。
どの教えも筏にしか過ぎませんから。

無限の大海に達するのであればどの筏も正解です。
大海に達する前に、排他主義は消え失せなければならないでしょうね。

 

~~~~~~

 

和弘氏の経歴については全く知らないのですが、奥さんとは再婚ですか?何となくそう思ったのですが。

私のスレは、和弘氏以外にもmultitude氏やmic氏の訪問を受けましたが
multitude氏やmic氏には、闇の部分やドロドロしたところをあまり感じないのですが
和弘氏には少し感じることがあります。
そう感じていた時に絵の投稿が出て、少し心配になってきました。

 

~~~~~

 

 

わかりました。ありがとうございます。

和弘氏は、このスレに投稿していながら私に対しては返信してきません。
負ける論争は逃げる人なのでしょう。
こういうところが、自分の中のドロドロした自我を固く守っていると感じられるところです。
本人はそれに気が付いていないのです。

自我を見ることなしに、『粉骨解体』なんて敵視するものだから
和弘氏の中のドロドロした自我が悲鳴を上げて存在を主張しているのです。
このまま進むとどんどん自我が膨張していくと思います。

今日もあそこまで私を名指ししてきたのですから、正面から対話するべきだと思いますけどね。

やはり再婚でしたか。新しい奥さんは10歳くらい年下ではないですか。
あとは本人に聞ければ聞いてみます。
ありがとうございます。

 

~~~~~~

 

 

仏教についてのひとりごと 119

<<四念処観を調べたところ、身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我)これでいいでしょうか。>>

 

はい。私は四念処観をそのように理解してます。自分に非ずなので、諸法無我のところは諸法非我にしてますが。

ただ、念=sati に関しては、テーラワーダ仏教では『気づき』というように捉えていますので、私のしている観法とは違うと思います。これはpipitさんが詳しいと思います。

 

<<想念をフルに使わねばならない現状におられるのでしたら、想念に気づくことは難しいというより、常に気づいているのではないのですか?>>

 

仕事の交渉のときなどは、想念に没頭しています。つまり、想念に自己同化して気づいていない状態ですね。私の場合は。

 

 

~~~~~

 

<<釈迦の世界って、矢もない、激流もないところ、なんじゃないですか。>>


釈迦の到達した世界はそうでしょうね。
釈迦が残した筏によって激流を渡りたいということです。

 

~~~~~

 

<<あなたは、まぎれもないあなたを持ってますか?精神の無量は、そんなあなたがもってるものじゃないでしょうか>>

 

私の理解では、精神の無量はわたしは持っていません。
わたしがあるか、無量があるか、どちらかです。

 

<<無の境地 それは禅のマインド。 これが真の調和。坐禅はたとえ座ってなくても座ってるつもりでということ    禅のマインドとは、「いますでにこれでよし」と素朴におもえることから、説かれるんじゃねーかな>>

 

禅については私は門外漢なので、無の境地というものが本当にあるのかはわかりません。

 

~~~~~~

 

<<その無我を宮沢賢治は、『雨ニモマケズ』の最後に、「デクノボウといわれ…」と表現した。「デクノボウ」と言われるくらいでなければ、「仏の本願」は達成できないのである。>>

 

あなたは何でも自分勝手に都合のいいところだけ切り取って自己正当化しています。
この宮沢賢治でもそうです。

この『デクノボー』のところはこうです。
・・・・
ひでりのときはなみだをながし
さむさのなつはオロオロあるき
みんなにデクノボーとよばれ
ほめられもせず
くにもされず
そういうものに
わたしはなりたい
・・・・

『みんなにデクノボーとよばれ ほめられもせず』の後に
『苦にもされず』が来るのです。

あなたはやめてほしいと言われても、他人のスレに大量に迷惑投稿してます。
苦にされているではないですか。

宮沢賢治の『くにもされず そういうものに わたしはなりたい』をよく読んでください。

 

~~~~~

 

<<貴方が苦にして苦を作っているということです。>>

 

スレッドは、スレ主が『こういうスレを作りたい』『こういう話題をしたい』という願いでできています。
それはわかりますよね?
つまり、各スレには、スレ主のコンセプトがあるのです。

ところが、心無い者たちのアラシによって、数多くのスレッドが荒らされ廃れていきました。
そうしたくないのは、スレ主の共通の願いですし、そのスレに共感する人の願いですね。

あなたには自分で作ったスレッドがあると聞きました。また、なければ自分でスレを作ればいいだけです。

ここで聞きますが、あなたは何故、嫌がられても他人のスレッドに投稿しなければいけないのですか?
なぜ、自分のスレッドに投稿しないのですか?
その理由をお聞かせください。

 

 

~~~~~~

 

<<ハイ!「仏教についてのひとりごと」ですね。>>


それは、スレの題名であって、コンセプトではないです。
コンセプトの意味が分からないですか?

質問に答えてください。
あなたはなぜ自分で作ったスレには投稿しないのですか?

 

~~~~~~

 

hanaさん、はじめまして。

そうなんですよね。
仏教の言葉を悪用して、自己の正当化をしているのです。
その自分の中の自我を見るのが仏教だと思うのですが、
困ったものです。

 

~~~~~~

 

ありがとうございます。
悪意のない方であれば、知識とか関係なくどなたでも歓迎です。

そうですか。
hanaさんのスレッドも荒らされたことがあるのですね。
自分のスレッドにはスレ主の想いや願いが込められていますから
荒らされるのは嫌なものですよね。
よくわかります。

 

~~~~~~

 

<<仏教は釈迦の教えと聞いています。そうであれば この際 大乗仏教は仏教から独立して他宗教として存立する方がお互いに良いのでは。>>

 

そうですね。確かにそう思います。
歴史上の仏陀の言ったことと矛盾する教えはそうしたほうがいいでしょうね。
大乗仏教が仏教というからには、少なくとも帰依仏の仏は仏陀であってほしいですね。

 

~~~~~~

 

pipitさん
お久しぶりです。

pipitさんに教えていただいたパーリ語原典サイトで大きく進むことができましたので
pipitさんには本当に感謝しています。
いま、原典サイトにアクセスできないのですが、pipitさんはアクセスできていますか。

私は自分なりにつかめてきましたので、掲示板はそろそろいいかな、という感じです。
それよりも、自費出版の原稿のほうに時間を注ぎこみたいところです。
株式版からの姿勢で、投稿があったらレス必ずしていましたので
時間がそれに取られすぎる面があります。

<<私も私で、がんばりたいです。>>
pipitさんはとても真摯ですので、ぜひ頑張ってくださいね。

 

~~~~~

 

<<それは、釈迦の教えですか。>>

いえ。私がそう思っています。

 

<<「激流から逃げる」というのが違うように感じた>>
<<激流は起きないと思います。実践しているなら。>>

ですから、『激流』の意味するものがあなたと私では違うと思います。
『激流から逃げてはいけない』と誰かが言ったので
私の思う激流は逃げようと思って簡単に逃げられるようなものではないことを言ったのです。

あなたの意味する『激流』とは何ですか?
それは、実践したらすぐなくなるものなのですか?
そして『激流から逃げてはいけない』と言えるくらい簡単に逃げられるものなのですか?

 

~~~~~~

 

こういう流れです

<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>
    ⇓⇓⇓
精進しない限り、逃れられないくらいの激流なのですよ。
<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>というようなものではないのです。
そして島や洲を作って、その激流から逃れろということなのですよ。
    ⇓⇓⇓
<<その状況から逃げるようなことでしょうかね。妄想して誤魔化すとか?
言い訳するとか、自己正当化するとか。>>
    ⇓⇓⇓
その妄想、自己正当化、こそが激流の流れなのです。
ですから、妄想してごまかすとか自己正当化するとかは、まさに激流の中にいることなのです。

 

~~~~~~

 

<<あなたは釈迦の言葉を研究し、大乗仏教の間違いを指摘する本を出すことを目的としていて、修行する気はないのですか?>>

大乗仏教の間違いを指摘する本を出すことを目的とはしていません。
歴史上の仏陀の本当に言いたかったことは何だろうか、ということです。

<<修行する気はないのですか?>>
この意味が分かりません。
もし、このスレを読んでいるのであれば、十二縁起の瞑想をしている、四念処観をしている、と書いていますが・・・

 

~~~~~

 

その妄想、自己正当化、こそが激流の流れなのです。
ですから、妄想してごまかすとか自己正当化するとかは、まさに激流の中にいることなのです。
  ⇑⇑⇑
無量から引き離そうとする、肉体の感覚、五官、記憶、イメージ、妄想、観念・・・・
そのすべてを私は『激流』と言っているのです。

これも、前に書いたことです。

 

~~~~~

 

<<精進すれば、激流は起きなくなりますよ。>>

島を作るのは、激流があるからです。
生きている間、激流はあります。
肉体の感覚があり、思考がありますから、いつも押し流される危険はあるのです。

ただ、これは見解の違いですし、私の考えに合わせていただこうという気は全くありません。
私が勝手に思っているだけですから。

本も誰でも出せる自費出版ですし、読む人は全くいなくても、死後残しておきたいという自己満足だけのことです。大層なことではありません。
よく、自分史を出す人がいますが、それのようなものです。

 

~~~~~

 

<<釈迦の言葉ではく、自分の見解だということですね。ありがとうございました。
本が出版できることを祈っています。>>

ありがとうございます。

<<激流がない時には、島もないということですか?「自分」か「無量」かどちらかだと仰っていたのは。>>

激流は五蘊が集まったときに、つまり肉体を持ってから、いつも流れています。
そのままだと流されてしまうので、法の島を作れと言ったのです。
これも私のただの考えです。
自分というのは五蘊の集まりです。
あるいは、五蘊の集まりを自分と考えている観念です。(感覚も含めて)

こういう意味で、自分か、無量か、です。

 

~~~~~

 

<<精進すれば、激流は起きなくなりますよ>>
<<激流そのものが「自洲」なんじゃないでしょうか。>>
<<激流から逃れたいために作った島は、激流の影響を受けていると思います。激流の続きというか、激流の一部というか。そうじゃなくて、激流を見定めたところにあるものじゃないですか。>>

前も言いましたが、私の考えている『激流』とあなたの考えている『激流』は全く違うものだと思います。
あなたの上のことばがそう示しています。
①<<精進すれば、激流は起きなくなりますよ>>
私は精進しても激流は生きている限りあるという『激流』を想定してます。

②<<激流そのものが「自洲」なんじゃないでしょうか。>>
自洲は激流の中に作られるものと思ってますから、私は激流そのものが『自洲』ではないと思っています。

③<<激流から逃れたいために作った島は、激流の影響を受けていると思います。激流の続きというか、激流の一部というか。そうじゃなくて、激流を見定めたところにあるものじゃないですか。>>
激流も洲(島)もどちらも仏陀が使った比喩ですので、そのものを指しているわけではありませんが
私は、洲(島)は、激流に押し流されないための避難場所を作れ、と言ったのだと解釈しています。

ただ、他の人が全然別の意味で、激流も洲(島)も捉えたとしても、それはそれでいいのではないでしょうか。
ただ一つ言えるのは、私は、洲(島)は、激流に押し流されないための避難場所を作れ、と言ったのだと解釈しているということだけです。
間違ってるかもしれませんし合っているかもしれませんが、私はそう思っているというだけです。

 

~~~~~

 

世の欲望と嫌悪を制御している『自分』を
四念処観によって整えられている『自分』を
島(洲)とせよ。
ということだと思いますが。

つまり、、四念処観によって整えられた自分を、そして四念処観という法を
激流の避難場所とせよ・・・ということだと思っています。

 

~~~~~~

 

肉体の感覚もすべて、分離、限定へと押し流す激流ですから
肉体を持っている間は激流はあると考えています。

修行が進むと、洲にいる時間が多くなるのではないでしょうか。

 

~~~~~~

 

妄想を継ぎ足すことや、連想することが少なくなるので
おっしゃるように激流は弱まるかもしれません。
肉体の感覚はそのままですので、目の前の激流はいつもあるとは思います。

 

~~~~~~

 

島も喩えですが
彼岸という喩えもあります。
それは激流を渡り終えたところの比喩です。

ただ、激流がなくなる比喩は知りません。

 

~~~~~~

 

自燈明法燈明は、仏陀が亡くなる前の説法です。

たぶん、他者をよりどころとするな、ということの強調でもあったと思います。

 

~~~~~~

 

この『仏教についてのひとりごと』スレッドを立ち上げて1年以上が経過しました。
その間、数多くの人に閲覧いただき、また多くの人の訪問を受けました。
感謝いたします。

最初から掲示板では投稿があったり質問があったら必ず返信してきたのですが
このままではいつになってもライフワークの自費出版の原稿ができません。
人生の時間は限られています。
今後はライフワークを最優先にしていきますので、投稿していただいても返信できないことも多くあると思います。
ご了承ください。
株式版以来、どんな質問にも必ず真摯に答えてきましたので、残念ですが。

この哲学や東哲カテゴリーには、仏教の知識があり、時間があり、そして人に教えてあげたい親切な人が沢山おられますので、仏教に関して聞きたいことがあればそういう人たちに聞いていただければ助かります。

もう時間がないので今年は無理となりましたが、来年あたりに自費出版できたとしても、このスレに自費出版の報告や宣伝は一切しません。
こういうものは縁のある人に自然に渡るものだと思いますので。

もちろん、全く掲示板に投稿しないわけではなく、ライフワークを最優先にして、余った時間でできる範囲で、としたいと思います。
質問には絶対に答えなければならないという自分の縛りをなくして
ライフワークのほうにより多くの時間を振り分けたいと思っています。
ご理解ください。

仏教についてのひとりごと 118

<<釈尊の最後の言葉を紀野一義先生は、「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」と訳しましたが、私はそれに賛同しています。>>

 

さて、問題の仏陀最後の言葉は
vayadhammā saṅkhārā  appamādena sampādetha
です。

 

vayadhammā = 衰滅の法  衰滅の性質を持つ
saṅkhārā = 行  事象  すべてのものごと 
appamādena = 精励  努め励むこと 不放逸
sampādetha  = 行ず  成功する  成就する

 

これを中村元は『 もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成なさい。』と訳しました。

 

私が直訳するとしたら『すべてのものごとは衰滅するものである。不放逸によって行じなさい。』です。

 

このパーリ語の原文から、どうしたら
『こころは移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ。』になるでしょうか。
絶対になりません。

 

<<中国人って「インドの言葉を中国語に訳して、またそれを日本語に訳した仏道の翻訳家達」の誰かの事だと思う。>>


パーリ語から日本語に直接訳しても、上記の意味です。
紀野一義の訳は全くの間違いです。

 

<<釈尊は、「行」を重んじ、「行」そのものとして生きよ、決して知識としてとらえるな言われたという見解に、私は賛同しています。>>


行じることを重んじたから『 怠ることなく修行を完成なさい』と言ったのです。

 

 

~~~~~~

 

和弘という人も、他のスレッドでやってほしいんですよね。
私のこのスレッドで、仏陀の言葉をトンデモ解説されると、どうしても反論してしまいます。
もう、あまりにも仏陀の真意からかけ離れすぎているので、指摘するのも疲れてきました。

他のスレッドでいくら何を言っても私には何の興味もないですから、他のスレでお願いしたいです。
何度もそう言っているのですが、このスレにトンデモ解説を書き込んでいきます。
何が目的なのかがわかりません。

 

~~~~~~

 

<<「激流の中に居る」事が主訴だから、その翻訳になったのかな?>>
<<これを中国人は「怠ることなく精進せよ」と訳したため、「見落とすことなくそのなかに居よ」という忠告を、あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義に解して、「根本苦悩からの自由」を遠いものにしてしまったということです。釈尊は、「行」を重んじ、「行」そのものとして生きよ、決して知識としてとらえるな言われたという見解に、私は賛同しています。「激流の心を見落とすことなく、注意深く、見落とすことなくそのなかに居よ」あくまで行において、激流の随所においてですが、「今・ここを、深刻にならずに真剣に生きる」ことを心がけたいと思います。〈いのち〉は刹那生滅という、激流の「今・ここ」の連続なのですから、かけがえのない「今・ここ」を大切にしたいものです。>>

 

このように書いているのは、仏陀とは正反対のことです。
激流の中に居よ????ですって?とんでもないことです。

私を含めすべての人類は、激流の中に居て圧倒的な力で押し流されているのです。
だから、仏陀は【自己を島(洲)とせよ。法を島(洲)とせよ。】と教えました。
激流の中に居てはいけない、島を作ってそこに避難しなさい、ということです。

そして、【自己を島(洲)とせよ。法を島(洲)とせよ。】とは何か、と言って
それは四念処観だと示しました。

仏陀はその生涯において、人類に向かって『あなたはいま激流の中に居るんだ。すぐそこから逃げなさい、離れなさい、島を作りなさい、向こう岸に渡りなさい』と言ったのです。
そして怠ることなく、島を作って激流に流されないようにするように言ったのです。

それを、『激流に居なさい』とか『怠るなというのは苦行主義』とかいうのは
仏陀の教えと正反対の妄言だとわかりませんか?

 

 

~~~~~~

 

和弘氏にあなたのような熱烈な賛同者ができたのは喜ばしいことです。

どうか、和弘氏の立てたスレッドで、お互いに研鑽し合っていただけませんか?
和弘氏の賛同者が多く集う、意義深いスレになると思います。

私のこのスレッドには書き込みは控えていただければ大変助かります。

 

~~~~~

 

<<和弘さんの「激流の中に留まる」ということと、ショーシャンク さんの「激流から離れて、自洲法洲に避難する」というのは、結局同じことを言っているのだと思います。>>

 

それでは、『激流の中に留まらない』状態とは何なのでしょうか?

すべての人は激流の中に居ます。
わざわざ、『そのなかに居よ』と言われなくても、激流の真っただ中にいるのです。

また、saṅkhārāには心の意味はありません。
『こころは移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ』とすると
移ろっている心に居ろ、ということになり、これは仏陀の教えとは真逆です。

 

 

~~~~~~

 

<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>

 

そもそも、『激流』ということを何を指すかが、私とあなたでは全く違うようですから
言い合っても意味がありません。

たぶん、あなたや和弘氏は、『激流』を現実生活のように捉えているのでしょう。
現実から逃げるな、ということが言いたいのでしょうね。
しかし、私が言う『激流』とはそういう意味ではありません。
人類は激流から逃げられないのですよ。
逃げれるようなものと思っているのであれば、私の意味するものと全く違います。

逃げられない激流に、島を作ってそこに避難しろということです。
おし流されるなということです。

 

 

~~~~~~

 

そうですよ。
精進しない限り、逃れられないくらいの激流なのですよ。
<<激流から逃げたら、何の解決にもなりません。>>というようなものではないのです。
そして島や洲を作って、その激流から逃れろということなのですよ。

 

~~~~~~

 

<<その状況から逃げるようなことでしょうかね。妄想して誤魔化すとか?
言い訳するとか、自己正当化するとか。>>

 

その妄想、自己正当化、こそが激流の流れなのです。
ですから、妄想してごまかすとか自己正当化するとかは、まさに激流の中にいることなのです。

 

~~~~~

 

自燈明法燈明が四念処観であることは、私は、6月27日の投稿(無依さんへのレス)でこう言いました。
 ↓↓
<<誰かが「自分の心を洲(島?)とし、よりどころとせよ」と言ったような(笑)>>
仏陀は【比丘たちよ、あなた方は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住しなさい。】と言いました。
そして、【しからば比丘たちよ、いかに比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのでしょうか。】と言って四念処観が説かれます。
ですから、自燈明法燈明とは四念処観のことで、自分の心(受想行識)をよりどころにするのとは正反対でしょうね。
 ↑↑
このレスを見て、和弘氏は自燈明法燈明が四念処観であることを知ったと思います。
ほとんどの人(特に大乗仏教の人)は、自燈明法燈明が四念処観であることは知らないと思います。

自燈明法燈明の解釈一つとってみても、仏陀が言ったこととはかけ離れて捉えられているのが現状なのです。

 

~~~~~

 

pipitさん
おはようございます。

仏陀の言葉を探求するうえで最もやってはいけないことは
大乗仏教の観念を基に仏陀の言葉を解釈しようとすることだと思っています。
私は、ずっと大乗仏教に親しんできて、多くの本も読んできました。
ですから、このスレを作ったときも多くの大乗仏教の人たちが大乗仏教の知識をレスしてくれましたが、そのすべては知っていることでした。
そのような知識を捨てるのはつらいことですが、本当の仏陀が何を言ったかを探求するためには
後世に堆積された夾雑物をまずはすべて取り除いてから、真っ新の状態で仏陀の言葉に向き合おうと思いました。

そのことは本当に良かったと思います。
いまは、仏陀の言葉のひとつひとつが大きな実感を伴って迫ってきます。
観念で捉えていたら絶対にわからないことでした。

有名な仏教学者も、大乗仏教の知識で、仏陀の言葉を無理やり解釈している人があまりにも多く、仏陀の真意からかけ離れたものになっているのです。

 

~~~~~~

 

<<私のトピにも、本当にもうどうしようもない人が生息しています。>>

株の掲示板のときもアラシはいるにはいましたが、哲学カテは確信犯が多いですからやっかいですね。

和弘氏の目的がわかりません。
私は株の掲示板の時から、レスがあればどんなに忙しくても必ず返信してきましたので、その姿勢は崩したくなかったのです。

この前も、和弘氏が禅の十牛図山田無文の本の内容をこのスレに貼っていましたので
十牛図が懐かしくなって、
十牛図、懐かしいですね。高校の時に、十牛図が面白くて嵌りました。最近は、全く見てないですが、私が学生の時に到達した結論は、第一図⇒第七図 は修行の段階を表しますが第八図・第九図・第十図は段階で捉えてはならず、第八図・第九図・第十図の3つの図でひとつなのです。』とレスしたのですが、この投稿にはレスありませんでした。

和弘氏は、対話をして理解を深めようという気はなく。自説をあちこちで貼って、多くの人に読んでほしいだけなのかなと思いました。
それで私のスレを埋め尽くされるのも迷惑な話です。

 

~~~~~~

 

<<「自洲法洲」の「自洲」は、「自分の心」のことではなく、自己(今・ここ ではないもの)のことであるということかな。>>

仏陀は、心(受想行識)は非我と言っていますので、自分の心をよりどころにしてはいけないと思います。

四念処観の念(sati)につきましては、『気づく』という瞑想法が主流になってきていますね。

私は『無常・苦・非我・不浄』を観じるという方法の四念処観をしていますが。
(現実問題、難しい交渉事などがあると想念をフルに使わなくてはならないことが多く、私にはどうしても想念に『気づく』ことが難しいので)

 

~~~~~~

 

<<お仕事で難しい交渉事に取り組む、取り組んでいる最中、例えば、交渉で人と会話している時に想念に気づくのが難しい、ということですか?  そんなに難しいですか?>>

私の能力のせいかもしれませんが、私には難しいです。
交渉事となると、自分の利益を最大限に持っていくために様々な知識(法律や商売のほうの専門知識など)からどのような対話に持っていくかなど思考をフル動員していきますので、積極的に思考に自己同化していく感じになります。
思考のすべてに気づきながら思考をフルに駆使することが私にはできませんので
むしろ、徹底思考型の瞑想(四念処観にしても)をしています。
十二縁起も徹底思考型の瞑想です。

 

~~~~~~

 

<<あなたは、まず釈迦を目指されるのですか?>>

 

いえ。釈迦に限らず、誰か特定の人物を目指すことはしません。
精神が無量でありたいだけです。
そのためには、矢を抜かなくてはならず、釈迦の教えを矢を抜く道具、激流を渡る筏としたいと思っています。

 

 

~~~~~~

 

<<レスがなかったというのは、その話に関して「特に言いたいことはなかった」のか「同意」なのか、そんなところかなと思います。>>


絶対に同意ではないと思います(笑)
和弘氏はこのスレッドに、いきなり山田無文の『十牛図』の文章を長々と貼りました。私は山田無文の『十牛図』の本は持っていて内容も知っていますので貼られても意味のないものでした。ただ、十牛図という言葉は懐かしかったので、和弘氏が十牛図についてどんな見解を持っているのかと思い、私の解釈を書きました。しかし、それに対して全く返答もなく、十牛図を貼ることもしなくなりました。
和弘氏は禅に一番親しい感じですが、本に書かれてある解説を後生大事に貼る行為は全く禅ではないと思います。
十牛図なら十牛図公案なら公案に、自分の独自の言葉で著語しなければ禅と言えないでしょうね。和弘氏独自の著語を期待したのですがありませんでした。

 

 

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<<私は逆に、どんな時にでも絶対に同化はしないです。 気づきが主体になっているので。>>
それは素晴らしいことです。私には無理でした。

<<私の場合はですが、あらためて十二縁起の瞑想、四念処観をする必要はないのです。>>

常にどんなときにも同化せずに気づいていられるのでしたら、あらためた瞑想は必要ないでしょうね。私は、想念に自己同化していることが多いので、徹底思考型の十二縁起の瞑想をしています。

<<そこで言われている知識については知りたいと思うのですが、なにかまどろっこしいものも正直感じてしまいます。>>

常に気づいていられるのでしたら、ここで言うところの知識は全く必要ではないと思いますよ。そういういう人にとっては、まどろっこしいものだと思います。

 

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仏教についてのひとりごと 117

<<仏教は最悪の教えだと解りました。>>

 

いいんじゃないでしょうか。
『仏教』という統一されたものも、現状、ないですよね。
浄土教、禅、法華系、真言密教上座部仏教、どれを見ても仏教すべてに共通する点など何もないですね。
信じる経典もバラバラ、信じる対象や仏もバラバラ、教義も全く違いますし
『仏教』という統一されたものがあるとは思えません。

特に私は仏教には仏陀の真意は伝わっていないと思って、歴史上の仏陀が本当に言ったことを探求していますから、小乗大乗問わず既存仏教の全否定から始めました。

仏教にとらわれず、自分に合ったものを探求していけばいいと思います。

仏陀が言った中で最も凄いことは、自分が説いたものでさえ『筏』だと言ったことです。
筏は向こう岸に渡ったら捨てるものです。陸地に上がっても筏を抱えて歩くことは馬鹿馬鹿しいことなのです。

この考え方はとにかく素晴らしい。
そして、現在の『仏教』といわれるものがなくしてしまったのも『筏』の考え方です。

 

 

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<<『十牛図』>>

十牛図、懐かしいですね。
高校の時に、十牛図が面白くて嵌りました。
最近は、全く見てないですが、
私が学生の時に到達した結論は、
第一図⇒第七図 は修行の段階を表しますが
第八図・第九図・第十図は段階で捉えてはならず、
第八図・第九図・第十図の3つの図でひとつなのです。

 

 

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仏陀がなぜあれほど『怠るな』と言ったのか、どうしてもわかりませんでしたが
最近、そのわけがはっきりと見えてきたような感じです。

無量の精神がおぼろげながらでも感じられてくると、人間というものが、肉体の感覚、五官によって毎瞬毎瞬、いかに制限され、限定され、欠乏感へと押し流されているかが見えてきます。
それはもの凄い激流であり万力のような強い力であり、引き摺り込まれる汚泥なのです。
今、この瞬間でも、無量のものから引き離そうとする力がいかに強力なものであるか、これを本当に見ると、仏陀の言う言葉の一つ一つが身に沁みてきます。

特に大乗仏教は悟りや救いの大安売りですが、『激流』を見てしまうと、そんな甘いものではないなと思ってしまいます。

 

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<<大乗の場合は、「諸行無常に渦中にある自己」を覚る。言い換えれば「激流の渦中の主体」の自覚でしょうか。>>

 

あなたは、『激流』を見ていません。ただ、本の中、掲示板の中の『激流』という言葉を『煩悩』だとか『無常』だとか『自我』だとかいう言葉に置き換えて観念で理解したつもりになっているだけです。

 

<<釈尊の最後の言葉を紀野一義先生は、「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」と訳しましたが、私はそれに賛同しています。>>

 

数々の凡庸な仏教学者が仏教なるものを仏陀の真意からかけ離れた似非仏教に仕立て上げていきました。紀野一義もそうですね。「比丘らよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易きものである。見落とすことなくその中に居よ」などとよくそんな馬鹿な訳ができたものです。サンカーラ=行 を『こころ』と訳すのも大間違いですが、『見落とすことなくその中に居よ』???勘弁してほしいところです。
仏陀が生涯をかけてあれほど『厭離しなさい』と繰り返した意味がまるでわかっていません。

さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。
 ⇑⇑⇑
この訳はパーリ語から日本語に直接訳したもので、あなたのいうような『中国人』は関係ないですね。

 

<<これを中国人は「怠ることなく精進せよ」と訳したため、「見落とすことなくそのなかに居よ」という忠告を、あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義に解して、「根本苦悩からの自由」を遠いものにしてしまったということです>>

 

あなたには仏陀の理解は無理のようです。
龍樹の観念論に心酔して、自分が心で捏ねくりあげた理論を無理やり原始仏典や大乗仏典の解釈に当てはめて独善的な観念を強めているだけだからです。
「怠ることなく精進せよ」をこともあろうに『あきれた努力主義、あわれむべき苦行主義』と言うとは、あなたには仏陀を語る資格もない。
八正道の6番目は正精進です。仏陀の教えの根本である精進が『あわれむべき苦行主義』???

精進を苦行というとは!!!あなたの捏ねくりあげた観念論ははっきり言って似非仏教です。

 

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<<そうした文化圏の違いの理解において、歓迎すべきものと、受容に慎重を要するものがあることは明らかである>>

 

現代になってようやく、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかが明らかになってきています。
これは現代文献学の急速な進歩のおかげです。
仏教なるものが、歴史上の仏陀が説いたことと全く違うものになっていることはもう常識です。

『受容に慎重を要するものがある』というのは何故ですか?
仏陀が本当に言ったことがわかったらまずい人がいるのですか?
そうです。仏教にはごまんといるのです。
今まで仏陀と全く違った理論を作り上げてきた人やその人を信仰している人たちです。

仏教というのは仏陀が説いた教えですね?
仏陀が説いた教えと矛盾しているのであれば、それは仏教ではないですね。

あなたがこれほど、歴史上の仏陀が言った本当の言葉に拒否反応を示しているのは
あなたの観念体系、理論体系が崩れることを怖れているからです。

ひとつ、質問しますね。
歴史上の仏陀が言ったことと龍樹が言ったことが違っていたらどちらを取りますか?
あるいは、歴史上の仏陀が言ったことと道元が言ったことが違っていたらどちらを取りますか?
答えてください。

 

 

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仏教についてのひとりごと 116

あなたの引用する田上太秀の『涅槃経を読む』では、他にもこうあります。

『そこで経典は、仏性についてその特質を7つ挙げている。』
『1、常住であること(限りなく、いつもあること)』
『3、実在であること(事実として存在していること)』

あれ?あなたのいう『常住なものはない』『実在であるものなどない』ということと全く正反対なことが書かれていますね。
これはどうなのですか?

 

 

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田上太秀『涅槃経を読む』第3章仏性とは何か には

一切衆生のみなに仏性がある。これは我(アートマン)というべきである。
如来性品第4の4)

また、田上太秀『涅槃経を読む』第5章多彩な比喩説法を読む では

他の宗教が我(アートマン)があると説いているのは、虫が木をかじってたまたま字の形を作ったこととおなじと知らなければならない。だから、私は、仏陀の教えには我(アートマン)がないと説いたが、それは人々の心を落ち着かせるために説いたのである。
ただ、いま私は理由があって、ここで我(仏性)があると説かなければならない。

とあります。
大乗涅槃経に至って、仏教は我を全面的に認めたのです。

無常・苦・無我・不浄から常楽我浄に変わったのです。

大乗涅槃経はあなたの説と真逆です。
わざわざ出してこない方がよかったですね(笑)
無我を否定して、我を打ち出しているのですから。

 

 

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<<『涅槃経』はあくまで「空」「中道」を説きますから、常住と言っても、断滅と相対する常住ではなく、断滅と常住の相対を絶した「空・中道」としての常住です。>>

 

何でもかんでも『空』『中道』を説いたことにしたいのは、龍樹哲学一辺倒のあなたです。
涅槃経の大テーマは『常楽我浄』ですよ。
小乗の『無常・苦・無我・不浄』を『常楽我浄』に大転換したのです。

涅槃経の『仏性』の原語は『buddha-dhatu』です。
『dhatu』は基体という意味です。
ですから、『buddha-dhatu』は仏の基体です。
成仏の可能性という意味はありません。そう解釈するのは間違いです。
仏である基体、根源という意味です。

 

<<実在は実体ではありません>>


それもあなたの解釈にしか過ぎません。
実在というのは本当に存在することです。
幻ではなく、空虚なものでもなく、厳然と存在するという意味です。
実体も変化するものの根源にあって厳然と存在するものです。

 

もし、<<「実体なきところに真実の実在がある」と『涅槃経』は説きます。>>と断言できるなら、涅槃経の経文でそのように説かれているところを挙げてください。
道元の詩などでなく、経典の文言です。

 

 

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仏性(buddha-dhatu)が『成仏する可能性』『ブッダになる可能性』という意味でないことを証明しましょう。

涅槃経には
一切衆生に仏性(buddha-dhatu)があり、その基体(dhatu)は各自の身中に備わっている。
と断言しています。

その後に、『衆生は煩悩の相を尽くしてから仏となる。ただし、一闡提を除く。』とあります。

これの意味は、一闡提も基体(dhatu)は備わっているが、煩悩の覆いがあまりにも厚いため『成仏する可能性』『ブッダになる可能性』がない、という意味です。

ですから、基体(dhatu)は可能性という意味ではなく、仏性(buddha-dhatu)は『ブッダになる可能性』ではなく、仏の基体という意味であることが明らかなのです。

 

 

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<<はやい話、アートマンアートマンであっても、その中身を解体し「空性」にしているのです。いわば、「空性という法」が常住して在るということです。>>

 

それは、あなたのいつもの持論を述べたにすぎません。
大乗涅槃経のどこに、『アートマンアートマンであっても、その中身を解体し「空性」にしている。アートマンとは、「空性という法」だ。』と書いてあるのですか?
「空性という法」を我(アートマン)と呼ぶ経典作者なんていません。


『一切衆生のみなに仏性がある。これは我(アートマン)というべきである。
如来性品第4の4)』
あなたの解釈では、仏性は「ブッダになる可能性」ということですが、「ブッダになる可能性」を我(アートマン)というべきだと思う人なんていません。
あなたがこれから歌手になる可能性もゼロではなく可能性はありますが、その可能性をもって我(アートマン)とは言わないですね。
これは、仏性が仏の基体=基盤となる本体 という意味ですから、我(アートマン)といったのです。

 

 

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あなたはいつものように、答えられなくなると私のレスをスルーしますが
大乗涅槃経について、あなたの投稿に対しての反論をスルーということは
私の意見が正しいとしていいのですね。

私もあなたと論議したくもないのです。時間ももったいないので。
ただ、あなたが私がスレ主であるこのスレッドに、スレとは全く無関係な自説を大量に貼り付けるので、追い出すために、あなたの自説の間違ったところを指摘しているのです。

仏教者というのは、宗論や問答に負けたら死んだり処罰されたりもあり、少なくとも二度と自説を公に説くことはしませんでした。
それほどの覚悟をもって、自説を説いていたのです。
その覚悟がないのであれば、自分のスレッドで『ひとりごと』を言っていればいいではないですか。
私は、自分のスレッドでのみ、発言しています。
だから『ひとりごと』です。

あなたは他人のスレッドを自説の垂れ流しで荒らしているのですから、間違いを指摘されてそれに答えられないのであれば、二度と他人のスレッドを荒らさない覚悟はないといけませんよ。

仏教についてのひとりごと 115

<<そこでも満足できなかった釈尊は、そこで“師を離れ”ネーランジャ河のほとりにある森に入って、ひとり修行を深め、そこで「明けの明星」に出遭ったという。後に仏弟子たちはそれを「想滅定」と命名する>>

 

あなたが書いている仏陀の記述は嘘ですので、仏陀には触れずに、今までのように龍樹教だけを宣伝しておいてください。

仏陀は、アーラーラ・カーラーマで無所有処定(無所得有処定ではありません。あなたの間違いです。)に、ウッダカ・ラーマプッタで非想非非想処定にすばやく達しましたが
禅定は解脱に達するものではないと見切って離れたのです。

 

それからの長い苦行生活には師はいませんでしたから、<<そこで“師を離れ”ネーランジャ河のほとりにある森に入って>>というのは間違いです。

 

<<ひとり修行を深め、そこで「明けの明星」に出遭ったという。後に仏弟子たちはそれを「想滅定」と命名する>>


仏陀が明けの明星を見て悟ったというのは嘘です。成道時に滅受想定に入っていたというのも嘘です。

 

あなたは、仏陀の記述はしない方がいい。嘘が多すぎます。
龍樹や道元を解説していたらいいでしょう。

 

 

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【実体】とは、『さまざまに変化してゆく物の根底にあって持続的だと考えるもの』という意味です。

現象すべては、様々に変化していきます。
【自己】【私】というのも、一時的な現象であり、現象が集まったものを仮に【自分】と言っているのですから、実体などないでしょう。
ですが、現象の根底にあるもの、このことを言っています。

これを多くの宗教では神と言います。
現象の根底、背後に厳然としてある神を否定するのであれば
キリスト教イスラム教の全否定となります。
あなたは、キリスト教イスラム教の根本を全否定するのですね?

そして、仏陀は、そのような現象の根底にあるものを実体があるとか実体がないとか、論議することを禁じました。

あなたはその実体があるとかないとかの形而上の論議を禁じた仏陀の教えに背き、『すべてに実体はない』と断言しているのです。

 

 

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<<ハイ!全否定します。仏教も否定します。言語も否定します。人間も否定します。否定も否定します。この絶対否定において、すべての宗教をあるがままに肯定できる絶対肯定の世界が現成します。>>

 

これ、いかに馬鹿馬鹿しいことを言っているかわかりませんか?
キリスト教イスラム教、仏教、すべての宗教を全否定すると、すべての宗教をあるがままに肯定できる絶対肯定の世界が現成するのですか?
現象の背後の神というものを全否定して、なぜ『すべての宗教をあるがままに肯定』できるのですか?
キリスト教をあるがままに肯定するということは、絶対神を認め信じるということですよ。
頭から神を全否定しておいて、『絶対肯定』などというのは、あなたが観念の迷宮に入っているからです。

実体否定、二元対立否定という観念論に陥っているからそのような無意味なことが言えるのです。

仏陀の言う中道は八正道のことでそれ以外ではありません。
仏陀が言う『空』とは、泡のように消えるもの、という意味です。
龍樹が作り上げた意味とは違います。

龍樹は空仮中ではないですか。仏陀のいう意味と全く違うことはわかりますよね。

 

 

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<<同じことを言っていますよ。(^^)>>


そうですか。じゃ、龍樹の言った空仮中の中とは八正道のことなのですか?

 

<<貴兄が実体に執着するから、絶対肯定するという仏知を自覚できずに、仲良く、お手手つないで 歩けないのではないのでしょうか。>>

 

全く、逆です。
私は、実体があるとか実体がないとかは、形而上学、観念論なので、論議してはいけないという仏陀に賛成しているのです。
ですから、あなたのように神にも実体がない、などとは言っていないのです。
ですから、私はキリスト教も尊敬してますよ。
あなたが、仏陀に背いて、『神にも実体がない』と断言しているだけです。
その実体否定に固執していることこそ、対立を呼ぶのですよ。

イスラム教の人に向かって『あなたの神には実体がない』とあなたは言えるのですか?言えないことを掲示板だからといって書いてはいけません。

 

 

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<<本当に相対的議論になるとヤッカイです。>>

 

そうですよ。
だから、仏陀は、形而上のことは無記とし、論議するな、と言ったのです。
それを、龍樹に心酔しているあなたが、『仏教は縁起だからどんなものにも実体はない』『神という者にも実体はない』と哲学的断言をしているのです。

仏陀の教えから遠く離れていることが分かりませんか?

 

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<<すべては縁起生ですから、空にも「第一義諦」と「俗諦」の両義があります――断常中道。>>
<<この二元対立を、形式論理を超えた智慧によって和合させていくのが中道(不二中道)というのが、四諦の正道ではないのでしょうか。>>

 

仏陀が言ったのは、断見も常見も迷妄ということです。

 

<<『中論』というのは、人間を超えた無量なるものに頭をさげる「信仰の論理」でもありますから、龍樹も在家には阿弥陀如来の念仏を勧めています>>

 

その『人間を超えた無量なるもの』にも、あなたによれば、実体はないのですよね?
あなたの観念では、実体も何もないものに頭を下げるということですね。
あなたによれば、阿弥陀如来にも実体がないのですね。
つまり、実体のない幻を信仰せよ、と言っているのですね?

 

<<非ず非ず、無し無し…と俗諦そのもの否定し尽くしたときに真実が現成するというのが空の論理です。>>

 

その『俗諦そのもの否定し尽くしたときに現成する』という『真実』も、あなたによれば、すべては縁起なので実体がないのですよね?

つまり、あなたの理論ではどこまで行っても実体がない幻なのです。
究極の虚無思想ですね。

龍樹もこういう人たちを多く生み出してしまったのですから、困ったものです。

 

 

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あなたの●因中有果説と因中無果説●という文章は、田上太秀の『涅槃経を読む』という本の記述ですね。
その本には、こうもありますね。

大乗仏教の涅槃経では、右に挙げた1、諸行無常諸法無我 2、衆縁和合説 3、業報説の3つのうち、1の考えに対して、諸行は必ずしも無常ばかりではないと言い、また、生類には不滅のものが内在していると言い、これが仏説であると説いている。』

 

 

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