仏教のキーマンはスジャーター

仏伝だけでは、スジャーターは、仏陀が苦行を止めようと決意したときに、1回乳粥を差し上げただけの人のように受け取られます。

しかし、スジャーターの村の伝承を見ると、スジャーターは仏陀の成道において(ということは仏教全体において)極めて重要な役割をしたことがわかります。

 

ぐったりとしている仏陀を見て、スジャーターは乳粥を差し出します。

しかし、仏陀はかたくなに食べようとしません。

つまり、この時には、仏陀は苦行=断食を止めようと決意してなかったということです。

しかし、スジャーターは乳粥を食べるように何度も勧めます。

というのも、スジャーターは結婚してましたが、子供がまだだったため、毎日神様に子供が授かるように祈っていて、『祭りの日に倒れている沙門にお布施しなさい』という神様からのお告げをいただいていたのです。

お告げの人だと思ったのでしょう。どうにかして食べてもらおうとします。

そして、こう言います。

『沙門様、歌にもこうあります。「琴は弦が張り過ぎてもいい音は出ない。弦が緩み過ぎてもいい音がでない。張りすぎず緩み過ぎずがちょうどいい」と。沙門様、修行も張りすぎてはいけません』

 

仏陀は、この言葉にハッとしたのでしょう。

この言葉により、仏陀は苦行をやめる決意をします。

そして、乳粥を食べます。

極限までの断食行をし続けてきたのですから、一杯の乳粥で回復することはなく、それから何日もスジャーターは仏陀に乳粥を供養します。

それを見ていた5人の修行仲間は、仏陀が挫折し堕落したものと見なして離れていきます。

 

元気を取り戻した仏陀は、極限まで苦行をして悟れなかったのだから苦行では悟れないと考えます。

そして、ふと、在家の時のワンシーンが思い浮かびます。

王である父の祭典の日、一人離れて木陰で瞑想をしていたときのことです。

初禅と言われる瞑想ですが、仏陀にはこれが解脱への道だという確信が沸いてきます。

 

そして、スジャーターの村を離れて、ある村の菩提樹の下に座ります。

悟りを開くまでそこから動かないと決意します。

 

スジャーターの村を離れたのは、再び瞑想に没頭するためです。

 

スジャーターはそこまで食事を持っていきますが、仏陀はもう食べようとはしません。

心配になったスジャーターは、数人の子供たちに、仏陀が倒れるようなことがないか見張らせます。

 

しばらくして、仏陀は悟りを開きます。

悟りを開いた瞬間、子供たちにもわかるくらい光輝に溢れます。

子供の一人が叫びます。

『まるで悟りを開いたブッダみたいだ』と。

ブッダとは目覚めた人という意味で一般的な言葉だったのです。

この子供の言葉から、仏陀自身も自らをブッダと名乗るようになります。

 

子供たちはスジャーターに報告します。

スジャーターは再び、仏陀に食事の供養を始めます。

 

そうやって、半年間、仏陀は自らの法をどう説くか、熟考します。

 

そして、完成したあと、5人の修行仲間がいるバーラーナシーに法を説くために向かいます。

 

これを見ると、仏陀の人生に決定的な転機をもたらせたのは、スジャーターだったと考えられます。

スジャーターの説得によって、仏陀は苦行が弦を張りすぎているような、極端な道で解脱には向かわないことを知り苦行を止めて中道に向かう決心をしたのです。

 

仏陀は入滅の時も、スジャーターの供養について言及します。

 

 

 

 

 

なぜ最初に5人の修行仲間に説いたのか?②

何故、仏陀は、自分を信頼していなく、侮蔑している、5人のかつての修行仲間に最初に法を説いたのか、ということですが、私の考えはこうです。

 

身近であれば、スジャーターやその村の人に説いてもよかったのです。また、悟って初めてお布施をしてくれた2人の商人(行商人)がいたと思いますし、ウパカにも会っています。

それらでなく、ずいぶん離れた所にいる5人の昔の修行仲間のところまでわざわざ歩いていってまで、最初に説いたのはどうしてでしょうか。

 

鍵は、成道後の梵天勧請にあります。

仏陀は悟ったときに、こう思います。

『私が悟った法は精妙である。しかるに、世の人々は執着を楽しみ、執着を喜び、執着に歓喜している。そのような人たちにこのような微妙な法は見がたい。説いても分かる者はいない。説いても無駄だ。このまま説かずに置こう。』と。

そこで梵天が慌てて来て言います。

『世の中には穢れの少ない者もいます。理解できるものもいます。どうか説いてください。』と。

仏陀はそれを聞いて、天眼智で見ますと、汚れが少なく理解してくれそうな人がいることがわかります。

それで、説くことを決意します。

そして、天眼智で見て、説いて理解できる人として、アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタを見つけます。

仏陀が出家して最初に弟子入りした師匠たちで、無所有処定と非想非非想処定を習ったのです。

仏陀は、この2人に最初に教えを説こうと思います。

ところが、2人ともすでに亡くなっていました。

そこで、また、天眼智で見て、理解できる人として、かつての修行仲間5人を見ます。

 

つまり、天眼智で見て、仏陀の法を理解できる者として、5人の元修行仲間が見えたということです。

 

 

ということで、

なぜ最初に5人の修行仲間に説いたのか?という疑問への回答としては、

①第一候補のアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタがすでに亡くなっていた

②仏陀の微妙な法が理解できるほど、執着や穢れがない者という選定基準に、天眼智で見て当てはまった

 

以上、2点だと思います。

 

仏陀は自分の法は世の中の人に理解されないだろうと思っていました。

執着を楽しみにしている人に、執着が苦の縁って起こる原因と言っても理解されないだろうと。

梵天に、理解できる人もいると聞かされ、説法する気になりました。

そして、まずは理解できる人から説法し始めようとしたのです。

5人の昔の修行仲間は自分を侮蔑しており、そうでないアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタに比べて、法を聞いてもらうのは難しいことではありましたが、理解できる人という条件の方が勝ったということでしょう。

 

 

スジャーターの村の伝承によれば、乳粥によって元気になった仏陀は、隣村の菩提樹に下に座り、悟りを開くまで動かないと決めます。

スジャーターが差し出す乳粥も再び食べなくなります。

心配になったスジャーターは、数人の子供たちに様子を見張らせます。

悟ったあと、再びスジャーターたちが差し出す食事を食べるようになります。

そうやって、そこで半年間、悟った法をどのように説くか考察します。

ですから、仏陀の法は、初転法輪の時から完成度が極めて高いと言えます。

なぜ最初に5人の修行仲間に説いたのか①

ぎんたさんの講師の人が『なんで仏陀は最初にこの5人に語ることにしたんだろう?』と呟いたとのことです。

初転法輪の時に、かつての修行仲間5人に最初に説法したことを言っています。

私は、この問いはとてもセンスのある問いかけのように思えます。講師の人は大学の先生だとか、いいセンスです。

普通に考えれば疑問に思う方がおかしい、当たり前じゃん、っていう話です。

長年一緒に修行してきたのですから一番身近ですし、修行も出来た仲間たちですから、当然の選択で疑問の余地などないように思えます。

 

ところが、そうではありません。

この5人とともにゴータマ・シッダッタがしていた修行は断食行です。

ところが、ゴータマだけ、村の若い娘から乳粥をもらって食べてしまいました。

断食を止めてしまったのです。

仏伝では簡単に書いてあるだけですが、スジャーターの村に伝わる話ではより詳しいです。

仏伝からのイメージでは、苦行では悟れないと思った仏陀がスジャーターという貧しい村の娘から乳粥という粗末な食べ物のお布施を一度受け、それからすぐ菩提樹の下に座って悟りを得たというように思えます。

しかし、実は、スジャーターは村長の娘、長者の娘です。

乳粥も当時、貴重で贅沢な食べ物です。

米も高価で貴重なものでしたし、牛乳も蜂蜜も極めて貴重なものでした。その3つから作られる乳粥はとても贅沢な食べ物だったのです。

スジャーターは独身のようなイメージですが、結婚していました。

しかし、なかなか子供ができませんでした。

それで毎日神様に、『子供を授けてください』とお祈りしていたのです。

ある時、神様からのお告げで、『祭りの日に倒れている沙門にお布施をしなさい』という言葉が聴こえます。

父である長者が貧しい人たちに乳粥を食べさせてあげる祭りの日に、スジャーターは横たわってぐったりとなったゴータマを見つけます。

神様のお告げの人だと思ったスジャーターは、ゴータマに乳粥を差し出しますが、ゴータマは決して食べようとしません。

そこでスジャーターは、『お坊様、歌の歌詞にも、「琴は弦が張り過ぎてもいい音がでないし、緩み過ぎてもいい音はでない。緩み過ぎず張り過ぎずがちょうどいい」と申します。張り過ぎはよくありません。』と説得します。

その説得に共感したゴータマは、差し出された乳粥を食べます。

それから、スジャーターは、何日も、ゴータマの体力が回復するまで乳粥をお布施し続けます。

それを見ていた5人の修行仲間は、『ゴータマは堕落した。悟りに達する前に修行を放棄してしまった。脱落者だ。』と軽蔑して見限って去って行ったのです。

長者の娘の庇護を受けて堕落の極致のように思えたでしょう。

 

ですから、ぎんたさんのその講師の人の問いかけはとても適切なのです。

5人の修行仲間は、ゴータマのことを、堕落者、脱落者、挫折者として大いに軽蔑してゴータマから離れて行ったのです。

つまり、全くの初対面の人に比べ、大きなマイナス感情、侮蔑感情、こんな奴の言うことなんか聞きたくもないという評価をゴータマに対し持っていたということです。

 

その講師の人は、5人がゴータマをとことん軽蔑していたことを知っているからこそ、『なぜ最初にその5人に話そうとしたのか?』を疑問に思ったのでしょう。

全くの初対面の人ならゴータマに対し評価はゼロです。何も知らないわけですから。

しかし、その5人はゴータマに対し大きなマイナス評価を下しています。

わざわざ何故、自分を侮蔑し自分を駄目な奴と決めつけている者たちに、最初の説法をしようとしたのか?ということです。

 

自分へのマイナス評価のない、先入観のない、初対面の人に説法する方が何倍も容易なはずです。

イエス・キリストも自分の故郷では『ああ、あの大工の息子かあ』と思われて、うまく説法できませんでした。

まして、自分に対して強い侮蔑感情を持つ者に対して、法を説くのは至難です。

 

私は、仏陀の思考経路を辿っていくと、2つのことが主な理由だと考えています。

 

一つは、5人の修行仲間は第一候補ではなかったこと、そして、もうひとつは梵天勧請にヒントがあります。

 

長くなりますので、時間があるときに、次の稿で私の考える答えを書きたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

後世の仏教理論で仏陀を読むと

大乗仏教の国日本において、僧侶も一般人も、大乗仏教の理論を仏陀に読み込んで満足している人が圧倒的に多いのが現状です。

動画を見ても、原始仏典を説明するとき、日本仏教の僧侶は、大乗仏教の理論で説明できる部分だけピックアップしています。

 

龍樹以降の仏教においては、仏教の根本理論は、縁起、空、中道となりました。

その理論によれば、縁起とは、すべての存在は無数の原因(因)や条件(縁)によって成り立っているものである、ということです。

ですから、自性などない、空である、となります。

つまり、自立しているように思える存在も無数の関係性によって成り立っているということから、関係性が変化していけば変滅するもので独立した性質などない、無自性、空であるということです。

 

仏教の常識と言ってもいいくらいに普及した考えですが、このような『縁起』の観念で原始仏典を読み込んだら全く違うものとなります。

 

相応部経典『カッチャーヤナ』で見てみます。

 

仏弟子カッチャーヤナが仏陀に聞いた。

『正見、正見と言われますが、正見とはどういうことでしょうか?』

仏陀は答えた。

『世間の人々は、有か無かの二つの極端に片寄っている。

 正しい智慧によって、あるがままにこの世間に生起するものをみるものには、この世間には無というものはない。

 正しい智慧によって、あるがままにこの世間から滅していくものをみるものには、この世間には有というものはない。

 この世間の人々は、その愛執するところやその所見に取著し、こだわり、とらわれている。

 だが、聖なる弟子たちは、その心の依処に取著し振り回されて「これがわたしの我なのだ」ととらわれ執著しこだわるところがなく、

 ただ、苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、疑わず、他に依るところがない。

 ここに智が生ずる。

 かくのごときが正見なのである。

 「すべてが有である」というのは一つの極端である。

 「すべてが無である」というのももう一つの極端である。

 如来は、これら二つの極端を離れて、中によって法を説くのである。

 無明によって行がある。行によって識がある。識によって名色がある。名色によって六処がある。六処によって触がある。触によって受がある。受によって愛がある。愛によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死があり、愁・悲・苦・憂・悩が生ずるのである。

 かくのごときが、このすべての苦の集積のよりてなる原因である。

 また、 無明の滅によって行の滅がある。行の滅によって識の滅がある。識の滅によって名色の滅がある。名色の滅によって六処の滅がある。六処の滅によって触の滅がある。触の滅によって受の滅がある。受の滅によって愛の滅がある。愛の滅によって取の滅がある。取の滅によって有の滅がある。有の滅によって生の滅がある。生の滅によって老死の滅があり、愁・悲・苦・憂・悩の滅があるのである。

 かくのごときが、このすべての苦の集積の滅に至るところである。』

 

 

この経典は、有無中道の根拠となる経典です。

 

さて、この経典に限らず、仏陀が「縁起」というときは十二縁起のことなのです。

十支縁起などの短縮形はあったとしても、すべて『苦の縁って起こる原因』のことです。

 

後世の仏教での『縁起』は、すべての存在の成り立ちを説明するものでしたが、仏陀では十二縁起の法ということです。

 

 

後世の仏教では、縁起=空=中道とされました。

 

その理論でこの経典を解釈すればどうなるでしょうか。

結論部分で、仏陀は、『有と無の両極端を離れて中によって法を説く。無明によって行がある。行によって識がある。識によって・・・・・・(以下、略)』と十二縁起を説いています。

 

例えば、リンゴが1個あるとします。

リンゴは食べられるか、腐るか、してなくなっていきます。

つまり滅していきます。

ところが、このリンゴは、食べたにしても腐ったにしても、無明の滅によって滅したわけではありません。

有無中道を十二縁起によって説くと書いてあるこの経典を、不二中道が仏教だと思っている人たちはどのように解釈するのでしょうか。

 

十二縁起がなぜ有無中道の根拠となるのでしょうか?

これについて、解説できている人を見たことがありません。

都合の悪い部分、大乗仏教理論では説明できない部分、大乗仏教の『縁起』の意味では全く意味が通じなくなる部分については、無視、スルーしている人ばかりです。

 

ですから、仏陀の真意を知るには、まずは後世に発展してきた煩雑で膨大な理論の数々をいったん白紙にして、仏陀の言葉と向き合わなければならないのです。

そうしないと、ほとんどの人がしているように、後世の理論を無理矢理、仏陀に投影させて満足していることになります。

 

 

 

 

 

仏陀の言う『空』とは

後世の仏教において、すべての存在は無数の原因(因)や条件(縁)によって成り立っているので、自性などなく、空である、というように、縁起、無自性、空の理論ができ、それが仏教の根本思想となりました。

 

仏陀は空の理論は説きませんでした。

スッタニパータで『空』という言葉が出てくるのは、『世界を空と見よ』という箇所くらいです。

この時の、『空』とは、生じたものは必ず滅する、はかないものだ、という意味です。

 

私が好きな仏典に、相応部経典22.95『泡沫』があります。

五蘊が見掛けだけのもので実体がなく本質もないということを説いた経典です。

色を、ガンジス川に浮かんでは消えるあぶく

受を、雨が降って水溜まりの上に立つ泡

想を、真夏の昼間にただよう陽炎(かげろう)

行を、茎のない芭蕉の木

識を、手品師がする手品

に喩えています。

 

この喩えが秀逸なので、とても好きな経典です。

 

ガンジス川に浮かぶ大きなあぶくに比べ、雨粒によってできた泡は小さなものです。

身体を大きなあぶくとし、

受を絶えず降り注ぎ出来ては消える小さな泡とするのは適切です。

想(表想)はかげろうのような不確かさです。

芭蕉の木というのは馴染みがありませんが、実は木ではないらしいです。

草に過ぎず、茎に見えるところも短期間で変滅するようです。

外からは堅固に見えても中身(樹心)がなく、茎を剥いても剥いても葉っぱだけの植物らしいです。

行(意志作用)を喩えるにとてもうまいです。

識を手品師(魔術師)の手品(魔術)としているのも、幻覚、錯覚を示唆していて秀逸です。見ている間だけに生じている幻覚で実体がなくすぐなくなるものです。

 

この経典には『空』という言葉は使われていません。

しかし、五蘊皆空という仏教の言葉は、このような説法から来たのでしょう。

 

すべて、生じてはすぐに滅するはかないもの、常住したり存続したりするものがないという喩えです。

 

このように、仏陀が言う『空』とは生じてはすぐに消えるはかないものという意味です。

 

もうひとつ、

『すでに生じたものであるから、「無」であると言うことはできない。

必ず滅するものであるから、「有」であると言うことはできない。』

という意味で、

一切は、有でもなく無でもない、と言ったことはあります。

これが、後世に、有でもなく無でもなく空だ、ということになったのでしょう。

 

 

 

 

 

なぜ仏陀は第四禅で入滅したか

仏陀は、九次第定を一段階目の初禅からはじめて九段階目つまり最終段階の想受滅定(滅尽定)に到達したあと、なぜか段階を一段ずつ下がっていき、初禅に戻り、初禅から第四禅に上がったところで入滅しました。

これは大きな謎です。

 

普通に考えれば、最高段階の想受滅定に到達したところで入滅するはずです。

仏教の大きな謎です。

 

私はこう考えます。

 

九次第定の1番上は想受滅定です。

上から2番目は、非想非非想処定です。

上から3番目は、無所有処定です。

 

ところが、仏陀が出家してすぐに、非想非非想処定と無所有処定を習いに行き、仏陀はたちまち習得します。

しかし、この2つの禅定は、『解脱にも涅槃にも行き着かない』として捨て去ります。

その後、苦行に打ち込みます。

断食行と止息行です。

数年もの間苦行に専念しますが、苦行では涅槃に至らないとみかぎります。

 

そして、在家のときに、初禅の瞑想をしたことを思いだし、これが涅槃に至る道に違いないと思います。

 

そして、第四禅まで達して、三明を獲得し、四諦の法、十二縁起の法を瞑想することによって完全な解脱に達します。

 

ちなみに、八正道の正定は第四禅です。

 

このように、仏陀の中で、第四禅は極めて重要です。

 

一般的な仏教では、色定である四禅より、無色定の方が上であると定義されていますが、仏陀自身は、無色定の非想非非想処定と無所有処定は出家の最初において涅槃に至らないとして捨てているのです。

 

ここに、仏陀の秘密を解き明かす鍵があると思っています。

 

欲界定は思考100%で止観の止(無思考瞑想)は0%です。

それが、色界定から無色界定と上に上がるほど無思考瞑想となっていきます。

最終段階の想受滅定は全くの無思考、無念無想です。

 

しかし、仏陀は出家してすぐ、無色界定では涅槃に至らないと捨て去ったのです。

仏陀は、無思考瞑想を到達点とは考えていなかったのです。

 

前稿の『清浄道論』にあるように、四禅は四無量心の瞑想によって到達します。

 

仏陀の成道のときも、仏陀の滅度のときも、無色界定ではなく色界定だったことを考えれば、

仏陀の瞑想の最終型、つまり涅槃という理想の境地に至るには、四禅の状態、つまり思考がある状態で、四無量心の瞑想、四諦の瞑想、十二縁起の瞑想をすることではないかというのが結論です。

 

仏陀の核心は、四諦、十二縁起、四無量心、といった仏陀の理法を瞑想することであったということです。

 

 

ただ、仏陀は成道後も、たびたび無色界定をしていたと思います。

それは、安楽であったからだと思います。

説法で思考を駆使していた仏陀にとって、無思考瞑想が何より安楽なものであったのだと思っています。

 

 

 

第四禅と四無量心の関係

『清浄道論』にこのようなことが書かれているという論文がありましたので、備忘録として載せておきます。

 

『身至念と十不浄とは初禅に属す

 初の三梵住は三種禅に属す

 第四梵住と四無色とは第四禅に属す』

という言葉です。

論文では

『つまり、慈・悲・喜無量によって第三禅に到達し

 捨無量によって第四禅に到達する。

 すなわち、四無量によってはじめて禅定の最終境地に至る。』

と結論付けています。

 

 

法華経は一貫性がない?

スマナサーラの『法華経は、一人の人でなくて多くの人が書き足し書き足ししたもので一貫性がない』

という言葉について考察します。

 

私は、序品第1から嘱累品第22までは、一人の人が書いたと思っています。

この人をAとします。

ただし、提婆達多品第12だけは後世に付加されたと考えます。

嘱累品第22で完結しているところ、Aの後継者Bがどうしても付け加えたくて、薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までを書いたと思っています。

私の考えでは、Aとその後継者Bは極めて親しい関係です。

そして、Bにはどうしてもそれを書かなくてはいけない訳がありました。

 

私がこう考える理由は次に出す本の中で詳しく書きます。

 

さて、スマナサーラに限らず、法華経は内容がバラバラで一貫性がないとか、そもそも内容自体が全くないとの感想は多くの人が持つものだと思います。

 

序品で光を発してこれから何かが始まると思っていると、方便品では、仏知見を示すために如来は生まれたと言うだけで、その仏知見は仏だけにしか分からないものだと突き放しています。

それから喩え話が主に説かれます。

三界火宅や長者窮子や薬草の喩えです。

次は授記の場面が延々と続きます。

かと思うと、法華経を広める人たちへの迫害を説いたりします。

さらに、地面から巨大な宝塔が現れたり、無数の菩薩たちが現れたりします。

 

確かにバラバラに見えます。

 

法華経は一体何を言いたいのでしょうか。

 

ごまかさずに『全くわからない』自分と向き合うことが極めて重要だと思っています。

答えを知りたくて、仏教解説書、法華経解説書を読み漁ってまあまあ納得できそうな解説を見つけたとしても、それはその解説書の著者の考えにしか過ぎません。

そこそこのところで自分を納得させている人が極めて多いと思います。

 

私の場合、どの解説書を読んでも、これが経王と呼ばれる内容だとは思えませんでした。

 

心から納得できないものは納得しないという姿勢が大事だと私は思っています。

解説書を読んで知識を多くしただけで満足してその知識量、読書量でマウントを取る人がいかに多いかは、ヤフー掲示板やマニカナのアラシたちを見てきたのでわかります。

 

 

今は断言できます。

法華経は間違いなく経王です。

最高の仏典です。

 

原始仏教によって仏陀の真意がわかり、仏教が根本分裂を経て部派仏教になってかけ離れていった歴史がわかって、紀元前後の状況がわかって初めて法華経の真意がわかるのだと思います。

 

大乗仏教を興した人たちは、部派仏教のどこに強烈な不満を持ったのでしょうか。

その答えはすべて法華経の中で明かされています。

法華経は大乗仏教が興った謎を解き明かす最大の鍵でもあるのです。

 

 

法華経がわからないうちは、バラバラな内容に思えます。

しかし、仏知見、一大事因縁、諸法実相、如来秘密神通之力、観音力、一仏乗、という言葉が意味するところがわかってくれば、すべてが繋がってきます。

 

 

『ただ虚妄を離るるを名付けて解脱となす。それ実にはいまだ一切の解脱を得ず。 この人はいまだ無上道を得ざるが故に。』

『空法において証を得たり。 これ実の滅度にあらず。』

『我見および有無の見等を離れたるをもって、涅槃を得たりと思えり。』

 

 

(続きます)

 

 

 

 

 

 

法華経は内容がない?


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面白い動画を見つけました。

スマナサーラが大乗仏典について語っています。

質問は般若心経についてでしたが、スマナサーラは大乗仏典でも特に法華経には内容が全くないと言っています。

他の大乗仏典には少しではあるけど内容があるけど、法華経には全くないそうです。

さんざんな言われ方ですが、

確かに、そう思う人は非常に多いですね。

法華経を熱烈に信仰する宗派の人は、法華経は最高ですごい経典だと教え込まれているので、すごいと思い込むようにしてるでしょうが、そうでない自由な立場の人が直接法華経を読んでも内容がどこにあるのかわからないというのが本音でしょう。

白隠でさえ、若いときに法華経を読みましたが、内容が全くないとして捨ててかえりみなかったのですから。

法華経が最高の経典とする宗派を信仰している人でも、どこがそんなに凄いのか実感している人は極めて少ないと見ています。

宗派の教学では、二乗作仏だから凄いとか久遠実成だから凄いとか言われているでしょうけど、実感は伴わないでしょう。

 

さて、この動画でスマナサーラは法華経についてこう言っています。

 

『法華経は、大乗仏典の中では一番作品的には悪い作品ですね。

文学的にも。

一人ではなく、誰か誰か書いて足して足してできたから、初めから一貫性がないんですよ。

これから何か言ってやると言って経典が始まるんですよ。

しかし、それが何かというのがわからないうちに終わるんですよ。

腹が立ちます。

だって結構長いんだから。

何も言っていない。

脱線脱線脱線物語、脱線物語、脱線物語で終わり。

それで最後書いた人が、これに気がついたんです。

気がついて、大事なことを書かなくては経典として成り立たない。

だから、一番、低次元的な手段を取ったんです。

この経典を侮辱すると頭が七つに割れるぞ、と。

それを読んだ瞬間から、私はめちゃくちゃ侮辱してるんです。』

 

 

何とも凄い言い方です。

しかし、スマナサーラの率直な感想だと思います。

スマナサーラはこの動画で、キリスト教などの一神教についての矛盾もズバリと言っています。

ここまではっきりと言葉にしなくてもそれに近い思いを抱いている人は多いでしょう。

 

次の稿で、このスマナサーラの言葉について検証していきます。

 

 

 

 

 

 

最大の謎

いま、大乗仏教はなぜ興ったか、について調べています。

これがわからないと、大乗仏典の代表である法華経の真意は絶対にわからないからです。

法華経に限らず、実に膨大な大乗仏典を次から次へと生み出した原動力は何だったのか、ここは極めて重要です。

今までこの謎は解き明かされていませんでした。

 

第一結集で確定した仏陀の経典があるのにもかかわらず、歴史上の仏陀の顔も知らず声も聞いたことがない人たちが次々と新しい経典を作っていった、この事に何の意味があるのか、です。

ここを逃げていれば、大乗仏教、または仏教の未来はない、とさえ思います。

特に大乗仏教の国である日本人はここをトライしなければいけないでしょう。

『部派仏教も大乗仏教もみんな仲良く』でお茶を濁していれば、仏教の真意は永久にとらえられない気がします。

もし、そのようなことでお茶を濁すとするならば、大乗仏典が部派仏教に対しておこなった『仏種を焼いて断じて仏にはなれない』などという極めて強い否定、あえて言えば罵詈雑言の数々が説明できません。

これは、部派仏教に対しての極めて強い不満によるものと考えるしかありません。

 

それでは、大乗仏教運動は、部派仏教のどこにそのような強烈な不満を持ったのか、その点が最重要になります。

 

(続きます)

 

 

 

 

なぜ日本にはキリスト教信者が少ないのか

日本には、キリスト教信者は人口の1%しかいないそうです。

キリスト教布教師の高原剛一郎が言っていましたが、どんなに布教を頑張っても1%より増えることはなかったということです。

ところで、世界の国の中で、キリスト教信者が人口の1%という国は、ガチガチのイスラム教国でイスラム教以外を禁教にしている国くらいしかなく、同じ東アジアの韓国は30%以上信者がいてキリスト教国と言えるくらいらしく、共産国で唯物論、そしてキリスト教を迫害している中国でさえ日本の割合よりずっと多いそうです。

日本は、バレンタインデーやクリスマスなどキリスト教の催事はとても盛んで好きですし、キリスト教系の学校も数多くあります。

ここまで身近にあって親しんでいるのに、なぜキリスト教信者はこんなに少ないのでしょうか。

ある書物では、日本人は日本教という教えが根強くあるのでキリスト教を受け入れられないのだという解説があります。

これは馬鹿馬鹿しい説で、日本教などというものがあるわけではなく、もともと古神道しかなかった国で後から仏教や儒教が入ってきてそれを取り入れていったのであって、後から入ってきたのは仏教や儒教もキリスト教も同じであり、しかし、仏教の影響は大きくキリスト教の影響は少なかったということです。

問題はなぜ仏教の影響は大きくキリスト教の影響は少なかったのか、ということです。

 

この謎を解くのに、最初のキリスト教宣教師ザビエルの書物をもとに解説している動画があって、参考になりました。

 


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これによると、結論から言えば、日本人の知的水準が高かったということですね。

ザビエルは日本に来て自分の限界を思い知らされたようです。

日本人は海賊上がりや農民など教育を受けていない人たちでも、一神教の矛盾点を的確に突いてきたので、ザビエルなどキリスト教宣教師はタジタジだったということのようです。

 

絶対神、唯一神がこの世を作ったのであればなぜ悪が存在するのか、日本人ならその矛盾は気がつくでしょうね。

絶対の力を持ち意志を持った唯一なる神を設定するなら、すぐ悪や罪を消滅させればいいだけですね。

なぜそれをしないのでしょう。

韓国や中国ではそのような質問は出なかったようです。

 

それ以外にも、完全なる神であるイエス・キリストが人類のために贖罪したのに、なぜ罪がなくならずこのような罪にまみれた世になっているのか。

なぜ、絶対なる神が、ヨシュア記のように先住民の女性も子供も虐殺するように言うのか。

 

まずはこのような質問に逃げずに答えられるようにならないと、これから先も広まらないでしょう。

 

 

 


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遠藤周作のキリスト教観

 id:TToshi  
企志さん 先日は 『大いなる人の八つの悟り』を参考にブッダの教えを確認する を読んでくださり、ありがとうございます。
私はキリスト教よりもイエスという人物そのものに関心があり、強く尊敬しております。
彼ほどの慈悲を示せた人がいたでしょうか。
彼ほどあなたの苦しみを私は知っていると言い切れる人がいたでしょうか。
(私のイエス像は遠藤周作氏によって形作られたようなものですが)
自らの弟子たちにさえ彼の真意が伝わらず、外野の私は気の毒だなぁなどと思いはしますが、彼はそんなことを気にすることもなかったのでしょう。
今日キリスト教徒の方ですら、イエスの真意が理解されていないように思われます。 力なき生身の存在としてのイエス、彼は私たちと何も変わらない。
けれども誰にもなし得ないほど、苦しみに絶望するものの傍らから離れることがない。 その姿、その意思に、私は驚嘆するのです。
 
さて本題ですが ご著書でも四念処の瞑想について語られておられますが、ご著書の性格上、具体的な実践の紹介よりもポイントの解説が選ばれたのでしょう。 具体的な実践は煩雑になりますからね。 個別性を伴うものですし。
実践法の一つとしてブログをお読みの方や仏教に関心を持たれている方の参考になればと思い こちらを共有させていただけないでしょうか。
よろしくお願いいたします。

 

 

TToshiさん。

ヴィパッサナー瞑想実践法の資料ありがとうございます。

一人でも多くの人に広まっていくように祈っています。

 

遠藤周作のイエス・キリスト観は私も共感します。

極めて日本人的なキリスト教観だと思います。

しかし、キリスト教神学を基礎とした現在のキリスト教会からすると、多分、相容れないのではないでしょうか。

私も、一人の覚者としてのイエス・キリストは非常に素晴らしいと思っていて、聖書も読むことがありますし、キリスト教関係の映画はマイナーなものも含めてかなり観ています。

ところが、イエス・キリストを一人の覚者と見ること自体、キリスト教学からすると許せない態度でしょう。

 

『沈黙』で語られるイエス・キリストは、人間の弱さに寄り添う慈悲深い存在です。

仲間が拷問されるときの叫び声や自らの痛みや恐怖に耐えられなくて信仰を捨ててしまう人間の弱さをともに悲しみ受け入れてくれます。

しかし、残念ながら、キリスト教神学ではそうではないようです。

イエス・キリストは我々人間と隔絶した神であり、完全な存在です。

私たち人間がその弱さを克服して一人の覚者となったのではなく、完全なる神が受肉したのです。

罪を犯すのであれば、目をくり抜け、手足を切り捨てよ、と言う激しさがあります。

 

遠藤周作は晩年、ヒンドゥー教の受容性を取り入れたキリスト教を指向します。

正統なキリスト教会からすると異端とされるような考えですが、もしそのようなキリスト教があれば素晴らしいとは思います。

 

 

ミャンマーで僧だった方から

 
 
 
 
 id:TToshi  
はじめまして つい先日、この書籍を知りまして、kindleで読むことが出来ました。
目を開かせていただくことが多く、感謝に絶えません。
ありがとうございました。
私も自称ブッダの弟子として師の教えを実践しております。
ほんの一時期ですがミャンマーでテーラワーダの僧であったこともありました。
(ブッダの教えがオリジナルではなくとも、少なくとも生き残っていたんだという思いに嬉しくなって、そこに行かねばとの一心が良縁を結びひとつの形となりました)
弟子の務めは、教えを実証すること、教えを伝えること、教えを残すことだと考えております。 自ら実践、実証し、縁のあるもの、必要とする者にはブッダの教えを伝え、未だ生まれていない者のために教えが失われないように尽力すること。
企志さんのご著書を読ませていただいて、人類の至宝が失われないように尽力されていて、素晴らしいなぁ、嬉しいなぁと、多くの人に届いて欲しいなぁっと勝手ながら思ってしまいました。
 
さてご著書には及びませんが 私もGoogle スライドでブッダの教えや実践のメソッドを纏めたりしていました。
『大いなる人の八つの悟り』を参考にブッダの教えを確認する
 
ブッダの教えをこのお経の言葉を手がかりとして語ってみたものです。
ご参照していただけたら嬉しいです。
長文失礼いたしました。
今後のご活躍を期待しております。
 

 

TToshiさん、はじめまして。

『仏陀の真意』読んでいただきましてありがとうございます。

ミャンマーでテーラワーダの僧侶だった方に読んでいただけるとはうれしいです。

紙の書籍が完売しても、こうやって電子書籍版を読んでいただける人がおられるのも有り難いことです。

 

『大いなる人の八つの悟り』、ありがとうございました。

読ませていただきました。

仏陀の教えが的を射てしかも簡潔にコンパクトに纏められていますので、多くの人に益するものだと思います。

広まっていくことを祈っています。

 

おっしゃるように、仏陀の理法は人類の至宝だと思います。

世界の宗教をいろいろ見ましたが、本当の仏陀の教えの素晴らしさは時を経るごとに認識させられます。

以前はキリスト教も尊敬していましたが、そして、世界は、旧約聖書を元としたユダヤ教、キリスト教、イスラム教の影響が極めて強いですが、ヨシュア記などを見ると、旧約聖書の『神』とは何なのだろうと疑問も沸いてきました。

戦闘や争闘が延々と続く世界が見えてしまいます。

 

今こそ、人類の至宝である仏陀の理法が甦らなくてはならないと強く思います。

 

現在、世界に対して仏教は何の影響力もないです。

仏教自体、部派仏教と大乗仏教に分かれており、大乗仏教の中もバラバラです。

しかし、今から何十年か後には、仏陀の理法が平和に役立っていくぐらい認知されるのではないかと願っています。

 

 

 

仏教は虚無論なのか

清水俊史著『ブッダという男』の最も核心的な部分はここです。

 

『ブッダはいずれの天界であろうとも現象世界の内側にいる限り解脱(不死)はあり得ないと考えた。つまり現象世界の外側に解脱を求めた』

 

『ブラフマンの世界は、大梵天と呼ばれる中級の天界に過ぎない』

 

無所有処、非想非非想処も天界のひとつにすぎないとしています。

無所有処と非想非非想処についてはそうでしょう。賛同します。

ですから、仏陀は、『解脱に赴かない』と言って捨てたのです。

 

 

ところで、清水氏はこのようにも書いています。

 

『ここで重要なのは、この十二要素の外側に、我々が認識できない超越的な何かが存在するわけではない点である。ブッダは、この十二要素(十二処)が宇宙を構成する“一切”つまり、これ以外のものは存在しないと説いている』

 

清水氏のこの2つの主張からすると

ブッダは現象世界の外側に解脱を求めたが、現象世界の外側には何も存在しないと説いた、という結論になります。

 

つまり、解脱とは何もない世界、虚無の世界に行くこととなります。

 

仏教がしばしば虚無論と言われるのは、このようなことを言う者が後を絶たないからです。

 

 

仏教は、仏陀の死後、唯物論的傾向、虚無論的な傾向に傾いていきます。

十無記で、如来の死後を無記としたため、無記を無と捉える者たちが主流となっていきます。

部派仏教がこのような傾向を強めたために、仏陀の真意を復興させようと興ったのが大乗仏教だと思っています。

 

今また、部派仏教も大乗仏教もこのような唯物論的傾向を強めています。

 

 

仏教の死後の解釈には主に4つあります。

 

①死後の世界も輪廻転生も全く認めない。

 迷いの衆生であろうが悟った仏陀であろうが死ねば無に帰す。

②迷いの衆生は死後悪趣に赴き、輪廻転生を繰り返すが

 解脱した如来は輪廻を終えて無に帰す。

③迷いの衆生は死後悪趣に赴き、輪廻転生を繰り返す。

 解脱した如来の死後については測ることができないとして無記。つまり、説かない。

④迷いの衆生は死後悪趣に赴き、輪廻転生を繰り返す。

 解脱した如来は、死後も涅槃の境地でいる。

 業でなく誓願により、人間として生まれることも可能。

 

 

今の仏教、部派仏教も大乗仏教も、ほとんど①が主流になっています。

完全な唯物論です。

死ねば何もないということです。

仏陀が断見として斥けた迷妄のひとつです。

 

この清水俊史氏の主張は、②です。

解脱とは何もない無の世界に行くことという解釈です。

虚無論ですね。

 

仏陀の真意は③です。

これは仏陀の言葉を追っていけばわかります。

 

④はバラモン教の色彩が強いですね。

はっきりと悟りの世界の実在を説く教えです。

実は大乗仏典の多くは、④に立脚しています。

歴史上の仏陀は、如来の死後については無記でした。

しかし、そのせいで、仏陀の死後、①や②の説になってしまいました。

そこで、大乗仏典では、如来の死後の実在を強調していきました。

常楽我浄の法身を強く打ち出していきます。

 

 

 

 

 

電子書籍版の状況

 

私の著書『仏陀の真意』は、既に紙の書籍はすべて完売で手に入らず、電子書籍版だけとなっています。

紙の書籍が完売してからはチェックしてなかったのですが、いま久しぶりにAmazonをチェックしますと、kindle本(電子書籍版)の仏教ジャンルで売上15位だったのでびっくりしました。

kindle本には、kindle unlimited と有料本があって、kindle unlimited は無料で読めるシステムですから、売上上位はほとんどkindle unlimited で占められています。

kindle unlimited を除いた、純粋に有料のものだけですと、

現時点(令和6年1月15日午前10時)では

①大白蓮華2024年1月号

②ダンマパダ(光文社)

③ブッダという男

④新人間革命第1巻

⑤新人間革命第30巻

⑥仏陀の真意

と、6位です。

大白蓮華と新人間革命は、巨大な組織創価学会の本で、少し前に池田大作さんがなくなったこともあり、一般の人というより会員が買われているのでしょう。

 

一般の人が対象で有料の本となると、『ダンマパダ(光文社)』『ブッダという男』に次いで、『仏陀の真意』が3位となっていることになります。

びっくりです。

紙の書籍が完売しても、電子書籍がこうしてポツポツ読まれていることに感謝いたします。